○
参考人(後
千代君) それでは御
報告させていただきます。
今ちょっと風邪を引いておりまして、声が出にくい状態でございます。お聞き苦しい点がございますが、御容赦くださいませ。
今、
片山さんの方から、諸
外国、
アメリカ、
イギリス、
ドイツ、
フランスという形で横断的な構造というか、そういうお話がございましたので、私の方は、歴史的に
アメリカの今
GAOとおっしゃっておりました
会計検査院がどのような経過で現在に至ったかという点を柱にお話しさせていただきたいというふうに思います。
お手元のレジュメの方でございますが、①というふうに書かれてございます資料をごらんいただきながら、まずは
アメリカの
GAO、
会計検査院の、どういう過程で発展してきたかという点と、それから、
我が国の現在の
会計検査院、昭和二十二年に
改正されたわけですが、
GAOとそれから
我が国の
会計検査院の
関係についても若干触れたいというふうに思います。
その「
アメリカ連邦
政府会計検査の発展過程(概略)」という資料でございますが、現在の
GAOの
検査制度の原形として連邦レベルの
会計検査制度が整いましたのは、そこに書いてございますように、財務法によって
財務省内に国庫
検査局が設置された一七八九年でございました。一八九四年にこれに若干変更が加えられ、その制度が一九二一年の
予算会計法となりまして、ほぼそのままこれが
GAOに引き継がれました。
会計検査制度自体は、職員も含めて、
財務省の方からコントローラーとオーディターの職務を引き継いだものとなりました。コントローラーというのが
検査院長でございまして、オーディターが
検査官というふうにお考えください。したがいまして、一九二一年以前には
財務省内部にあった状態から、
GAOの創設後は行政から
独立した組織になったわけでございます。
後で申し上げますけれども、統制
機能、つまり本来は行政が持つ権限と
独立的
検査機関が持つ
機能とが混在した状態で出発したという問題を
GAOははらんでおりました。
では、どうしてこのような状態でスタートしたのかということですが、この一九二一年の
予算会計法の
成立は、
アメリカで直接税を初めて導入するに当たりまして、国民の反発を背景にして、通常タフト
委員会というふうに呼んでおりますけれども、節約と能率に関する大統領
委員会によって出された
報告書に端を発していると言われております。
その
報告書の内容自体でございますが、これは統一的な
予算制度の確立の必要性を主張したものでありました。この
予算会計法の
審議過程を含めまして、当時の議論の
中心になっていたのは
予算の制度でございました。
検査の制度ではありませんでした。そして、大統領の権限の下で
予算策定を行うために
予算局が設置されまして、それに対抗する形で
独立的な立場から
予算執行を監視するためということで
GAOが創設されたわけでございます。
しかしながら、その
審議の過程で
検査制度自体が十分な
審議対象とはならなかったために、またこの制度自体が、
イギリスの制度を
参考にしたものなわけですけれども、十分な改良がなされなかったこととも重なりまして、結局、十八世紀、最初に書いてございます一七八九年の
財務省の制度をそのまま
GAOが
財務省から引き継ぐということになってしまったという経緯がございます。
〔
委員長退席、理事
田浦直君着席〕
この時期の
GAOの
検査目的というものは、一九二一年の
予算会計法上では、
政府の支出の
合規性、
正確性の確保だけではなくて、過剰支出などに対する
検査も含まれていました。また、
経済性、
効率性という文言を
予算会計法上でもうたいながら、その業務の
中心となりましたのは、いわゆるバウチャーオーディットといいまして一々証憑
検査をするというものでした。ですから、
政府支出の個別
検査による
合規性の確保といった内容となっております。しかも、その書類は、各行政
機関からワシントンDCの方まで送らなければいけないというような状態でございました。
ただ、そのチェック自体が事後的な
検査であれば問題はなかったわけでございますが、問題は、先ほど申し上げましたように、支出を確定する権限を
GAOが持っていたということになります。すなわち、証憑を送付して、
GAOがその支出を承認しない場合があるということです。ですから、初代の
検査院長は事前に行う
検査を行政に推奨いたしました。
資料①の一九二三年のところをごらんいただきますと、ハーディング大統領が
議会に組織
改革計画を
提出、
GAOの職務を
財務省に戻すべきことを
要請した。あるいは、一九三二年にフーバー大統領が
