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堀尾参考人 堀尾です。
こういう機会を与えられましたことを大変光栄にも
思いますし、緊張しております。
その緊張している
一つの理由は、私は、法学部を卒業して法律と政治学をやりまして、その後、
教育に変わって、そして専門としては、
教育哲学、
教育学、あるいは
子供、
青年の発達の問題、そして
教育法の問題、国際比較
教育学というような領域の研究を長年続けてきた者であります。同時に、
日本教育学会の会長を二期務め、
日本教育法学会の会長も二期務めてまいりました。
それだけに、私はここに立っているのですけれども、もちろん、きょう私の
個人の
意見を申し上げるわけではありますけれども、同時に、長年研究してきたその研究の同僚や、あるいは
教育に関して言えば、現場の先生
たちとの交流を通して深めてきた私の知見を披瀝しなければならないわけですし、しかも、この場では大変少数
意見であるようであります。この
議論の中でも、一部の
教育関係者が云々というふうな
議論がなされています。私はそういう意味では一部の
教育関係者かもしれない。しかし、私が研究してきたことはそんなに偏っていることとは決して思ってはいません。それだけに、短い時間ですので、私は
皆さんに、やや僣越ですけれども、「いま、
教育基本法を読む」という本を岩波から出しておりますので、これはぜひ、恐らく継続
審議になるであろうその期間、ゆっくりと読んでいただきたいというふうに
思います。
それから、もう
一つ資料として、
日本教育法学会の会長の伊藤先生の見解を
皆さんにお示ししました。私自身、
日本教育法学会の会長を二期務め、その間に、この
教育基本法改正問題が、本当に
改正論議ではなくて法案作成という方向で動く中で、危機
意識を持って、
教育基本法研究特別
委員会というのが学会にも設置されました。その研究成果は、これはこれでまとまっております。もしまだ先生方のお
手元にないとすれば、これは、特に政府案の批判を
中心に、各条細かな批判をしています。ぜひごらんいただきたいと
思います。お示ししました会長談話は、そういう研究特別
委員会の成果を踏まえ、さらにこの会長の見解を表現したということであります。
そういうわけで、私が緊張しているという意味は、研究者仲間のこの
考え方がどこまで正確に伝えられるか、あるいは現場の先生方の願いがどこまで伝えられるかということで緊張しているということでございます。
この国会を通して、
皆様方、本当に
教育とは何かという
議論を深くされました。非常に通俗的なあるいは常識的な
議論から、非常に深い
教育の本質論を含めての御
議論がありました。私は、丁寧に、この国会の議事録も手に入る限り読ませていただいています。それだけに、この国会で
皆様方が
教育の問題についてこれだけ多面的に
議論をされているということには本当に敬意を表しています。同時に、その
意見が多様であるということも、それこそが大事なんではないかと思っています。
それに重ねて、なぜこういう
教育に関する
議論がもっと日常的にみんなのものに広がっていかないのかということを残念にも
思いました。たまたま、
教育基本法の
改正というそのことをめぐってこういう
議論がなされている。そのことは、逆に言うと不幸なことだというふうに思っています。
国会で
議論されている
教育法の本質をめぐる問題は、それは、そのまま
教育基本法改正問題というふうな形で連動する問題ではないわけです。それこそ各党派を超えて、
教育の本質、そしてそこには、国がやるべきことなんだという言い方から、あるいは
教育には押しつけが必要なんだというような言い方から、そうではなくて、
教育の
基本は一人一人の
人間を育てることだ、
人間を
人間として育てることこそが基軸にならなければならない、
個人の尊厳を重んじ、お互いに大事にし合うというそういう
人間が実は国をつくっていく、平和的な、民主的な
国家と
社会の形成者になっていくんだ、その
国民は同時に、現在、私は地球時代というふうに現代をとらえているんですけれども、その地球時代においても、それを担っていく、新しい、言うなれば世界市民的な感覚を持った国際人を育てていく、そういう
議論を私はしているわけです。それに近い
議論もこの国会の中でもありました。
考え方の筋としてどこを軸にするのか。きょう、
見城さんの
お話もありましたけれども、
教育は
基本である、その冒頭に
教育は国の仕事だというふうに書かれています。しかし、後の方で、
愛国心のところで
