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吉岡参考人 初めまして。
吉岡忍でございます。
きょうは、
憲法改正
国民投票法案について私の
意見をということでお招きをいただきました。感謝を申し上げます。
しかし、その
国民投票法案そのものを考えるときにも、
憲法が一体どういうものであるかということを私がどう考えてきたかということを前提にしないとなかなか語れないものですから、そこから始めさせていただきます。
私
自身は、一九四八年、昭和二十三年の生まれですので、
日本国憲法のもとで生まれ育って、まさに
日本国憲法の子供だというふうに思っています。
今の
憲法というものがどれだけ今の
日本の社会へ定着しているのか、ここがよく
議論をされるところでありますけれども、これは押しつけ
憲法であるとか
自分たちの
憲法ではないとか、いろいろな批判も含めて
議論がされているところですけれども、私は、その定着という問題を、単に、さながらバイブルだとかあるいはお経のように毎日手にとって読んだりすることが定着だというふうには全く思っていません。そうではなくて、毎日私
たちが暮らしている中で、人権の尊重であるとか経済的
活動の自由であるとか、あるいは何でも物を言えるとか、あるいは
日本だけではなくて、諸
外国を旅行したり、そこで憎しみを持たれたりしない、そういうことも含めて、そういう
実態があること自体が、現在の
憲法というものが定着している証明になるだろうというふうに私は考えています。
一方、
日本国憲法があるがゆえに、私
たちは戦後の復興から高度成長期、あるいは時にはバブルというふうに、経済状態まで含めて豊かさというものを実現してきた。これもまた、現在の
日本国憲法があったがゆえに、つまり、軍事費にたくさんのお金をかけるとかいうことがなかったがゆえにできたことだというふうに私は考えておりますので、そういう意味では、現在の
日本国憲法というものはこの社会にしっかりと定着しているというふうに私は思っております。ですから、この
憲法改正をするべきかどうか、あるいは一刻も早くするべきかどうかということを考えるときには、この現実というものをしっかりと考えなければならないというのが私の
意見であります。
言うまでもなく、
日本国憲法というのはこの国の基本法であります。国の内側にもあるいは外側にも向けて、この
日本の社会、この中で暮らしている私
たちは、いかなる価値
判断であるとか価値基準であるとか、世界をどう見ているのかとか、将来展望をどう考えているのかということを示す、そういう非常に重要な文書です。ですから、この
憲法を変えるかどうかという問題は、
日本の国内のことはもちろんでありますけれども、国際の関係であるとか、諸
国民、とりわけ近隣のアジア諸国が
日本と
日本人に寄せる印象というものにも大きく影響いたしますし、それは、
憲法という事柄の性質上、何十年にもわたることがあり得るわけです。ですから、
憲法改正を問うその制度設計に当たっては、こういった事態というものを十分に考えて、深い
議論が尽くされる必要があるというふうに私は思っています。
言うまでもないことですけれども、先ほども言いましたけれども、
日本国憲法というのは十五年にわたったアジア太平洋戦争のその反省から生まれました。これは、
憲法というものが抽象的にあるのではなくて、
憲法というものが持っている、この国独自の性格だというふうに思います。そういう歴史性を私
たちの
憲法は持っているというふうに私は考えています。ですから、主権在民であるとか不戦主義であるとか基本的人権の尊重というこの
三つの原則をうたう
憲法というものは、この国の戦後の
日本社会の活力の源泉になってもきましたし、同時に、長年にわたる戦争によって周辺諸国に与えた被害、そういったものをもう
日本はしないんだ、そういう安心感を与えるものとしてもあったというふうに思います。
国際環境も、その中の
日本の
立場というものも絶えずもちろん動いております。
日本国憲法が制定された当時と今とは違いますし、そういう意味でいいますと、十年前、十五年前、
日本がバブルの経済で沸き返っていたときと今とももちろん違います。もちろん、これから十年、二十年、三十年の先も大きく変わってくると思います。しかし、現在の
