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参考人(
毛里和子君) 御紹介いただきました
毛里和子でございます。よろしくお願いいたします。
私、
早稲田大学政治経済学部に所属いたします。
現代中国の政治と外交、そして
東アジアにおける
国際関係というものを専攻しております。
現在、
文部科学省で
拠点形成のために二十一
世紀COEプログラムというのが行われていますが、
早稲田大学で
現代アジア学の創生という
COEプログラムを立ち上げました。それの私は
拠点リーダーを務めております。現在、
東アジアの
国際関係が非常に動いておりますし、また
東アジア共同体をめぐる様々な議論が行われております。そういうことを我々は学問的に少し整理して新しいスキームあるいは
コンセプト、パラダイムといったようなものを作り上げようという努力をしております。
今日は、皆様の前でこのようなお話をする機会を得ましたことを、私自身、
大変誇りに思います。三十分ほど、私の具体的なタイトルといたしましては
最新中国事情と
日中関係ということでお話をいたします。
パワーポイントそのものに私はまだ習熟しておりませんので、あるいはちょっと混乱するかもしれませんけれども、お許しを願いたいと思います。(
資料映写)
それで、まず
中国事情というところで、ここは
国会でございますので、
中国における
国会について、ちょっとお国柄の違いということでごく簡単なことをお話しいたします。
まず、
中国の
国会は
全国人民代表大会というふうに申します。それの代表というのが、
衆議院議員及び
参議院議員、
日本においてはですね、その両方を意味します。
中国は一院制です。三千人ほどの議員が四段階の
間接選挙によって選ばれてまいります。任期は五年です。一回五年で選ばれますと、
国会は解散されることがありませんし、また、何というんでしょうか、ほぼ身分は安定ということになります。
中国政治で基本的な特徴というのは、皆様よく御承知のとおり、
中国共産党という政党、
巨大政党が権力をほぼ排他的に独占していると、その状況が五十年続いているということであります。
これは一九六〇年代と、それから右の方は今期ですね、
つまり二〇〇三年から第十期
国会が開かれておりますけれども、それの代表、
つまり議員の
党派別構成というのを御紹介いたします。六〇年代、文化大革命の前でありますけれども、
中国共産党員がほぼ五五%になっております。千六百六十七人。それに対して、最近、十期で選ばれてきました議員の四人に三人は
中国共産党の党員であります。
憲法においては、
憲法改正という一番大事な事項が三分の二事項になっておりますが、強調しておきたいことは、
中国政治においては
中国共産党が一貫して議員の三分の二を確保しております。それで、今や四分の三を確保しておりますので、
国会という面では極めて安定的と、あるいは停滞的というか、そういう状態であります。
ごく簡単に、
日本と違いまして、
日本は
国会議員というのがお仕事になっておりますですよね。専任のお仕事になりますが、
中国においては専任の仕事ではありません。
つまり、アマチュアでありまして、彼らは一年のうち二、三週間ほどの
国会開会期間中に、
臨時国会も開かれませんから、
国会開会期間中にその大会に出ると、
国会に出る。この職業の割合が最近、ごく最近ですね、初めてある資料で公開されました。これを私はずっと欲しかったんですが、初めてであります。
これを見ますと、注目すべきなのは、この左から二番目の
指導幹部というのがほとんど、四割ですね。それから、左から五番目の教授・
研究者というのが三百四十八人。この両方を合わせますと、ほぼ半分になります。他方、
労働者、農民という普通の人々は選ばれてくるのが五十六人、三十人と、こう極めて少数であります。
最近の
中国における
国会の顕著な特徴というのは、非常にエリート集団化しているということですね。高学歴でありまして、
国会議員の九八%は
大学卒で、かつ、そのうちの一部は
大学院卒、MBAを含む
