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西原公述人 西原博史でございます。
本日、
教育基本法改正に関しまして
意見を申し述べる
機会をお認めいただきましたこと、心から御礼申し上げます。
私は、
早稲田大学に身を置きまして、
憲法学、特に
基本的人権の理論、中でも思想、
良心の自由の
研究にこれまで精力を費やしてまいりました。十年ほど前に上梓いたしました私の
学位論文におきましても、
良心の自由を扱いまして、
アメリカ憲法、
ドイツ憲法などとの比較の上で、国家が
個人に対して
特定価値観に基づく行動を強制する、それが一体どこまで許されるのかというような問題を扱ってまいりました。
また、そうした
研究を踏まえ、
学校現場をめぐる
法的紛争について、裁判所に
鑑定意見を寄せるなどの
活動にも従事しております。その中で、現在の
学校教育をめぐる病理を観察する
機会も得てまいりました。そうした観点から見まして、今次の
政府提出によります
教育基本法改正案に関しては、強い懸念を抱いております。
憲法学として、
権力分立の話から始めさせていただきますと、ここは
国会、立法をつかさどる場ということになります。そして、制定された
法律の
執行は
行政の手にゆだねられるわけですけれ
ども、それは
基本的には
国会の手を離れていくということにすらなりかねません。そのため、
政治部門として
国会において配慮すべきは、
法執行に際して十分な
指針を与え、また、
行政に濫用されることのない
法律をつくるということでしょう。
法律は、ある意味でいいますと、
一つの生き物みたいなものです。生まれ落ちるとすぐ、生みの親である
国会議員のもくろみを超えて機能し始めてしまうかもしれません。特に
教育基本法のような抽象度の高い
法律にあっては、
一つの
理念的な決定が多くの付随的な結果を発生させてしまう可能性があります。この
政府案に関しては、間違った運用をされる危険がないと言えるのでしょうか。また、間違った運用をされたときに修正がきく形になっているのでしょうか。
具体的に申し上げましょう。私が
政府案に関して最も危惧しておりますのは、二条に掲げられた
教育目標が硬直的に運用されることによって、国民の
精神ががんじがらめに縛られていくという危険です。民主党案は、愛国心などを前文で
理念と位置づけることにより、
教育に対する直接の縛りとして機能する余地を弱め、さまざまな夢を持つ可能性というのを織り込んでおります。それに対して
政府案は、
教育基本法上の目標を明示し、それを達成するという形で条文を組み立て、その上で実施していきますので、かなり強烈な縛りが発生するという構造に傾きがちな形になっております。
ここでは、二条の
教育目標の中から、例として五号に掲げられる「
国際社会の平和と発展に寄与する態度」を取り上げてみましょう。どのような態度をとれば
国際社会の平和と発展に寄与することになるのでしょうか。そして、問いは常に具体的です。例えば、
学校でイラク戦争を扱う場合に、イラク戦争を支持することが
国際社会の平和と発展に寄与する態度だったということになるのか、それとも、フランス、ドイツのように、今から見ればイラク戦争に反対することの方が実は
国際社会の平和と発展に寄与することだったということになるのでしょうか。どちらを選ぶかが
教育現場では問われてくるということになります。
あるいは、もっとホットな話題としては、例えば
日本が核武装すべきかどうかというものに関しても、することか、しないことか、どちらが
国際社会の平和と発展に寄与するのかという形の問いも成り立つし、それが
学校において
教育課題となされ得るということになるのかと思います。
現在の
教育基本法のもとでは、正しい国際平和のつくり方は、正解のない問題というふうにして扱われております。さまざまな見解とその論拠を
学校で客観的に叙述するということはあり得ても、どちらか一方の態度を正しいものと決めて、それと異なる考え方を
教育の中から徹底的に弾圧して排除するということは許されておりません。
これは、もともと、
現行教育基本法が一条で
教育の
目的とする人格の完成という
理念が、独立して物を考える主体、自由な主体を想定していることと関係しています。
現行の
教育基本法においては、倫理的、政治的な価値をめぐる問題は、
個人、一人一人が
責任を持って判断すべき
課題と位置づけられている。そこに国家権力が出しゃばってきて、正しい価値観を
一つに特定するようなことを回避しようとする姿勢が示されています。
ところが、
政府案が現実のものになると、そうした構造は根底から覆されかねません。テストをやって、「
国際社会の平和と発展に寄与する態度として正しいものを次の四つから選べ。一、日米安保を破棄して核武装すること、二、日米安保を維持して核武装すること、三、核武装を拒絶して云々云々」というような出題すら現実のものになり得るわけです。そして、それに対して、例えば、二を選ばなければ
国際社会の平和と発展に寄与する態度として間違いであるということにすらなりかねないという
状況になります。
ここにお集まりの
