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参考人(
勝野正章君) おはようございます。
東京大学の
勝野と申します。本日は、どうぞよろしくお願いいたします。
私は、一番
最初に私
自身の基本的な
考え方というふうなことを少し述べさせていただきました上で、それで今回の
法律案に関する
意見というふうなことを続けて
お話をさせていただきたいというふうに思っております。
昨今の開かれた
学校づくりというふうなことの基本的な
考え方につきましては、私は全くそれに賛成をする立場であります。
本日用意いたしましたメモにも、これは現在、帝京大学の
教授をしていらっしゃいます、
東京大学名誉教授になりますが、
浦野東洋一先生が「開かれた
学校づくり」という著作の中で書かれている一節を引用しております。そこには、お手元にございます、ありますと思いますが、生徒を真ん中に、
家庭と
学校と
地域のコミュニケーションと
協力関係がうまく働いたときに、
子供はより良く育つんだ、そういうふうに書かれているわけであります。
今、これだけ
子供をめぐる状況やその背景にあります社会的な変化というふうなことが非常に激しい時代におきまして、
学校だけが
子供の
教育あるいは成長、発達というふうなことに
責任を負うというふうなことではもうやり切れないというふうなことはだれの目からも明らかになっている。そこで、ここで言われているような、
子供を
中心にして、
家庭や
学校や
地域の人々がそれぞれの
教育に関する権利と、あるいは権限と
責任ということを強く自覚をしながら、一緒に
教育を作っていくというふうな
意味での開かれた
学校づくりというふうなことに関して、私は、これまでいろんな形で進められてきていると思いますが、それはますます進めるべきだというふうに考えております。
私は、今回の
コミュニティ・
スクールの、
金子先生のように
コミュニティ・
スクールの
研究実践校というふうなところをこれまで余り見る
機会がございませんでした。間接的に雑誌ですとか
新聞等で報道されているものを見る限りでした。しかし、その一方で、
コミュニティ・
スクールというふうなことではないんですが、私
自身が今申し上げたような開かれた
学校づくりというふうなことの
考え方に沿ってといいますか、即してといいますか、それに近い形で様々な
学校運営をしている
現場というものを
幾つか見てきたつもりでおります。
それは、四年前に
制度化をされました
学校評議員
制度というふうなことも
一つ利用しながら、しかし、
学校評議員
制度につきましては、これが非常に不十分な
制度であるというふうなこともいろんなところから言われているかと思います。その不十分な点もかなり乗り越えようというふうな
意思も持ちながら、例えば各
学校に
学校協議会を置き、そこには教職員も保護者も
子供たちも
参加をするというふうな形で一緒にいい
学校を作っていこうというふうなことで頑張っているところ、これは、例えば埼玉県に鶴ヶ島市というところがございますけれども、鶴ヶ島市には
小学校、中
学校すべてにこの
学校協議会というものを設置をしまして、
学校評議員
制度ではなく、評議会形式で、
協議会形式で、そして中
学校の場合にはすべて生徒もその
協議会の
委員として
参加をするというふうな形で、お互いに、例えば具体的に言いますと、例えば
学校の非常に
中心的な活動であるところの授業をより良くするというふうなことを考えたときに、もちろんそこで
先生方が頑張るというふうなことは大事なことですけれども、それだけではなくて、
子供たちがやっぱり
自分たちの授業をより良くしていくんだというふうなことでかかわっていかなければ、なかなかうまくいかないというふうなことがあるわけですね。あるいは、保護者にしても、例えば
家庭での勉強をどういうふうに見ていくのかというふうなことでも非常にかかわりがあることであります。
ですから、授業をより良くするというふうなことについても、教職員、そして保護者、そして学習の主体である
子供たちもそこに加わって、じゃ、どうしたらいい授業や
学校でいい学習というふうなことができるんだろうかというふうなことを考え合う、
意見を交わし合う、そういう場が今各地に広がっているというふうなことがあります。
そういうところを見ておりますと、非常に気が付きますのは、その中で、もちろん
子供の成長、発達というふうなことが
一つの大きな軸になっているわけですけれども、そこに
参加している保護者や
地域住民もまた成長していくというふうな姿、それが非常に顕著に見られるというふうに思うんですね。
例えば、保護者に関していえば、保護者は往々にして
最初のうちはエゴ的な、エゴイスティックな
学校に対する要求というふうなことを持っている場合もありますけれども、そこで保護者同士が
意見を交わすことによってもう少し公共的なといいますか、
学校全体の
教育をどうしたらいいものにしていけるんだろうかというふうなことの視点に立った議論や
意見が出るようになるというふうなことがあります。
