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参考人(
田中直毅君)
日本では
東アジア共同体がファッションだということは、
中国や
韓国の人もどうもそう認識しているようであります。
最近、私が、
韓国のある経済グループで
企業戦略を担当している人たちと議論したときに、彼が言ったことは非常に興味深い指摘であります。彼はこのように言いました。
ソウルにいて、
東アジア共同体ができるかどうかについてビジネスのサイドからデータを集めて研究してみた、自分の結論は、
東アジア共同体は時期尚早、とてもその姿は出てこないと思うと言うんです。それで最大の
理由は、
日本と
中国との間においてとても経済が自由に議論できるような仕組みにはなっていないと言うんです。それは、普通はそういうときに
政治あるいはメディアの側からいきますと小泉総理の靖国参拝だろうと、こういうふうになるんですけれども、ソウルから見ると、当然彼らの集めたデータベースはそういう話ではありません。
日本と
中国との間にとても相互浸透という形にはならない
二つのデータがあるって彼は言うんですね。
第一は、
日本と
中国がかみしもを着てというか非常に重武装で、何が何でも対等でなければならないという、言わば建前のところで一歩も出ていない。それは
日本と
中国との間の航空機の便数で分かると言うんですね。
韓国と
中国との間では、飛行機を飛ばすのは事実上自由に飛ばせる。
韓国の各地から
中国の各地に週百数十便出ているけれども、
中国の各地からソウルに入ってくるのは一週間に十数便だと言うんですね。十対一の差があるけれども、それは別に二国間協定において何ら問題ではないと。
で、現在、
韓国のビジネスマンは
中国の全土で三十万人ぐらい行っておりまして、
日本が大体五万人ぐらいですから数も違うんですが、ここに常駐で三十万ですね。そこに出張ベースで物すごく多くの人が
韓国から出掛けてまた
韓国に戻ってきますから、それは
中国がエアラインで飛ばしてみてもお客はとても乗ってくれないと。
韓国のエアラインが
中国に人を運ぶのは当たり前だろうという、ごくごくお互いのそろばんずくでできている話だと。ところが、日中間を見てみると、もうどうにもならないと。
一つ増やしたら片っ方をまた
一つ増やすという、相互主義と言えば聞こえはいいけれども、それは経済ベースでエアラインが何か採算が合うからとか、そういう仕組みで決まっているわけでないと。そのことをしかも是正するような力は全く日中間に働いてないと。
日本と
中国は建前でやっているだけだからどうにもならないねと。これはもう動かないと。日中は動かないというのが彼の第一のデータベースであります。
第二のデータベースは、
日本の五万人と言われるビジネスマンが一体どこにいるのかを調べてみると、沿海部を中心とした生活条件のいいところにほとんどであると。
中国の奥地、奥地といっても、重慶とか成都とかそういうところでさえ非常に少ないと。ところが、
韓国の場合は、彼の言い方をすると、まだ生活条件が厳しかった
時代の人が多いもんですから、ハングリー精神にあふれていて、
中国の内部にも
ネットワークを築いてきていると。
しかも、もう
一つ彼は言ったんですが、
韓国系
中国人というのは御存じのように三百万人ぐらいいるんですが、この人たちはもちろん
中国語もできますしハングルもできるもんですから、
韓国のビジネスが
中国全土で展開するときに、東北三省を中心にしておられる
韓国系
中国人の人を、非常に彼らはいいチャンスだということでどこにでも行ってくれるわけですね、もちろん所得が上がるから当たり前の話なんですが。ですから、もうコストは極めて安いと。ところが、
日本が行く場合はもう重武装でどうにもならないと。
日本語の研修から始まって、
中国語ができるビジネスの最前線の人は決して多くはないし、技術者となればましていないと。
言葉の上での補助が要るんだけれども、
韓国のビジネスと
日本のビジネスとでは機動力からして全く違うと。
これはどういうことかというと、
東アジア共同体で経済
ネットワークが十重二十重に日中間においてできるというのはもうこれっぽっちも思ってないというのが彼の分析であります。私はその分析は一体
韓国の中でどの
程度広がっているんだと聞きましたら、
韓国の主要ビジネスグループにはこの見解は全部伝えてある、彼らは皆、うん、そうだと、日中間は動かないと。
東アジア共同体構想というのはこれはもう話で、ペットスィームと言っていますけれども、これが好きな人がいて、こういう話題が好きな人がいて、このペットになっていると。実態は遠いと、こう言っております。
