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西澤参考人 私ごときを呼んでいただいたわけでございますが、果たしておこたえできるかどうか、甚だ自信がないところでございます。
ちょっとだけ私のバックグラウンドを申し上げた方がおわかりいただくのにいいのではないかと思います。
私のおやじも東北
大学の工学部応用化学科におりまして、
子供のときから、
教育ということには幾らか雰囲気として勉強ができたのではないかというふうに考えているところでございます。
もともとは理学部に行きたかったのでございますが、終戦後、それこそ、現在の中国東北地区から毎日のように命からがらこちらに引き揚げてきた
人たちの報道などを聞いておりまして、とにかく、何とかしてこの
日本がこれから自立していかなきゃいけない、まず経済的な自立も
一つ重要でございます。
そういうふうなことを考えたときに、一体何で自立できるのかということを考えてみました。いろいろ考えてみましたら、どうも農業はもちろんだめでございますし、工業でやる以外にないんじゃないかと。それで、工業でいわゆる加工賃をもらうという考え方になるわけでありますけれども、当然新しい産業を起こすのが一番商売がしやすいわけでございますから、そういうところを目指すべきではないかということになったのでありますが、よく考えてみたら、東北
大学の工学部に入っていたわけでございますので、何だ、
自分がそれをやるべきちょうどいいところにいるんじゃないかということに気がつきまして、初めて勉強しようという気持ちになったという甚だだらしない男でございます。
その後すぐ、
昭和二十年、終戦でございます。そんなことを考えたのは二十年でございますが、その後、毎年毎年新しい学生諸君が入ってまいります。そういうのを見ておりますと、その間の学生諸君の雰囲気がだんだん変わってきております。それを割方継続的に見ることができたということが、私にとっては大変参考になったんではないかと思っております。
これは決して、
大学の
教育というのが一番大事だと言う方がいっぱいいらっしゃいますけれども、もちろん
大学の
教育も大事でございますが、要するに壁でも何でもそうでございまして、一番
最初の芯がしっかりできていなければ、いかに上にいい泥をきれいに塗りましても、その壁はすぐに壊れてしまうわけでございますから、
基本的なところから人間をちゃんと秩序立てた成長をさせるようにしていくということがどうしても必要であるということに気がつきまして、それから若干、
最後はいわゆる胎教まで興味を持つようなことになったわけでございます。
たまたまサイエンスをやっていたせいもございますし、それから、恩師の恩師に当たります八木秀次先生が昔から非常に
教育御熱心でございました。本当の研究ができる人間というのは、
教育もちゃんとできるような人間でなければだめだということを言われました。また、
教育をする教官というのは、研究の方でも負けずに世界的なレベルの研究成果を上げているような人間でなければ
教育はできないんだ、それは直接講義の中に出てくるわけではないけれども、黒板を向いて後ろ姿を見せながら講義をしている先生の雰囲気が若者たちに大変大きな影響を与えるものだということをよくお教えいただいて、今でも、まさにそのとおりだというように考えているところでございます。
そんな
意味で、橋本内閣のときに、どういうわけかわかりませんが、第一号
意見陳述人というのにさせられました。出ていってみましたら、
最初は何かメンバーの方々のお写真を撮るために私を写真の台に使う新聞記者諸君がたくさんいらっしゃいました。頭のてっぺんにカメラを載せられて、私もさすがにちょっと小言を言ったのでございますが、大変私もそのときに妙な雰囲気を感じたところでございます。
保利先生あたりの大変な御努力で、一応その
会議を務めさせていただいたわけでございますが、
最初に橋本
総理が演説をなさいました。橋本内閣は六つの
改革をするということをおっしゃったんだと思います。私は、一番大事なのがおっこっているんじゃないでしょうか、どんな
改革をやろうと思っても、
基本的には
教育まで戻らなければ本当の
改革になりません、そういう
意味からいえば、ぜひ
教育改革を
一つ入れていただきたいということを申しましたら、橋本
総理が一番
最後に締めくくりのごあいさつをされたわけでありますが、そのときには
教育を入れてくださいまして、七つになりました。翌朝の新聞から一斉に七つになった、六つかな、ちょっとその辺のところは怪しいんですが、
教育を入れてくださったということだけは間違いがございません、ということになったわけであります。
その辺からだんだんに、やはり
教育行政というものに対してもいろいろなことを申し上げなければいけないというふうに考えました。
大学の方も、私は研究一本でやりたかったわけでありますけれども、やはり行政的なところでもつなぎをしなければいけないということになりまして、決してそういうことは達者な方じゃございませんけれども、できるだけ努力をいたしまして、結局、東北
