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山本正和君
有馬先生、また林
先生の後を受けまして、私も一九八六年の文教
委員会の初
質問以来、これで、今日で
最後の
質問でございます。時間をいただきましたことを
委員長並びに
委員の皆さんにまず感謝申し上げます。
私は、今日は個々の問題というよりも考え方ということで、
大臣また副
大臣がもし私から申し上げたことについての御感想ございましたら承りたいと
思います。
私は、実は今の義務
教育の中で何が一体足りないといったらおかしいんですけれども、私自身の気持ちからいって、それでどうなんだろうかという、ざっとですけれども、学習指導要領も斜め読みでずっと見ていた。そこで思ったのは、命というもの、これをどこでどう扱っているんだろうかと。命というものの大切さ、尊さ、また美しさ、こういうものをどういうふうに教えていくんだろうかと。そしてまた、生まれてきた命は誠に多様でありますし、いろんな形を持っておる。人の顔が全部違うようにすべて違うと。しかし、それがそれぞれに、それぞれ大変尊いものなんだと、こういうことをどういうふうに教えているんだろうかということで、眺めてみたんですけれども、個々のところにはそういう部分が出てきますけれども、体系としてといったらおかしいんですが、全体の流れとして本当に教えているんだろうかと。一遍この付近で二十一世紀に入った我が国の
教育、あるいは
世界の状況から考えて、本気になって我々
大人がというか、今の国なりあるいは人の、人類
社会といっていいんですか、考えていく必要があるんじゃないかという気がしてならないんですね。
私は命というものを考えたら、
自分たちが生まれてきた命は親から授かったと、そのことから親に対する尊敬の気持ちというか、いたわりの気持ちを持つんだろうと。私も実は七十七歳になって初めて亡くなった両親のことを時々
思い出します。しかし、親の恩なんていうのはなかなか簡単には分からないんですね。しかし、そういうことはやっぱり義務
教育で本当はきちっと
議論もし、
子供たちにも考えることができる、そういう必要があったんじゃないかということが思えてならないんです。ですから、中教審で
議論していただく様々な議題の中に何とかこういうことを入れていただけないだろうかと。
やがて人間は生まれて死んでいくわけです。しかし、生まれて死んでいく中に命が様々な働きをして、すばらしい芸術やあるいは学問や科学技術の発達、
社会の発展というものがある。その中で
一つ一つの命は形も違うし、場合によっては何か恥ずかしいような
思いをする形で現れる場合もあるかもしれない。しかし、それが全部それぞれに尊いんだということをみんなでもう一遍確認し合わなきゃいけない
時代に今来ているような気がしてならないんですね。
そういう
意味で、何とかひとつ人間
教育のここだけは、義務
教育だけは国の責任でもって
子供たちに
教育の場を与える場所ですから、そういうことを体系的に何か考えていくことができないんだろうかと、こういう気がしてなりません。非常に抽象的な問題提起になるかもしれませんけれども、これからの文部行政の中で
是非ともひとつお取り上げいただかなきゃいけないだろうかという気持ちがしております。これが
一つです。
それから、二つ目に
お願いしてみたいと思っているのは、義務
教育というのは、これはいわゆる国民の義務もあるし、国の義務もある。しかし、義務
教育の九年間は、これいやでも応でもその間
子供たちに学校に行くことを保障するし、ある
意味でいうと義務付ける期間ですね。したがって、勉強したくないとかあるとかいう問題じゃなしに、義務
教育は義務
教育。しかし、それを越えたら、学びたい者が行くのが学校だろうと思うんですよ。
実は、私も若いときに高校全入とか盛んに言って、やった
時代がありました。しかし、その高校全入の思想というのは、義務
教育を延長しようという思想だったと思うんですけれども、それがかなわないとするならば、やっぱり義務
教育と違うんなら違うように、学びたい者が学べる学校、これが
高等教育、高等学校以上の
教育だろうと。
そうすると、学びたい者が来ていることは、これはもう学びたくない人は学校へ来てもらわないでいいようにする。学びたい者だけが来る、年齢は問わないと。例えば私のように、国会議員辞めて、七十七歳の段階でもう一遍
大学受けると、講義も聴けると。たとえ、若くて、二十歳で、幾らでも勉強しようとすればできるけれども、したくない者は別に
大学行かなくてもよろしいと。こういうふうに、学びたい者が学ぶ場所が学校なんだと、いわゆる義務
教育除いた学校なんだと。
自分が必要を感じて行くところが学校なんだというふうに、もしも制度があるとしたならば、ただしそうなったら、企業として営んでいる
私立学校はつぶれるだろうと思うんですね。また逆に、ひょっとしたら非常に優秀な者を集めて良くなるかもしれませんけれども、分かりませんけれども。だけれども、本当からいったら、学びたい者が保障されるのが
教育なんだろうと。そうすると、
高等教育の在り方も、今の私学の問題や、今度は特殊法人になりましたけれども
