○
参考人(浜
矩子君) 浜
矩子でございます。よろしくお願いいたします。
私の本日の話は、一枚の紙がお手元にあるかと思いますが、ごらんのとおり「
世界と
日本の新たな地平
グローバル化の向こう側」というふうな題を付けてみてございます。この
グローバル化の向こう側というふうに言っているのは、
グローバル時代というものもそれなりに時間がたってまいりまして、
グローバル化って何だという議論をしていた段階から、だんだん
グローバル時代というものの姿は見えてきた。ある
意味では
グローバル化のプロセスはもう一段落して、
グローバルの
世界でどう展開していくかというのが問われる
時代になった。そういう
意味で、
グローバル化の向こう側にどんな地平が見えてきているのかというようなところを展望してみたいというわけでこんなタイトル付けになっております。
そこで、では、このおおむね姿が見えてきた
グローバル時代というものはどういう特徴を持っているのかというところで、まず、まずというかそこに書いてございますが、二つのことを言っております。ごらんのとおり、一に無極化の
時代というふうに書きました。そして、二番目には綱引きの
時代であると、こういうふうに
グローバル時代というものを私としては特徴付けております。
そういう無極化の
時代であり綱引きの
時代である
グローバル時代というものに、じゃ
日本はどう
対応するのかということで、三番目に、
日本はどうするということがそこに掲げてあるわけでございますが、じゃ無極化の
時代とは何であるか、綱引きの
時代とは何であるかという辺りをこれからちょっと、私が思いますところを申し上げていきたいというふうに思うんですが。
まず、この無極化の
時代ということでございますが、
グローバル時代ということが言われ始めてこの方、結構、
グローバル時代というのは
アメリカへの一極集中の
時代であるというふうな認識のされ方がかなり広まったというふうに思うんですが、だから、したがって
グローバル時代とは
アメリカ独り勝ちの
時代だよというような話になってきたわけでありますが、私は、これは実は大いなる誤解であるというふうに思っております。今の
アメリカにこの広い
グローバル世界、地球
経済の一つの、たった一つの軸になる力は私はないというふうに思います。また、じゃ
アメリカに代わるものがあるかというと、それもないと。そういう
意味で、無極
時代というのが今の
世の中を非常に、
世界的な
世の中を特徴付けているというふうに思うんでございます。
端的に申し上げて、そこの一の二番目に書いてありますけれども、今の
世界というのは、要はバッテリー依存症候群であるというふうなことを私は考えています。
アメリカにせよ
日本にせよ、そして
中国にせよ、いずれもまあ言ってみればバッテリーで動いているこのパソコンのようなものであると。今、正にこの関先生のは電源につながっていますが、要するに、だれも
自分で独自の電源を持っていなくてバッテリーに依存して動いているという、そういう
時代であるなということを非常に強く思います。
そして、
アメリカ経済を動かしているバッテリー、そのバッテリーをじっと見ると、そこに何と書いてあるかというと、そこには大きくくっきり
メード・イン・ジャパンと書いてある。
メード・イン・ジャパン・マネーというふうに言った方がもっと正確かもしれません。今の
アメリカ経済を動かしている基本的なエネルギーは
日本から
アメリカに向かって流れていく金のフローであると。さっきの
小野先生のお話のように、本当に
資金は
世界を回るわけでありますけれども、
メード・イン・ジャパンの金が
アメリカという名前のパソコンを動かしている。
じゃ、しからばその
アメリカに対してバッテリー役を果たしている
日本、これは独自電源につながっているのかというと、そんなことはなくて、この
日本を動かしているバッテリーをじっと見ると、そこにはくっきりはっきり
メード・イン・
チャイナと書いてあるという、正に今の関さんのお話のとおりでございます。
中国経済との融合によって
日本は
経済が非常に調子が良くなってきていると。正に
メード・イン・
チャイナのバッテリーで動く
日本経済ということでありますが、じゃ
中国はどうかというと、
中国を動かしているバッテリーはやっぱり
メード・イン
世界という感じでございましょう。人、物、金のすべてが
中国に吸収され、集中して、
中国経済のすばらしい
成長性を支え合っていると。
そういうわけで、まあ言ってみればこの今の
グローバル時代というのはみんな、だれか、独自には供給できないものを人に依存するということで、言ってみれば弱者のもたれ合い的な無極構図がそこにあると、こういうことではないかということでございます。それが第一点でございますが。
次に、綱引きの
時代ということでありますが、私は今のこの
グローバル世界においてはいろんな形の相異なる力同士が引っ張りっこをしているというふうに思います。どういう綱引きかといいますと、そこに書きましたようにざっと四つほどの綱引きがあると、こう思っております。
綱引きその一、これはデフレ対インフレの綱引きということでありますが、今の
グローバル世界においてはデフレ的な圧力も強い、しかしながらインフレ的な圧力も久々に強まっているということがございます。
これはどうしてそういうふうになっているのかというと、これが正に、先ほど関さんが御指摘のところで非常に上手におっしゃいましたけれども、
中国が買うものはみんな高くなると、だけど
