○市村
委員 ですから、私は、今回この法律ではなくて、こうして今議論が続いているわけですから、例えば、何か一部に、来週通すとかそういう話ではなくて、安倍さんが訪米する前にとかいうことではなくて、やはりこういうものは、本当に国家百年の計にかかわることですから、しっかりとお互いの議論を煮詰めて、いいものを取り合うということが必要でないかということを申し上げたいわけであります。
先ほどの議論にちょっとまた戻りますが、やはり教育のことを
考えるときには、僕は、学ぶということを一方で重要な柱として立てなくちゃいけないと思っているんですね。ですから、その部分については、この
教育基本法については、その学ぶということについての重要性というのがまだちょっと見受けられない。実はこれは民主党案もそうなんですけれども、見受けられないところがあります。
学ぶというのは、さっき言ったように、まねる。そのまねるものは何かということは、さっき議論がある。また、学習という
言葉があります。同じような
言葉ですね。学ぶに習うをかけて、学習という
言葉があります。実は、これは哲学的な
言葉というか、哲学的と言ってはなんですけれども、大分
考えられた
言葉なんですね。
習うというのは何かというと、あの漢字はどういうことかというと、羽を重ねることなんですね。鳥が何度も何度も羽を重ねる中で飛び上がっていくということが習うことなんです。つまり、まねて、何度も反復練習するということが学習なんですね。こうしたことが、教えることの一方で、まさにそれを学んでいく、まねていく、そして反復練習していくということなんですね。だから、そうしたことを、
教育基本法を論ずるときには、一方で学ぶということもぜひとも議論の中に入れて
考えていくべきではないかと私は思います。
また、教学相長ずとか、さっきも申し上げましたけれども、教うることは学ぶことの半ばなりとかということでありまして、教えることと学ぶことというのは相長ず、ある種お互いがお互いを補完し合う、そしてよくしていくということだと思います。だから、
教育基本法ですから、もうちょっとこうした原点に立ち返って、もちろん、日本
国民としての一つの伝統、文化を愛する心というのも大切かもしれません、それを涵養する心も大切かもしれません、しかし、まず人として、人類として何が大切かということもしっかりと教え、また学ぶ、まさにそうしたことを重要視するということが大切だと私は思うんですね。そうした議論をしながら
教育基本法というものがつくり上げられていくことが大切ではないかと私は思うんですね。
そして、そうした基本に立って、
学校教育のあり方とか、さっき
大臣はちょっと御批判になられましたけれども、民主党案という部分で、教育の責任はどこが負うのかということであると、国は
教育基本法とかいうことはつくるべきだと僕は思いますが、やはり
現場のところで責任は持っておかないと、国の役人が一律に全国の教育
現場を見て回っているわけではありませんので、ここに責任を負わせても無理なわけですね。
現場を知っている方たちが、それは先生だけじゃありません、地域の方、親、またそういった親にかわる役割をされている
方々がしっかりと責任を持っていくということで、そうした人たちの声をしっかりと集め、そしてその人たちが話し合って、そして責任もあなたたちですよという方が理にかなっていると私は思うんですね。
だから、そういった意味でも、民主党案の方がその部分でもいいかな、すぐれているかなと私は思いますが、
大臣の御見解をいただきたいと思います。