今日お話しすることは、実はその彼が言ったこととほぼ等しいことをまた別の面から言おうとしていることであります。
今日は六点
ポイントを挙げています。第一に、APECの枠組みが成立した背景というものが重要ではないかと思います。
日本が主導権を取ったらこれができたのかというと、御存じのように、できませんでした。元々は、小島清さんを始めとして、この
アジア地域に共同決済
システムがあったらいいなと、それは外貨の使用を節約することになるし、お互いにお互いを仲間とする関係があるからいいなという御主張を小島さんがされていまして、これはもう四十年以上前から小島清さんがやっておられまして、だんだん賛同者が増えました、学会のレベルでは。しかし、学会のレベルにとどまっていたわけであります。
日本が
アジアとの間で本格的な仕組みをつくるというふうに言ったのは恐らく、人によって評価違うと思いますが、私は多分、福田ドクトリンと言われた一九七〇年代後半のこの設定だろうと思います。
日本は
アジアとやるんだというのをドクトリンとして取りまとめられました。その後、大平総理が、じゃ、もう少し主導権を発揮しようかというふうに動かれたところ、隣国、それぞれ
アジアの諸国は腰が引けた。そんな
日本が主導する仕組みに乗ったってろくな話はない、各国内においてもとても賛同は得られないという、こういう姿でありました。
それではなぜAPECという枠組みができたのかといいますと、これはNA
FTAの結成とか、それからもう
ヨーロッパが、ソ連、東欧が大変疲弊しておりましたので、大欧州圏がどうやら成立しそうだというそういう予感が広がる中で、
アジアでも
共通の枠組み要るのではないかという議論が
ASEANの中でも出てくるようになりました。そのときに、オーストラリアもまたこの枠組みの中で、世界の枠組みの中でどうもどこにも入れないと。
拡大するEUにはもちろん入れませんし、NA
FTAという枠組みの外にもいますし、いや困ったなと。隣国との関係があるというので、やっぱり
ASEANとの間にもう少し関係を密接にしないと、
安全保障の問題もあるということで、オーストラリアもまた
一つの枠組みが欲しいということを明示するようになりまして、オーストラリアと
ASEANが根っこのところで
合意すればAPECという枠組みはできたということであります。これが、世界の流れの中でAPECがとにもかくにも生まれて動き出したということであります。これはしかし、
統合とかいうこととはちょっと距離を置いた、取りあえずの
共同体形成の前さばきという性格であったと思います。
この時期と相前後いたしまして、EAEG、
最初はイースト・エイシア・エコノミック・コーカスと呼んでいましたけれども、マハティール首相による
東アジア経済共同体構想があります。これが
それなりの仲間意識といいましょうか、ある種、結集核を用意できたのは、当時、
アメリカの貿易赤字が大変大きくて、
日本を始めとして
アジア諸国にやいのやいのと催促する。通貨を切り上げろ、これは
日本、
台湾、
韓国だったわけですが。
あと、貿易摩擦という形で、おまえのところの対米黒字は余りにも大き過ぎる、何か買うものあるだろうという随分乱暴な議論が
アメリカから出てくるようになりまして、これに対して何か
東アジアでもグループを結成しないと具合悪いと考えている人たちがいました。また、そういう交渉者の中には自分たちの対米不信感、それからある種嫌米意識というんでしょうか、
アメリカが嫌だなという気持ちをこのEAEGの結成で何とか、それに取って代わるものをつくろうと、こういう議論でありました。
結構盛り上がっていた人もいたわけですが、最大の問題点は
安全保障でございます。マハティールに会う機会が九〇年代に入ってすぐでありますがあったものですから、彼に、あなたの言うEAEG
構想は
安全保障のことをどう考えているんだと。当時、既に北朝鮮の核兵器開発疑惑というのが本格的なものになっていましたから、マハティールさんに、あなたは北朝鮮の核兵器の問題一体考えたことがありますかと言ったら、彼はううんと言いまして、いや、正直考えていないなと、EAEGの中に北朝鮮の核開発の話、入っていないと、正直言うんですね。そう言うものですから、いや、だから
日本が乗れないんですよと。北朝鮮の核兵器を封じ込めるに当たって
日本は何のカードもない、何のてこもない、
アメリカに依存する以外ないと。EAEGつくってみたって北朝鮮の核兵器
一つ封じ込められないようでは何の
意味もないと。これがもう
日本の代表的な見解であると言ったんですね。
そうしたら、マハティールさんは何と言ったかというと、
日本人で、大使、外務省、
日本の外務省も含めてそのことを言ったのはだれもいないぞ、おまえが来て初めてだと。北朝鮮の核兵器を封じ込めるのにEAEGは何の役にも立たないし、