中国が売るものはみんな安くなると。
中国が買うもの、それは原油であったり鉄鉱であったり生産基礎素材であったりと、そういうところではどんどんインフレ圧力が高まっている。それに対して
中国が売るもの、これはもう電子デバイスから、先ほどの競合の部分から競合しない部分から、いろいろあるわけですけれども、ここをどんどんどんどん
中国が生産することによってそこにはデフレ圧力が働くと。まあ
中国発デフレ要因とインフレ要因のせめぎ合いの中で我々は結構もみくちゃになると、こういうのがあるわけでございますね。それが綱引きその一です。
それに対して、だから綱引きその一はまあ言ってみれば
メード・イン・
チャイナなわけでありますが、それに対して綱引きその二とその三、平等と格差の綱引き、均一化と多様化の綱引き、この二組の綱引き、これも
グローバル経済を非常に特徴付けるものであると思いますが、この二組の綱引きをもたらしている要因は何かといえば、それは正に
競争ということだと思います。
グローバル経済、
グローバル化というのは非常に大いなるメガ
競争を
世界津々浦々の人々に強いるわけでありますが、その結果として平等と格差が綱引きをし、均一化と多様化が綱引きをする、そういう構図になっているというふうに思います。
どういうことかといえば、この二組の綱引きはちなみに、今の
日本経済において非常にはっきり出てきている綱引きでございますね。格差問題への
対応というのが大きな政治課題にもなっているということは釈迦に説法でありますけれども、かつての
日本においては、まあかつての
日本は
世界で一番平等な社会であるというふうに言われていた。そして、護送船団方式、年功序列、終身
雇用という形で落ちこぼれをつくらないという平等主義を保ってきたわけですが、しかしながら、この
日本の
企業たちがデフレの十年から立ち直ってようやく
グローバル競争に本格的に参画するということになっていると、もうなかなかやっぱり
日本式平等を保ち続け切ることができないということで、人に格差を付けるということをせざるを得なくなってくると。こういう
意味で今この平等を取るのか格差を取るのか、この問題はヨーロッパでも非常に大きなテーマになってきて、ヨーロッパ型のこの平等性の強い社会モデルを保っていくのか、そうではないのかと、アングロサクソン型に行くのかというようなことで彼らも頭を悩ませているわけでありますが、もっともっと言ってみれば過激な形でこの問題にこれから
日本は取り組まなければいけないということになりつつあるという、正に
雇用の多様化というようなこのテーマの中で、こういうことが出てきているという
状況があるわけでございます。
それと同じようなコンテクストの中で、脈絡の中で、この均一化の力学と多様化の力学が非常に強く綱引きをしている。これもまたこの
グローバル競争時代というものの大きな特徴であるというふうに思います。早い話が、
グローバルスタンダードなぞという言われ方がするということは、
世界標準に向かってすべての国々、
産業、人々のパフォーマンスが収れんしていく、均一化していかなければいけないということがそこには表れてきているわけですが、それに対して、そういうものに反発する多様な独自性を保ちたいという力学も非常に働くわけであります。そのせめぎ合いというのはなかなか厳しいものがありますし、そしてまた、これもこれからの
日本についてどうするのかということをこれも
政策マターとしてお考えいただかなければいけないことかと思いますが、今の
日本では非常に奇妙な現象が起こっているなと私は思います。それは、この
競争が激しくなったということが、下手をすれば結果的にかえって
日本の
経済社会の画一化、均一化を促すということになってしまいそうな感じがあるということです。
それはどういうことかといいますと、要するにこの
競争が激しい
時代になったと、格差を付けなくちゃいけないということに伴って、この成果主義というものが非常に
日本の組織の中に定着をしてきております。一定の評価基準に従って人々にランク付けをするというやり方でありますが、この成果主義というのが、非常にそれこそ均一なスタンダードの、同じような成果主義のパターンというものを全国津々浦々の
企業や組織や、まあ教育機関もそうですが、が適用し始めるということになると、みんな同じ尺度で測られているわけでありますから、優秀だと評価される人間、駄目だというふうにレッテルを張られる人間は
日本じゅうでみんな同じになっちゃう、どこでも同じタイプの人が偉いと言われ、どこでも同じタイプの人が駄目だと言われるという、非常にまあ恐ろしい社会が下手をすればこの先にぶら下がっているのかもしれない、そういうところは最近私は非常に強く懸念を持つところでありますが、
競争が激しくなれば多様な独自性が前面に出てくる、
競争激化は多様な社会を生むというふうにまあ直観的には思うんですが、実はこの
競争が均一化を生みそうなちょっと怖い感じというのを感じる今日このごろでございます。
というわけで、
競争は平等と格差を、このせめぎ合いを相克させ、同じく均一化と多様化を相克させるということでありますが、それで綱引きその二、その三と参りました。
最後に綱引きその四ですが、これは融和対排除の綱引き。これはこの
グローバル時代というものが持っている非常に大きな大問題であるというふうに私は思います。
融和と排除をせめぎ合わせる要因は何かといえば、これは融合ということでございます。フュージョンする、この相互浸透度が高まると。この融合という
言葉は、これは正に
グローバル化、
