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参考人(
竹花光範君)
竹花でございます。お招きをいただきましてありがとうございました。
私も時間の関係で
憲法改正の
概念の
明確化、
浦部先生と同じような
内容の
お話を申し上げることになりますが、
見解はかなり違いがございます。全く逆の
見解であると言っていいかと思います。
憲法改正というのは、
レジュメにも書いてきましたけれども、
一般に
成文の
憲法につきまして、
憲法典が自ら定める
手続に従って改定、削除、
追加という
方法で意識的に
変更を加えることであるということであります。
アメリカ憲法の場合は特有な
改正方式でありまして、
憲法典増補といいますけれども、
憲法典の末尾に
改正箇条を増補していくと。増補された
箇条と
既存の
箇条との間に矛盾がある限りにおいて
既存の
箇条が
変更されたことになるということであります。
日本国憲法もこうした
方式の
改正が可能であるかのようなことを申される方もいらっしゃいますけれども、
日本国憲法はいわゆる
成文の
憲法典でありますし、我が国はいわゆる
大陸法系の
国家であるということを考えますと、
改正というのは
日本国憲法の
条文を書き改めるという、そういう
方式で行われるべきであると、そういうふうに私は考えております。
先ほどの
浦部先生の
お話にも出てきましたけれども、九十六条の二項に「この
憲法と
一体を成すものとして、」という
文言が確かにございます。これは
合衆国憲法の第五条、アズ・パート・オブ・ディス・コンスティチューションに由来していると言われております。恐らく私もそうだろうと思いますが、ただ、この
文言は
日本国憲法の
文言でありますから、
アメリカ憲法の
解釈をそのまま持ってくる必要はないんであります。
この
文言につきましては、私はこの
日本国憲法と同じ国の
最高法規としての
形式的効力を有するものとしてと、こう解すればいい、あるいはこう解すべきであるというふうに考えております。したがって、この
文言があるから、
アメンドメント方式といいますけれども、
憲法典増補方式、
アメリカ憲法の
改正方式と同じような
方式が取れるかというとそういうことではないということであります。
それから、この
文言を
理由にもう
一つ、
全面改正は
日本国憲法の下ではできないんだという
見解がございます。
全面改正したものが
日本国憲法と
一体を成すものなんということは言えないからだというわけでありますけれども、私は、こうした
考え方は余りに
条文の
文字面に引きずられた
解釈ではないかと思います。今申し上げましたように、これは
日本国憲法と同じ
日本国の
最高法規としての
効力を有するということを
意味している
文言なんでありまして、決して
全面改正を禁止している、そういう
趣旨の
文言ではないと、このように理解しております。
なお、
改正の
内容につきまして注目して、ある特定の
条項、特に
憲法の
基本原理と言われるような
条項の
変更、これは合法的な
手続に従って行われたとしても、
憲法秩序の全面的な交替を
意味するのであるから
憲法改正とは言えないんだという
見解がございます。ただいまの
浦部先生、そのような
見解に立っておられるかと思うのであります。いわゆる
憲法改正限界説でありますけれども。
私は、
同一の
憲法典の中に
改正できる
条項とできない
条項があるといった
考え方は取りません。すべて同じ
憲法の一
条項であるわけでありまして、それらの間に優劣、上下はないというふうに考えております。
主権者、それが決断するならばいかなる
条項も
改正が可能である、
現行日本国憲法の下では
国民が
主権者でありますから、
国民が決断すれば
日本国憲法のいかなる
条項も
改正が可能である、こういった
改正無
限界説が私は妥当であろうというふうに考えます。
なぜなら、
憲法改正というのは、
言葉を換えて言えば、
主権者が
憲法の定める
手続に従って
主権を行使することによって
憲法典に
変更を加えることにほかならないからであります。この場合の
主権は
憲法制定権力の
性格を有します。
憲法改正権も実は
憲法制定権力でありまして、
改正権の場合は、
憲法の定める
条件の下に、
憲法改正手続が定める
条件の下に行使される
憲法制定権力である、こう解すべきだろうと思います。
こうした
見解は、例えば
フランスではもう通説的な
見解として広く受け入れられているところであります。例えば
フランスの
代表的な
憲法学者G・ヴェデルによりますと、
憲法制定権力というのは
憲法を作る力と
憲法を改める力を含んでいると。
憲法を作る場合には、無
条件的にそれが行使されるのである。
憲法を改める場合には、その
憲法が定めている
条件の下に行使されるんだと、こういうことであります。私もこうした
見解に立っております。
それから、こうした
憲法の
改正は、当然、単純に法の
形式についても行われますし、また
内容についても行われるわけであります。
一般に
憲法の
改正といいますと、
法形式の
変更がそのまま
法内容の
変更を招来するというのが通例であります。しかし、厳密に言いますと必ずしもそうとは限りませんで、例えば
片仮名文を
平仮名文にするとか、旧
仮名遣いを