憲法を生かすにしても、それから
憲法を改正するにしても、この
憲法というものが、
日本の国内はもとより、近隣諸国との関係をより深くする、相互理解を深めていく、相互信頼を深めていく、そういう方向性でなければならないということは、改正するしないにかかわらず、基本となる事柄だというふうに私は思います。
憲法改正をめぐる
国民投票のその法的整備については、こうした
日本国憲法の歴史性であるとか現状であるとかその将来性と限界、そういったものをだれもが自由に考え、発言し、そして
議論して、
判断する、そういう機会と場と時間をできるだけ多く保証する法的枠組みをつくれるかどうかにこの成否はかかっていると私は思います。
憲法というものは、
最初に申し上げましたように、どう定着するかということにもかかわりますけれども、単に政治にかかわるだけではなくて、経済や家計を左右しますし、文化や教育にも影響いたします。仮にもこの
国民投票法案がそういった自由な
議論というものを抑制したり禁止したりあるいは萎縮させたりする、そういうことによってそういう場、機会、時間というものを縮めたりなくしたりする、そういうことがあってはならない、これは言うまでもないことであります。
国民投票というものは、
憲法論議のみならず、
人々があらゆる機会に自由に
意見を述べ、活発に
議論し合いながら暮らしたり生きていく、そういう気風を形成する、あるいは根づかせる、そういう出発点であってほしいというふうに私は思います。この
委員会が、これからもそのような長い見通しを備えた
議論を展開されるよう御努力されることを私は期待いたします。
これが、私がこの
国民投票法案について考えるまず前提であります。
では、どういう
国民投票法案の制度設計をすべきであろうかということについて話を移したいと思います。
このときに大きな問題になるのは、この制度設計に当たって大事なことは公共という概念だろうと私は思います。この公共というものは、私の考えるところ、合意形成をしていくための社会空間だというふうに私は考えています。
ともすれば、公共の公というものは、国家であるとか行政であるとかあるいはお上とかというふうなものであるという、私と公というふうによく区別をされますけれども、私のもう一歩向こうにあるものだというふうによくとらえられるんですけれども、私は、そうではなくて、市民一人一人と権力との間の中間の空間を公共だというふうに定義をしたいと思います。この公共の空間というもので
国民投票をめぐってあるいは
憲法そのものをめぐってさまざまな
議論がされるのだろうと思いますけれども、この公共の空間をどう設計するかということが
国民投票法案の大きな骨格になるだろうと思います。
そこで、この公共空間をどう設計するかということですけれども、お
手元に私は
レジュメを配付してございますけれども、まず
最初に考えなければならないことは、
国民投票運動には青少年も参加できるようにすることが望ましいと私は考えます。
この
憲法のもとで最も長く生きていくのは、私
たちであるよりは、今の子供
たちであり、これから生まれてくる
人たちです。そういう
人たちの暮らしにも、改正されるにせよされないにせよ、この
憲法というのは大きな影響を及ぼします。青少年がどういう社会で、どういう世界で暮らしたいのかということ、それを
議論する場をこの公共の空間につくっていくということは大事なことだというふうに私は思います。
しかし、残念ですけれども、
日本の青少年の学力の低下の問題であるとか社会的な無関心であるとか、さまざまに指摘をされています。歴史的知識がないのではないかとか思考力が落ちておるのではないかというふうなことは
メディアでも盛んに報道されていますけれども、こういう青少年の現状というものを、
憲法をめぐる
国民投票を機会に、彼ら一人一人が、この国の過去であり、これから行く先でありというものを知ったり考えたりすることは、彼ら
自身にとっても、彼ら
自身が未来を切り開いていくためにも大事なことだというふうに思います。そういう場をどこに設計するか。
一つは、もちろん家庭があります。家ですね。それから学校があります。学校の授業の中でどういう
憲法をめぐる
議論ができるだろうか、そういう
議論をむしろ私は奨励すべきであるというふうに思います。