また、教職員というふうなことに関しても、実際問題として、今なかなか
学校現場で
先生たち同士が授業のことや
子供たちのことを考えるというふうな時間が失われているのが現状であります。しかし、授業のことについて
子供たちが
自分たちの発言をする、
自分たちの思っていることを述べる、それを教職員が受け止めることで教職員同士がどうしたらいい授業をしていけばいいのかというふうなことを真剣に考え合える
機会にもなっていく。
つまり、
学校づくりというのは、もちろん第一義的にはどうしたら
子供のいい学習、成長、発達を保障できるのかというふうなことなんですが、と同時に、それがそこにかかわる保護者や教職員にとっても、あるいは
地域住民にとっても学びであり成長の場になっているというふうなことがあるというふうに思うわけです。こういったものが今各地で実践的な取組として広がっているというふうに私は認識をしております。
そこで、そういったことを前提にして、今回の
法律案に関して私が考えていること、
意見ということを若干述べさせていただきたいというふうに思います。
まず第一点目ですが、今回の
学校運営協議会を置くというふうな
法律案につきましては、その目的が
公立学校の管理
運営の活性化あるいは改善というふうなことがうたわれているわけであります。非常にここで気になりますのは、管理
運営の改善あるいは活性化というふうなことと、その後の
学校づくり、実際に
学校をより良くしていくというふうな実践的な活動というものがどういう関係になっているのかということが大変私には気になるわけです。
簡単に言ってしまえば、仮に
地域住民や保護者の
意向が管理
運営というところに的確に反映をされたというふうにしまして、でも実際には、
学校づくりを実際に
中心的に担っていくのはこれは言うまでもなく教職員だというふうなことになるわけです。また、そこに当然
子供というものもかかわってくるというふうなこともあります。そうであればこそ、教職員がきちっと
学校運営の主体としても、
学校づくりの主体であるはずの教職員が同時に
学校運営の主体としても位置付けられなければならないのではないかというふうに私は思うわけですけれども、今回の
法律案を見ますと、教職員の位置付けというのが非常にやはりあいまいであるというふうなことが
一つ、一点指摘できるのではないかというふうに思っております。
必要的な
委員としての規定がないというふうなことで恐らく御回答があるのではないかというふうに思いますけれども、やはりここは更に積極的に教職員の位置付けというふうなことを考えていただきたいというのが私の
意見の
一つ目です。
また、もう一点、やはり今申し上げてきたようなことからすれば、
学校運営協議会、
学校運営における
子供の位置付けというふうなことも非常に今回の
法律案の中ではあいまいといいますか、あえて議論されてきていないような印象すら受けます。
この中教審の答申から今回の
法律案に至るまで、
子供が
学校運営あるいは
学校づくりというふうなことに関してどういうふうな役割を担うべきなのかというふうなことについての議論がほとんど見えないのは一体なぜなんだろうかというふうな思いを一番
最初に持ちました。
衆議院での附帯決議の中では
子供の声を聴くというふうなことがあったようですけれども、しかしこれまでの
法律案、それから中教審答申などの議論の経緯を見ますと、非常にやはり
子供の、
学校を作っていくというときの
子供の位置付けというのが極めて客体的なといいますか、受け身的な役割しか与えられていないだろう、つまり
学校というのは、
子供にとっては上の方で教職員なり上の方が作ってそれを与えられるだけというふうな位置付けになっているのではないかというふうな気がいたします。
先生方、
委員の、議員の
方々御案内のように、
子供の社会に対する
参加、その中には
学校への
参加というふうなことが含まれるわけですけれども、こういったことは、もう既に国際的な動向ですとか、あるいはそれは実践だけではなく研究というふうなことでも非常に常識的なことになっているというふうなことがあります。にもかかわらず、そういった点への言及なり配慮というふうなものが今回見られなかったというふうなことは一体どういうことなのかというふうなことを率直に疑問に思っております。
二点目は、これは
衆議院の
文教科学委員会で
一つの論点になっていたように私は承っておりますけれども、この
学校運営協議会の
委員の動機付けあるいは所有者意識というふうな言葉が使われていたかというふうに思います。その
委員が積極的に
委員として活動をする、
学校運営にかかわる、そのための動機付けあるいはその所有者意識というものをどうやったら保障していくのか、どうやって高めていくのかというふうな問題が
衆議院の
文教科学委員会では議論になっていたかというふうに思うんですね。そこでは、議論の展開としては、
学校運営協議会に実質的なといいますか、公式的な権限をそこに与えるというふうなことで動機付けが図られるんではないかというふうなことの
意見が大勢を占めていたように私は思っております。