議論されたことは、私は全く同感だなと
思いながら伺っていました。それぞれの御
意見の中にも、矛盾を含みながらいろいろ大事なことを言っている。だれの
意見が正しいということではないんですね。その際、特に私は、戦後の
教育のとらえ方、そして、なぜ
教育基本法の
改正が必要なのかというその根拠についてはほとんど理解ができません。
例えばきょうも、
青年会議所の方が敗戦トラウマという
言葉を使われました。これは、この国会で先般、町村さんが戦後後遺症という
言葉を使われました。果たしてそうなんでしょうか。振り返って、あの戦後、まさに敗戦そして占領下の中で私
たちの先人がどういう
思いで新しい
人間を育て、新しい国をつくろうとしたか、その
思いが
教育刷新
委員会の
議論、そしてそれを通して
教育基本法をつくっていったということであります。その
中心になった、例えば田中耕太郎、あるいは南原繁、あるいは安倍能成、務台理作、そういった人
たちは、本当に
人間を
思い、国を思った人
たちです。
南原さんについて一言申しますと、南原さんは「
祖国を興すもの」という本を書かれています。それから、新しい
日本の文化をつくるんだというそういう講演を、東大の総長になったときに講演しています。同時に、その講演を、一九四六年の二月十一日、その当時は紀元節です、その紀元節にあえて、新しい国を興す、そして、東大にはそのときに日の丸を立てたのです。私は、戦後改革を担った人
たちというのは、そういう意味で本当に愛国者だというふうに思っています。敗戦後遺症というふうな形で我々の先輩をとらえていいんだろうか。占領軍の押しつけによってつくられた、そんなことはないんです。もちろん占領下です。ステアリングコミッティーを通していろいろなアドバイスもあったかもしれません。少なくとも、お互いに情報を伝え合っていたことは事実です。
しかし、
教育基本法の作成は、本当に私
たちの先人
たちが過去の反省を踏まえて、新しい
人間をつくる、その
人間を軸にして新しい国をつくるんだ、その際
中心になるのは、一人一人の
人間の尊厳、そして、真理と平和を希求する
人間、これをつくるんだ、これがですから
教育基本法の精神です。そして、それが新しい世界を開いていく。決して平和は一国の平和
主義ではないんです。
日本の新しい理念を国際的に広げよう、そういう責任の自覚、使命の自覚を通して憲法をつくり、
教育基本法をつくったんです。
私は勝手なことを言っているのではありません。私は研究者ですから、特に、戦後改革がどういうものであったか、それについては、実はこういう本があるんです。これは東京大学の出版で、戦後
教育改革のシリーズ全十巻です。スタンフォード大学との共同で始まった仕事です。そして私は、この巻、このシリーズで、
教育の理念の成立過程、つまり、憲法の成立過程と
教育基本法の成立過程を丹念に調べた本を書いています。それから、十条に関しては、この
教育行政の巻で、残念ながら昨年亡くなりましたけれども、鈴木英一さんが非常に丁寧な仕事をしています。そういう仕事を通して私
たちは、戦後、敗戦後遺症などとは決して違うんです。それは、新しい
思いを、新しい
理想をうちに秘めながら、次の世代をどう育てるかということで
教育基本法をつくったわけであります。ですから、その歴史というものは非常に大事なわけで、この本も、歴史、争点、そして再発見という
言葉を使っています。
私
たちは、この
基本法、憲法の精神を本当に
現実に生かす、それは条文を守るということではないのであって、その精神をどういうふうに具体的に
自分たちのものにしていくのか、そしてさらにそれを発展させることができるのか、
教育現場の中で、そして一人一人の未来を担う
子供たちにこの精神をどういうふうに生かしていけばいいか、そういう方向で
教育を
考えてきた一人であります。
しかし、御存じのように、
教育基本法も憲法も、自民党は結党以来、これを
改正するというのが党是であるということを言い続けてきたわけですね。そして、ようやくこの二十一世紀、新しい時代に入ったんだからということで、今度はそれを強調しながら
教育基本法の
改正を急いでいるわけでありますけれども、私に言わせれば、この
改正の根拠というものが全然わからない。これは国会の
議論を通してもそうです。そして、例えばきょうの
参考人の
議論は、そのままなぜ
教育基本法の
改正につながるのか。私は、
教育というものはいろいろな人がいろいろな
議論をするのが大事なのであって、それを法律で縛り、
一つの方向づけを国がやるということは、これは非常な越権である。実は、そのことを戦後改革のときには実に丁寧に
