○馬淵
委員 民主党の馬淵でございます。
この
国土交通委員会、
住生活基本法の
審議に際しまして、私にも
質疑の機会をいただきました。きょうは、この
住生活基本法、いわゆる、この国の
国民の住居並びにその生活を規範していく
基本法でございます。
きょうは、その
理念並びに
我が国における
住宅政策の
基本的な考え方というものを、ぜひ
大臣から
国民の皆さん方に、わかりやすい、政治家としてのお言葉で御答弁をいただきたいと思っております。
さて、この
住生活基本法は、
我が国の
住宅政策の
三つの柱、
住宅金融
公庫法並びに
公営住宅法、
日本住宅公団法、これら三本柱に基づいた
住宅政策の転換期に当たって、いわゆる
住宅建設計画法を八期終える段階において、
基本法の必要性が十分議論なされる中、ようやくのこと、この
基本法、
政府としても満を持して、先ほど来、遅きに失したのではないかという各
委員からの指摘もございましたが、それらも踏まえて御提示をいただいたものと理解をしております。
さて、こうした
基本法に先立つ戦後の復興期の中での
基本政策三本柱、先ほどの
住宅金融
公庫法、
公営住宅法、
日本住宅公団法、これらの
法律についてどのような
経緯があったかということについて若干触れてみたいと思います。
委員長並びに
理事の皆様のお許しをいただいてお配りをしましたお手元の資料には、一枚目に、元総理であられます田中角栄氏がつくられたいわゆる角栄法、百二十本と言われる角栄法の一覧表、これは書籍からの抜粋でございますが、一枚目、二枚目と載せております。
少し線を引くところが誤っておりますが、一番右の欄に昭和二十五年に
住宅金融
公庫法、そして二十六年には
公営住宅法、三十年には
日本住宅公団法。これらの
法律については、当時の田中角栄議員が議員立法として率先してその提出者としてお出しになられた
法律、ここでは角栄法と呼ばせていただきますが、角栄法、並びに、閣法となって出されているものにつきましても、党内におかれて田中角栄氏が率先してこれも
法律の提出につなげたと言われている閣法、これら合わせて百二十本ほどの
法律群を田中角栄氏がつくった
法律としてまとめたものでございます。
この田中角栄氏がつくられた角栄法、これらが
住宅政策の三本柱となって、長い年月、今日の
我が国の
住宅政策の礎となったわけでありますが、さて、田中角栄氏が初めて
国会に来られたときの、そのときの思いというものをひもといてみました。
実は、昭和二十二年、初当選したばかりの田中角栄氏、当時民主党で初当選をされた田中角栄氏は、新憲法下の昭和二十二年の片山哲社会党
内閣時代に、初めて
国会におきまして本格的な
住宅の問題を取り上げられました。当時の片山総理に、一年生議員でおられた田中角栄氏は、働く
人々に家を与えずして何が民主主義か、このように庶民の代表たる
発言をされたわけであります。
当時の議事録をひもといてみますと、このようなおっしゃり方をしています。「米もない、着物もない、
住宅もないということになりますと、人間生きるためのまつたく必需条件であるところの衣食住、しかもその
住宅問題というものは一家の団欒所であり、魂の安息所であり、思想の温床であるその
住宅が、三十年間も
戦前に戻れない状態であつたならば、これはえらいことになる。」そして、総理に対して、「総理
大臣がみずから責を負つて執務されるのであるという気構えをちょつとお聴かせ願いたい。」このように
質疑の中でおっしゃっています。
当時、四百二十万戸も
住宅が足りないという中で、
計画の段階では二十四万戸ずつつくっていく、これでは三十年もかかるじゃないか、本当にこの国に安寧をもたらすにはまず
住宅政策が必要なんだ、田中角栄氏はこのように時の総理に迫られたわけであります。
そして、田中角栄氏がこのようにつくられた角栄法、
住宅金融
公庫法、まずは資金の
供給が必要である、そして
公営住宅をつくっていかねばならないという
公営住宅法、さらには
住宅公団という形でさらに全国に展開していくという
公団法。これらに田中角栄氏が深く深くかかわってこられたわけでありますが、いずれも、
我が国の高度経済成長期、
我が国の社会
環境を象徴するような
法律群の中の一角としてこの
法律がございます。
しかしながら、これら角栄法、ここをごらんいただきますと、先ほどまで
国会の行革で議論されておりました特別会計等々、さまざまな
法律もこの中にちりばめられております。今日においては、まさに政官業の癒着あるいは利権構造の温床となってしまったのではないかと指摘されるような