ですから、今回、予算や人事に関する権限をというふうなことになったんだろうというふうに思っておりますが、しかし私はここのところに関しましてもかなり疑問を実は持っております。単純に権限を
学校運営協議会に与えれば、そこの
委員が動機付けられる、積極的に
学校運営に
参加をするのだろうかというふうな疑問であります。むしろ、本当にその
学校について、
学校にかかわる保護者、
地域住民、教職員、
子供たちが自由に
意見を交わし合うというふうなことが大事だというふうにするのであれば、かえってこういう正式な権限というものがあることでもってその自由な対話あるいはコミュニケーションというふうなものを阻害するというふうなことも私はあり得るのではないかというふうに思うのです。
例えば、先ほど挙げました各地で行われている実践の
一つに、
長野県の辰野高等
学校というところの三者
協議会というものがございます。この辰野高等
学校の三者
協議会、ほかのところも大概そのようなものになっておりますけれども、あえて三者
協議会というものが
学校運営に関する
意思決定機関ではない、決議機関ではないというふうなことを言っています。そのことによって、
学校を取り巻く人々の自由な対話、
意見の交換というふうなことを保障していこうというふうなことを図っている、そこにねらいがあるんだろうというふうに私は理解しており、それがまた実現しているというふうな認識を私は持っているわけです。
今回のこの
法律案の作成段階、起草段階、これまでの過程の中でも、イギリスの
学校理事会
制度が大変参照されたというふうなことを私は伺っておりますけれども、イギリスのその
学校理事会などを見ても一番やはり今問題になっているのが実はこの点でありまして、どれだけその
学校理事会の理事をリクルートできるのかというふうなことが一番大きな問題、人材の確保というふうなところでほとんどの
学校で
校長先生たちが頭を悩ましているというふうなことが事実としてございます。あれだけ
学校理事会、イギリスの
学校理事会には
学校運営に関する予算、
人事権に関する、人事に関する権限があるのですけれども、しかし本当にそれが、保護者や
地域の
人たちにとって
学校にかかわっていこうと、一緒に
学校を作っていこうというふうなことの動機付けになっているのか、私はそのイギリスの
一つ例を見ても大変疑問に思うところであります。
それから、そこにかかわって言いますと、その
委員と、
学校運営協議会では
委員というふうなことになりますが、その方たちとそれ以外の保護者、
一般のという言い方も少し失礼な言い方になりますけれども、保護者や
地域住民とのコミュニケーションというふうなことがどれだけ図られていくのか、どういうふうな形で図られていくのかというふうなことが、今回の
法律案を読んで、拝見をして、非常にやはり疑問に思う点の
幾つか目の点というふうなことになります。
例えば、その三者
協議会や
学校協議会というふうな場ではどんなふうに行われているかというふうにいいますと、例えば校則のことを変える、あるいは授業の改善について議論しようなどというふうなときには、生徒は生徒会、あるいは教職員は職員会、あるいは問題によってはPTAという形で、保護者会というふうな形で、まずきちっとやはり議論をしてきて、それを三者
協議会の場で、あるいは
学校協議会の場でお互いの
意見を重ね合うといいますか、交わし合うというふうなことをするわけでありますね。また、そこで三者
協議会や
学校協議会での議論をそれぞれの保護者なり生徒なりというふうな、教職員なりにまたフィードバックをして議論をするというふうなことをしている。やはりこういう丁寧なコミュニケーションの回路というふうなものがなければ、私は本当の
意味での
学校運営に対する問題、所有者意識といいますか動機付けというふうなことにはなっていかないのではないかというふうに思っているわけであります。
その点に関していいますと、今回特に
教育委員会が
委員を任命するというふうな仕組みになっております。ここのところは
衆議院の議論でもかなり問題として指摘をされていたところだろうというふうに思いますけれども、
委員の
代表制というふうなこと、その選出の方法というふうなことも含めて、私は大きなそこに問題があるのではないかというふうに考えております。
それから三点目、大きな柱の三点目というふうなことになりますけれども、今回のこの
学校運営協議会によって、新しい
公立学校の管理
運営の仕組みなり枠組みというふうなことが作られるというふうなことになるわけであります。このことに関しても何点か、私
自身の考えといいますか疑問点がございます。
まず
一つは、先ほど
金子先生は
教育委員会主導の印象というふうな御発言をなさったというふうに思いますけれども、やはりこれは、
法律の文言上は極めて
教育委員会の強力な関与、統制の仕組みというふうなことが組み込まれている
法律案というふうなことの問題があるかというふうに思うんですね。
指定や
指定の取消し、
委員の任命、
運営に関し必要な事項について
教育委員会規則による定めというふうなことを見ていきますと、これはどうも非常に
学校の
