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鈴木(淳)
分科員 私は、一昨年の春でしたが、そこで働く私の友人から、所長さん以下
スタッフが、この
施設の
社会的存在意義の大きさから見て、必死になって何とかその
機能存続を図るべく努力をしておられるということを聞きまして、その
実情を知るためにお邪魔をしてまいりました。
当時は、
平成九年の
存続運動の結果で当分の間とされた五年間の
暫定期間が過ぎまして、まさにその先がどうなるかわからない、そうした時期でありましたけれ
ども、私がそこで見ましたのは、
教習生の
皆さんがお互い助け合いまして、励まし合って
運転免許取得に励み、
スタッフの
皆さんが、まさに親にもまさる愛情でそれをサポートされるという、実に感動的な光景でありました。以来、何度か足を運ぶたびに、改めてその
社会的存在意義の大きさを痛感する次第でございます。
そこで得た私の率直な感想は、
労災患者、
一般身障を問わず、この
施設が単なる
自動車教習の域にとどまらず、
共同生活の中で、
教習生相互が助け合って、励まし合って
運転免許の
取得を目指す
過程そのものが、実は彼らにとって極めて重要な
社会生活に踏み出す第一歩でありまして、その
意味で、真の
社会参画への具体的なステップになっているという
確信でありました。
労災患者や
身障者にとって、
運転免許の
取得機会を残すことは、ある面まさに彼らの生存権的な権利を
社会としていかに保障するのか、こういうことになろうかと思うわけであります。
私が出会いましたある女性の
教習生は、こんなことを言っておられました。その方は
重度の
筋萎縮症で、実は
スタッフの方から事前に、いつまで命が長らえるかわからない、こういった
状況の方だと聞いておりましたけれ
ども、その方がこんなことをおっしゃっていた。その方は、目を輝かせてこんなことを言うんですね。これまで私はどこかへ行こうとしても、そのときは人に頼まなければ行けなかった、しかし、
免許を取ったら、これからは私が人を運んであげられるんだ、連れていってあげられるんだと。私はとても感動しました。
私は、
身障者の方にとって、
運転免許というのがまさに
社会との接点をつなぐ重要なツールなんだな、こういうことを改めて
確信をした次第でございます。
運転免許の
取得が必ずしも
就労に結びついていない、こういう
指摘があることは聞きます。しかし、我々
健常者にとっては当たり前でありますが、行きたいところへ行く、自分の足で行く、そうしたことが、
障害者にとってみれば、まさにそれを保障することが
障害者に
精神的支柱を与える、同時に、そうした
機会を与えることが、残すことが、
最後に
政治に対する信頼を残す、こういうことにつながるのかな、こう思うわけであります。
重度の
障害者の
運転免許取得機会を絶対に奪ってはならないと思います。
ただ、
行政に、後先を考えずに、ただ単に残せと言うのは簡単なことでありますが、しかし、それでは問題の根本的な解決にはなりません。重要なのは、
社会の中でこうした
機会をどのように位置づけて、どのように
存続させていくのか、また、その
運営はいかにあるべきかということを真剣に議論することだと思います。そして、本来、
平成九年から今日までの間が、実はその答えを見つけるための
猶予期間ではなかったのか、こう思うわけであります。
この問題は、実に難しい
行政の
はざまにあります。かつての
行革の論議の際に、
行政監察によって、
労災勘定で
運営する
教習施設でありながら
労災患者以外の
一般身障を受け入れるということに対しまして、
目的外業務運営、すなわち
予算流用の
指摘がなされまして、
平成七年二月の「
特殊法人の
整理合理化について」の
閣議決定を受けて
廃止が決まりました。それ
自体は決して間違っているとは思いません。しかし、当時は
厚生省と
労働省が別々でありました。
労災患者は
労働省、
身障者は
厚生省の管轄。
行政の
細分化の中で、
縦割りの中で、それはもちろん
行政の
効率化のためには必要なことだと思います、しかし、その
職務に忠実であろうとすることが、実は結果的に
