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光石参考人 日弁連の人権擁護
委員会の
光石と申します。
今お手元に、日弁連のことしの三月に出しました
意見書と、それから私が書きましたレジュメ、これをごらんになりながら
お話をお聞きいただければありがたいです。
臓器移植一般についてということですが、
臓器移植というのは、やはり特殊な先端
医療である。健康な人、
脳死状態の
患者あるいは死者の体にメスを入れる。そして、この
臓器を
提供することになるドナーから
臓器を取り出して、その
臓器をレシピエントに移しかえる。そういう意味で、
臓器を欲するレシピエント
患者、その臨床上の利益を目的とする先端
医療だ、こういうことです。
もちろん、ドナーは、生きている人の場合と死んでいる人の場合があります。生体
移植のドナーは、通常は健康な人ですけれども、近時問題になっているような、いわゆる病気腎
移植のような場合には、病気の
患者がドナーですね。いわゆる
脳死移植の場合は、
患者の心臓はもちろん拍動しています、ハートビーティングといいますが。それから、死んでいる人、死体からの
移植というのもあります。
医療現場では、
臓器を欲しい人がいて、上げる人がいて、そして
医療技術がある、それは問題ないではないかという考え方があります。その考え方には危ない落とし穴があるということをまず申し上げたい。
一つは、ドナーの
医療現場とレシピエントの
医療現場は異なります。
臓器移植というのは、レシピエント
患者の臨床上の利益を目的としていますから、レシピエントを目の前にしている医師、
医療者は、レシピエントのことを第一に考える。そうすると、ドナーの状況は背景に退きます。したがって、ほっておきますと、ドナーは全く他者の、あるいは
社会のための道具に格下げされてしまう。そうならないためにはどうしたらいいか。ドナーの、人間の尊厳とか人権というものをどうやったら侵さないようにすることができるか、これは第一に考えなければいけないことだと思います。
三徴候死とか心臓死というのが
社会通念上、人間の死です。ドナーの
患者から心臓を摘出する場合には、人間の死の概念を明確にしないと重大な問題を引き起こすわけです。それは言うまでもなく、死んでいると判定してしまえば、その時点からその人の人権の享有主体としての地位は失われる。そして、生きている人と同じ法的保護を受けることができなくなる。
脳死移植の場合は、
脳死の状態にある
患者が死んでいるかどうかという問題は、医学のみが決めることではない。やはり法的、
社会的意味を踏まえて、
社会がその合意のもとに決めるべきことです。その際、我々の日常感覚とか文化や宗教などの観点からのみならず、科学的及び論理的観点からも吟味しなければならないわけです。
脳死を人間の死とする科学的ないし論理的根拠があるかどうか、これはもう再検討しなければならない状況になっています。
脳死臨調のときには、有機的統合性がなくなったら人間は死んだと言ったんですが、その有機的統合性の要素として、体温とか血圧などの恒常性の維持という、ホメオスタシスというものを掲げましたが、これは、
脳死判定した後で四日たっても四割の症例で視床下部の神経細胞が生きていたという科学的知見がございます。そういうわけで、有機的統合性が
脳死の場合に喪失したとは言えないということが出てきている。その後に、慢性
脳死とか長期
脳死という
患者が存在していること、そうしますと、
脳死状態は、たかだか一、二週間でもう心臓死に至る、そういう概念は成り立たなくなったんですね。
そういう科学的報告をこれは
アメリカの学者が報告しておりますが、その
アメリカでさえ、
脳死が必ずしも有機的統合性を失わせるものではないという科学的知見に対する反証は見当たらないんですね。
実際に、
脳死状態の
患者の
方々には、自動運動とか脊髄反射というのが起こります。それから、ドナーから
臓器を摘出するときには、麻酔とか筋弛緩薬とかモルヒネを使う、これは常識なんですね。何でそういうことをやらなくちゃいけないのか、その理由は何かという科学的な検討をしてみる必要があると思います。
そういう意味では、
脳死を一律に人間の死だとする、そういう
改正A案というのは、まず第一にその科学的、論理的な根拠を十分に再検討しなきゃいけないんじゃないか、そのことを
社会に対してきちんと説明する必要があるように思います。
それから、
年齢を問わず、
本人がノーと拒否をしていない限りは、いわゆる遺族の
承諾で摘出を可能にするというのが
A案ですけれども、そうすると、およそ人間というのはそういう
意思表示をしていなくても連帯的存在なんだ、それで死後に
臓器を
提供するという
意思を現実に表示していなくても自己決定している、こういうことを
A案は言うんです。
しかし、これはよく言われるところの、であるというザインの問題と、であるべきというゾルレンの問題を全く混同しておりますし、そもそも
