○保利
委員 私は、ただいま残念ながら無所属の身でありますけれ
ども、その私に一時間という貴重な時間をお与えいただいた
委員長初め
理事の
皆様方に心から感謝を申し上げたいと思います。
きょうはいろいろなことを伺いたいと思うんですけれ
ども、今までの
議論をいろいろ伺っておりました。今
遠藤さんが少しおやりになったんですが、私は、
中心的には
教育の制度論を少しきょうはやってみたいと思っておるんです。
その前に、
官房長官がいらっしゃいますので、制度論とはいいながら、やはり多少理念にかかわった部分について簡単な御
質問をさせていただきますので、御答弁をよろしくお願い申し上げたいと思います。
少し前段がありますが、私自身が文教関係の
委員あるいは
議員となりましたのは、平成二年の二月二十八日のことであります。突然に文部
大臣をやれと命令をされました。その前の職は自民党農林部会長でありまして、三期農林部会長を務めておったのが、文部
大臣をやれと言われてびっくり仰天いたしました。新聞記者に言わせますと二・二八事件が起こった、二月二十八日のことですから、そういうぐらい意外であったのであります。
そして、文部
大臣として任命をしていただきましたのは、おいでの海部総理
大臣でありまして、官邸に行きまして、文部
大臣をやりなさいといって辞令をちょうだいいたしましたときに横におられたのが、あそこにおられます西岡
先生であられた。西岡
先生は、当時自民党の総務会長をおやりになって、それで内閣をつくる作業に入っておられたわけであります。西岡
先生がにこにこ笑っておられまして、どういうつもりで私みたいな農林族を文教族に引っ張り込んだのかよくわかりませんが、とにかく大変お世話になりまして、文教の仲間入りをさせていただいたわけでございます。私は、それからずっとほとんど文教で通してまいりまして、農林の方のお手伝いをしながら文教を通してまいりました。
文教ということで考えますと、いろいろな問題があるんですけれ
ども、いろいろ御
議論を伺っておりましたり、あるいは若い方々といろいろな
お話をしておりますと、その人が生きてきた時代背景というのが
考え方に大きく影響しているな、そんなふうに思うのであります。
私は、実は小
学校というところには行っておりません。小
学校というのは、昭和十六年の四月一日から
国民学校に改組されました。私は
国民学校一年生でありまして、今でも覚えておりますが、みんなで勉強うれしいな、
国民学校一年生というのを歌って、
国民学校に入っておったわけであります。やがて、同じ年、昭和十六年の十二月八日に日米開戦、イギリスとも戦争という状態になりました。そういう時代ですから、もう随分古い経験をいたしておりますが、終戦は、小
学校といいますか
国民学校の五年生のときであります。ですから、私は、大部分を、小
学校時代は戦時
教育を受けたのであります。
今、私自身が戦時
教育というものについてどう思うかと聞かれたときに、それはいろいろなことがあったけれ
ども、私はよく鍛えていただいたなと思っているのであります。確かに
先生は怖かったです。げんこつで殴られて、歯が抜けるんじゃないかと思うぐらいたたかれたことも、小学生ですよ、今だったら大事件になりますが、そんなこともありましたが、よく鍛えていただいたなという感謝の念の方がむしろ強いのであります。
それで、空襲というものも経験いたしました。何年だったか忘れましたけれ
ども、たしか小
学校一年生か二年生のときですが、東京にアメリカのノースアメリカンB25という爆撃機が飛んでまいりまして、超低空で入ってきて焼夷弾を落としたこともあります。見たら、アメリカの飛行機が飛んでいる、もう超低空で来ていますから、操縦士の顔が見えるぐらいの低さで飛んできておりました。大変だ大変だ、アメリカが来たと叫び回って、たしか町の中を歩いていった記憶があります。
それから、昭和十九年に疎開をいたしまして、私の選挙区であります佐賀県の方に行ったわけでありますが、そこでも実は、地方の町でありますからそんなに大きな空襲はありませんでしたけれ
ども、やはり石炭の積み出し港でありましたから、機銃掃射というのがありました。これは、何と表現したらいいのかわかりませんが、戦闘機が飛んできて機関銃を撃つぐらいだから大したことないだろうと思っておったら、それは大変な音でありまして、言ってみれば大きな雷が連続して落ちるような感じ、そのくらいの感じを受けて、うわっ、これは恐ろしいことだと思ったのであります。
実は、そんな話、私はきょうだいが四人きょうだいでありまして、私が長男でありますが、すぐ下に妹がいる、その下に弟がいる、その下に妹がいる、ちょうど三年越しに男、女、男、女と生まれたのであります。そのきょうだいの中で、私が高校生ぐらいのときに、戦争中はこういうことがあってなという話をいたしますと、上の妹は幾らか記憶があるんでしょうね、うんうん、そういうことだったよねと。ところが、下の弟と妹は、お兄ちゃん、そんな戦争の話ばかりするけれ
ども、おもしろくない、やめなさい、気持ちが悪いなんというような
言葉すら吐かれたのであります。そういうことで、若干戦争の経験のある私と、弟、妹たちとの間には意識のずれがある、それはずっと来ていると思います。
