○
山田(健)
参考人 専修大学の
山田健太です。
本日は、
発言の機会を与えていただきまして、どうもありがとうございます。
憲法改正手続法におきます
メディア規制にかかわる問題について、
メディア法及び
憲法の
立場から、
メディアの現場の
状況も踏まえつつ
お話をすることで今後の
議論のための素材を提供させていただければと存じます。
本日、
お話をさせていただく中心は、
憲法改正の
国民投票を行うに際しまして、だれがどのような
広告によって意思表示をするのか、国は何をいかなる形で広報すべきなのか、その際に
政党はどうかかわるべきか、マス
メディアとの関係はどうあるべきなのかということになります。そして、これらはすべからく表現の自由の問題にほかならないわけであります。ですから、その
規制に当たっては最大限慎重を期することが肝要であることを
最初に確認させていただきたいと存じます。
この表現の自由という
観点から見た場合、
憲法改正国民投票と表現行為との間にはどのような関係があるか、
最初に確認をしておきたいと存じます。
それは、行為主体別に、市民もしくは
国民、二つ目にはマス
メディア、そして三つ目には
政党、
政治家、あるいは
国会の表現の自由もしくは表現行為に整理ができます。さらに具体的な項目につきましては、お手元のレジュメの一をごらんいただきたいと存じます。
例えば市民におきましては、知る権利を行使し、十分な情報摂取ができる環境、そのための制度が必要になるわけであります。次には、自由な
意見交換としての
国民投票運動の確保でありますし、最終的には、意思の行使としての
投票行動、参政権の行使ということがあるわけであります。同様にマス
メディアの場合には、ここにありますように
報道とともに
広告の問題が出てきます。
報道に関する
規制条項を外したことで、表現の自由の問題、
メディア規制の問題が解決したかの印象を持たれがちでありますが、媒体に露出する
広告もまた
新聞や
テレビ、
ラジオというプラットホーム、ビューアーをかりた重要な表現行動であることを重ねて御認識いただければと存じます。
改めて繰り返すまでもなく、
憲法二十一条は言論、表現の自由を絶対的に保障しており、その表現の自由の中でも最も重要な表現行為の
一つが政治的な表現でございます。したがって、
憲法改正にかかわる言動は最大限手厚く保護されるべきであって、万が一、何らかの
規制をする場合であっても、その
制限は限定的かつ厳格な
規制でなくてはならないことは、判例においても既に繰り返し述べられているところであります。この原則は、ここに挙げますすべての項目に対し満遍なく適用されることが期待されていると考えます。
こうした
憲法改正手続に伴う表現の自由の法構造を理解するには、
公職選挙法の法枠組みを
参考にすることができます。もちろん、
憲法改正のための
国民投票と候補者選挙は根本的な性格を異にし、その平行移動的な法構成には基本的な疑問を持つものでありますが、現行
法案をとりわけ表現の自由との関係で整理するには格好の材料であると言えます。レジュメの二枚目にその構造を挙げておきます。
さて、ここからが本題であります。時間の関係もありますので、現行
法案の
規定と問題の所在を確認していきたいと存じます。
考える柱は、
メディア報道・一般
広告、二つ目には
政党への媒体
広告枠の提供、三つ目に広報広聴活動、そして四つ目に
投票運動
規制。レジュメの三枚目以降でございます。
最初の
メディア報道・一般
広告につきましては、予測
投票の公表や虚偽
報道禁止
規定については当初の
与党案から削除され、
メディア報道の自由化が実現されました。一方で、
直前一週間の
国民投票運動についての
テレビ及び
ラジオ広告の全面禁止を定め、その一方で法定
広告については自由という例外
規定を設けております。
これらのいわゆる工夫は、これまでの
議論を通じて、おおよそ、資金量の多寡によらない
投票運動を実現すること、あるいは整然とした環境で
投票日を迎えるということにあろうかと思います。しかし、果たしてその目的が達成できるのか、この
規定ぶりにはなぜが残るかと思います。そこに挙げたのが四つのなぜであります。
まず
一つ目は、なぜ
広告のみを
規制するのかであります。
報道活動には一切の
制限を設けず、一方で
広告表現について禁止という最も強力な表現
規制を課することは、表現の自由に対する行き過ぎた
規制に当たると考えられます。
議論の中には、
メディアにおける
意見広告を無
制限に求めること自体を問題視し、より厳しい
広告規制を実施すべきとの
意見もあるやにお聞きしております。しかし、ここでは改めて
広告表現の自由について理解をいただければと存じます。
しかも、そもそも
報道を全く自由にして
広告を
規制することで何を期待するのかという問題もあります。
例えば
報道については
放送法上の政治的公正さを求めることで
内容上で
規制をし、
広告はもし量的に
規制をしようという目的であるならば、これは看過し得ない問題ということが言えると思います。
さらには、一般の
報道と
広告の線引きも簡単ではないと思います。単純には、商業取引があるかどうか、金銭の取引があるかどうかという線引きがあり得ると考えますが、例えば、政府提供の