はざまにある問題に対処し切れない、こうした事例をここに見るわけであります。
ところが、
現場においては、
労災だろうが
身障だろうが、そんなことはどうでもいいんです。いかにこうした
方々について、
運転免許取得機会を保障して、
社会参画と
就労機会を与えることができるのか、その
機能担保をどうするんだということが重要なのであります。幸いにして、今は、
厚生省と
労働省が一体になりました。上からの
発想ではなくて、下から、すなわち
現場からの
発想でこの問題に取り組む、その視点が必要かと思います。こうした
実情をどう救うか、そのためにどう
知恵を出すのか、私は、そうした問題に自発的に取り組む
行政の感性というものを期待したいのであります。
しかし、これは同時に、私
たち政治の
責任でもあります。本来、この種の問題は、
行政の
スタッフが、
職務に忠実、効率的であろうとすればするほど対処できない隘路にある問題でありまして、それを越えるのは、本来、私
ども政治の
責任、
役割であるかと思います。きっちりとここで
政治の課題として取り組んでいかなければならない、こう思う次第でございます。
さて、朝日新聞が地元で二月十六日に報道した記事によりますと、また、
現場から聞こえてくる情報によりますと、
厚労省は
教習所の
存続を前提にした
民間移譲を考えているようだ、こういうことでありますが、条件を付した上で競売をして、
民間教習所に
助成金を与えて
運営させる
方針が
検討されているということでありますが、それで果たしてこれまでのような
機能が本当に担保されるんでしょうか。
私は、
行革を否定するものではありません。また、
民間を否定するものではありません。
総論賛成、
各論反対が
行革を阻む大きな
障害であることはよく知っています。また、
民間でも立派に
障害者を受け入れている
教習所の
存在を知っています。しかし、それでもなおかつ、
全国から
愛知リハに集まってこなければならない
障害者が多いというのはなぜでしょう。親元を離れて、遠く
愛知の地まで来なければならなかったのは、ここでしか
教習を受けられない人が多かったからではないか。まさに、
民間では受け入れられない
重度の
障害者、その方の
最後のやはり寄る辺ではなかったのかと思うわけであります。
たゆまぬ
行革の推進の
必要性は理解するものの、
事本件に関しては、
効率性あるいは
経済性の論理での
民間移譲に必ずしもなじむ問題とは思いません。やはりこの問題については、実際の
運営がどこであり、国としてきちっと
責任を持って対処していくことが不可欠であると考えます。
民間が
施設を
運営することは、それ
自体が悪いとは思いません。しかし、
助成金を与えてそれを一定期間コントロールしていくということだと思いますけれ
ども、それで本当に
愛知リハがこれまで果たしてきた
役割というものが担保できるのか、採算が絶対にとれないと思われるこの
事業を果たして
民間が
責任を持ってやり得るのか。かつて
労働省は、利益の出る
事業じゃないので
民間委託は不可能だ、こういうことを言っておられました。もし
民間になった場合に、果たして
教習費用は幾らぐらいになるんでしょうか。やはり、こうしたことで、
民間移譲の中で、
重度の
方々に対する
運転免許の
取得の
機会を、その道を閉ざすんではないか、その疑念がぬぐい去れないのであります。
私も、実は正解を持つわけではありません。しかし、
民間教習所と国と
障害者団体が一緒になって
運営を
協議して、それを受けて
民間が実際の
運営を担うとか、そうした
協議会の仕組みのようなものはできないものでありましょうか。どうしたら
機能を保つか、国として
責任ある関与ができるのか、
社会的にしっかり位置づけられるのかということを、ぜひその点で
厚労省の
皆様方には
知恵を絞ってほしいと思いますし、ともに考えたいと思います。
さて、
坂口大臣は、かつての
平成九年の際、それに関与されまして、この問題について随分造詣が深いと聞きます。
厚労省のトップとして、今後の
障害者問題の先駆けとなる名案をぜひ導き出していただきたいと思います。
愛知リハビリテーション自動車教習所の今後の
あり方、
機能存続について、
厚生労働大臣はどのようにお考えか、
お尋ねをいたします。