アメリカに依存しなければいけないからこんな枠組みなんか何の足しにもならない、
アメリカが猜疑心を持ったんじゃ
日本の
安全保障だれが保障してくれるんだと。あなた自身、北朝鮮の核については関心ないと言っているわけですから、マハティールはもう余り考えていないんだと言うんですから、それはしょせん無理だと言ったら、彼は分かったと言ったんですね、おまえの言いたいこと分かったって。それ以降、これは私のひが目かもしれませんが、彼はEAEG言わなくなったんです。これはもう売れない
構想だと思ったんだと思うんですが、これはとても
日本に売れない話だからもう言うのやめだというふうになったんじゃないかと思うんですが。
ただ、そんなことはどうでもいいんですが、一番重要なのは、マハティールにそう言った
日本の代表者がいないということなんですね。おれは聞いたことないと言うんですから、マハティールは自分で。ですから、これはやっぱり相当、
日本の、
東南アジアとの関係はいいと言っているんですけれども、だれがどういうレベルで率直な話合いをしているのかというのは相当問題があるということだと思います。
しかし、このEAEC
構想は何らの成果も上げなかったわけではなくて、
ASEANが
ASEANプラス3という形で日中韓を入れて一応その時々のテーマが議論できる場を用意しましたので、何の成果も生まなかったというわけではありませんが、しかしそれが現実ではないかと思います。
一九九七年に
アジア通貨危機が起きたんですが、これはその後の世界と
日本にとって大きな
意味を持ちました。
まず第一にIMFなんですが、IMFは処方せんを完全に書き間違えました。これは
アジアの諸国が短期的な国際資金への依存という流動性問題で問題を抱えたものを、サステイナビリティー、持続的成長の問題と混同したわけであります。言うならば、銀行、流動性の問題ですから、ファイナンスが続くかどうかという手元資金繰りの話と、それから持続的に成長
可能性があるかどうかというのは分けて考えるべきテーマであります。ところが、IMFはあたかも持続的な成長に問題があるという
前提で緊縮
政策を次々に打ち出させました。このことによって、IMFは、要するにマクロ屋さんがマクロのデータ並べて処方せんを書くと、メキシコやアルゼンチンにやった処方せんをそのまま
東アジアに適用しただけで、結果として
東アジアの診断は誤ったと。
東アジアの診断は言わば銀行問題であって、銀行間決済の流動性供与にかかわる問題を体質、成長にかかわる体質問題としてとらえたと。誤り、もうやぶだということになりまして、それ以後IMFという組織は、専務理事がだれになるかというのに時々新聞載ることはありますが、あれはマクロのデータを集めていて、我々がインターネットでIMF引きますと、メキシコの話もアルゼンチンの話もデータベースが手に入ると。しかし、その
程度の役割やっているにしちゃ金が掛かり過ぎているなという組織になりました。これはもう決定打であります。
それから、
日本にとっての
意味ですが、
アジア通貨危機が起きたときに
日本政府は全く相談にあずかっていませんでしたけれども、相談にあずかっていた民間人というのが私が知る限りで二人います。バンコクに駐在していた、当時は今よりも銀行の数が随分多かったわけですけれども、御存じのように、ある非常にタイのビジネスあるいは政権の人々と仲の良かった人がいまして、その人がタイ中央銀行の総裁からバーツを切り下げざるを得ないところまで来ていると。しかし
日本が、もしその銀行がシンジケートローンを組んでくれて一時のしのぎをやってくれればバーツは切り下げなくても済むと。何とかシンジケーションやってくれないかと彼は相談を受けているわけです。
で、九七年のこれが五月から六月にかけてですから、一番
最初に話があったのは五月だそうで、なぜそれは彼が言ったことを覚えているかというと、五月の株主総会の前に、彼はまあ役員だったんですが、株主総会の前のそんなややっこしいときに、そんなもうシンジケーションやれと言ったって無理だぜ、ちょっと待ってくれ、とてもそれに対応できないと言ったので、株主総会前、五月にもうその話を聞いているわけですね。
ところが、
日本政府は、七月一日にバーツの切下げが生じたことは新聞とかテレビで知ったわけでありまして、
日本政府にそのデータはなかったわけです。要するに、タイ中央銀行、タイ大蔵省は、
日本政府のだれにも相談していない。しかし、
日本の民間人にはその二か月前から相談しているというのが実際であります。
これで泡を食った