番組あるいは経済
団体等の提供
番組の期間中の取り扱い、スポンサーの意向で
番組内コメントが偏ることの問題性、あるいは、地方局、有線
放送局の中には自治体の経営参画もあるわけであります、こうした問題をどう解決するのか、詰め切れぬ問題が多々あるかと存じます。
さらに、二つ目には、なぜ
テレビ、
ラジオのみを
規制するのかであります。
現在の
メディア法制が、印刷媒体、
放送媒体、通信媒体ごとの
メディア法体系を組織しており、
放送媒体については免許制度であることとの関係から
内容規制が許されていることは事実であります。しかし、そのことと
憲法改正論議において
放送媒体にのみ表現
規制が許されるということとは関係がないと考えます。また、
資金力で露出量、ひいては
広告効果の優劣がつくことを前提にするということにつきましても、さらなる吟味が必要であります。
新聞やインターネットについては禁止せず、定義が容易でなおかつ運用のしやすい
放送媒体のみ
規制をするという形がとられているのではないかという懸念さえ起こるわけであります。
さらには、三つ目には、なぜ期間限定なのか。一週間の根拠
規定については十分な説明がなかろうかと思います。
あるいは、なぜ例外を設けるのか自体も問題であります。
ここでは、事実上
政党広告のみが許容されるということになります。そうなりますと、
政党政治活動と
政党広告を明確に分ける必要も出てきますし、あるいは
政党等による抽象的なキャンペーン
広告は禁止されていないということもありまして、
国民投票運動と一般的な政治活動をどのように峻別するのかも、非常に運用上は困難な
状況に立ち向かうと考えられます。
候補者選挙におきましては、私たちは二大
政党制を志向して
政党中心の選挙戦を認めてきているという側面は否定できません。しかし、同じ構図を
憲法改正を
議論する際にも持ち込むのがベストの選択なのか。
政党が責任を持って
議論の中心になることと、
社会に流れる改憲情報が
政党発信の情報中心になることは、似て非なるものであることに御注意いただければと存じます。
このほか、一週間前
規制とは別の問題ではありますが、例えば
市民団体が割安な料金設定で
意見広告を出稿した場合、これが
通常の
意見広告などの場合は割引掲載、割引出稿ということも珍しくない
状況からすると利得提供に当たるという可能性も否定し切れません。あるいはまた、出稿量や放映時間帯との関係で
広告料金の算出というものも非常に難しい現実であることも十分に認識をする必要があろうかと存じます。
このようななぜを解消するには、最後に改めて繰り返し述べますが、
広告規制をしないという選択肢が一番早い、最も的確な解決法ではないかと考える次第であります。
さらに、二つ目の
政党への媒体
広告枠の提供について述べていきます。これにつきましても四つのなぜが考えられます。
なぜ
政党だけが特段に優遇されるのかということであります。
政党だけということに関しましては、大統領や政府が議会の議を経ずに直接民意を問うような国の場合には、
政党が
意見を代表するということもあり得るかもしれません。あるいは、
政党が
憲法典に組み込まれている国の場合には違うかもしれません。ただし、一体、
日本はどうなのでしょうか。あるいは、市民キャンペーン
団体と
政党、政治
団体とは何がどう違うのでしょうか。このあたりの
議論もまだ不十分ではないかと存じます。
さらに、特段にの根拠につきましては、広報と、この広報というのは後で述べます広報広聴活動の広報でありますが、その広報とここに言う
広告で実質的に
政党が二重に優遇されるという結果を生むかと存じます。あるいは
広告の面でも、政治活動、そして一般の商業
広告、さらにはここで言う法定
広告と、三重の保障がなされているという
状況についてどう考えればいいのか、改めての
議論が期待されます。
さらには、なぜ
メディアを限定するのかという問題であります。
上限を定めた
広告は、いわゆる枠の限定でありますが、イメージ先行の
広告を奨励することにならないか。そういうシステムをあえてつくることの
意味合いであります。あるいはまた、
メディアを特定の
新聞、
放送に限定することの合理的な
理由についても
議論が必要かと存じます。
さらに、三つ目には、なぜ
放送にのみそのまま
放送する義務が課されるのかという問題であります。
誹謗中傷表現による非難合戦になる可能性も十分に
指摘されると思います。あるいは、
内容の問題性を
広報協議会が
判断することの平等性、
公平性に問題がないのかどうかということも疑問として残ります。
最後もう
一つ、なぜ
無料なのかという問題がありますが、これにつきましては、全額公費負担が本当に当たり前なのか、あるいは
広告枠の
議員数比が当然なのかという問題について、後ほどの広報広聴活動の項で触れたいと存じます。
ページをめくりまして、三つ目、広報広聴活動であります。ここでは二つのなぜを
指摘したいと思います。
一つ目には、
政党あるいは
議員に広報や
広告の
内容の
判断を負うことの問題であります。
国民投票に問われるのが
政党の意思になるということを考えた場合、大変卑近な例でありますが、例えば全会一致で
発議された場合の
