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山口那津男君 公明党の
山口那津男でございます。
憲法がある程度の
時代の
変化に耐えて中長期的な
原則、理念を定めるという法規であるという性質に照らしまして、この
日本国憲法の持つ
地方自治の
規定というものはおおむねよくできていると、このように評価をいたします。
その上で
幾つかの
問題点について触れてみたいと
思いますが、必ずしも理論的に
整理されているものではありませんで、私個人の感想ということを述べさせていただきたいと
思います。
まず、
地方自治の
本旨とは何かということが
議論されてまいりました。これは、通説的には
団体自治及び
住民自治が歴史的な概念、制度として実行されてきたということから、国の
立法権や行政権によって侵害されない、防御できる、そういう制度的な保障を定めたものであると、こう理解をされてきたわけであります。
しかし、こう言ったとしても、直ちにその
地方自治の
本旨とは何かということが具体的に明らかになるわけではありません。そこで、これらの内容についてもっと具体的、詳細な
規定を
憲法に設けるべきであると、こういう主張が
幾つかなされてまいりました。そういう中で、例えば
地方自治の
基本法を作るべきであると、こういう主張もなされたわけであります。
しかし、私は、この
時代の
変化に対応するためには余り詳細な
規定は置かない方がいいという考えを持っております。といいますのも、この
憲法制定、実施以来、今日までの歴史を振り返りましたときに、
時代が大きく変遷していると思うからであります。
例えば、戦後の復興期、そして高度成長の初期ぐらいまでの間は、やはり
中央集権的な思考、これは戦前からの名残というものもありましたでしょうし、また戦後の廃墟から立ち上がる強いパワーの
必要性ということもあったと
思いますが、そこではかなり
中央集権的な、画一的な思考で
地方自治というものが運営されてきたように思うわけであります。
しかし、この高度成長たけなわ、そして後期になりますと、様々なひずみというものが各地に出てまいります。これらのひずみをめぐって
地方住民の声というものが強く押し出されるという
時代を迎えるわけでありまして、そこで首長や議員の選び方についても様々な
変化が現れてきたわけであります。
また、九〇年代以降、バブル崩壊後は、特に
財政的な行き詰まりというものも出てきたわけであります。高度成長期、比較的
財政に余裕のある中で膨らんできた
仕事、また
財政調整の
仕組みというものがこのバブル崩壊以後非常にタイトになってまいりまして、もはや従来のままでは乗り越えられないという
限界にまで達しているわけでありまして、現在、三位一体をめぐる様々な
議論がなされているのもそういう
変化を表しているわけであります。
こうして、大きな
時代の
流れ、大きな区分というものを見てまいりますと、固定的に
地方自治の詳細な内容まで決めてしまうということは柔軟な対応を損ねるという欠点があらわになってしまうだろうと私は思うわけであります。現に、それぞれの
時代においてこの
地方自治の内容について様々な
問題点を挙げる主張があったわけでありますが、しかし、その個々の
問題点を拾ってみますと、それはもう既に現代では通用しない、そういう指摘も多々あるわけでありまして、固定的であってはならないということを正に立証しているものだと私は考えます。
そこで、次に、三位一体をめぐって今様々な
議論がなされているわけでありますけれども、この
議論の中で忘れられている点というのをちょっと指摘をしたいと
思います。
原則的に、
権限を
地方に移譲し、そして
財源を移譲し、また無駄な
仕事を削る、国の強い関与を減らしていくという
方向性は私は正しいものを含んでいると思っております。しかし、現実には、その
住民、言い方を換えれば、一人の国民にとっては、その受ける利益、サービスというものは
地域によって大きな格差があるというのは現実であります。
例えば、ここの首都東京と
地方都市の
住民の受けるサービスというものを比べてみれば、例えば東京では、都市のインフラの面にしても、あるいは様々なソフト的なサービスにしても、かなり充実したものがあるわけであります。同じ
財源を得たとしましても、先進的な
住民サービスに回せるというのがこの首都の姿でありますけれども、
地方ではなかなかそれが追い付かない。むしろ基礎的インフラの整備に多大な資源を割かなければならないという現実があるわけです。同じようなことは、各
都道府県の県庁所在地とその
都道府県内の
地方都市との間にも確実に見られることであります。
したがいまして、これらを調整する
仕組みといいますか、格差をなくす
仕組みというのは必ず作っていかなければならないと思うわけであります。そうした国民一人一人の
観点からとらえれば、
憲法は正に
基本的人権を保障している。これは自由な活動を侵害しないということとともに、あるべき権利を実現するという二つの大きな
役割があるわけであります。この
基本的人権の保障という
観点から見た場合に、国又は
地方それぞれは
相互補完的な
役割と、また
責任を有するものだろうと
思います。それぞれの
権限の優位性、あるいは対立的な権益を殊更強調するものであってはならないと思うわけであります。
今回の三位一体をめぐる
議論の中で、
補助金をカットして税源を移譲するという道筋でありますけれども、結局、
財源の保障がない以上、
仕事を削れということにならざるを得ず、その優先順位の決め方だけを
権限移譲と称して
地方自治体に任せると言っているにすぎないわけであります。
