○倉田
委員 以上のように、
警察の留置施設への未決拘禁者の収容管理下に
捜査を行う、それによって虚偽の自白がなされたという前例はたくさんあるわけでございます。そうしたことから、とにかく代用監獄はどうしてもやめなくちゃいかぬだろうという意見が日弁連を中心に強くあるわけでございます。
私は、そうしたことの
理由のほかに、もう
一つ、これからの司法がどうなるんだろうかと。裁判員制度というものがあります。公判はどう考えても当事者主義というものが強く出てくるでしょう。そうした中で、
捜査段階はどうなっていくんだろうか、こういうことにこれからの展望ということが重要なのではないか、こんなことを考えているわけでございますけれども、そういうことを歴史的に少し考えてみるために、
日本の
刑事司法の来し方を少し振り返りつつ、今後を展望してみたいな、こんなことを考えるわけでございます。
そこで、私がまず考えなきゃいかぬと思うのは、そもそも自白というものは何ゆえに求められるのか。
捜査官が執拗に自白を求めると言われるわけですが、この
理由は何だろうか。これに対する私の考え方は、その
理由は、
日本の
刑事司法にはまだ昔の糾問主義的な要素が濃厚に残っているのではないか、こう思うわけでございます。
刑事司法、歴史をひもときますと、御
承知のとおり、古代の民会というのがあります。大衆組織でみんなでやったんですね。被害者が訴えて、加害者が引っ張り出されて、みんなで裁判をする。これが裁判と言われたわけですが、初期当事者主義なんということも言われているわけです。
そうした時代から、いつ糾問主義と言われるのが発展したんだろうか。言われるところは、ヨーロッパにおいて国王の権力が非常に強くなった時代、中世の末期だと
思いますが、そこらで起こった。有名なのは一五三三年のカロリーナ法典でございますけれども、その中では、結局のところ、糾問主義というのは、一人で、一人というか一部署で取り調べて、なおかつ自分で判決をするんですね。取り調べに当たるのが糾問官、こういうことでございます。カロリーナ法典では
証拠が法定主義といいまして限定されておりまして、有罪にするのには必ず自白がなければならないとされた、こういう時代でございました。
これを見るときに、私は、ちょうど
日本の江戸時代の奉行の制度、奉行所に符合するんじゃないかと考えているわけです。奉行の下役は、今の言葉で言いますと、
捜査から判決書まで全部やるわけですね。お白州で奉行が判決言い渡しをすることになるんですけれども、まさしく糾問官ということになるんですね。しかし、お白州へと引き出されるまでには激しい、厳しい取り調べが行われるわけでございます。もちろん、拷問も行われて自白がとられていたわけでございます。
テレビ番組の「遠山の金さん」というのがありますが、あれがなぜ人気があるかと私考えたことがあるんですが、遠山の金さんはまさしく糾問官でありますから、自分で取り調べて判決をするわけです。しかし同時に、単なる糾問官としてではなく、調べられる方の
立場にも立って、いわゆる弁護人的な役割もしている、それが人気を博しているのではないかな、こんなぐあいに考えるわけです。
話が余談になりましたけれども、洋の東西を問わず、糾問主義というものは、要するに
一つの部署が取り調べと判決を同時にやる、つまり
捜査部門イコール判決部門であるというところにあると思うんですね。
では、なぜそこで自白が求められるのかですが、結局のところ、
捜査官が悪人だというのではない。人を陥れるという考え方ではない。一生懸命調べます。そして、調べた結果が、取り調べの結果が正しいんだろうなということを自白によって確認をしようとする、正当性を求める、こういうことではないかと考えているわけでございます。したがって、糾問主義においては自白がなければならないというような法制になってしまうということだと
思います。
それで、西洋のことにちょっと戻りますけれども、イギリスでは大きな強い王権が出なかったと言われておりますものですから、糾問主義は発達せず、古代のいわゆる民会から発達した形で、民衆にかわって数人の陪審員が置かれた。この陪審制が発達しているわけでございます。
一方、大陸法の方でも、啓蒙主義思想というのがありましたから、ナポレオンなどを中心にしまして、人権を重んじた裁判をやろう、こんなことになったわけでございます。そこで、糾問主義については、
捜査というものに裁判官を、裁判とそれから取り調べ官をまず分けていこう、取り調べは裁判官が関与する予審制にしましょう、こんなことになったそうでございます。
果たして、
日本には、明治時代になってこの予審制を含むヨーロッパの
法律が入ってまいったそうでございます。いろいろと言われますけれども、治罪法、それから旧々
刑事訴訟法、旧
刑事訴訟法というものを経てきたわけでございます。
予審制というのが
日本にはありました。予審は裁判官がやるわけですけれども、強い
捜査権、強制
捜査権を持っておったわけでございます。その強制
捜査権ということですが、裁判官が確かに持って
捜査する。しかし、その実態は、実際の取り調べに当たっていただくのは
警察であった。次第に
警察が取り調べにおける力を持ってきた、こう言われ、戦前は特に、おいこら
警察などという言葉が残されているようなぐあいでございます。
随分とちょっと講学的なことばかり言って申しわけないんですけれども、そんな中で、GHQのもとで、アメリカのいわゆる当事者主義訴訟というものが
日本にももたらされたわけでございます。三者が行う。アメリカでは、イギリスと違って、陪審制のほかに
検察官という、訴追官という制度もできておりました。これも入ってまいりまして、裁判官とそれから
捜査する部門、そのトップは
検察官でありますが、それと被告人、この三者が完全に対等な
関係になるんだ、こういうことになったわけでございます。
当事者主義の本質は何かと言われるんですけれども、要するに、被告人、
被疑者が取り調べの対象としての客体ではなくて主体になったんだ、こう言われるわけでございます。
そこで、長くなってしまっているんですけれども、私は、この新しい
刑事訴訟法の導入に当たって、予審制が、戦前の予審判事が調べるというのが廃止されたんですけれども、この予審判事の持っていた強制
捜査権というものがどこへ行ってしまったんだろうかと。ここに
日本の戦後の立法の過誤がちょっとあったような気がするんです。
と申しますのは、現行の
刑事訴訟法百九十八条でございます。これが代表的なわけでございますけれども、予審判事の持っていた強制
捜査権、これが、一応は裁判官が許可状で
勾留をするという前提があるんですけれども、
勾留をされた後、
捜査官の方がいつでも強制的に呼び出す、自分のところへと呼び出して
捜査をするという
権限を持っている。ここらのところがちょっと、予審制の廃止に当たってもう少し注意しなきゃいけなかったのかな、こんなことも考えております。
結果として、表面上のいろいろなパラダイムの転換にもかかわらず、
日本では、非常に戦前に強かった
捜査権というものも含めて、
捜査が司法の中心になってしまい、裁判官はそれを、いろいろな
証拠を法廷で受け取って自宅へと持ち帰って、
捜査官の行ったことが正しいのかどうか、こういうことを確認するというような役割に堕してしまっているのではないか、こんなことを思うわけでございます。
明治、大正、昭和、
平成の一部という時代を超えて、なおかつ糾問主義的な色彩が
日本の
刑事司法に残っているのではないか。この、私だけではない考え方でございますが、
大臣いかがでしょう、こういった見方につきましては。