大学院卒の非常に有能なテクノクラートが
国会議員になっているということです。
しかし、
中国の
重要事項というのは最終的には
国会で決まるというわけではありますけれども、実質的には
中国共産党がほぼ決定を握っております。ある意味では、形式、制度にすぎないというふうに言えるかもしれません。
次に、
中国に入りますが、
日中関係を考える前に、一九八〇年代以降の
中国の経済の非常に目覚ましい成長というんでしょうか、もちろん様々な問題を含んでおりますが、これを示す一例としてこの表を作成いたしました。ピンク色が
対外貿易総額の
成長率、それから緑色が
GDPの
成長率、
実質GDPです。それから、この青いブロックになっておりますのが、これが直接投資の
導入額。これは
決定額、
実行額でありまして、
契約額でありません。
これを見ますと、非常に持続的な
高度成長が二十年続いているということがもちろん示されますと同時に、一九九二年を境にいたしまして外国からの投資というのが非常に急激に増えたということが言えます。現在もこの趨勢、伸びる趨勢は続いております。一九九二年というのは、
天安門事件を経て、
トウ小平氏が改革・開放を加速せよという、実質的には彼の最後の遺言を残したそのとき以降です。
つまり、
外部世界の特に
経済畑の人々は、
中国の脱
社会主義というのがこれは戻ることはないだろうという確信をこの九二年の段階で得たということが言えるかもしれません。
その次が、改革・
開放政策の
ステップアップということですが、
ポイントだけお話ししておきますと、八二年の十二回
党大会で二十年間四
倍増計画というのを出しました。この結果は九五年、
つまり十五年間で四
倍増計画を実現することができました。
先ほどお話しした九二年の
トウ小平氏の南巡談話というのがありまして、ここでは、言わば
社会主義の本質というのは皆が豊かになることではないのかという彼の非常にプラグマティックな言葉に示されるように、これが今日の
中国の基本的な国民、
リーダーたちの
コンセプトになっているということです。
それから、九六年に二〇一〇年に向けての
長期目標を作成いたしましたが、これは二〇一〇年までの十年間で
倍増計画と。行け行けというところでしょうか。
それから、二〇〇二年の、二年前ですが、十六回
党大会をいたしました。これは非常に大事な大会でして、恐らくこれからの
中国を考えるにはこの大会から出発ということになろうかと思います。第二次二十年間四
倍増計画を提起いたします。二〇二〇年までに小康の社会、まあまあの状態というのを実現する。
それから、それと同時にこの十六回
党大会で注目されますのは、
対外開放を
ステップアップすると。
つまり、これまでの
対外開放というのは専ら
中国に入れる方だった。これは技術、資本ですね、こういうものも含めて。しかし、これからは出しますよということであります。
つまりは、
労働力あるいは商品を含めて、それから投資ですね、それから
中国系の多
国籍企業によって要するに
東アジアを拠点に
中国が対外的に経済進出しますというこの
対外開放は、したがって第二段階に入った。これは、
日本を含む
アジアの国々、あるいは
アメリカを含む
世界の国々に非常に大きなインパクトを与えることになるだろうということであります。
次が、対米・対
中貿易なんですが、これは
日本から見たあれでございまして、これを、ちょっと前にもう一度戻りますが、ただし、この二十年間、二十五年ぐらい続きます
対外開放政策あるいは
改革政策、
つまり市場化政策というのが残している問題というのは非常にたくさんございます。
一つは、農村、農民、農業の問題、これを三つの農と呼んで、三農問題というふうに現在
中国では言っておりますが、これが
中国経済の恐らく長期的にはネックになるだろうということが想定されております。各新聞でも、
日本の新聞でもしばしば、一つは、
都市部における
労働者のストライキあるいは
農村部における
農民たちの
現地幹部に対する一種の税不払運動とか、あるいはちょっとした
暴行事件とか、こういう
社会的コンフリクトが非常に増えている。
それから、第二の