GAOの行政にかかわる職務を
予算局の方へ移すことを
勧告。それから、三七年には、ルーズベルト大統領が、行政
管理委員会、ブラウンロー
委員会と通常申しますが、そこが
GAOの行政職務が
財務省に移行されるべきことと
GAOの
活動を
事後検査だけに制限すべきことを
勧告いたしました。このように歴代大統領が
議会や
GAOに働き掛けておりますが、ことごとく失敗しています。
この事前
検査ですけれども、一九三六年、
GAOが二一年に始まりまして最初の
検査院長が約十五年の任期を終えまして退任するところまで続きました。
三〇年代にはニューディール
政策などで
政府支出が膨大に膨れました。その業務をこなす人手もそもそもなかったわけですが、証憑
検査、バウチャーチェックは一方で職員のモチベーションを非常に下げたという側面もございます。さらに、ニューディール
政策の支出を禁じて、
GAOが禁じまして、司法と
財務省とを巻き込む事件にも発展いたしました。
この財務
長官と
検査院長の両方の承認が支出に当たって必要だという状態が正式に無効になったのが一九五〇年ということになります。
一九四〇年に次の
検査院長に替わって、そこから
改革がスタートし始めるわけですが、ちょうど第二次大戦で陸軍、海軍の
検査が始まるわけです。一九二一年に、
GAOの創設当初は千七百名
程度のスタッフであったものが四六年までには一万五千人までに膨らみまして、事実上そのバウチャーチェックというものが破綻を来したということになります。
戦後になり、それまでのニューディール
政策と戦時中に増大してしまった、そこに、四五年に公社というふうに、公社統制法というふうに書いております。ここではそのまま公社というふうに呼びますが、
政府が出資した会社というふうにお考えください。この公社への
検査が
GAOにとって転機となります。
GAOの
検査権限は、法的には、公社が証憑書類の
提出を拒否した場合にはそれに対処し得る十分な権限が与えられておりませんでした。また、民間企業に準じて運営されている公社を
検査する能力のある職員も
GAOにいなかったために、公認
会計士等を採用して補ったわけでございます。
この
GAOが転換する最大の、公社統制法が
GAOの転換に寄与した点でございますが、民間企業取引に適用可能な原則と、その
手続に従って公認
会計士が行う監査を現地に行って、ワシントンDCに集めてではなくて現地に行って行うという点と、それから、
GAOが従来、連邦
政府機関に対して持っていた支払拒否権、先ほど申しました統制権限と
検査権限の混在という点でございます。その支払拒否権が公社に対しては持てなかったという点です。このことは、それまで
GAOが連邦
政府機関に対して持っていた統制権限を放棄せざるを得ない状況をつくったということです。これを民間企業型
検査、コマーシャルタイプオーディットと呼びます。
公的な
機関に対してもこれを適用しようといたしまして、それが資料①の一九四八年の合衆国海事
委員会に対する
検査でした。この
委員会は公社ではありません。行政
機関内の
独立機関でありまして、連邦
政府から多額の補助金を得ていた船舶建造事業を監督するという
機関でございました。この過程でようやく財務
管理と内部統制の重要性に目を向けるということになりました。
〔理事
田浦直君退席、
委員長着席〕
これまでの個別のチェックから、
我が国で言う実地
検査を行いまして、
妥当性や
効率性も含めた
検査へとシフトしていくわけです。それを、文言としては、その一九四九年のところに包括
検査というふうに書いてございます。包括的
検査というふうに呼びました。
こうして、一九四〇年に就任した
検査院長が
改革に具体的に動き始められたのが戦後ということになります。こういった形で
GAOの体制が、一時は一万五、六千人までのスタッフを抱えておりましたが、ようやく一九四七年辺りに四千人ぐらいに落ち着いたということになります。
今ここで申し上げた経過で、第二次世界大戦後、
我が国に対してGHQが
関与した当時の
GAOの状況というものをごらんいただきますと、一九五〇年にようやく
アメリカの
会計検査院のこれまでの様々な、一番重要な問題は、統制と
検査権限が混在していたという状況が解消したのが一九五〇年でございます。
ですから、
我が国で、明治
憲法の下での
検査院制度を民主的に
改正すべく、GHQから
大蔵省の渉外部を通じて
会計検査院にコンタクトが始まったのが二十一年の夏ごろだということですから、二十二年の四月十九日に
会計検査院法が公布になりましたから、戦後一年たって始まって、わずか半年余りで現在の