先生方の中には、私が挙げたような例を非現実的だとお考えになる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、そんなことが生じないというふうに言い切れる根拠はあるのでしょうか。現時点で私の挙げた例が非現実的なのは、現時点では
現行の
教育基本法が存在し、その十条で
教育に対する不当な支配が禁じられるとともに、一条の人格の完成
理念がイデオロギー的な
教育を禁止する
役割を果たしているからです。
そして、確かに、人格の完成も不当な支配の禁止も、言葉としては
政府案の中に残っています。しかし、
政府案の構造を綿密に見ていくならば、
政府案による
教育基本法は、現実のものとなったとき、私の挙げたような例を排除する役に立つのでしょうか。
政府案一条の人格の完成
理念は、同じ条文の中で掲げられた国民としての資質の育成と関連づけられています。この資質を具体的に定義するのが二条の
教育目標ということになるわけですから、二条で掲げられた目標を達成できて、初めて一人前の人格という理解が成り立つ余地があります。
そして、
政府案は、十六条ですけれ
ども、国が二条における
教育目標の内容を具体的に定義し、それを
子供たちに受け入れさせる方法までをも明示していくことを通常の
流れとして打ち出しています。十六条で、
教育が、
法律に基づいて、さらには国が総合的に策定し、実施する施策に基づいて行われるとされるとき、文部科学省が中央官庁として
教育内容全般を支配するような
体制が想定されていると受け取るのが自然ではないでしょうか。
前
国会におきまして、小坂前文部科学大臣は、二条に掲げられた項目、例えば
我が国を愛する態度が具体的に何を意味するのかは
学習指導要領の中で具体化される問題というふうに、繰り返し御答弁なさっていらっしゃいました。そうすると、例えば何が正しい
国際社会の平和と発展に寄与する態度なのかは、文部科学省の密室の中で決められ、それに対してだれも口出しができないというような
体制が動き出そうとしているようにも見えるわけです。
もともと、
現行の
教育基本法十条は、
教育の国民に対する直接
責任を打ち出しておりました。これは、政府に対する直接
責任を否定するものです。民主主義の中において、政府は多数決に基盤を有しておりまして、絶対的な真理を認定する力を持つものではないわけです。そしてまた、政府は、
社会の中で特定の個別利害を背負って存在するものというふうにも言えます。ですから、その個別的な利害に基づいて政府が国民に影響を与えようという誘惑は常に存在するわけですけれ
ども、だからこそ、
教育は政府のために行われるものではないと確認する必要があったということになるんだと思います。政府の意向に拘束されず、もっと普遍的な真理、そうした真理を目指して行われるんだというのが
現行法の
立場ということになります。
それに対して、
政府案は、
教育の内容を政府の意向に服従させてしまおうとする構造に傾いているように私には見受けられます。少なくとも、
学習指導要領を定めるに当たって政府、文部科学省が全知全能であると主張したときに、それを抑制する原理がこの法案に組み込まれているようには私には見受けられません。逆に、政府、文部科学省の意向に異を唱えたり疑問を呈したりする人々が出てきたときに、それをすべて、
教育に対する「不当な支配」、これもまた十六条に残った言葉ですが、そういう不当な支配として排除されることになるのではないかという危惧を持っております。
そして、
政府案六条二項は、国によって具体的に定義された目標に向けて、「体系的な
教育が組織的に」行われる旨を定めています。この文言が意味を持つのは、文部科学省の意向で定められた
教育のあり方に対して、それと違う考え方をする要素、
教師を
学校現場から排除するという場面ではないでしょうか。
イラク戦争支持が正しい国際平和のつくり方なのだというふうに一たん決められた場合、例えば、誤爆という名前で罪もないイラク人民の上に降り注いだ爆弾に思いをはせ、正義の戦争なんて本当にあるんでしょうかという問いかけを発する
先生は、指導力不足の不適格
教員、
教員免許を更新せずにやめさせてしまえ、そういう話になるのでしょうか。
ここで想定されているのは、文部科学省の統制によって、全国津々浦々に至るまで、すべての
学校において中央政府の意向に
対応した内容の価値
教育が行われるという構図です。愛国心にかかわる問題の本質も、ここに位置づきます。
国を愛する方法は、人によってもちろんいろいろです。例えば、
個人的には違和感があるけれ
ども、政府が決めた方針があるんだから、それを支持しそれに
協力することが国民としての愛国的な務めであるというふうに考える人もいるでしょう。また反対に、政府が決めたことであっても、
自分が正しくないと判断することであったら、国を、過つことを避けるために徹底して抵抗し批判すべきである、それこそが愛国的な態度だと考える人もいるでしょう。どちらが正しいかという問題では本来なかったはずの事柄になります。
ところが、文部科学省が
教育内容決定をすべてにおいて標準化していくことになると、結局のところ、政府の示す国民として持つべき
精神構造を忠実に受け入れることこそが愛国的な態度であるということにすらなりかねません。
通知表を通じた評価の問題もここに関連してくることになります。前
