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参考人(
片倉邦雄君) 私は四十年ばかり
外務省に勤務した者でございまして、アラビストとして一九六〇年に
中東の現場を踏んだわけでございます。湾岸のサウジアラビア、イラン、イラク、そして
最後にエジプトで上がったわけでありますが、私の述べますことは、決して理論的に精緻なことではなく、むしろ実践的な体験論でございまして、何とかひねり出してどういうふうにするか、ハウツーといいますか、今後一体何を
日本としてしていったらいいかというところに絞ってまいりたいと思います。
やはり、西
アジア、
中東とは
日本は一万キロも離れておりまして、
歴史的な
関係も非常に希薄であったと。明治維新前後まで
日本はほとんどノータッチであり、やはりイギリス、
フランス、
ロシア、そして
アメリカの影響力を、
アメリカが影響力を行使する
地域であったわけであります。
これがぐっと
日本に近づいたのは一九七三年、油かアラブかと言われました第一次石油危機、オイルショックのときでございまして、
経済エネルギー
交流というものが主体となって、このときは平和裏に
交流が行われたというわけでありますが、言ってみれば、物である油が中心になって、商品として
日本に安定供給を受けるために努力したわけであります。これがより深刻な、真剣な、大規模な
日本人と
中東、
イスラムの人との接触に発展していきますのは、今から十三年前の第一次湾岸危機のときでございまして、これは非常に厳しい経験を強いられたわけですけれども、二百五十人から成る女性や子供も含む邦人人質が拘束されたということであります。
今回、イラク戦後に発展しております状況で、これは、
政治的な立場は是非、いろいろ今激しく論じられているところでありますけれども、数百名あるいは千人に上る自衛隊員がこの
イスラム世界の一角である南イラク、サマワに入っていくと、そして
イスラム社会とコンタクトを行うと。場合によっては、特にこれらの住民の対日
理解がうまくいかない場合は犠牲者が出ると。もう既に
外務省の優秀な二人の職員が犠牲になっておりますけれども、血が
流れると。こういう非常に深刻な事態が予想されると。こういう意味で、正に
イスラム諸国における対日
理解の促進ということは焦眉のことであるというふうに考えております。
メモ書きに入りますが、第一は、ちょっと走ってまいりたいと思いますけれども、
歴史的に見た場合に、言わば
日本に対する
イスラム諸国の古典的なイメージ、古典的なイメージというのは
日本への敬意、あこがれであったというわけであります。
特に、日露戦争を
機会に
日本女性を賛美する詩が教科書に表れる。これはエジプトのハーフィズ・イブラヒームという詩人の作品でありますが。また、エジプトの
政治家ムスタファ・カーミルが日いずる国と
日本を賛美して、近代化の手本にしようという記録が残っております。また、青年トルコ党の革命指導者カマール・アタチュルクも、正にオットマン帝国をひっくり返して近代化に向かった。その場合に
日本のモデルがあったということであります。
さらに、
時代が下りまして、
日本での太平洋戦争以前あるいは戦中の回教
研究熱というのは著しく高まったと。この国会におきましても、帝国議会でありますが、昭和十四、五年に谷外務大臣が
日本の回教政策ということで議会演説をしている記録が残っておりますし、また林銑十郎首相が
日本の
イスラムの父として、そういう名前をもらったこともあります。すなわち、主として
日本がエネルギー確保のために目を向けていた南方、現在のインドネシア方面で宣撫工作とか占領政策の一環としてこの回教
研究が使われたという
歴史があります。
しかしながら、
イスラム教徒はキブラ、すなわちメッカの方向しか祈らない。そちらの礼拝の方向は決まっておるわけですけれども、宮城遥拝を強いて反発を招いたというような記録が、ここにあります齋藤鎮男元大使の「私の軍政記」などで残っております。
戦後になりますと、やはり
日本の独自のエネルギー開発ということで、出光の日章丸事件とかアラビア石油の第一号井の成功と、カフジでありますけれども、これが起こってまいりまして、
イスラム諸国において
日本は独自のエネルギー開発に乗り出してきているということで、この
民族、こういう産油国における
民族主義に呼応した
日本のアプローチという意味で強い印象を与えたわけでありますが、一般的に言いますと、
経済技術大国として近代化のモデル、勤勉実直な
日本人、また終身雇用、年功序列といったような
経済秩序、一般に
経済至上主義の
日本というイメージがあったかと思います。パキスタンのブットー元大統領のエコノミックアニマルといった
日本に対する烙印というのもこの辺から出てきております。また、非核・平和
国家、
中東問題では帝国主義あるいは植民地主義として主義
国家でない
日本、手を汚していない
日本という意味で、パレスチナ問題等で期待感があったわけであります。
これらの言わば古典的なイメージというものが一九七〇年ぐらいから変容してきており、また対日イメージも変化してきているということを述べたいと思います。
これは、彼らの方が変わってきていると。
民族主義から
イスラム回帰へ。これは一九七九年のイラン・
イスラム革命くらいから非常に明らかになってきておりますし、この二ページ目のところに現在も使われているイラクの国旗が図版でございますけれども、イラク共和国、サダム・フセインの下で
アメリカに、あるいはサウジアラビアに対する敵意ということで、我々の方が
イスラム世界では本尊であるというような考えで、第一次湾岸危機の際に、国歌に、アッラーホ・アクバル、神は偉大なりというものを付けたわけでありまして、これが実は私は非常に不思議だと思うんですけれども、サダム・フセインが倒れた後、現在もイラクの国旗としてそのままとどまっていると。最近来たイラクのサッカーの選手たちも胸に付けておるわけでありまして、この辺のところは彼らのアイデンティティーが定着しているのかなと思います。