大学の学長も一期六年間やらされましたし、また、その後、岩手県知事の方から御要望が出まして、新しくつくる県立
大学の創設もやらされました。
最後は、石原東京都知事に引っ張り出されまして、四つの
大学を合併いたしました首都
大学の学長を今やらされているというところでございます。
そのときに、とにかくしっかりした見識を持った
教育をすることが必要でございますし、やはり地元の
人たちに非常にプラスになるような
教育内容を持たなければいけない。
教育内容としては、たまたま東京都がアジア地区における一千万都市の皮切りでございますし、大変な失敗も成功もあったわけでございますが、そういう体験がある。また、既に中国には七つか何か一千万都市がございまして、巨大化がどんどん進んでいるわけであります。これから、インドあるいはアフリカにまで人口稠密化が波及していくように思うわけでありますので、そういうことに対する
基本的な学問をつくるということをやってはどうでしょうかということを私は
意見具申いたしました。
ただ、それだけでは困るわけでございまして、やはり
大学というのはスピリットが要るわけであります、心が要るわけであります。そういうことを何にするかというと、案外、今、
日本では全然自信を持っていない方が多いのでございますけれども、北の方に行きますと、私は旧制
高等学校時代に宮沢賢治の作品に大変魅せられたわけでありまして、そういうような同じ思想を持っている方としては、後藤新平先生とかあるいは新渡戸稲造先生というような方々がいらっしゃいます。
こういう方々のやられましたことは、既に、とにかく中国が非常に
日本を嫌っているような印象を持っていることが多いのでありますけれども、天皇の像がちゃんと中国に建っているんですね。今上天皇の像が建っております。それは、人の話を聞きますと、後藤満鉄初代総裁が現地の中国人の生活にも大変プラスとするようなことをやられたことが、今もって彼らの非常に尊敬の念を集めているからであるという説明がありまして、私も納得がいったわけでございます。表に出るようなことだけでは決してないんだということも申し上げておきたいと思いますし、しっかりした方々が両国間のつなぎをやったところは今でもちゃんと
日本を評価しているということも、ぜひ頭のどこかに入れておいていただければ、大変うれしいと思っております。
そのような例はたくさんあるわけでありまして、確認はしておりませんが、毎年、後藤新平先生の祥月命日になりますと、台湾から飛行機いっぱいお墓参りに来るんですね。東京都の人は市長をやってもらっていたのにちっとも来ないといって、今皮肉を言っているところでございますけれども。台湾の
人たちは大変そういうところは礼儀正しいわけでございますので、そういう話が言われているわけであります。
ですから、悪い方ばかり表に出ておりますけれども、大変立派な仕事をしている方もいらっしゃいますし、また、それだけのことをすれば、ちゃんとそれに対する見返りがあるんだということを、この席をかりましてちょっと申し上げさせていただきます。
いよいよ本番に入りますけれども、やはり
教育というものは大変大きなものでございまして、ただ単なる知識の引き継ぎではないんだと私は思っております。本来、
日本の国でやる
義務教育というのは、我が国の持っている文化を子孫に伝承していくものであるというふうに考えるべきではないかと思っております。
言葉に整理することのできないような、
一つの、
日本人として、
日本国民としての思想とか物の考え方、感じ方というのがございまして、これが次代に正当に繰り越されていく。そのまま伝えなきゃいけないというのではございません。やはりまずいところはどんどん直さなきゃいけない。そういうことで、世界トップレベルのそういう仕事が伝えられるようにしなければいけないと思っております。
次に、
教育の原点ではないかと思いますが、
国民一人一人の持つ人間としての能力を伸ばす。
みんな特徴がございます。一時、画一主義に流れまして、皆同じ形にしてしまおうというような、大量生産と勘違いされたような
教育が標榜された
時代もつい最近まであったわけでございますけれども、これは一人一人がどんな才能を持っているかということをよく担当教師が考えまして、それに対する
教育を施しまして、もちろん枠がございますからそんな勝手なことをさせるわけにはまいりませんけれども、一人一人に接していくというのは、やはりそういうことを原点としてやるべきではないか。
もちろん、それは本人の才能を伸ばすだけであって、国という観点をなくすわけにはまいりません。もちろん、我が国
社会とのマッチングをとりながら一人一人の才能を伸ばしてやるというふうに考えるのが、
教育の一番
基本的な方針ではないかというふうに考えております。
結局、
国民一人一人を幸福にしようといたしますと、その環境をなす
社会、国家、ひいては世界がすぐれたものになっていなければ、一人の