国立大学の問題も変わってくるんじゃないかと。
私どもの
子供のときの記憶では、どんな貧しいうちの
子供でも、本当によく勉強ができたら、みんなその村が、町が、あの子は学校にやろうというんで、
東京大学までやったんですよ、ようできる子はね、貧しい子でも。前も申し上げましたけれども、大平総理は小作人の子ですよね。それで、成田さんは、成田
社会党
委員長は大地主の子ですよね。しかし、小作人の子であった大平総理は、あの当時の
時代に生きていますから、きちっと勉強して、今の一橋
大学を卒業することもできるんですね。私はそういう、だから、学びたい者が学べるような制度をどうやって作っていくかということも、これは国が考えなきゃいけない責任じゃないだろうかというふうな気がしてならないんです。
ですから、学校の在り方、特に義務
教育を除いた学校についての在り方についての検討を何とか
お願いできないだろうかと、こういう気持ちがしてなりません。
それからその次に、第三番目ですけれども、これは、我々が今生きているのは、こういう
社会に生きている、しかし、こういう
社会がその前にどうだったんだろうかということを学んでいって、そして歴史がある、そこからまた現在認識ができて、
未来に対する展望を持つとなるんですね。今現在、我々はこうやって生きていると。しかし、その前はどうだったんだと、そのもっと前はどうだったんだと、その起源は何なんだと探っていって、そしてその歴史を知って、それから新しい二十一世紀、二十二世紀を展望すると。これが人間の考えるべき在り方だろうと思うんですね。
ところが、我が国の今の歴史
教育というのは、全然関係のないというか、今
自分が生きている生活と関係のない古代から出発して学ぶんです、ずっと。そして、もう近代ぐらいで終わりです。今、今日
日本の国がこうやっている姿を学ばないで、この今生きている姿の五十年前を学ばずにみんな歴史
教育が終わっているんですね。何かそこがどうもよその国の
教育と違っているような気がしてならないんです。
だから、やっぱり歴史
教育というものを、歴史
教育というかな、要するに歴史というのは実は
未来を展望するために必要なんですけれども、その
意味として位置付けするならば、我々が今日こうあるのは、今例えばこうやって生きていると。しかし、こんなこと言ったら、女性の議員の
先生たくさんおられますから、ひょっとしたらびっくりされる方もおるかもしれない。六十年前は女性は身売り、女性は売買の対象だったんだ。六十年前、美しい娘がおったら、貧乏なうちの
子供でも大変な
お金が入ったんだ。そういう人身売買の
時代が六十年前にあったんですよということを今の若い人ほとんど知らないですよね。小作人がどんなに惨めだったかという話も知らない。そして、それは昭和の
時代にあったと。本当ですかという話。大正
時代はこうですよと。あるいは、女工哀史なんかの話をしても何も感じないんですよね。しかし、その
日本の国が、人権というものが大事にされる、こういう世の中になってきたんですよという歴史
教育をやっていない。そういうことの、私は逆の
意味でいうと、こんなんでいいのかしらんと。
私の父親の
時代、私の父親はシベリア出兵行って全身凍傷して帰ってきた。しかし、父親はそんなことを
子供には話、せぬですよね。私も実は
子供に、
自分は戦争の、負けて二年間満州おったときの苦しい話、しないんですよね。親というものはなかなかしにくいんです。
しかし、学校ではそれを教えられると思うんですね。学校では、
小学校でも
中学校でも、あなたたちのお父さんお母さんの
時代こうなんですよと、おじいさんおばあさんの
時代はこうだったよと、そないなことして教える、そのことが親に対して
子供がいろんなことが理解できるようになると思うんです。
何か知らぬけれども、ただそれは、そういう私が言うのはちょっといささか常識的かもしれません。学校といったら、一番手っ取り早いのは明治の
教育勅語ですよ。我々全部あれを暗記させられた。だから、もう理屈じゃないんですよ、暗記させられたから、お父さんお母さんには孝行せにゃいかぬと、夫婦相和さにゃいかぬと、こういうぎゅうっともうお経のようにたたき込まれる、それも
一つの
教育かもしれない。
しかし、今の世の中はそうじゃないはずなんですね。今あなたたちはこうやって家に冷蔵庫もあるでしょう、みんな。
テレビもほとんどありますよね。携帯電話皆持っている。しかし、その前の
時代はこうですよ、その中で人間は生きてきたんですよ、お父さんお母さんて、その中で育ったんですよ、おじいさんおばあさんはこうです、その話をして、
子供にいろんな話をすることが大切なんじゃないかと。
人の命もそうなんですね。命というものは尊いという気持ちを
子供にみんなが分かってもらわなきゃいけない。私は、だから福田前官房長官のお父さんが言われた、命は地球より重いと言われた言葉なんか、私は非常にうれしい気持ちですね。何かしたら近ごろの人は、あれはひきょうな言葉だなんと言う人もいますけれども。
そんなことも含めて、私は
最後にこの三つの点を
お願いいたしまして、私の
最後の
質問に代えます。どうも。(拍手)