反対意見の取り扱いはどうなるのか。そのことを考えた場合に矛盾点が出てくるのではないかというふうに思います。あるいは、先ほ
ども触れましたように、
内容を客観的かつ正確な解説、説明をするという客観性の担保をどのようにするのか。候補者原稿をそのまま掲載する選挙公報との差異が明らかであろうかと思います。
そしてまた、
広告が自由であるという先ほどの私の結論からすると、この広報広聴活動自体が不要になるという結論が導かれるわけでありますが、万が一、この広報広聴活動を何らかの形で認める場合においても、
議員数を配分
基準にすることにつきましては、例えば小選挙区制に起因する得票率と議席数の乖離であるとか、
賛成意見を優遇することによって民主主義の基本である少数
意見の尊重をどういうふうに担保するのかという問題であるとか、あるいは
公平性の確保の問題であるとか、さまざまな
議論すべき
論点が残っていると考えているわけであります。
このような
観点から考えますと、まず前提になるのは、
日本のマス
メディアの現状であります。世界でもまれに見る高普及率を維持し、先進諸国の中ではほぼ唯一大部数を維持し続ける
新聞、公共
放送と
民間放送の並立体制の中で、
内容の上で切磋琢磨し、一定水準の
番組を維持し続ける
放送。しかも、こうしたマス
メディアに対し、
日本のどこでもだれでもが容易にアクセスできる環境がほぼ完全に整っているのが
日本であります。
これは
日本に住んでいる私たちにとっては余りにも当たり前に思いがちであり、えてして悪い面ばかりが目につくわけでありますが、世界に誇るべきユニークな言論の公共空間が成立しているということを忘れてはいけないと思います。だからこそ、こうした現在の
メディアが維持している思想の自由市場を、
憲法改正のための最終的な
意見交換の場である
国民投票運動期間においても最大限生かすことが大切であろうと考えます。
その生かし方はさまざまあるかと思います。ただし、表現の自由を研究し、ジャーナリズムを観察する
立場から考えれば、今確保されている自由な公共空間をできる限り維持すること、その中には
意見広告も含めたすべての
広告表現活動が自由に行われ、多種多様な情報の流通が実現することが最善であると考えるわけであります。
規制とは、その表現者を信頼しないことの裏返しであります。では、だれが行き過ぎた表現を行う可能性があるのか。実は、この
法案の
最初のターゲットはまさに
政党であります。可能性があるからこそ、一週間の禁止や
無料という枠の中で量的
規制を構想するわけであります。であれば、まず
政党こそが率先して
自主規制ルールを定めればよいのではないでしょうか。これは一種の発想の転換であります。同時に、マス媒体も、行き過ぎの可能性があるものについては、これまでの経験と公共的な責任から
自主的な
ルールによって抑制することは十分に実現し得ると考えます。
こうした発想のもと、より具体的な見直しの方向性は、レジュメの最後に示すとおりであります。中にはゼロベースの見直しも含まれますが、幸いにも
国会での本格的な審議は始まったばかりだと認識をしております。このような場をより多く設け、多くの
意見を
参考にされ、表現の自由が確保され、最善の政治選択ができる環境が提供されることを期待するわけであります。
具体的に見てみますと、まず基本はシンプルさであります。
広告を含む
メディア規制は、シンプルにノーということを確認すべきではないでしょうか。
広告も
報道と同様に原則は自由であるということであります。そうであるならば、先ほど申しましたように、国が行う広報につきましては必要最小限のものでいいわけでありまして、冊子や
新聞、
テレビ、ウエブ上で
法案や提案
理由を説明することで十分足りると考えます。
さらには、
国民の十分な情報摂取機会を確保するためには、本日の直接のテーマではありませんが、運動期間についてもさらに大きな延長が必要ではないかというふうに考えるわけであります。
また、
政党への優遇措置が必要であるという
考え方もとり得るということは考えます。ただし、その場合には、全面的な法定
無料広告を実施するというだけではなくて、例えば共同の記者会見、討論会を法定
放送、法定
広告の枠の中で行うなどの方法も十分にあり得る。原則は、
皆さん政党が自由に精いっぱいに
意見を
主張することがよいのではないかと考えるわけであります。
さらには、認定
団体による
広告の助成や、媒体による
自主的な取り扱い
ルールとの組み合わせも考えられます。それは、ミニマムプライスレート、そのときに実際に運用されている最も安い
広告レートをすべての
団体に平等に与える、あるいはネガティブキャンペーンを禁止するというような
自主的な取り組みは十分に考えられるわけであります。
最後にもう一度申し上げます。
広告も広報も、そして
政党活動も、それらはすべからく表現の自由の問題であります。だからこそ、その
規制に当たっては慎重の上にも慎重を期すことが肝要であります。自由闊達な
改正議論が実現し、最善の政治選択がなされるための環境として、思想、情報の自由市場が確保されることを、そしてフォーラムの場が
メディアを初めとする公共空間において確保されることを強く期待するものであります。
以上でございます。