国会において小坂前文部科学大臣は、内心を直接に評価するようなことをしてはならないということを御確認くださいました。ただ同時に、
学習内容に対する関心、
意欲、態度を総合的に評価するものであれば問題はないという姿勢も崩さなかったという現実がございます。
ところが、
個人の内心はもともと他人が認識したり評価したりできるものではないわけです。そして、
政府案が
教育の目標にしているのも、さまざまな態度、国を愛する態度なわけです。ですから、結局、現時点までの政府の説明でも、価値観を体現する態度がとれるかどうかが評価の対象となることは最初から想定内のものであり、
我が国を愛する態度をとろうとするかどうかを通知表で評価し、その際に文部科学省が定義した正しい国の愛し方を基礎に置くことには問題はないという理解がなお成り立ってしまうような
状況に見受けられます。
実際には、
子供に対して特定の価値観に合致した行動をとれるようになることを命じ、それが実現できているかを評価の対象とし、できなかった場合には悪い成績という罰を与えるということは、
子供に対してその価値観を受け入れるよう強制するということを意味します。こうした
特定価値観の強制は、
憲法十九条に保障された思想、
良心の自由という
基本的人権を考えた場合、許されることではありません。また、評価が下されないまでも、
一つの価値観だけを正しいものとして
子供たちに提示し、それ以外の考え方があり得ることを否定していくような働きかけが行われた時点で、既に思想、
良心の自由に反する強制が行われていることになります。
そのため、本来であれば、
政府案がつくり出してしまうかもしれない
教育の構造そのものが
子供の
基本的人権を侵害し、許されないはずのものではあるのですが、しかし、準
憲法的な性格の
教育基本法を改正し、国を愛する態度などの徳目を目標として明示的に組み込むという決断をした場合、そこで定められた国民の資質としての
教育目標については、思想、
良心の自由の範囲外であるといったような誤解を関係者の中に生じさせてしまう危険があるのです。
また、これは
教育現場の中だけではなくて、例えば親に、例えば
地域社会、
地域住民への働きかけという側面も出てまいります。
しかし、文部科学省が
学習指導要領を定めて
一つの正しい平和のつくり方や愛国心を定義し、そこで定められた
精神構造から逸脱することが許されなくなるような
社会をつくることが本当に意味のあることなのでしょうか。立ちどまってもう一度考えていただきたいと思います。民主主義が健全なものとして発展するためには、
社会の中にさまざまな考え方があること、それ自体が極めて重要な意味を持ってまいります。
もう一度
政府案二条に戻りましょう。この条文で
教育目標として列挙されているものの中には、
個人の価値観にかかわるような問題が数多く含まれています。男女の平等の正しい理解とは何か、これも最近多くの場合に政治的な話題になる観点です。公共の
精神とはどのような
精神か、
我が国と郷土を愛する態度とはどのような態度か、多くのそういった論点が含まれているわけですけれ
ども、こうした問題については、
社会の中においても多様な考え方が現在認められています。
この
社会の中における考え方の多様性を否定し、どれか
一つを権力的に正しいものと認定してしまえば、さまざまな考え方が多数派になることを目指して争い合うような民主主義という政治
体制そのものを否定することになってしまうでしょう。本当にそれが望ましいことなのでしょうか。
ここにお集まりの
先生方は、
自分なりの国の愛し方、
自分が思う世界平和のつくり方についてそれぞれ深い考えをお持ちのことと思います。ところが、全員がここで同じ考えを共有しているわけでは恐らくないでしょう。それでも御自身の考え方が
自分にとっては正しいと考えられる
体制を手放してしまっていいかどうかということが問われているように思われます。
事柄は与党に属する
先生方にとっても恐らく深刻な話になります。首相が交代して前政権と異なった歴史認識が打ち出されると、その途端に
学習指導要領が変わって、前の時代には正当なものだった御自身の
日本人としての誇りが誤ったものと呼ばれる。そういうことがあり得ないと、本当にこの
教育基本法、
政府案のもとで言えるのでしょうか。そして、そのような権限を
行政に与えてしまうことが正しいことなのでしょうか。
教育を誤ることは国の将来を誤ることです。冷静に考えていただきたい。
教育の根本にかかわる
基本法を国民的合意のないままに強行採決で改正するなどということは、後の時代から見れば愚の骨頂だと言われることでしょう。少なくとも、運用する側で新
教育基本法が
憲法上の人権保障を超えるなどといった誤解が生じないよう、きちんとした予防措置を組み込むことが必要ですし、それを実現するための
充実した審議がもっと必要だと私には思われます。
政府案をこのままで通すかどうかが問われる今、問題になっているのは、一人一人が
自分なりの考え方をつくり上げることができる民主主義を維持するのか、それとも、ごくごく少数の者が政治的
指導者として決めた国民として持つべき意識を、すべての国民が受け入れなければならない抑圧的
社会に転ずるのかという点であるように思われます。
以上をもちまして、私の問題提起とさせていただきます。どうもありがとうございました。(
拍手)