日本政府はどうしたかというと、ダメージコントロールに入ります。これはえらいことだと。これだけODAを使い、バンコクは、もう御存じのように大使館というのは大館でございまして、何人いるんですかね、百人以上いるんじゃないかと思うんですけれども。何も取れていないという様ですから、これはえらいことだと。とりわけODAの供与に大きな役割を果たした大蔵省にしてみますと、もう赤っ恥をかかされたということですので、ダメージコントロールで、突如、エーシアン・マネタリー・ファンドというとにかく格好付けをやった。格好付けですから、そんな話はもちろん
アジアの人はだれも聞いていませんし、
アメリカも聞いていない、北京も聞いていない、だれも聞いていないという話で、何だ何だと。何だ何だというので、大体そういう話は、ダメージコントロールですから、だれも本気でやる気もないし、ただ言ってみたと。大失点を、その横っちょに架空玉を飛ばしましてダメージコントロールしたというのが現実です。
その後チェンマイ・イニシアチブはできたではないかという議論がありますが、これは、まあないよりはあった方がいいんですが、その後の各国の経済のガバナンスが回復したのは、チェンマイ・イニシアチブ、イニシアチブでできたわけではなくて、各国がそれぞれにガバナンスを改善させた、マネジメントの改善策を積み重ねてきたということで、チェンマイ・イニシアチブがどの
程度いざというときに使えるのか、あるいはそんなもの使うような状況に行くことがいいのかどうかということからいくと、床の間の天井というやつで、掛け軸はいろいろ褒めても天井に目をやる人はいないという
程度のものではないかというのが私のチェンマイ・イニシアチブに関する評価でございます。
東アジア共同体を考えるときに
中国は極めて重要でありますが、
中国、
日本では江沢民の評判が非常に悪くて朱鎔基さんの評判が高いというのが常ですが、WTO加盟とその後の
中国経済に対するうねりを引き起こしたのは江沢民であって朱鎔基ではなかったということだけは記憶しておいた方がいいと思います。
一九九九年に朱鎔基が
アメリカに行きます。WTO加盟に当たって
中国の立場を理解してくれるのではないかと。要するに、簡単にはすぐ、
日本のガット交渉と同じで、
経済発展の途上において、いろいろ
日本には特殊な条件が、状況があるのでお目こぼしをお願いしますということをやりながら条件をつくっていったんですが、
中国も途上国で、大きいけれども途上国ですから、WTOは加盟したい、しかしいろんな案件について条件を、ハードルを低くしてほしいということで朱鎔基さんは
アメリカに行きます。
若干のインフォーマルな前さばきはあったようでありますが、何の確信も持たずに朱鎔基さんは出掛けますが、結局何も取れなくて、九九年の五月、北京に戻ります。これで朱鎔基さんは事実上失脚ですね。何だと、西側に評判がいいというから譲歩案でも引き出してくるかと思ったら何にもできないのかという話で、朱鎔基を孤立化させたら
中国の保守派が強くなるから朱鎔基を手ぶらで帰しちゃいけないという
意見もあるみたいな話が出ていたけれども、全然実現できないじゃないかというので、彼は事実上力をなくします。
そのときに、江沢民が朱鎔基をかばっただけではなくて、朱鎔基はできなかったけれどもおれはやると。おれはやるというのは、国内に対してやる、とにかくWTO加盟の枠組みをつくるんだと。
農業と金融という
二つの
中国にとって本当に難しいテーマがあるんですが、この
二つをのみ込んでもWTO加盟を決めました。それが九九年の暮れなんですが、これはちょうど
中国の建国五十周年の年と重なりまして、彼は、江沢民は相当、そういう
意味で五十一年目以降の、
あと五十年の
中国にとってWTOという枠組みは極めて重要と理解した上で、国内の難しい話は全部おれが調整するとのみ込んだ。これは何といっても大きかったと思います。
それ以来、
中国向け直接
投資は御存じのように急
拡大をいたしまして、このことが
ASEANのひが目といいましょうか、これはもう参ったと、もう勝負あったというふうになりまして、西暦二〇〇〇年、二〇〇一年になりますと、リー・クアンユーから始まって
東南アジアの指導者たちは、いやもう
中国には、
中国の所得が高くなるからパイナップルやバナナを買ってもらうかと、熱帯産品を
中国に売るんだなと、おれたちのところの製造業は勝てないんじゃないかというぐらいもう落ち込みます。
そこで、
中国は、
ASEANを落とし込んじゃ駄目だというんで、WTOの枠組み決めた後に、
FTAというのを対
ASEAN提唱しまして、しかも前倒しで、農産品については前倒しで受け入れますと。パイナップルもバナナも、その他熱帯産品、亜熱帯産品何でも入れると。
関税ゼロですぐ持ってきなさいという枠組みをやります。これは