国民は十分な幸いを得ることができないわけでございますので、当然そういうことを要求する以上、
国民一人一人が
自分を守るのはもちろんでございます、また家族を豊かにするということも当然でございますが、同時に、
自分たちを包む
社会をよくしていく、国も立派にしていかなきゃいけない、また世界も立派にしていかなきゃいけないということがやはりあるわけでございまして、その辺のところが、国と個人ということの間に今非常にミスマッチングがあるのは、やはりもうちょっと深く見なければいけないということでありまして、深く見れば、これは大変オーバーラップするところが多いわけであります。どういう比重になるかというところに一人一人の見解の相違はあり得るわけでございますけれども、総合的には、国も立派でなければいけない、世界も立派でなければいけない。
宮沢賢治の有名な
言葉がございます。世界じゅうの人がすべて一人残らず幸せになっていなければ、それを見ている
人たちもやはり
自分も不幸だと感じなければいけないわけでありまして、一人でも不幸な人がいるうちには世界じゅうの人類は本来
自分も幸せだと思う資格がないんだというようなことを大変きれいな文章にまとめたのが、よく伝えられているわけでございますが、これは特に、北アジアに住む我々の大いに誇りにすべき非常に大事な思想ではないかというふうに私は考えているところでございます。
そんなことでございますが、文化というものは、もちろんDNAによって変わるところもございますけれども、決してそれだけではないと思うわけであります。
中国の
学校教育は、詳しく調べたわけではございませんが、西暦紀元前約三
世紀というふうになっているわけでありますけれども、
日本は大体十一
世紀に、仏教と一緒に
日本にやってきたあたりになるようでございますけれども、これは西欧で最も古いと言われておりますボローニャにおける
大学の発足とほぼ同じでございます。ですから、アジアの
学校教育というものの体験はヨーロッパよりもはるかに長い経験を持っているんだという
意味で、その中に詰め込まれておりますノウハウも非常に豊富なわけでございます。
そこら辺をよく考えれば、アジアの我々が、そういうこともよく
自分たちで調べ上げまして、すばらしい
教育のエッセンス、やり方というものを
日本から逆にアピールするというぐらいの気概を持っているのが当然だと私は考えているところでございます。
先年、台湾の校長先生——総長、学長だのというようなくだらないことを言っている人はいないわけでありまして、台湾は
大学から小
学校まで全部校長先生でございますが、この校長先生が何百人か集まったところで話をさせられました。私も、台湾だって大変すばらしい歴史を持っておられるんだということを申し上げてまいりまして、大変喜んでくださった方もあるようでございます。
そんなことで、
教育の効果的な順序とかあるいは年齢などにつきましては、いわゆる
教育の技術になる、技術と言ってはちょっとまずいかもしれませんが、技術になるわけでありますが、幾ら
教育の
理念が立派でも、やはり
教育技術というものが十分に発達していなければ
余り効果がないわけでありまして、時とそれから環境というものがうまくそろったときに教えていくというふうなことになるわけであります。
日本には長いこと言い伝えというのがございます。この中には、ある
意味の
教育のエッセンスが詰め込まれているというふうに考えるわけでございますが、例えば守破離という
言葉がございます。これはおけいこごとの方では当然でございますし、また、北辰一刀流のような武道の世界でもこの守破離ということがよく言われるわけでございまして、これが
教育のやり方としては基調的なものであります。
守というのは、今までためてまいりましたその流派のエッセンスをただ黙ってまずやってみろというのが守でございます。次に、破でございますが、あるところまでいけば、今度は少し崩してみろということになるのが破でございます。守もできないうちに破をやったのでは何にもならなくなってしまう。それから
最後には、今度は離れて一家をなすということで、はるかにレベルの高いものがそこから生まれてくるということになるわけでありまして、これは現代でも、
教育の成果が上がっていったときには、サイエンスに関係する学生どもの
教育でも全く同じことになっているのではないかというふうに思うわけでございます。
しかし、これをよく間違えて、小さいうちから勝手な自我の主張をさせたりいたしますと、結果としては何にもならない。よく絵をかく
先生方がおっしゃいますが、デッサンがしっかりできていない人間は、一時的には受けることがあってもやがてすぐにつぶれてしまう、やはり
基本からしっかりやらなければだめだということが言われるわけでございます。こういうことはいろいろな分野で皆言われているのでありますが、必ずしも
教育の世界ではそういうことを非常に強調なさる方ばかりではないというようなところに、やはりいろいろな破綻が生じている点もあるのではないかと思います。
例えば、それ以外に、おけいこごとは六歳の六月六日がいいとか、それから、もうちょっと