ボトルネックというのは、基本的には
エネルギーの問題だと思います。これは電力、それから石油を含めたすべての
エネルギーにおいて純
輸入国に、
エネルギー輸入国に
中国は最近転じましたけれども、恐らくはこれからの七、八%の
経済成長をこれから二十年近く維持していくためには、基本的にはこの
エネルギーでどのような道が開けるかに懸かっているかもしれません。
エネルギーをめぐる国際的な紛争というのが、ある意味で予測されるということです。
それから、もう一つの
ボトルネックは、
中国自身が一つの市場、一つの
世界というよりは、三つの
世界を持っている。一つは十九
世紀の
世界ですね、それからもう一つは二十
世紀の
世界、そして二十一
世紀の
世界。
恐らく
皆様方、議員の方が
中国に
調査、参観あるいは交流にいらっしゃる際には、北京、上海という大都市が多いかと思います。北京、上海を見ますと、気が遠くなるような
繁栄ぶりであります。半年に一回行くと、もう上海も様変わりというぐらい非常に変化が激しいところですが、奥地に、
内陸部に入りますと、やはり二十
世紀の、一九六〇年代、七〇年代の状況が見られる。それから、更に奥に行きますと、やはり十九
世紀の後半あるいは末と言ってもいいようなそういう状況。
つまり、
日本のようにある意味で非常に均質的で、規模がある意味で
国民国家として
適正規模な
日本と比べますと、
中国はそういう意味では非常に不適切なほど大きいということによって、成長も長期に続くけれども、問題も非常に予測を超えて大きいと。これがいつ爆発するかというのはだれも予測できないという状況であります。
日本との
関係でちょっとお話しいたしますが、これは、ここで申し上げたいのは、ここの部分ですね、ここの部分で、
日本の対
米輸入、対
中輸入という部分が、米国が赤い色、
中国が緑なんですが、この二〇〇二年ですか、二〇〇一年の段階で
中国は
日本にとって最大の
輸入相手国に変わりました。これは最近ますますその傾向が強くなっております。恐らく二〇一〇年より前に、二〇一四年より前に
日本の対
中輸出が対
米輸出を越すかもしれないという、
つまり輸出、
輸入ともに
中国が第一の
貿易パートナーになるという
時代もそれほど遠くはないという、そういう状況です。
次に、
中国の、外の
世界にどういう印象というんでしょうか、あるいは戦略あるいは認識を持っているんだろうかということを非常に大ざっぱに考えてみたいと思います。
それは、一つは、一番この左にあるこの青い色なんですが、こちらの方は十九
世紀の
中華帝国の
時代であります。
ちょっと話はずれますが、七月ぐらいの
日本経済新聞にちょうど
中国特集がありまして、そこの記事でOECDのある推察、推計によりますと、一八二〇年の
中国の
世界に占める
GDPですね、は推計です、もちろん今の段階で正確に知ることはできませんから、推計三〇%前後、
世界に占めるですね。現在、米国が大体そうですね、三〇%前後という、正確な数字はちょっと私ここにはないんですけれども。
二〇二〇年にさっきまあまあのレベルでということが
中国の戦略だというお話をしましたけれども、そうなってくると、要するに百年のこの
時代というのは
中国にとっては極めて不本意であった
時代、恐らく大きくなる
中国というのは、やっぱりある意味では当然の流れというんでしょうか、なのかもしれないという、非常に長い歴史で考えると。
それで、少し長い歴史をさかのぼって、外の
世界に対して
中国はどういうパーセプションを持っていたかということで、まず一番最初のこの緑の図で、その
時代は大体十九
世紀の中ごろ、前半とこれを考えておいてくださって結構です、十九
世紀の前半というふうに考えていただいて。
アヘン戦争前ですけれども、中華の中心があります。それと同時に、その
周辺地域があります。これは間接的に支配しているわけですけれども、これは
中華帝国の
内部メンバーですね。それに対して、今度は
朝貢国というのがあります。
朝貢国というのは、例えば今のベトナムなんというのがそうですね。それから
朝鮮半島もそうです。琉球、今、