世論調査を見ますと、先ほどもありましたように、
脳死と判定されたとき心臓などの
臓器を
提供したいというのが三五・四%、それに対して、したくないが三二・七%、どちらとも言えないというのが三一・九%。こうなりますと、そういう市民の感情にも沿わないわけです。
そもそも、何人の何の決定もない状況に至るまで自己決定だ、こういうふうに言うのは、これは自己決定という一つのプラスイメージの言葉を乱用している。そういう意味では、もし自己決定法理で
A案を正当化するのであれば、それは人間の尊厳を侵すものだ、こういうふうに言わざるを得ない。
しかし、我々の多くは漠然と、
脳死といいますと脳が死んでいる、こう思っています。本当でしょうか。これは実は、専門家がいろいろ定義を操作しまして、かなり前の段階で、脳の最末期から少し前の段階で
脳死というふうにしてしまいました。そのことを多くの市民は知らないんですね。
これは詳しく言います時間がないんですが、そもそも脳という
臓器の何に着目するのか、組織とか形態に着目するのか、機能に着目するのかという意味では、機能だけですね。そして機能の中でも、脳の全部の部分の機能に着目するのか、それともそうじゃないのか。これはそうじゃないんですね。ところが、広辞苑等なんか見ますと、あるいは内閣府の
世論調査で
脳死の定義のところを見ますと、脳全体、つまり頭蓋骨の中全部、このすべての機能が喪失した、こう言っているんですね。だから、普通の市民はそれが
脳死だ、今の
法律はそうなんだなと、こういうふうに誤解しています。
いずれにしても、結局、今の
法律は全脳という言葉を使いました。これは非常にあいまいな言葉で、主たる機能しか問題にしないということです。そうしますと、例えば視床下部なんかの機能はもう無視していいというのが
現行法です。
臓器移植ネットワークが
意思表示カードとか説明文書を配布しています。それから、厚労省も中学校三年生向けの
臓器移植に関する教育啓発パンフレットなんかを昨年配っています。それを見ますと、
脳死が一律に人間の死である、そういう趣旨で説明していますし、
脳死の定義も誤っていますし、それから
脳死状態の
患者がしばらくして心臓死に至るというようなことを書いています。これはみんな誤っている。そういう誤った状況で相当数の方が
意思表示カードに丸印をつけているとすると、それらの
方々の自己決定というのは錯誤に基づいている、ないしは誤解に基づいていると言わざるを得ないわけです。
子どもの
権利条約というのがあって、それによって
意見表明を認めて、
意見を表明し得る
年齢を十二歳まで引き下げていいというような考え方もありますけれども、成人ですら誤解が多い内容について
子供のサインを得て、そういうふうな
臓器摘出を認める方向で
子供の
意見表明権を発動させるというのは、この子どもの
権利条約十二条の趣旨に反することだと思います。
それからまた、
親権者の
承諾のみで
子供の
臓器摘出を可能にするという考え方もありますけれども、しかし、
子供の最善の利益という原則を考え、そしてまた、これは
本人にとって臨床上の利益は何もありませんから、そういう意味では、そういう非治療的な介入について、
親権者に、監護権といいましょうか、そういう権限はありますけれども、その権限を越えているだろうと思います、そういうことを親が
子供本人を代行することは、許容できないだろうと思います。
実際、これは生体
移植なんかお考えいただくといいんですが、ドナーの体にメスを入れるということが、傷害罪とか死体損壊罪とか、そういう犯罪にならないようにしなくちゃいけないわけですね。日常の診療行為で
患者さんにメスを入れる場合は、そこで医学的適応性と医術的正当性とインフォームド・コンセントがあれば、これは適法なんです。
ところが、特殊な先端
医療である
臓器移植で、どういう条件を満たせばそういう違法性がなくなるかというようなことについては、その条件を規定する規範がなくちゃいけない。そうじゃないと、お医者さん、
医療者にとってみれば、どうすれば違法性がなくなるかというようなことがわかりませんから、非常に不安定である。それから、ドナーにしてみますと、他者ないし
社会のための単なる道具に成り下がってしまう。それが倫理指針というような規範で十分かどうか、これは次に述べます。
今、生体
移植を含めて、あるいは被験者に対する医学研究の場合もそうなんですが、ここ数年、
日本では倫理指針ラッシュなんですね。それは国が定める指針とか、あるいは学会が定める指針とか、そういうものをソフトローと呼んで、ローというのは法的拘束力のあるものをローというんですが、法的拘束力のないものをローというのは、私に言わせると言葉が妙だなと思っていますけれども、この考え方、ソフトロー説というものにかなり依存しているんですね。
このソフトロー説というのは、最上に、一番上に