では、どの年代から、年齢から
国民投票の
権利、
有権者になるかということをもちろん考えなければなりません。しかし、どんな年齢であれ、まず、
憲法をめぐる
議論が今社会全体で行われている、大
人たちがしているということを知り、そして
自分で考える、そういう機会をできるだけ私はつくるような制度設計がいいのではないかと思います。もちろん、小学生やあるいは生まれたばかりの赤ん坊が
投票できるというふうには、そんなことは考えておりません。そうではなくて、そういう機会をできるだけつくるということを考えたいと思います。
二番目に、
国民投票運動から
外国人を排除しないということを訴えたいと思います。
日本国憲法は、先ほどもちょっと触れましたけれども、歴史的な産物であります。十五年間にわたった戦争の悲惨さを、私
たちのこの社会は、この国は近隣諸国に与えました。あるいは、ポツダム宣言が出されてから敗戦をするまでの、受諾するまでの三週間の間に、言うまでもなく広島、長崎があり、一方に当時の
ソ連軍の参戦がありました。この参戦によって現在の南北朝鮮の分断状況の始まりというものがつくられました。ですから、この
憲法は六十年近く前にできましたけれども、この
憲法誕生というものは、今も引きずる南北朝鮮の分断状況を結果としてもたらしています。
こういう歴史的経緯を見ますと、
日本国憲法を変えるかどうか、それのための
議論というのは、国内の私
たち日本国籍を持つ者だけが
権利として有するのではなくて、
日本国憲法が変わり
日本社会がどう変わっていくのかということに、近隣アジア諸国あるいは国際社会がこの
議論に参加できる道筋というものがあってしかるべきだというふうに私は思っています。うっかりすると、この
憲法の改正の方向によって私
たちは、近隣社会、近隣アジア諸国との、あるいはその市民
たちとの信頼関係を失うおそれもあると思います。国際社会の信頼を失うことも私
たちは考えなければならないと思います。
ですから、この
憲法改正の是非やその内容に関する
議論の過程が、
日本で暮らす在日の
外国人はもちろんですけれども、近隣諸国の
政府やあるいは市民、そういうものとより深い信頼関係、理解の道筋というものをつくる、そういう道筋であってほしい、この
憲法改正をめぐる
議論あるいは
国民投票をめぐる
議論というものはそういうものであってほしいというふうに私は願っています。
三番目に、言論とか批評とか表現
活動に対して制限を加えない、そういう制度設計が望ましいということを申し上げたいと思います。
言うまでもないことですが、こういう問題をめぐる
議論というのは、それ自体が精神の自由の
活動でありまして、精神の自由というのは、少なくとも近現代の社会においては普遍的な原理とされています。
批評
活動、言論
活動、表現
活動というものは、現在は、マスコミだけではなくて、
インターネットも含めさまざまな形で行われています。そして、この
憲法に限りませんけれども、極論であるとか奇妙な
意見であるとか、あるいは正しい
意見であるとかいったものは、そういう言論が活発に交わされる中で初めてだんだんに、正しさであるとか大事さというものが認識されてくる、いわば市場でさまざまにもまれることによってだんだんに、より正しいもの、より大事なものへと鍛えられていきます。
日本の社会が既にこの大量な
メディア活動によって、あるいは多種類の
メディア活動によって得ている言論を理解する力、
メディアリテラシーとかいったものを私
たちは軽視するべきではないと思います。
憲法改正をめぐって同じように活発な
議論が行われるということは、
投票率であるとか関心の高さにもつながっていくでしょうし、これを抑制するあるいは
規制する理由はないと私は考えます。
とはいえ、さまざまな虚偽やあるいは歪曲やうそや、そういったものがその言論の中にまじってくるだろう、だからさまざまな
規制をしなければならないではないかということをお考えになる方もいらっしゃるかと思います。しかし、虚偽であるとか歪曲であるとかゆがめてというふうなことをもし入れていきますと、例えば、批評
活動において、表現
活動において、要約であるとか、あるいは、Aという
意見はこのように言っているんだけれども、これは違うだろうというふうなときのそのAの