日本の沖縄も、一時期
琉球王国として
中国の
朝貢国でありましたと同時に、
薩摩藩に対して朝貢するという、この二重
安全保障を
琉球王国はやっていたわけですね。こういう周辺に
朝貢国のベルトを持っているという、こういう感じです。
この矢印というのは、特に文化的にこれは
対外拡張型ですね。文化的に非常にその
影響力を外に広げるという、これが十九
世紀前半の
中国、非常にこれは大ざっぱに言って。
それから次が、これが
毛沢東時代、
つまり大体一九六〇年代というふうに考えて、ほぼ百年後ですね。これは、
中国というのがありまして、それと例えばチベットとか新疆とかという
辺境地域があります。もちろん、これは中華人民共和国の一部であります。でも、まだその統合は、かなりのところ非常に均質的にはまだ及んでいないというあれですね。これは周辺ですね。これは周辺の
独立国、例えば
インドもそうですし、ここに恐らく
日本が入ります。
中国は
大陸国家ですので、私の
考え方によると、海の国家とやっぱり基本的に違った
考え方をどうも頭の中ではあるんではないか。
つまり、国境というもの、
陸上国境を接したその
周辺国との
関係をどのように維持するか。
この当時の
外部世界との
関係ということで言うと、矢印は内側に向かっていますが、これは
外部世界の圧力が非常に
中国に掛かっているという、そういう状況ですね。もちろん、ここは米ソというあれが、
アメリカ、ソ連、あるいは国際的な
レジームといったようなもの、
外部世界が
中国を非常に拘束している、あるいは
中国を非常にある意味では封じ込めているという、そういう状況ですね。矢印は
内向きになっている。
今度は二〇〇〇年代、今の時代です。今の
時代を描き出すのは非常に難しいですが、一応私が、その
PRC、
ピープルズ・リパブリック・オブ・チャイナが一応中心にあるとして、これは
ネイバーですね、
つまり国境をほぼ接する国々であります。
元々、
中国は国境を接する
ネイバーと、あとは
グローバルという
関係で、この
リージョナルという
関係がほとんどなかったんですね。なかったんです。それで、恐らくは、
中国は基本的な外交をやる場合に、二十
世紀の末ぐらいの
中国というのは基本的には
国際レジーム、例えば国連といったようなものとお付き合いする、あるいは
アメリカという
グローバル大国とお付き合いすると同時に、今度は別に
周辺国とお付き合いしますと。例えば
ロシアと、例えば
日本と、例えば
インドとですね。これはあくまでも
ネイバーであった。
この
リージョナルという、ここが出てくるのが二十
世紀のごく末、千九百恐らく九七年ぐらいから
中国は
アジアというこの地域で物事を考えていく、あるいは
中国のこれからの
動き方を考えるというふうに変わってきたということですね。もちろん、
中国は今や建前の上で、あるいは制度的には、
世界の
ルールに、
人権ルールも含めて、
経済ルールも含めて
世界の
ルールに従う、あるいは溶け込むという、そういう状況であります。
これが非常に大きく分けて十九
世紀前半と二十
世紀後半、そして二十一
世紀の
中国の
世界観というところです。
その次で、
リージョナルな部分でこれを考えますと、
ピープルズ・リパブリック・オブ・チャイナがあって、それで
中国について言いますと、やはり周辺に非常にサブ
リージョナルな言わばメカニズムといったようなものとの
関係を構築することに非常に努力してきました。この上海6というのは、これは一九九七年ぐらいから動き出して、実際、正式には二十一
世紀に入ってからですが、
ロシア、それから
中央アジアの国々を含むですね、
中央アジア四か国と
ロシア、そして
中国を含む言わば
地域機構です。
上海オーガナイゼーションと言っていますか、
上海協力機構というふうに正式には呼んでいると思います。上海6。
この機能は、一つは、もちろん
中国の西北の安定、
安全保障をここで確保するという、そういう機能ですね。
それから
二つ目が、
テロリズムに対して共闘を組む。
テロリズムというのは、
つまりイスラム原理主義の