しかし、私は、これは間違いだったかなとつい最近思いました。何か。それは、実は、ここにいらっしゃいますが、
稲田議員が終戦直後の情景というのを
お話しになって、そういう中でできた
教育基本法であるという
お話をされたのであります。やはり、後から勉強してもその当時のことを体験したかのようによく勉強しておられるということは、大変すばらしいことだと私は思うのでございます。
そこで、長い話をするのは恐縮でございます、はしょりますが、私は、戦争中の
教育というのは決して嫌なものだけではなかったと思っております、きつかったんですけれ
ども。例えば、
教育勅語を暗唱させられた、こういう表現がありますけれ
ども、私は好んで暗唱したのであります。小
学校四年生のときはちゃんと全部言えて、言えることが誇りでもあったというようなぐらいであります。
教育勅語をこの場で申し上げることは差し控えますが。
しかし、昔の人はよく考えたものですね。
教育勅語というのをそのまま教えることも一つの手でしょう。しかし、小
学校の生徒に
教育勅語の文言を一つ一つ解説してみてもなかなかわかりにくい。そこで、明治の時代ですけれ
ども、
教育勅語にかわるものとして、二宮金次郎の歌をつくって、それを小
学校唱歌の中に入れて歌わせておったというのがあります。二宮金次郎の歌、今でも私は一番だけは覚えているんです。
柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり、
親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し、
兄弟仲よく孝行つくす、
手本は二宮金次郎。
これはまだ三番まであるんですけれ
ども、ちょっと省略させていただきます。
学校の校庭には二宮金次郎さんがしばを背負って本を読んで歩いている姿というのが、私
どもはもう焼きついております。
そんな
教育を受けていたんですが、もう一つよかったなと思うのは、非常にきれいな
日本語というのを教えていたような気がする。それは、小
学校唱歌というのを今ごろ見てみると、すごい文章だな、いい文章だな、きれいだなと思うことがあります。
例えば、
菜の花畠に 入日薄れ、
見わたす山の端 霞ふかし。
春風そよふく 空を見れば、
夕月かかりて におい淡し。
こんな
言葉を、小
学校の三年生、四年生で歌を通して勉強しておった。
あるいは、雨の表現というのもあります。
降るとも見えじ春の雨、
水に輪をかく波なくば、
けぶるとばかり思わせて。
降るとも見えじ春の雨。
こういうような歌。
それで、私が申し上げたかったのは、戦争中の
教育が何か本当に悪い
教育ばかりしていたんだというような印象でおられる方もいらっしゃるでしょうけれ
ども、しかし、私の経験からいえば決して悪くはなかった。随分鍛えていただいたな、いい
言葉も教えていただいたなと思うのでございます。
そこで、実は、本題に入ってまいりたいと思いますが、この
教育基本法の中では、愛国心という問題が非常に大きく取り上げられました。マスコミが報道したのはほとんどこの部門でありまして、中でいろいろな
議論をいたしましたが、丁寧に丁寧にマスコミの皆さんにはその都度記者レクをしておりましたけれ
ども、ほとんど記事にならない。まことに残念だった。愛国心が出ると愛国心のところだけ、こういうことで意見が違うとか、そういうことが書かれたわけであります。
それで、私は、実はこの愛国心については
自分なりの経験がありますので、
お話をしてみたいと思います。
私はビジネスマンとして仕事をしておりましたが、その末期はフランスにおりまして、フランスで仕事をしておりました。五年間フランスに滞在して、ベアリングの仕事に携わっておったわけであります。そのときに、ある日男の人が訪ねてまいりまして、これは商売ですからベアリングの話をいたしました。その後、この人は
日本人かなと思ったら、フランス語をべらべらおしゃべりになる。おかしいなと思ってそばの人に聞いてみたら、この人はカンボジアの人ですと言うんです。
カンボジアは仏領インドシナだったと思いますから、フランス語が上手。フランス語のうまいその人が別れ際に何と言ったか。これは、私の気持ちの中に今でもすごく強く印象づけられている
言葉の一つであります。それは、最後にカンボジアの方が言った
言葉は、保利さん、あんたは帰る国があるからいいねと言われたんです。それを最初はわからなかったんですけれ
ども、考えてみれば、帰る国をなくすということは大変なことだなと思った。
もう一つは、満州から引き揚げてきた、ほとんど同じ年代の人に言われた
言葉。それは、
自分を守ってくれる人がいなかったんだよという
言葉。私は、これは非常に強い印象としてとらえておるわけであります。
そこで、愛国心については非常に熱心に説いておられた
官房長官、そういう経験談をお聞きになって、あるいは御自身の、今拉致問題に一生懸命取り組んでおられる
官房長官から、この愛国心というものは
官房長官なりにどういうふうにお考えになっていらっしゃるか、伺いたいと思います。よろしくお願いいたします。