我が国の
会計検査院法の作成に至ったということになります。
なぜここでこういうことを申し上げるかと申しますと、今申し上げました
アメリカの
GAOの持っていたいろいろな問題というものがこの過程で入ってきたということでございます。GHQの経済科学局財政課の担当官は
会計検査の
専門家ではございませんでした。その際、
アメリカ側の今申し上げました
問題点は、
我が国にそのまま採用することが困難だというふうに、
会計検査院の立場から当然そのような結論になるわけでございます。
会計検査の一つの方式として、国の収入支出の確定をすること、収入支出の確定をするというのは収支の
決算をつくるということでありますから、それが国の債権債務の決定をする結果にもなるというふうに当時の
会計検査院側はとらまえたわけです、当然ですけれども。この
アメリカの提案に対して、
会計検査院では、収支の確定をせよというのは、つまり収支の
決算をつくれということについての問題であり、
大蔵省もそれに対して難色を示しました。それを
検査院に対して提案すれば、
検査院としては権限の拡張になることですから承知するというふうに考えたわけですけれども、
会計検査院でもそれについては当然ながら承認できなかった。
会計検査院が収支の
決算をつくるということになりますれば、これは
会計検査院が行政
執行上の権限と義務を持つことになる。例えば、支出官の支出がそれは言わば仮払いであって、
会計検査院がその支出を否認すれば支出として
決算されないし、国の支払債務もなかったことに決定することになるということでございます。債務の
決算は民法で規定されておりますし、契約などの
法律行為で決定されます。また、支払のときから数か月も後になってそれが否認されるということになりますと、過去の
法律上の
関係を覆すことになり、取引の安全を害することも大きいことになりますから、
検査院としてもそれについては
大蔵省や法制局と協調を図って
日本政府側の
意見をまとめる必要があるという結論に達したわけでございます。
一方で、旧
憲法には
会計検査院が行政側の作成した
決算を
検査、確定するという文言がございました。新
憲法には確定という文字が、文言が落とされておりました。これがどうして落とされたかという原因については、当時の
会計検査院側では明らかではなく、それはそれとして、
憲法の規定にないものであれば
会計検査院としてはこれに相当する作用をしなければならないということで、
会計検査院法に入れることといたしました。
改正素案においては
決算を確認するという文言を使用するというふうになっておりまして、今も
決算の確認という文言になっております。
ここで分かることは、
アメリカ側の
憲法の草案にかかわる担当者は、
検査確定のその確定という文言を、自国で、自分の国で長年問題になってきたセツルメント、その確定と同じものと扱って
憲法の条文から排除したわけでございますが、
会計検査院の担当者の方はそれを十分に認識していなかったという状況がございます。
それから、もう一つその当時の例を挙げますと、従来、
会計検査院側が余り深く考えていなかった点でございますが、明治
憲法下での
会計検査院では、委託
検査、これは
会計検査院の行うべき
検査の一部を行政各庁に委託して行わせることでございますが、それを廃止しなさいという指示があった。これは受検者の立場にある者が
検査院に代わって
検査するというのは不合理であるとの立場に立った議論ではございますが、これに対して、
日本側は、一見不合理のようであるけれども、その委託
検査というのは
我が国の従来の制度においてはこれがよく運用されて弊害はなかったと。そして、
検査院はいつでも委託を解除して自ら
検査することができる。この委託
検査が安心できないと思えば、その分についてだけでも直接
検査をすればよかったわけですから、
アメリカ側に対して
異議を申し立てたわけですけれども、GHQは強硬にそれに対しては反対をしたという、こういったような様々な食い違いがありました。
今申し上げた趣旨は、そのような問題を抱えて一九五〇年にようやく
アメリカは、そういう
日本に大なり小なりの遺産とか影響を残して一九五〇年以降大きくかじを切るわけです、
改革に向けて。
その発展過程の表の四角、一九五〇年の
予算会計手続法の統制と
検査を峻別ようやくできまして、行政部の中の内部監査と立法部としての
GAOの
関係をきちんとしたと。
その下にホリフィールド
委員会というふうに書いてございますが、これは
会計検査院、
GAOが軍需契約に対して非常に