しかし、そこに欠けているのは、国と
地方を通じて
住民ないし国民にどれだけの権利、利益を保障すべきか、最低限の保障とは何か。先ほど来、
ナショナルミニマムという
言葉でも表現されておりますが、その追求というものがなされていない、またそれを確定する
仕組みがないということが大きな問題だと思うからであります。
こういう点から見ますと、
地方公共団体の組織の在り方というものも、現在の
都道府県、
市町村という二層制というものは
憲法上確定すべき組織論ではないと私は
思います。
その
相互補完的な人権保障の
役割という面から見た場合には、基礎的
自治体の一重の制度というものもあり得るわけでありますし、またもっと広域的に、道州制も含めて
地方自治体間の調整の
仕組みというものを作るということもあり得るだろうと
思います。
また同時に、
ナショナルミニマムとは何かという点につきましても、これもまた
時代によって変遷し得るもの、例えば基礎的インフラが全国的に概成していくとすれば、その次の
ナショナルミニマムの
課題というものは変わってくるはずでありまして、それらを見据えながら柔軟に対応していくというやり方が望ましいことだと、こう思うわけであります。
その上で、
財源の調整の
仕組み、また
地方自治体と国がどういう
役割を分担をすべきかということを常に検証し、協議をし、確定していくという
仕組みを作らなければならないと思うわけであります。
次に、
住民参加ということについて感想を述べたいと
思います。
住民投票が近年多用されてきたいきさつがございますけれども、これについては私は、
憲法で定められた首長あるいは議会の議員、その他の吏員の直接選挙制度、そして間接的な
民主主義の在り方という
基本を曲げるものであってはならない、そういう使われ方をされてはならないと
思います。
仮に重大な問題に対して
住民の意思を問うべき
課題が生じたとしても、それは常に
住民投票によらなければならないというものではないと
思います。首長選挙をやる、あるいは議会選挙をやるということも
一つの民意を問う、焦点を絞ればそれも
一つの民意を問う手段であります。また、民意を広く問うて分析するというのは、何も
投票や選挙による必要もないわけで、今の発達した通信手段、意思伝達手段を利用すれば、様々なその民意のくみ上げ方あるいは反映の仕方というものはあり得るわけでありまして、この
憲法の定める直接選挙制を加味した間接民主制度、これを
原則としつつ、その妙味ある
住民投票の
仕組みをその補完的な
役割として取り入れるということを考えるべきだと
思います。
それから、
住民参加のもう
一つのテーマとして、永住権を持った外国人の
地方参政権の問題であります。この点について、私は肯定的に考えるべきだと思うわけであります。もちろん、外国人といえども国民と同様に可能な限り人権保障を及ぼすべきであるというのは通説でありますけれども、しかし、永住権を持った外国人というのは単なる一般の外国人とは異なるわけであります。そして、
日本におきましては、歴史的ないきさつもあり、また相当数の人数もあり、そしてそれを国が永住権を保障しているということは、この国に生活の根拠、財産的基礎を持って生涯暮らしていいということを認めているわけであります。そして、
日本国民と同様に納税の義務を果たしているわけであります。
古来、代表なければ課税なしというのは、この
民主主義を発展させ、また人権保障を追求してきた
原理、スローガンでもありました。ですから、この課税において差別のないまま単なる
住民サービスの対価とだけとらえているというのは、私は誤った
考え方だろうと
思います。最高裁で既に有名な判決が出ているわけでありますが、これは、
地方参政権については、これを
憲法は否定していないという
考え方を取っているわけでありまして、これが判決を導くための主論か傍論かということはともかくとして、最高裁のはっきりとした
考え方であります。ですから、国民あるいは国籍だけを理由にして永住権を持った外国人の
地方参政権を否定するというのは、論拠としては薄弱であると言わざるを得ません。
この代表なくして課税なしという
考え方、そしてまた歴史的ないきさつ、また
憲法を解釈した判例、これらを併せ考えたときには、私はこの
地方参政権の道を開くべきであると。ただし、その内容については、これは
立法政策上の
課題とされているわけでありますから、もっと様々な
観点からの
議論はあり得てしかるべきだと思っております。
ちなみに韓国では、この
地方参政権が
議論されながら、国会で
法律として成立しなかったといういきさつがありました。しかし、これをもって
日本で否定すべき論拠にはならないと私は
思います。韓国におきましては、永住権を持った外国人の数というものは
日本と比較にならないほど少ないわけであります。また、そういう永住権を持つ外国人が国内に居住する、永住権を持つに至った歴史的な経緯というものも全く異なるわけであります。又は分断国家の中の現実ということもあるかもしれません。いろいろと
日本とは異なった事情がある中での
一つの
考え方でもあります。
また、韓国では
地方自治の歴史が、特に選挙を通じて
地方議会の議員あるいは首長を選ぶと、こういう歴史がつい最近始まったばかりでありまして、その点についてにわかに永住外国人の参加を導入するということについては、また成熟をしていなかったといういきさつもあったかと思うわけであります。
そういう中で考えましたときに、この
日本におきまして、殊更永住権を持つ外国人の
地方参政権を全否定する必要は全くないと思っております。
以上で私の感想を終わります。