テロリズムというのは、
中国の
西部地域にとってはある意味では非常に危険で、原理主義的なものは、拡大する火種というのはあるわけですね。ですから、
中央アジアとその点で共闘をする。
それから、第三のこの上海6の機能というのは、恐らくは
石油エネルギーですね。
エネルギー安全保障で特に
ロシア、そしてカザフスタンの
天然ガス、石油、そしてそのパイプラインといったようなものをここでやる。
中国はもちろん
中東依存が
エネルギーについては非常に多いんですが、それは極めて危険だというふうに思っています。それで、
中国自身が非常に
エネルギー事情悪いですから、ここの
中央アジアの
エネルギー開発についてはイニシアチブを取りながらここの開発を共同で進めていくという、そのための機構ですね。
それから、この
南アジアについては、
南アジアそれ自体で
地域機構ができておりますが、それとの
関係を
中国はいまだ持っておりません。
南アジアについて言うと、
インドと
パキスタンなんですが、
インド、
パキスタンが非常にある意味で仲が悪いですよね。それで、
中国はその仲の悪いところを使ってそのバランス・オブ・
パワーで対
南アジア外交をこれまで展開してきました。
最近のやり方は、
パキスタンに対する過度な傾斜というのをやめるということで、中印間の
関係をできたら好転させる、中印でなくて印パですね。そして、
インドとの
関係を、特に経済と
安全保障の面で強化するということで、最近この中
印関係が動きつつあります。
いずれにしても、この
南アジア協力機構と
中国が何らかの形で制度上の
関係を持つということは、将来、大いに考えられることですね。
今度は東の方です。
ASEANなんですが、これは皆様よく御承知のとおり、
ASEANの
友好協力条約に
中国が加盟いたしました。それにあおられて
日本がこれに加盟するということになったわけですが、二十一
世紀に入りまして、
中国の
ASEAN接近が極めて急なるものがあります。それで、特に
ASEANプラス3、
ASEANと
日中韓及び
ASEANプラス1、
つまりASEANプラス中国という枠組みでこの
東アジアの一種の
安全保障とあれを考えるということですね。
問題は、ここで、
日本それから台湾が、ここが非常に
不安定要素として残ります。それから
朝鮮半島が残っております。
ここで申し上げたいことは二つありますが、一つは、
中国にとっての
東アジアというのは、
中国の
地域外交にとってはワン・オブ・ゼムだということですね。幾つかのうちの一つでありますよと。で、
日本にとっての東
アジア外交というのはワン・オブ・ゼムではないんですね。やっぱり決定的に大事だという。そういう意味で、その
東アジアについてとってみると日中間の非対称性というのがあるという、これは現実問題としてそうだということですね。
それからもう一つ申し上げたいのが、東北
アジアでまだこの安全なメカニズムというのが
中国はまだ見付けていないということです。これが、
朝鮮半島における六者協議、これが一つの東北
アジアにおける緩い
安全保障メカニズムになっていくことを多分
中国は期待していると思いますが、これは非常に難しいところですね。まだ状況は分かりません。
で、もう余り時間がありませんので、これは比較的省略いたしまして、ここの部分ですね。先ほどちょっとお話ししました、これ二〇〇三年までのデータが拾われていますが、この赤いのが、赤い線が
中国ですね、それから米国が黄色い棒ですが、今現在
日本の輸出入相手国で四分の一の輸出物資は
アメリカに行っていると、それで、これ八分の一が
中国に行っている。問題は、これが、この線がどういうふうにこれから数年でなるかどうかということです。
それから、次が
輸入相手国ですけれども、これは、この輸入相手も輸出相手もそうですが、
日本は
アジアが圧倒的に多いです。ほぼ四割から五割は全体のあれを
アジアが占めておりますけれども、そういう意味で
日本にとっての
アジアというのは極めて大事なんですが、ここの輸入相手でいいますと、先ほどちょっとお話ししましたように、現在、
中国が、ピンクですね、二割、