基本的な大事な性格を決めることに関しましては三つ子の魂百までなどというような、非常にエッセンシャルな言い伝えが伝わっているわけでございます。
現在、東北
大学におります川島教授というのが、近代的なサイエンスの測定技術を使いまして、放射性物質の弱いものを体の中に注射する、体の各部に置いておきますカウンターが放射性物質の量に比例したカウンティングをやるわけでございますから、結果としては、血がこちらの方にはどのぐらい流れてきたかということがわかるというようなことでございます。
つい最近までいろいろと問題がございましたが、小
学校の一年生から電卓を使わせるなどということを決めたのが約二十年前でございます。その後、いろいろな形でこれに対する批判も出たわけで、実はその
会議の席上で反対したのは私一人でございます。ただし、
最初の日が急に予定が通知されたので行けなかったのでございますが、二回目に行って慌てて反対をしたわけでございます。もちろん、取り上げていただけませんでした。結果としてはそういうことがよくあるものですから、おまえはいつも反対ばかりしていると言うんですが、
内容を見てください、今は私が言った方が正しいと思われていることがたくさんあるんですがという泣き言を言ったこともあるわけでございます。残念なことに、計算機は小
学校の一年生から使わせることに決まってしまっておりまして、まだ変えられておりません。
ところが、ちょうど半月ほど前でございます、もう一カ月になるかもしれませんが、中国では新しい
教育基準を発表いたしまして、その中に九九を十九掛ける十九まで小学生に覚えさせるということが入っております。
日本は九掛ける九で、学問的には九掛ける九の方が正当性があるのではないかと思いますが、余計覚えておって害になるということは、幾らかはございますけれども、そうはないだろうと思っておりますけれども。もうちょっと早くどんどん直していただいたらいいのではないかというふうに感じているところでございます。
そんなことで、要するに、さっきも申しましたように、
教育理念も、もちろん一番大事でございますけれども、それに派生するいろいろな技術を同時にフォローアップしなければ、せっかく立派な
理念をつくりましてもこれが効果として出てこない。残念ながら今度の
教育基本法は今回は間に合わぬというような
お話もあるようでございますが、
教育を受ける
子供たちのことを考えてみますと、かなりおくれるわけでございます。下手すれば一学年おくれてしまう。それが
日本に対してどれだけ大きなマイナス効果があるかということを考えていただければ、これは重大な問題ではないかという気がするわけでございます。とにかく、そういう
意味からいえば、早く具体的な
教育手段までどんどん検討していただかなきゃいけない。
文部省にも
教育研究所というのがあるようでございます。前に吉田さんとおっしゃる方に申し上げたのでございますが、帰国子女の中に非常に成績の悪い人が時々入るんですね。どうもこれは
言葉が途中で変わるということに原因があるのではないかということで、帰国子女に関する調査ということを申し上げまして、御本人は非常に喜んでくださったのでありますが、やはりプライバシーにかかわることでございますので、その後進んでいないようでございます。そんなことで、早く具体化のところまで進めていただきたいということをきょう
お願いしたかったわけでございます。
時間がなくなってしまいましたので、そういう
意味では、やはり受験塾あたりの対応が、問題解決のところは非常に力を出すわけでございますが、
子供の
基本的な能力を伸ばすということについては逆効果であることが非常にたくさんあります。今の暗記勉強のこと、暗記はもちろん大事でございますが、度を過ぎた暗記というのは非常にマイナスであるということをやはり注目していただく必要があると思っております。
そんな
意味で、もう時間になりましたので、大変くだくだと申し上げましたが、最近は、
教育の中における人間の正義の問題というものすらおかしい。きのうもちょうど若者といろいろやり合ってきたのでございますが、とにかく多数決こそ一番大事なやり方なのだと考えている若者が今相当のアクティビティーを持った連中の世代にございます。そういうことでやるから、どうしてこういうひどいことをするのかということを感じていたわけでありますが、そうか、多数決の原理かということにやっと私も気がついたわけでございます。
よく見直していただきますと、早急に、そういう妙なことから、簡単に言えば、占領
時代のいろいろなネガティブエフェクトが今もって
国民の
基本的な考え方にまで尾を引いていることがたくさんあるということを今切実に感じているところでございまして、何とか命あるうちに少しでも変えていただくようにしていただければ、大変私もうれしいし、また安心して、年寄り引っ込めなんて言われておりますから、あの世にさっさと行けるところになるわけでございます。
以上、大変雑な
お話をいたしまして、どうぞよろしく
お願いいたします。(拍手)