法律があると言っています。これは間違っていますね。やはり憲法とか条約とか国際人権法というのが、もちろん法の
世界では一番上にあります。
それから、このソフトロー説というのは、
日本では
法律に対して
信頼感が薄くて距離感が大きいから、そして法の支配に対して意識が低いから、そしてまた医学の専門家
たちはそういう倫理意識が高い集団であるから、したがってソフトローで十分だ、こういう言い方をする。そうしますと、我々市民としては、ロー、法的拘束力がある、法的規範のようなものがもうあるから、それなら
法律は要らない、こんなふうに誤解する可能性があります。それはとんでもないことです。
それからまた、倫理指針というのをそういった法よりも下に置くというのが、このソフトロー説。とんでもないですね。法というのはやはり
社会基盤を規定するものだと思います。ところが、倫理指針とか、そういう学会が決めるようなことというのは、もっともっとレベルの高いところの問題を決めていくということだと思います。それは逆だと思います。
それからまた、そのソフトローの説によりますと、倫理指針をみんな守っていますと言うんですが、それでは最近の宇和島のあの件は何なんでしょうか。あれは、学会の指針とかあるいは倫理
委員会なんというのは無視されてきたんじゃないでしょうか。
そういうことで、結局、生体
移植の場合には、やはり
法律が欠如している。これは絶対改めなくちゃいけないんじゃないか。そうしないことには、医師にとっては、どうすれば違法性がなくなるかということがわからない状況が続くというのはやはりまずいし、それから、ドナーの方を単なる
社会、他者のための道具にしてしまわないようにするためには
法律が必要だ。
そもそもこのソフトロー説というのは、国会、立法府というものをどちらかというと外へ置いてしまって、行政と専門家だけでもって規範を決めていく、こういう考え方ですので、こういう
社会の基本にかかわることについては
法律で決めなければならないんだ、私はそういうふうに思います。
それからまた、
脳死判定に至る前提として、ドナーとなる
患者に救命救急
医療を尽くさなくてはいけないんですが、しかし、
患者がどういう状態になったら
脳死判定をするのかとか、そういう明確な基準がありません。それから、
脳死にならないようにする脳浮腫に対する脱水療法と、それを今度は
臓器を新鮮に保つための加水療法にいつ切りかえるか、これも明確な基準がありません。それから、いつカテーテルを挿入して
臓器保存のための処置をするか、これもはっきりしていません。
それからまた、今、
健康保険の被
保険者証に
意思表示記入欄を設けるということがあります。そうなりますと、もう救命救急
医療というのは多分劣化するんじゃないか、そういうおそれがあります。なぜかといえば、ドナーの候補者なんだ、この方は、この
患者さんはそうなんだ、そういうふうに思ったときに、例えば脳低体温療法を開始するかどうかとか、あるいは救命蘇生手段はことごとく尽くされたのかどうかとか、そういったことは恐らくなおざりにされるのではないか。
それからまた、先ほどもちょっと話がありましたが、
日本における救命救急
医療というのは、人的、物的両面において到底十分なものとは言えないんですね。そうなりますと、つくられた
脳死というような懸念をどうしても払拭することができないんです。
そして、現行の
臓器移植法というのは、ドナー
本人の
提供の
意思表示という第一の要件、それから
脳死判定に従う
意思表示という第二の要件、そして
家族がノーと言わないという第三の要件、こういう、確かに諸外国に比べて厳格な要件です。他方、
日本では圧倒的に生体
移植がずっと多いです。それでも
臓器が不足しているからということで、この
A案とか
B案というのが出てきているわけです。
アメリカでどうだということをちょっと考えますと、
アメリカでは
本人の
意思が不明でも
家族の
承諾のみで
臓器摘出ができる
制度ですけれども、これはどちらかというと
A案が目指しているものだろうと思いますが、その
アメリカでも、当初はこういう健康な人にメスを入れる生体
移植というのは控えていたんですね。ところが、
アメリカでも、やはり
臓器が不足するということで生体
移植がふえてきて、今世紀に入ってからは、例えば、
脳死の
患者を含む死体腎
移植よりも生体腎
移植の方が多くなっているということが報道されております。
諸外国のこれまでの実績から見ますと、ドナーからの
臓器摘出についてどんな
同意要件を決めていっても、やはりドナーの数よりもレシピエント、待機
患者数の方がずっと多いわけです。そういう意味では、いずれにせよ、
臓器が不足することは間違いないんですね。そうなりますと、仮に
日本で
臓器移植法改正A案で
改正されたとしても、やはり
臓器不足は解消されないんだ、そういうことが予測されるわけで、そのことも考えに入れておかなければいけないのではないか、こういうふうに思います。
どうもありがとうございました。(拍手)