現代仮名遣いにするとか、あるいは明らかな用語の誤りを正すといったような、
表現方法を変えるといった
法形式の
変更は、そのままでは
法内容の
変更にはならないということでございます。
それから、若干前後いたしますけれども、先ほど
憲法改正の
限界の問題について触れました。従来、我が国では、この問題については専ら
内容的
限界が議論の対象となっておりますけれども、私は時期的
限界の意義というものを考えてみる必要があると思います。
先ほど言いましたように、
憲法改正というのは、
主権者がその
主権を行使して
憲法典に
変更を加えるということだということになりますと、
主権者の意思表明が自由に行えるというのが大
前提であります。そうした自由な意思表明ができないような時期での
改正を禁止すると、これが時期的
限界ということの
意味でありますけれども、
日本国憲法は御存じのように占領下に作られたわけであります。GHQ民政局のスタッフによって原案が作られたことは歴史上の事実であります。こうした経験を持っている我が国におきましては、やはりこの時期的
限界の持つ
意味というものを重く考える必要があるんじゃないかと思います。
ちなみに、一九四〇年、ナチの侵攻によりまして第三共和制が崩壊して、ナチのかいらいとも言われるビシー政権が成立いたしまして、その下で一九四〇年
憲法が作られました。
フランスは、戦後になりまして、この一九四〇年
憲法は無効であったという宣言をいたしまして、こうした経験を踏まえて、一九四六年の第四共和制の
憲法では、占領下における改憲禁止の
規定を置いたわけであります。これが
代表的な時期的
限界に関する立法例と言っていいと思います。この
規定は現行の第五共和制
憲法にも引き継がれまして、八十九条におきまして、領域の保全に侵害が加えられている間の
改正は認められないという
趣旨の定めとなっております。
将来、
日本国憲法の
改正という場合には、
改正条項にこうした時期的
限界に関する
規定を
追加するということを考えてみる必要があるのかなと、そんなふうに思っております。
憲法が国の
最高法規である、あるいは基本法であるということは今更言うまでもないわけでありまして、
日本国憲法は
最高法規の章の九十八条の一項にそのことを確認的に定めているところであります。このことは、
憲法には普通の法令よりも高度な安定性が要求されるということでもあるわけでありますが、しかし
憲法も法でありまして、時代の私は産物であるというふうに呼んでおります。
カール・レーヴェンシュタインというドイツ生まれのアメリカの著名な
憲法学者はこんなふうに言っております。「全ての
憲法は、いわばその
制定時に
存在する現状を統合するだけで、将来を見越すことはできない」。同じ
趣旨のことをイギリスの著名な
憲法学者K・C・ウィアも述べておりまして、彼によれば「
憲法とは、その
憲法を採択する当時において働いている政治的、経済的かつ社会的な諸々の力の平行四辺形の合成である」というわけであります。
ちなみに、
日本国憲法は、このK・C・ウィア流に言うならば、昭和二十一年当時において働いていた政治的、経済的かつ社会的な諸々の力の平行四辺形の合成であるということになるわけでありまして、その後、半世紀以上の時の経過は、不可避的に
憲法の
規定と現実の政治的、経済的、社会的な諸々の力との間に大きなギャップを生み出しているということになるわけであります。
憲法が成立した当時、考慮の外にあった事態が現実となったときに、その現実と
憲法とを適合させて、更に長期にわたっての適用を確保する。
憲法改正というのは正にそのための手段だということになります。それだけに、それは当然平和的にスムーズに行われなければならないのでありまして、必要に直面してからどのような
手続によるかを議論するというのでは遅いというわけであります。そこで、多くの
憲法が自ら定めを置きまして、そのような事態にいつでも対処できるような措置をあらかじめ講じているということであります。
日本国憲法も九十六条にそうした定めを置いているわけであります。
不磨の大典と言われました明治
憲法にも、七十三条に
改正手続が置かれておりました。明治
憲法の起草者であります伊藤博文が、同
憲法の解説書であります「
憲法義解」の中でこう言っております。「法ハ社会ノ必要ニ調熟シテ、其ノ効用ヲ為ス者ナリ、」、法は社会の必要に調熟してその効用をなすものなり。したがって、法というものは社会が変化すればそれにつれて変わらざるを得ないんだ、
憲法もしかりと。その際には、この
手続を踏んで
改正を行ってほしいんだと、そういう
趣旨で七十三条を置いたというふうに説明をしているのであります。
さてそこで、時間が迫ってまいりましたけれども、
レジュメの一ページ目の2、「
改正手続の問題点」、そこに入ってまいりたいと思います。これは、
日本国憲法九十六条の
手続について問題点を私なりに指摘したところであります。
現行の九十六条で一番大きな問題点は、
国民投票制をどうしたらいいのかということだろうと思います。現在はあらゆる場合に
国民投票が要求されております。これを強制
国民投票制といいますけれども、こうした制度は世界的に見ましても極めて希有な制度でありまして、多くの諸国は
国民投票制を取っていましても任意的あるいは選択的な制度としてであります。