自主性、自律性というふうなことがこれだけ高めるというふうなことが言われておきながら、かえってやっぱりそれを弱める、実際の運用というふうな場面でですね、そういう
法律案なり
制度の仕組みになっているのではないかというふうなことを一点考えます。
それからもう一点は、
学校を実際に
運営していく中といいますか、
学校の中でのというふうなことなんですが、私、今回のこの
法律案を読んでいて、その
法律案の条文にあります、
校長が
教育課程の編成その他
教育委員会規則で定める事項について基本的な方針を作成する、これを
学校運営協議会が承認するというふうな基本的な枠組みになっておりますけれども、
校長が
教育課程編成その他の事項についての基本的な方針を作成するというふうに、ここまで
校長の権限を実は踏み込んで具体的に規定をしたというのはこれまで
法律の文言上なかったというふうに私は思っているんですね。これがもし実際の
学校で、多くの
学校で今行われているのは、
教育方針などを定めるときにはもちろん
校長が指導、助言的な役割を十分に果たして
中心になる、職員の、教職員の
中心になるというふうなことはあるかというふうに思いますけれども、実際には
先生方が本当にそこで
自分たちの
子供の、目の前の
子供の実態というふうなことを持ち寄って
教育方針、基本方針というふうなことを考えているというのが実態だというふうに思うわけです。
ただ、この前の
学校評議員
制度や
学校の自主、自律性というふうなことで
改革がこの数年間進んでおりましたけれども、それに対する批判の
一つとして、結局
学校の
自主性、自律性の尊重というふうなことを言いながら、それは
校長権限の強化というふうなだけにつながっているんではないかというふうな批判が、これは研究者の間でもかなり
一般的に共有されている批判点でございます。
今回、こういう形で
校長が
教育課程の編成その他についての基本的な方針を策定するというふうなことで踏み込んだ規定をしたことによって、私はこのことが非常にますます促進されるといいますか、トップダウン型の
学校運営なりというものが奨励される、
法律によって、この
制度によって奨励される、促進されてしまう
可能性があるのではないかというふうなことを強く懸念をしております。
先ほどの
最初の方でも申しましたように、実際に
学校づくりをしていくのは、教職員がそこで非常に大きな役割を担っているわけですし、
校長のリーダーシップは大事なわけですけれども、
校長先生がリーダーシップを発揮するためには、教職員が本当に自主的な創意といいますか、創造的な
教育活動ができるというふうなことが大前提になるものだろうというふうに思います。そういう観点から、この点に関して少しといいますか、かなり疑問を私は持っております。
最後にというふうなことで、今回の
地域運営学校あるいは
コミュニティ・
スクールというふうなことで議論がなされてきたその一連の流れというふうなことですけれども、保護者、
地域住民による
学校運営参加というのは、私は
幾つかの層といいますか
意味合いが違うものが混在しているような気がしております。
一つは、
最初に開かれた
学校づくりの
一つの理念として御
紹介をしたような、本当に
参加協力型の
学校運営をしていくんだというふうなモデルといいますか、そういう
考え方や実践的な取組もあるんだろうと思います。
もう
一つは、実は保護者、
地域住民が
学校運営に
参加をしていくというふうなことが、
教育制度を本当に市場原理的な
学校間競争というふうなことでもって再編をしていくというふうなときの手段といいますか、てことして用いられるというふうなことが実はあるような気がしています。イギリスの
学校理事会
制度改革も実はセットになっていたのは非常に強力な
学校選択の仕組みでありまして、そのことが帰結としてどういうことをもたらしたのかというふうなことをいいますと、やはり
学校間格差、
地域の様々な状況ですとか、保護者の経済的あるいは文化的な資源といいますか資本みたいなものに非常に大きく規定された形での
学校間格差を生み出していった、あるいは
地域間格差を生み出していったというふうなことが言われているわけです。ですから、そこに対する懸念といいますか心配というふうなことも必要なのではないかというふうに思います。
それから、
最後の、
教育委員会による間接統治型というふうなことを書きましたけれども、特に非常に日本に特殊的な私は形ではないかというふうに思いますけれども、今回の、先ほども申しましたように、
法律の条文上、
制度上は
教育委員会の出先機関としてこの
学校運営協議会が機能するという
可能性も実は相当ぬぐえないのではないかというふうに思っております。
開かれた
学校づくりに関しては、
最初に私は基本的に賛成の立場でというふうなことを申しましたけれども、こういった理念なり、実際にそれが実践として取り組まれたときに現れ方の違いなりというふうなことをもう少し精査といいますか、基本的に根本的に検討しながら議論を進めるべきだというふうに私は考えております。
以上です。どうもありがとうございました。