検査を厳しく行ったものですから
議会の方でかなり追及されまして、軍需契約の
検査から事実上手を引いた形になるわけでございます。その人員削減が行われたわけですけれども、その際に、その個別の
検査から
プログラム評価の側に大きくシフトする人員ができたわけです、余地ができたわけでございます。
それから、外的な要因といたしましては、一九六七年のところに書いてございますように、経済機会法修正案の作成によって貧困対策事業のプログラムに対する評価を
GAOが実施することになりました。また、
議会は
立法府再編法によって
GAOの
プログラム評価活動を支持いたしました。また、七四年には
GAOによる
プログラム評価が拡大いたしました。
このように、軍需契約の個別
検査から手を引いたということは、一方では後退というふうに見れるわけですが、他方ではそういった大きく網を掛けるといったような
プログラム評価へシフトする契機となったわけでございます。
一九七八年にインスペクタージェネラル法によって内部監査
機関の設置、
GAOの事実上の出先
機関に対する行政
機関の反発を招くというふうに書いてございますが、一九五〇年に内部監査の重要性について文言上明文化したわけでございますけれども、全体の流れとして
プログラム評価に大きくシフトをしたためにそこの
部分がおざなりになったままになってしまったという側面がございます。それは、八二年の財務
改革の、それから一九八三年の内部統制基準、それから一九九〇年のチーフ財務官法等によりまして、これは
会計システムをきちんとする、内部監査を含む内部統制をきちんとしなければならないという課題を、一九五〇年の
改正の際に積み残した宿題が一九九〇年までずっと付いて回ってきた。
プログラム評価ということで、かなり
GAOが先ほども申し上げましたとおりに発展したわけでございますが、その一方で財務的な問題が積み残されてきたという経緯になっております。
今大ざっぱに一九九〇年までの
GAOの発展過程について申し上げました、御
報告いたしましたけれども、資料の②に
GAOの組織図がございます。これは、そのままで恐縮ですが、真ん中の丸い円、真ん中の円がございます。これは、左側にゴール1、右に回ってゴール2、下にゴール3というふうにございます。それから、右側の丸にゴール4ということがございますが、
GAOは、現在四つの目標、戦略目標に従って組織内をチーム
編成しております。
真ん中の丸に十三のチームがございますが、ゴール1は、
議会と連邦
政府が
アメリカ国民の福祉や財政的な保障にとって重要かつ緊急な課題にきちんと対処するように適時高品質のサービスを提供するという戦略目標です。ゴール2は、国防、外交に対して
議会と
政府が対応できるように適時高品質のサービスを提供する。ゴール3は、二十一世紀に見合う
政府、連邦
政府の
役割の転換や仕事の
在り方を補佐する。で、ゴール4が、連邦
政府機関のモデルとなるように率先垂範して、世界の
検査機関のモデルにもなるように
GAOの価値を高めるという、この四つの戦略目標に従ってチーム
編成をしているということを示す組織図でございます。
資料③でございますが、
GAOの業績結果及び業績目標ということで、一番上がファイナンシャルベネフィッツでございます、ドル換算できるもの。二〇〇三年の実績値といたしましては三百五十四億ドル。それから、アザーベネフィッツにつきましては、これは財務的にドル換算できないものをカウントした数値でございます。それから、三番目のニューリコメンデーションメード、これは二〇〇三年の実績値で二千百七十五というのは新しい
勧告、
GAOがこの
年度に行いました新しい
勧告でございます。それから、次にございますのが、二〇〇三年の実績値で八二%というふうになっておりますのは、過去の
GAOの指摘によって実際に改良されたパーセンテージが載っております。それから、その次の二〇〇三
年度の実績の五五%でございますが、これは各種のリコメンデーション、
勧告の中に何度も出てきているものを除くわけです。その比率が五五%。それから、その下、テスティモニーズが先ほど出ておりましたように証言数でございます。タイムリーネスは適時性、
議会に対して
情報提供する場合に締切りを守っているかということでございます。その下のニューハイヤーレートからその下が二〇〇五
年度から始まる新しい
GAOの業績を評価するための指標でございます。二〇〇二年、二〇〇三年に数字が載っているのは、これは拾える限り拾って算出した数字というふうに御認識ください。
時間が参りましたので、以上で私の
報告を終わらせていただきます。