意見の理解の仕方が、ゆがめてとか歪曲とかというふうに言われかねない、あるいは時には虚偽とさえ言われかねない。こういう文言によって
規制をするということは、
議論それ自体を萎縮させていくでしょうし、
憲法に対する関心それ自体を失わせていくということ、そのデメリットの方が多いと私は思います。
ただ、
一つ、私は危惧することがあります。それは、暴力、脅迫をする、殺すぞとか家族を傷つけるぞとかいう脅迫にまつわる言論というものもこの中には入ってきます。これをどうするか。むしろ、
日本の戦後史を考えたときに、そのようにして萎縮させられていった言論というのは山のようにあります。実際に事件も起きています。こういうものをどう考えるかということは
一つの課題だろうと私は考えます。
四番目に移ります。
国民投票運動の期間を六カ月以上とすること。
憲法が大事な最高法規であることは言うまでもありません。この
憲法は非常に多岐にわたりますね。その改正についての是非をめぐっては、さまざまなことを私
たちは考えなければならない。国内だけの問題ではなく、国際関係、近隣諸国との関係も考えなければならない。とすれば、
議論は活発にされなければならないし、その
議論が交わされる中で淘汰される時間も持たなければならない。いかに
情報化社会といえ、
インターネットやマスコミの即時性、速報性というものが強まったとはいえ、私
たちは考える力までが速くなった、強まったわけではありませんし、考える時間までが短く短縮できるようになったわけではないと思います。
しかも、先ほど申し上げましたように、この
憲法について
議論をすること自体が
日本の社会を豊かにする、子供
たちも含めて
憲法をめぐって
議論をすることは、この社会の物の見方、感じ方、あるいは他者との関係を豊かにする、そういう空間であってほしい、そういう公共空間であってほしいと私は願っております。ですから、この運動期間は短くではなくて長くとるべきであるというふうに私は考えます。
五番目に移ります。
どのような
憲法の改正の案ができるのか、提案されるのかいまだよくわかっていません、わかっていないところが多々あります。このときに、A案、B案、C案、D案とさまざまにあって、それを一括で問うのは、これはまさに暴論です。これは、各条項ごとにきちんと個別に
投票できる、そういう仕組みを考えるべきだというふうに思います。
六番目に、
憲法改正の承認、これは九十六条にある言葉ですけれども、
憲法改正の承認は全
有権者の過半数の
賛成とするというふうに私は考えます。
憲法は言うまでもなく基本法です。
投票するかしないかにかかわらず、
人々の生活にかかわってきます。もちろん、生まれたばかりの赤ん坊に
投票せよと言うわけにはいきませんから、一定年齢以上ということになるでしょうけれども、この
投票年齢をどう決めるか。十八歳以上にするのか二十歳以上にするのか、これは
議論の余地があります。ありますけれども、
投票の確定ということを考えたときに、全
国民にかかわる以上は過半数にすべきだということが正しいだろうというふうに私は思います。それが、九十六条にある、
国民投票による過半数というふうに非常にあいまいに書かれていることの意味だと思います。変えるということがいかに重要な、重大な問題であるかということを文章がそういうふうに示しているというふうに私は思います。
ですから、
国民投票の過半数についても、少なくとも全
有権者の過半数にすべきではないか。これを暴論というふうにおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、仮に、例えば六〇%あるいは七〇%の
投票率で、そしてその過半数というふうに考えれば、全体の三〇%あるいは三五%にしかなりません。どなたかが、現在のこの
日本国憲法は、生まれは悪いが育ちはよかったというふうにおっしゃったということを聞いておりますけれども、三十数%の支持では、生まれは悪いし育ちも悪いというふうになりかねないと思います。私は、これは全
有権者の過半数にすべきだというふうにあえて申し上げたいと思います。
簡単に申し述べましたけれども、私の
意見、また皆様との
議論の中で補足したりしたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)