議論されているわけです。
もう時間がすぐ来ちゃうんですけれども、
皆さんにも配られているこの第九十二帝国議会の
議論の中で、何でも法律にしたらいいということではないだろうということを本当に繰り返し強調されていますよね。佐々木惣一さん、そして沢田牛麿さん。沢田牛麿の
意見など、「此の法案は法案ぢやなくて、説法ではないか」、つまり
教育基本法のことですよ。そもそも法律に書いていいことと悪いことがあるんだということを非常に強調している。
教育の目的なんということを法律で決めることは私は無理だと思う。金森国務大臣は、「法律で決めて然るべき範囲と、さうでないものの範囲とは自ら分野があるもの」と存じますというふうに言われている。
しかし、なぜ
教育基本法をつくったのか。それは、戦前の
教育、そのとき支配的であった
教育のあり方というものが、余りに戦前の
教育勅語を軸にしたいわゆる
教育、あるいは
国家主義と
軍国主義に支配された
教育であった、それをどう克服するか、そういう
現実の課題の中で
教育目的についても規定せざるを得なかったんだという対応をしています。
そのことは、さらに、当時の文部大臣であった田中耕太郎さんが、その後は最高裁長官になるわけですけれども、一九五二年の一月に出されましたジュリストの創刊号、その中に、
教育基本法第一条について、つまり、
教育の目的を規定することがいいことか悪いことかという
議論をなさっています。この文献などは私は非常に大事だというふうに
思います。何も規定しなければアナーキーが来るだろう、しかし、反対にもし法が
教育の隅々まで規定するようになれば、
教育はそのはつらつたる生命を失い、死物化してしまう、死んでしまう、そういうことを免れない、つまり、
教育の固有の領域というものは法になじまない領域というものがあるんだ。
それで、
皆さんが
議論するのは当然なんです。みんなが
議論して、
国民の
教育についての合意の水準を高める、これが
教育のあり方。そして、その
教育を担うのは現場の教師であり、そしてもちろん父母であり、
地域の住民であり、
教育行政もそれにかかわるということになるわけですけれども、それぞれがどういう仕事をするのかということを丁寧に腑分けしながら、
教育の自律性、自由というものを軸にした
教育のシステムをつくらなきゃいけない。
自由民主党というならば、実は、その
教育の自由の領域をこそ守るというこれが、自由民主党のあるべき主張であるはずだというふうに
思います。しかし、その点に関しては、今度の
教育基本法の
改正は、まさに国が
教育を、口出しをする、口出しじゃなくて統制する、そういう方向で書かれている。その最たるものが、
基本法の今度の二条を新設したことです。
教育の
目標。
さらに、十条を大きく変えて、
教育は不当な支配に服することなく
国民全体に対して直接に責任を負うというこの規定を大きく変え、そして、
教育は法律に従え、おきてを行うものだという書き方をしている。現行法の十条の構造、これは非常に大事なのであって、十条は
教育行政の条項ですけれども、その第一項は、まず「
教育は、」という主語で始まっています。第二項に、
教育行政はその
教育の目的を実現するために必要な条件を整備するんだという書き方になっているわけです。その構造、つまり、
教育と
教育行政の区別、そういう観点が全くなくなっちゃったのが今度の法
改正案だというふうに
思います。ここのところは、政府案も民主党の案も非常に問題を持っているというふうに私は思っています。
丁寧に、十条の立法の精神そして十条の構造、不当な支配とは何なのか。この不当な支配に関しても、国会でも随分
議論になりました。それで、小坂文部大臣は学テ最高裁判決を引きました。しかし、これは重大な解釈上の間違いがあるというふうに私は思っています。文科省、文部省は、これまでも繰り返し、国が
教育内容に関与する、これはこの学テ最高裁判決によって確定しているという言い方をされました。しかし、この読み方が実にいいかげんで、都合のいいところを読んでいる。私は、もう時間がないので丁寧に紹介するわけにはなりませんけれども、そういう問題を含んでいるわけですね。
そして、法というものがどこまで関与していいかというのは、それこそ
基本法が成立するときに、
教育目的まで本当に書くのという
議論を含み、そして、御紹介した田中耕太郎さんの論文では、あれは
日本の、変態的という
言葉を使っています、つまり、非常に変則的なんだ。言うなれば、近代
国家は、そういう
人間の内面的な領域には国が関与しないというのが近代原則なんです。