○中島章夫君 大変積極的なコメントをいただきましてありがとうございます。
実は、私も、自分が住んでおることもありましてアドバイスをいたしました神奈川が既にそういうカリキュラム開発センターへ二年ほど前に脱皮をしております、必ずしも私が思うような形になっておりませんが。
是非お願いをしたいのは、経済特区のような形で、特区の形の向こうに
教育の地方分権ということが起こってくることは、私は公
教育システムそのものが問題になっているときにはそれほど問題にならない。それは
参考にはなります。意味がないとは言いません。しかし、文部省がもっとそういう地方に力を付けていくということに支援をする、大事なところに支援をしていくということが大事なことだと思っております。特に、今おっしゃっていただいたカリキュラム開発センター的なところへは、基幹的な、将来そのセンターを生かしていくための基幹的な人材の養成、場合によっては海外への派遣といったようなことに例えば支援をするといったようなことでうんと変わっていきます。
是非御検討をいただきたいと思います。
時間が大分この問題で進んでまいりましたが、極めて大事な問題と思っておりまして、今までの中に既に幾つか申し上げておりますが、次に二番目に、中等
教育の活性化・個性化
対策について少しお話をさせていただきたいと思います。
実は、私は、非常に大きくとらえまして、明治初年の、一八七二年の、あの明治五年の学制発布以来、明治三十三年には今の義務
教育国庫補助制度というのがスタートしたんですが、このときから就学義務を課しているわけです。国とそれから
市町村とが共同で義務
教育の責任を負うという体制がもう世界のどの国よりも早く、既に一世紀以前前から既にこの国には入っているんです。そのことが今日の
我が国の非常に大きな潜在的な力になっていることは言うまでもありませんし、戦後の大きな経済発展の原動力になったことももう既に世界から認められております。
それに対しまして、中等
教育は、戦前からも確かに、大正六年、七年、八年の臨時
教育会議で長い懸案でありました中等
教育制度が非常に
拡大をしてまいりまして、あのころから昭和にかけてでありますが、つまり一九二〇年代に入ってから中等
教育は少し増えてまいりましたけれ
ども、どちらかというと戦前のものは国家有為な特定の人材を養成していくという絞られた中等
教育、つまり限られた者のための中等
教育システムでありました。
御承知のとおり、戦後はアメリカのシステムが入ってまいりまして、セカンダリー・エデュケーション・フォー・オールという、すべての者のための中等
教育ということがこの国のもう共通になりました。これはもう名は体を表す。九七%ということで、量的にはもう完全に実現をしておりますが、私に言わせれば、どこの国でも常識でありますけれ
ども、中等
教育の中身についてあえて言えば、空洞であります。ほとんど中等
教育、せっかく世界に冠たる立派な六年の初等
教育、これ世界比較をしましても、何度やっても
我が国はほぼトップに出てきます。まだこれ、うかうかしているとほかの国、小さな国なんかにはやられますけれ
ども、トップに出てまいります。それはシステムがきちっとしているからです。どこに生まれても、そして
学習指導要領をきちっと持っておりますから必ず基礎、
基本は教わっているという、これは大事なことです。
ところが、この中等
教育については、戦後、せっかく発達をしてきましたけれ
ども、中等
教育の六年間を本当に良かったなと思って卒業する生徒が本当に少ないのであります。あえて言えば二割か二割五分、相対的優位性を持って受験戦争に勝ち残った者が中等
教育である種、特異で出てまいります。しかし、その他の者は、評価基準がたった
一つなものですから、つまり成績順に並べてみたら、君は、あなたは勉強ができないなと、こういうことで、中等
教育の一番大事な、何のために行くかというと、それは
学習しに行くわけですが、そのことが面白くないんです。もう今日ではそれが
中学校で起こっている。
中学校で
導入を誤っているんです。当たり前です。
小学校のところで既にみんな差があるんです。もう塾が今日発達をしておりますし、各
家庭がもう一人、二人の
子供に対して非常に
教育を、様々です。
そうしますと、それに同じ内容の
教育を同じ時間、同じ方法で教えて、それは、それに分かる分かるということで付いていく子と分からない子が出てくるのは当たり前です。こういうやり方を当たり前のように、しかも各
教科細切れで教えていたのでは、
子供が本当に面白いという
教科の
導入になっていないというのが私の問題意識であります。つまり、出口についても、本当に良かったと。先ほど体験
学習のこともお話に出ました。これなどは極めて大事な
教育目標です、中等
教育の学生にとって。
実は、先ほど申し上げましたいわゆるトップ層の受験エリートと言われる
子供たちを、私はたまたまある小さな国際交流財団の理事長をしておりまして、アメリカへ毎年、フューチャー・ワールド・リーダーズ・サミットと言うんですが、将来の世界のリーダーのためのサミットという、世界の
高校、世界の各国の四十か国ぐらいの
高校生が環境問題とか開発とか貿易とか人権とか平和とか軍備とかという十ほどの重要なテーマについて
英語で一週間議論するんです、お互いに。そして、レゾリューションを出すんです。
英語は何とか付いていくようになりました。なるでしょう。これは国際
社会、そうしなければいけないと思いますが、しかし問題はそういうディスカッションに付いていけないんです。そういう問題を
高等学校等で本当に、テーマを与えられて、調べてきて、みんなの前で
提案をして議論をして、そういう過程の経験を持っていないんです。そこで大きな戸惑いをします。つまり、これは、インターナショナルバカロレアのカリキュラムなんかと比較したら
日本の
教育課程はもうすっかり後れておりますが、もう世界からも取り残されてしまいました。つまり、
教育課程について、中等
教育、特に
高等学校の
先生、正に、あえて中等
教育と言いますが、
先生方がカリキュラム開発ということについてほとんど意識がないんです。
つまり、あの
教科書使用義務というのが
高校にも、これは
小学校の使用義務があるし、
中学校にも
高校にも当然のことながら今まであって、だれも不思議に思っていなかったんです。
高等学校に、例えば
社会科でたった
一つの
教科書というのは、
先生方にとってはもう全く楽なことです、こう言っちゃ失礼ですけれ
ども。その内容、毎年やっていることを
子供に伝えると。こういう中からは、今言ったように、
子供の本質を見付けて、そして課題を与えて、教材のそろえ方を
考えて、そして指導方法を様々に
工夫をして、それは一人一人違ってくるかもしらぬ、そして、それを達成を、きちっと評価をしてみて次のカリキュラム開発の基準につなげていくという、こういう迫力が今日の
高等学校、中等
教育にはほとんどなくなってしまっている。つまり、中等
教育がそういう部分がなくなってしまっていると思っております。
私は、そういう意味で、これはいささか極論でありますが、
高等学校の
教科書使用義務ということについて
考え直してみるという
考え方について、これは
大臣、コメントだけで結構ですから、どうぞ、これはもう簡単なことではないと思いますが、
是非お答えをいただきたい。