フランスの場合は、大統領の任意でコングレと言われる両院合同会にかける
方法と、それから
国民投票にかける
方法を選ぶことができます。コングレに掛けますと、有効投票の五分の三の
賛成で
改正が成立をすると。
国民投票にかける場合は、両院で総議員の
過半数で可決し、その上で
国民投票にかけるという
方法であります。
それから、イタリアの例も参考になるかと思いますが、イタリア
憲法だと百三十八条になろうかと思いますが、両院で総議員の
過半数で三か月を隔てて二度可決をすると
改正。その後、一院の議員の五分の一、あるいは五十万人の選挙権者、五つの州議会、この三者のうちのいずれかが要求した場合には
国民投票にかけられると。この三者から要求がなければ、総議員の
過半数で三か月を隔てて二度可決すればそれで
改正は成立と。それから、二度目の投票におきまして両院で総議員の三分の二の多数で可決されれば、もうこれは
国民投票にかけない、それで
改正が成立するということであります。
こういった任意的、選択的な制度として
国民投票制を取るということが我が国の場合も考えられるのかなというふうに私は考えているところであります。現行のような強制
国民投票制はいかがなものかということであります。
それから、
改正手続では、表決数につきましても総議員の三分の二とされておりますけれども、
国民投票にかけるということであれば必ずしも三分の二は要求する必要がないのではないか。イタリアのように
過半数、あるいはそれでは少ないというんだったら法定議員数の五分の三ぐらいの
賛成でいいのかなと、そんなふうにも考えているところであります。
それから、そのほか
改正手続に関しましては、例えば
改正案の発案権者がだれであるのか、それから改憲
国会における表決数の基礎が法定議員数なのか現在議員数なのか、こういうことも明らかにする必要があると思います。つまり、現状では九十六条は使えない
規定になってしまっているということです。
発案権者につきましては、現
憲法に明記がないため、特に内閣にそれを認めるべきかについて議論がありますけれども、私は、
国会が自由に修正も否決もできるということであれば、内閣の発案権を認めても問題はないというふうに考えています。
それから、議員発案の場合でありますけれども、これは何人の議員で発案するのかということ、この点については
国会法の
改正によって
国会法で明記しておく必要があるかと思います。
それからさらに、
改正案が発案された場合にその後の審議はどうするのかと、この点もはっきりしておりません。これも
国会法の
改正で明記する必要があると、そんなふうに考えます。
それから、両院で総議員の三分の二の
賛成が必要だとされていますけれども、その総議員とは何ぞやと、これもはっきりしていません。これはまあ
解釈上の問題ということでしょうけれども、はっきりさせる必要がある。私は、これは法定議員数であるというふうに解しております。
それから、そのほか、
改正ということが実現するという段階になりましたら、先ほど申し上げましたけれども、
改正手続条項に
憲法改正の時期的
限界に関する
規定を置くべきだろうと。具体的には、被占領下における
改正の禁止と、それから非常事態宣言が発せられている間の
改正の禁止と、こういうことが考えられるかと思います。
それから、九十六条では、両院で総議員の三分の二の可決の後に
国民投票にかけてその
過半数の
賛成が必要だとされておりますが、その
国民投票の実施についての
法律がいまだ
制定されておりません。
日本国憲法が施行されて半世紀以上もたつのにこうした状態というのは、立法不作為という声もありますが、そこまで言わないまでも、私は、
憲法改正の発議機関で、
憲法で唯一の立法機関とされている
国会として怠慢のそしりは免れないのではないかと、そんなふうに思います。
最後に、
最高法規の章について若干触れておきたいと思いますが、現行の
規定のうち、章のタイトルと一致する
内容は九十八条の一項だけではないかと思います。九十九条については若干の関連性はありますけれども、九十七条は、本来、権利・
義務の章に置けばよい定めだろうと思います。それから、九十八条の二項につきましては、むしろ新たに外交・防衛といったような章を立てまして、その冒頭に置くべき定めではないかと、そんなふうに考えております。
それから、むしろ新たに
最高法規の章には国のシンボルに関する定めを置くということが考えられるのではないか。具体的には国旗・国歌等に関する定めということであります。
国旗や国歌など国のシンボルに関する定めは最近の
憲法に多く見られるところでありまして、例えば
フランスでは第一章に国旗・国歌についての定めが置かれておりますし、ドイツでは第二章で国旗の定めがある。イタリアでも冒頭の
基本原理の章に国旗の定めが置かれているところであります。
私も、
憲法改正が実現するということになりましたら、
最高法規の章にはこうした定めを置くべきではないかなと。下位の法規にこうした国のシンボルに関する定めをゆだねるのはいかがなものかと、そんなふうに考えております。
大体与えられた時間が来たようでございますので、これで私の陳述を終わりまして、足らないところは後ほど御質問を受けた際に補充させていただきたいと思います。
ありがとうございました。