ASEANの焦燥感を救うに非常に力があったと思います。
中国に行きまして、何でそんなことできるんだと。
日本じゃ、もうミカンを保護するためにも季節を付けて、亜熱帯産品の果実だっていつでも入れるわけじゃなくて、
日本のミカンを保護するためには季節で
関税変えるくらい気を遣ってやっているよと。これは
日本の
政治の現状だと。何で
中国は、一党独裁だからそういう、農村封じ込められるからこんなことできるのかと聞きましたら、いや、そんなもんじゃないと。しょせん
中国の農村は、もはや農産品だけじゃ
農業はもたないと。工業製品でいかざるを得ないし、自分のところに工場を引っ張ってこれなければ、人を移動させて移転所得で農村所得を補強する以外にないと、もう
中国は決まっているんだと。そんな少しばかり果実、果物ができるからといって果物を入れないようにするみたいな話はもう一切取らないという、そこまで言うならば対象化したといいますか、逆に言えば出稼ぎはどんどん出ていってくれと、どんどん仕送りしてくれと、
中国の中でですけれども。そういう割り切りの中でこの話はできています。
日本の
政治の仕組みではとてもそこまで割り切ってサクランボやミカンはできなかったと思いますけれども、
中国ではそういう割り切りでやっておりました。
韓国は、先ほども言いましたように大変興味深い動向でありまして、
中国が輸出市場として既にナンバーワンになったのみならず、物すごい勢いでこのナンバーワンの地位が上がっていますね、
韓国にとって。
日本と
韓国となりますと、やっぱり
FTA結ぶというと、
韓国の中小製造業がやられちゃうという気持ちが非常に強くて嫌だなと。
日本との
FTAはどうも賛成できないなということだもんですから、
日本がノリの輸入に数量割当てを、数量制限をしているとか、
日韓で議論をするときに何でノリになるのかなといって
韓国の人に言いますと、
日本というのはノリだって簡単にいかない国だから、ソウルからノリのことでも言っていれば話は止められると、金額が幾らなんか、そんなこと分かっていますよ、我々だってと。だけれども、ノリを言っていれば取りあえず止められるという。
日本は民主主義ですから、それは別にノリの養殖をされている人が少数だとか、その出荷額が小さいとかということが取りあえず問題ではなくて、それだって数量制限、輸入数量制限の対象にしている。そうすると、それをやっていると取りあえずうまくいかないわけですね。
それで、今、
日韓FTAの前に
アメリカとの
FTAをやろうというのが今ソウルの動きでして、このことは今に始まった話ではありません。金泳三政権のときに、やっぱり米韓
FTAというのをやったんですね、交渉を。で、最後の最後のところでやっぱり難しかったのは
韓国の農産品です。当時、ピーマンだって何だって、もう消費し切れないくらいできちゃって値が下がっちゃって、青瓦台の周りにトラックでピーマンを山積みにしまして
農業者がデモンストレーションやっていたことを見たことがありますけれども、ともかく農産品があるものですから、結局米韓
FTA交渉はうまくいきませんでした。
これも金泳三政権のときですが、私はソウルへ行って、そのときの大統領補佐官親しかったものですから、いや、もう
FTAやめたんだと言うので、え、何の
FTAだと言うと、いや、米韓だと。米韓
FTAって、そんな交渉してたのと。いや、してたよと。最後はしかし
農業でのめなかったと言うからもう驚いちゃいまして、それで
日本に帰ってきて、当時の外務省の官房長に米韓
FTAの話知ってますと言ったら、知らないよ、そんな電報なんか読んだことないと。でも、もう一遍読んでみると言って彼は読んで、ないよと。米韓
FTAの交渉しているなんというのはソウルから一本もないと言っていましたので、
田中さん、何でそんなことを知っているんだと言うから、いや、補佐官から聞いたよ、大統領補佐官からと、間違いないと言ったら、どうもまずいなと、民間人が知っていて外務省が知らないのはまずいなと言っていましたけれども。今、いずれにしろ、米韓、今米韓
FTAの方がやっぱり先やるという雰囲気ですね。
ですから、
東アジア共同体というのは、これ今日申し上げているのは、特に
中国、
韓国、
日本との関係ですが、これもやっぱりそう簡単な話ではありません。最終的には、これはやっぱり民主主義のテーマにかかわるわけですし、もちろん我々はこの
アジアにおいて不戦の誓いを立てております。不戦の誓いは間違いなく我々にとって揺るぐことのない原則でありますけれども、
共同体がつくれるのかどうかという話は、これまたちょっと別の話でありまして、大変つらいことなんですが、我々の不戦の決意と
共同体結成とは重ならないというふうに理解すべきではないかと思っています。