グローバル時代を一言で言い表すならば、それは正に融合ということだと思います。人、物、金が国境に制約されず
世界じゅうを飛び回る。
日本経済と
中国経済が非常に一体度を高める。これはみんな融合という
言葉で言い表される現象でございますが、ところがこの融合というやつは、一見融合と融和というのは似ているような気がいたしますが、おのずと融合が融和につながるとは限りません。むしろ、仲があんまり親しくなかったときには見えないあらというものが、お互いにどんどん仲良しになってくればくるほど見えてくるということは
世の中に多々ございます。
企業同士でも、取引先という
関係で付き合っている限りにはとても友好的に付き合えても、これが合併したということになると、途端にお互いに物を言わなくなって、いろんなシステム上の問題も出てきちゃったりするとかということがあるわけでございます。
人間のさがというのはそういうもので、例えば東西ドイツを見るとそれが一番典型的に出ていると思いますが、壁があった間は東ドイツと西ドイツの人々は本当にお互いに支え合う、西側に逃げて来る人は命を懸けて、この東側の逃げてくる人を命を懸けて西側の人は支えるということをやっていたわけですが、今や壁のない、壁なき統一ドイツとなってくるとどういうことが起こっているかというと、西ドイツ側の人たちはこの東ドイツの人たちのためにもう統一後十五年もたっているのにまだ
補助金を出してあげなくちゃいけないのかと、あいつらのために我々が額に汗して稼ぎ出したものがみんな持っていかれるというふうに、東側の人たちはもう統一後十五年もたっているのにまだ西側の人たちは我々を二流市民扱いすると。もう今度壁を立ててもらうんだったら、もっと高くて、もっと厚くて壊れにくいやつにしてほしいというようなことを言うということになるわけです。
これはもう正に融合が融和ではなく排除の論理を生んでいる非常に端的な事例でございますが、こういうことが
グローバル時代には大いに起こってくるでしょう。
日本のこれからにとって、この問題にどう
対応するかは非常に大きいと思います。
関さん御指摘のような、いい
補完関係で融合が日中
経済は進んでいくわけですが、ところがそのことが政治的に融和をもたらすと保証されているかどうかはちょっと非常に難しいところであるということは、皆様の方が私なぞよりもよく御存じのところでございます。とりわけ、
中国、そしてその他の東アジア
経済との間で相互浸透度、融合度が高まっていくことは間違いないことでございますので、そういう
経済的な融合度の高まりが政治的排除の論理を生まないようにするという工夫、これは非常にこれから大きく問われていくところだろうというふうに思う次第でございます。
そういうことも含めて、じゃ
日本はこれからどうするかというところでありますが、この綱引き問題に対する勘どころ、これは、外に向かっては融和、そして内に向かっては多様化であるというふうに私は思います。
外に向かっては、この融合が排除の方向ではなくて融和の方向に向かう、なかんずくアジア地域においてそういう方向に向かっていくことを目指すべしということであります。そういう
意味で、この外に向かっての融和というのは、言い換えれば
日本経済のアジア化だというふうに言ってもよろしいと思います。
それに対して、内に向かっては多様化。これは、やはりこの統一基準下の
競争でどんどんどんどん画一化するという、そういうような社会に、やはり
経済社会に活力はございませんので、ある
意味では戦後の
日本の
経済過程の中で意図的に抑圧していた
日本の内なる多様性、地域間のこの多様な独自性、それぞれの地域の多様な独自性といったようなものが前面に出てくる格好に持っていくということ、それが一つ大きなキーポイントになっていくだろうと思います。そういう
意味で、内に向かっての多様化は内に向かっての
日本経済のローカル化というふうに言い換えてもよろしいかと思います。
日本経済の外に向かってのアジア化と内に向かってのローカル化、この二つを気合いを入れて推進していただくというのがこれからの
政策の大きな課題であるというふうに思いますし、それともう一つ非常に重要な課題になってくると思われるのが、平等対格差の綱引きの中で、今までの
日本の民間というのは、民ができることは民がやるという話はありますが、今までの
日本の民間は、民がやるべきことをやっているのは、ずっと一生懸命やってきたことはもとよりですが、それと同時に官がやるべきことさえも民がやってきたという面が多分にあると思います。年功序列とか終身
雇用とか護送船団方式とかすみ分けというのはみんなそうです。落ちこぼれをつくらない、落ちこぼれ
対応、これこそ
政策のテーマであり、公共福祉
サービスのテーマであるわけですが、そういう官的、公的ものさえ今までの
日本は
日本のこの中でやっていたと。
小野さんが冒頭に言われていました余り
グローバル化していないときの
日本では民に官的役割をするゆとりがあったわけでありますけれども、それが今やなくなったというところで、そういう
意味で今は非常にこの官の出番という部分が大きい。しかも、それを小さな
政府を目指しながらこの官的
サービスの充実を進めなければいけないということですから、これは非常に難しい課題でありますが、これを外へ向かってのアジア化と内に向かってのローカル化と同時に追求していただくということが、この
日本経済の
グローバル化への
対応の中のどうも勘どころなのではないかというふうに思う次第でございます。
どうもありがとうございました。