つまり五分の一が
中国から輸入していますよと。
アメリカが一五・四%。ここの二〇〇一年の段階で
中国が
アメリカを追い抜いたということになります。
問題は、次は
日中関係にかかわることですが、このグラフは、総理府、あるいは今現在の内閣府が毎年十月にやっております要するに外交に関する世論
調査、これをまとめたものです。これで非常に顕著なのが、一九八八年の段階で
中国に対する親しみを持つ、あるいは対中
関係を良好と思うというのが七割いたのに対して、これが
天安門事件で急激に減る、これが九〇年の数字ですね。九六年になりますと更に減ります。九七年の数字なんですが、これはなぜかというと、二つ理由があると思います。
一つは、
中国の台湾の総統選挙に対する演習ですね、ミサイル演習、これが
日本の対中世論を非常に悪化させた。それから第二は、これ以降、
中国の
経済成長が物すごく続きます。こんなに経済がいいのになぜ対中ODAが必要かというような議論がどんどん出てくるほど、
中国の経済的大きさというのがもう歴然としてきたという中で現在に至ります。
現在、二〇〇四年のまだデータは出てきてないですけれども、先日見た限りでは、基本的には大体五割の人が
中国に親しみを持ち、かつ五割の人が対中
関係を良好と思うというふうに思っているようです。私自身はそれは極めて健全ではないかというふうに思っています。異常ではないし、まあ大体それぐらいの感じであれば
日中関係は、たとえ総理レベルでいろいろあったとしても、
日中関係は基本的には安定しているというふうに私は思います。
それで、
日中関係の推移のところで申し上げますのは、ここで要するに、八〇年代までの援助する国、される国という構造が、九〇年代末から非常に変わったということですね。少なくとも認識のレベルで変わった。これは
日本においてとりわけそうだということですね。
それと同時に、やはり
中国の社会が非常に開放的になったために、
中国の対日世論というのが非常に赤裸々に出てくるという。
つまり、その意味では、七二年の国交正常化ははっきり言って毛沢東氏と周恩来氏二人で決めたことなんですよ。自分たちの目の黒いうちにやろうというので決めたことです。国民は関知しない。それから三十年たちまして、非常にいろんな事情で
中国社会は緩みました。コントロールも緩みましたし、人々はいろんなことを言うようになりました。そこで、様々な対中認識が裸の形で出てくるという、そういう時代。この時代では非常に、あれです、新しい
時代ですね。
それで、
中国の
安全保障観ということでお話しするのが、四つの
ポイントなんですが、これは特に九〇年代末から顕著な状況です。
一つは、新しい
安全保障観というものを提起しました。これはどういうことかというと、非常に単純に言うと、軍事同盟条約に依拠した
安全保障というのはこれは古いんだと、これで国の
安全保障というのを全面的に維持することはできないという、そういう
考え方ですね。
つまり、信頼醸成とか多国間安保のメカニズム、こういうものに依拠しなければ駄目だと。それで、
ASEANに接近する、あるいはARFに接近する理由というのは、この新
安全保障観にあります。
それから、
地域外交の出発というのは、先ほどお話ししました。
それから、第三番目に特に申し上げておかなくては多分ならないのが、この領海、先日、つい一週間ぐらい前ですか、十一月十日にありました、要するに原子力潜水艦の領海侵犯問題というのがありました。これは一応、
中国側の遺憾表明で一応幕が下りましたけれども、このときに、要するに領海の問題ということで、これ一応おさらいだけしておきますと、九二年の段階で領海及び接続水域法というのを
中国が決めました。ここには、台湾、釣漁島、尖閣列島ですね、を含む諸島、澎湖諸島、東沙諸島、南沙諸島、中沙諸島及びその他の中華人民共和国に属するすべての島嶼、これは領海に入るということですね。それで、ところが、一九五八年の領海声明は台湾の附属諸島ということだけでありまして、あれが、具体的な島の明示はなかったという、そういう状況です。