第二番目に、実は、言わば成金国であった
中東の産油国でも財政が悪化する、インテリ失業者が増大する。特に、都市部門におきましてインテリルンペンが多くなってきておりますし、就職難の
時代に入っていると言えます。また、
民族自決・抵抗運動と。これはパレスチナが大本でありますけれども、チェチェン、そして現在イラク、これはテロではないという主張を国連の累次の
議論の中に展開していると。
それから三番目には、グローバライゼーションの一環でありますけれども、インターネット世代が増大して、
世界のネットワークに直ちにつながるような世代が増えてきております。これに応じた新しいニーズも出てきていると。
四番目には、これは
日本に対する彼らのイメージの中で深刻な部分でありますが、ネオコン対テロ闘争と。言わば異
文化を武力によって制圧できると、そして民主化の押し付け、あるいは民主化ドミノを図っていくという
アメリカの新しい現在の政策に
日本は盲従しているんじゃないかと。これは今の
イスラム諸国あるいは西
アジアの人々と話すときにぶつけられる問題であります。
五番目には、ルックイースト政策の消滅ということでありますが、マハティールが現役のとき、そして現在も
イスラム諸国会議のイデオローグとして発言をしたりしておりますが、どうも
日本をお手本にしようといういわゆるルックイースト政策は何か撤回しているんじゃないかと。看板をどうも下ろしているようであります。
そこで、ハウツーでありますけれども、私は、
日本に対する期待というのはソフトパワーとしての
日本に期待する。
第一に、
日本近代化の秘訣といたしまして和魂洋才を訴えるというのは、なかなかのアピール力があるのではないかと思います。
私自身も伝統スポーツ、柔道をやってきた者でありますが、そういう意味で国際
交流基金にも出向し、伝統スポーツが
中東あるいは
イスラム圏との間には非常にいい
交流の手段になるのではないかと今でも考えているものであります。
心技体の一致といったようなこの
考え方というのは、もちろんこれを簡単に、何といいますか、モンタージュすることはできないんですけれども、
イスラム教義上のタウヒード、統一というものにかなりオーバーラップするといいますか、輪郭が合うものがあって、この点はアピールすることがあると。
また、ODA、NGOにおける技術協力、特に医療分野における協力実績の拡大というのは、その協力に当たる医師あるいは看護婦が東洋医学の紹介も兼ねてそういうことを
相手に訴えると。これは十世紀から十一世紀に近代医学の祖と言われます、あるいは統合医療の祖と言われますイブン・シナがイランにて、またアラブ圏におきましても非常な現在尊信をされております。欧米においてもこのイブン・シナに対する評価は非常に高いものがある。こういったようなイラクの十三病院に対する協力を行う場合もこういったようなものを考慮してこの医療を進め、医療分野における協力を進めるということは大切ではないかと思います。
二番目には、河野イニシアチブ、先ほどから両
参考人が触れておられるところでありますが、これは是非
イスラムの
考え方、イルムを知り得ることが人生最大の
目的というのがコーランにもありますが、知的な
交流というものを、知的
対話というものは、この歯車がかみ合う分野であると。これはいろいろな分野で考えられますけれども、あるいは女性、メディア、あるいはその他のいろいろな分野で
交流していくということはいいのではないかと思います。もう既に国際
交流基金とかそのほかのNGOを通じて現地のニーズに応じた講演、音楽、演劇、展示、映像
文化、特に劇画、漫画のたぐいでございますね、既に行われているわけでありますが、より積極的に大幅に拡大していく必要があるのではないかと思います。
四番目には、
言葉の問題でありますが、
アラビア語は国連の公用語六か国語の
一つであります。
イスラム諸国会議の中でもこの
アラビア語の価値
言語としての尊敬を集めているわけであります。したがいまして、まだ
アラビア語を十分にこなせる人は比較的少ないということは御指摘のとおりでありますが、
外務省でも大体百人ぐらいはアラビストがいるわけです。使い物になるかどうか、第一級の通訳とかあるいは翻訳家ということになりますれば少ないと思いますけれども、これからも
アラビア語、ペルシャ語、ヘブライ語といったような現地用語を作って、もっと積極的に作っていかなければならないのではないかと思います。
最後に、これはまあ私自身、あるいは私の家内も
イスラム研究やっておりますが、二人のこだわりなんでございますが、
日本における公共施設にメディテーションルーム、これは国連にもこのメディテーションルームが国連発足以来あることは御承知のとおりだと思います。瞑想の部屋、祈りの空間と。これは無宗教といいますか、特定宗教とはかかわりないんですけれども、このメディテーションルームをなぜ
日本の公共施設は
一つもないのかと。国連本部にもありますし、諸先生、海外に出張される場合に主要な国際空港に必ずあります。これは
キリスト教の、あるいは回教、
イスラム教、ユダヤ教、まあ祈りたい方は待合の間にちょっと入ってお祈りをする。そこには何もない、しかし瞑想の空間であると。祈りをする。
これは法制上、
日本で問題なのかもしれませんが、かなり前から私も、例えば国際
交流基金の語学センターにこの祈りの空間を置いたらいいんじゃないかと、原案はあるんですけれども、途中で必ずなくなるんですね。いやもったいないと。そのくらいなら研修室をもう
一つというようなことで、常にこれは消えておりますが、ひとつこの点は
イスラム教徒のみならず、
日本のやはり精神
文化を示すものということで、ひとつこのような形の瞑想空間を作るように御指導いただきたいと、こういうふうに思っているわけであります。