法律群にも見まごう
部分もあるかもしれませんが、少なくとも昭和二十二年当時、本当に清新な気持ちで
我が国の
住宅政策を憂う田中議員のその率直な質問というのが、私は、極めて、この国の
状況の中で一生懸命に当時の諸先輩
方々が
国会の中で議論されたその端緒となったという深い感慨もございます。
さて、こうした
状況で、
基本法がつくられずに、まずは
住宅政策三法、さらには
住宅建設計画法、これに基づいて今日の施策がつくられてきたわけであります。そして、
基本法の策定につきましては、たびたび
国会の中でも議論に上がりました。これは先ほど来も、
委員の御指摘や、また局長並びに
大臣からの御答弁にもありましたように、数度にわたってこれらの議論がなされています。
繰り返しになりまして申しわけございませんが、
公明党からは八回、当時の社会党から六回、社公民合わせての提出で一回と、
基本法についてはたびたびの
国会での議論があった。こうした
政府部内の議論、これもお手元の資料の中に、国交省の方でおまとめいただいた簡単な
基本法に関する議論の
経緯というものを載せております。三枚目でございますが、ここに、
公明党からの
住宅基本法案の提出、社会党からの提出、これは
住宅保障法案という名前にもなっておりますが、また、平成五年には社公民、民改連共同提案の提出等々、実に平成五年まで、こうしたたびたびの
基本法の
審議があった。
大臣が属される
公明党からも実に計八回の
国会提出があった。
先ほどお話を伺いましたところ、
趣旨説明も
大臣みずからがされたということも、それは間違いですか。(
発言する者あり)なるほど、お父様でございますか。私もそれは議事録を見たところ気がつかなかったわけでありますが、失礼いたしました。
大臣のお父様、義一様が、
北側大臣のお父様が当時かかわっておられたということだというふうに今お聞きをいたしました。
このように、
公明党や社会党、まさに野党からこの
基本法の必要性というのは、繰り返し、たびたび指摘をされ、また
国会の中でも附帯決議が付される、そうした
状況になっております。
皆様のお手元にはその議事録も付させていただいております。昭和五十六年、
建設委員会、二月二十日の議事録でございます。傍線を引かせていただいておりますが、ここでは、
建設大臣の所信表明の中で
住宅政策の
基本的
方向を示すための立法措置、これは従来
住宅基本法と言われていたものを指すのですか、鋭意
検討というのは今の
国会に提出することなのかという尋ねに対しても、当時の斉藤国務
大臣、
建設大臣が、従来
住宅基本法と言われたものであって、今
国会に提出するように鋭意
検討しております、このように明確にお答えをされている。
さらに、同年の三月二十六日の参議院の
建設委員会におきましても、これは茜ケ久保議員という方ですか、いまだ提出がないんだが、これはどういうことなのかということに対して、ここでも斉藤
大臣は、繰り返し、今
国会には提出したいというようなことを再三申し上げている、なお一層
検討を進めながら合意を得て提出したいという気持ちに変わりはないんだ、こうして、かなり明確に踏み込んだ
発言をされておられました。
このような
基本法の議論、そして最後に、
基本法がなぜまたそこで一たん議論が途絶えてしまうかというところをひもといていきますと、これも付しております資料の中にあります。昭和六十二年七月八日でございます。これは衆議院の本
会議における代表質問で、
公明党の当時の
石田委員長からの御質問で、すべての
国民に
住宅権を
保障する
住宅基本法を早期に制定すべきだと考えます、見解を承りたい、このようなお尋ねに対して時の中曽根
康弘内閣総理
大臣が、
住宅基本法につきましては、
国民のコンセンサスに基づいて制定されるべき性格のものであるが、現時点においてはまだ過早ではないか、早過ぎるのではないかと考えます、こういう御答弁をされておられます。
このように、
住宅政策の三本柱がまずあって、そして、それに基づく
建設計画法がなされて、八期にまで
住宅建設計画、まずは足りないので量を、そして量から質へ、さらにはその質の
目標水準というものを定めていくという流れの中で、
基本法が必要であるということは再三再四問われていたわけであります。
さて、こうした、今申し上げた一連の流れの中で、
大臣からぜひお伺いをしたいのは、三十年以上こうした
基本法不在を容認せざるを得なかった、一番最初は三十七年前のことです、この容認せざるを得なかった最大のポイントというのは何であったとお考えでしょうか。
大臣、御所見を伺えますでしょうか。