それからもう一つ、軍事で注目すべきなのが国防法という法律が九七年に採択されましたけれども、これは今回初めて、建国後始めて
中国、中華人民共和国の武装力は
中国共産党の領導を受けるというふうに、党の軍隊であるということをはっきり公言いたしました。実際上こうだったんですが、国の法律上こうなっていなかった。これを九七年になぜ国の法律でこうしたかということですね。一つ推測できるのは、軍隊が要するに政府の言うことを聞かなくなる可能性があるという、それをやっぱり恐れたという、多分そういうことかなという、まあこれはよく分かりません。
最後ですが、
日中関係のイシューということで、イシューはたくさんあるんですが、とりわけ最近いろいろ、まあ余り喜ばしくないことというのが幾つか出てまいりました。
まず、歴史問題であります。
歴史問題というのは、
日本側からすれば、一九九五年に村山総理が議会で反省し謝罪するということで、一応、戦後五十年でこれ済んだということに一応なっていますね。それから、法律的には七二年の賠償請求放棄によって終わっているというのが一応基本的な
考え方なんですが、そういう、
日本の国民も一応多くの人はそう考えていますね。
中国政府は一応そう考えてもいるわけですね。ところが、
中国国民が、なかなかそうは言っても、そうではないよというあれが非常に強いわけです。で、結局、そういうことでありまして、その辺りのずれの問題というのが非常に今後深刻になる可能性があるということですね。
それから、経済摩擦というのは恐らくこれからどんどん出てくると思います。とりわけ
中国の経済進出が激しくなると、恐らくこれはもう、やりようは国際枠組みで処理する以外にないという。
それから、領土領海問題、資源開発問題、これで最近大陸棚をめぐっていろいろありますが、これもやはり多国間
レジームで処理する以外にない。二国間での処理というのは恐らく非常に難しい。この場合に、
ASEANのケースというのをやっぱり勉強しておく必要があるのかもしれません。
ASEANは一九六七年ですか、に成立しますけれども、非常に当時は物すごく猜疑感の塊だったんですね、五か国ともに。領土紛争を抱えていました。全部棚上げにしたわけですね。それで、とにかく首脳が会おうじゃないかと、会っているうちに何とか意思も疎通して、何とか友達意識みたいなのもできるだろうというので、まあ三十年続けていっているうちに何とか制度的にも非常にある意味で成熟して、非常に無力ではありますけれども、ある意味で五か国あるいは十か国間のそれなりの信頼醸成というのはできている。そういう経験というのをやっぱり学ぶ必要がある。と同時に、やはり
日本が
中国側に対して、あるいは
中国も
日本側に対して、やはりできるだけ国際的準則に基づいた透明性と公開性、これをできるだけ追求するということだと思います。
問題の第四は、周辺事態なんですが、北朝鮮、台湾、米国、この三つの問題というのが
日中関係にもろに波及いたします。これは、それをどういうふうに波及させないか、あるいはこれを軍事紛争にさせないかというのは、多分、
関係国の
リーダーたちの最大の責任だと思います。
中国とどう向き合うのかという場合に、やはり一つは、国民外交というのがやっぱりかなり必要になるというふうに思います。それで、一つ考えておりますのは、
アジアの戦後の
国際関係史というのを一緒にちょっと書いてみようかなという感じを最近はあれしています。それが一つと。
それから、
アジアが、
日本はこれまで数十年間、少なくとも二、三十年間、唯一の大国でした。だけれども、そうではないんだと、もう。あれですね、近く。それで、やっぱり
日本が
アジアの中でどういうふうな状態でいれば
日本は安定していられるのかということをやっぱりちょっと発想を転換しないと、いつまでもその
日本が唯一の大国であった
時代というのは続かない、ここら辺で政治家あるいは国民あるいは
リーダーたちの認識の転換というのが必要かと思います。
それと、一方、非常に機能的な
東アジアコミュニティーを一つ一つ構築していくという努力が必要かと思います。
ちょっと過ぎましたでしょうか。
どうもありがとうございました。