○
佐藤参考人 佐藤でございます。
平成十三年六月十二日に
司法制度改革
審議会は最終
意見書を内閣に提出いたしました。以来、皆様の格別の御尽力によりまして、
意見書の提言が着実に具体化、
実現してきていることに、大変うれしく思いますとともに、皆様に対して心からの感謝の意を表したく存じます。そして、きょうまた、
裁判員制度の
導入等に関連して
参考人として
意見を述べる機会をいただきまして、ありがとうございます。
取り上げるべき論点は多岐にわたっておりますが、改革
審議会以来のこの
司法制度の改革に
関係してきた私の立場やあるいは私の専門等に照らしまして、
裁判員制度を中心に、しかもその中でも重要と思われる、あるいは世上関心を持たれていると思われる論点に絞ってお話し申し上げたいと存じます。
まず最初に、そもそもなぜ
裁判員制度かについて所見を述べたいと思います。
一口で言えば、
国民の主体的、自律的な営みを支える
国民の司法、これを確立するために不可欠の
制度であるということであります。
改革推進本部顧問
会議は、一昨年の七月の
会議で、本部長である小泉総理の意を体しまして、「
国民一人ひとりが輝く透明で開かれた
社会を目指して」と題するペーパーを取りまとめました。そして、その中で、「二十一世紀の
日本を支える司法の姿」として、
一つは「
国民にとって身近でわかりやすい司法」、ファミリアな司法、「
国民にとって頼もしく、公正で力強い司法」、フェアな司法、それから三番目に「
国民にとって利用しやすく、速い司法」、ファストな司法という三つのFの司法像を描きまして、それを
実現するためには、改革
審議会
意見書で提案しました改革の三本の柱、すなわち、
制度的基盤の整備、人的基盤の拡充、
国民の司法参加、これを確実に推進、
実現することが必要であるということを訴えたものであります。
今国会にかけられている
裁判員制度の
導入は、まさに
国民の司法参加の核をなす
制度でありまして、それを確立しようとするものだというように理解しております。
三権の
一つである司法は、これまで
国民から遠い存在でありました。
日本は明治維新によって近代国家の建設に乗り出しましたが、圧倒的な行政主導体制でありました。第二次大戦後、
制度的仕組みは大きく変わったように見えますけれども、圧倒的に行政が主役であるという点は根本的に変わらなかったように思われます。司法は、そういう主役である行政の背後にともすれば小さくかすみ、それだけにかえってお上中のお上といった趣さえ呈していたのではないかと思われてなりません。
しかし、こうした仕組み、やり方ではもはや
日本は立ち行かない、司法はもっと大きな役割を引き受けなければならないということが、一九九〇年前後を境に明白になってきたように思われるのであります。
そもそも、自律的個人を基礎に自由で公正な
社会を築こうとする立憲国家にありましては、政治的
正義にかかわる公共的討論の場、これを政治のフォーラムと呼んでおきますが、そういうフォーラムと、司法的
正義にかかわる公共的討論の場、法原理のフォーラムと呼んでおきますが、この二つによって構成される公共性の空間というものを必要とするというように
考えております。
政治のフォーラムは基本的に
国民一般を対象とするのに対して、法原理のフォーラムは具体的
生活状況の中にある個別的
国民を対象に
正義の
実現を図ろうとするというところに特徴があるというように
考えております。
日本はこれまでいわば片肺飛行を続けてきたのでありまして、
司法制度改革は、まさに
国民の具体的
生活に深く根差した司法のフォーラムを拡充し、本来の双発飛行を現実化しようとするものであるというように理解しております。
平成十四年十一月、参議院の
法務委員会に
参考人として呼ばれた際に、同じく
参考人の四宮
弁護士が、
法律専門家はこれまでの司法の独占者から
国民の
社会生活上の医師、お医者さんへと転換し、
国民の主体的、自律的営みに貢献しなければならないという趣旨の御発言をなさいましたが、その御発言も今私が申し上げたような文脈で受けとめることができるのではないかというように理解している次第であります。
このような司法のフォーラムを
実現しようとすれば、司法が
国民の中にしっかりした基盤を持ち、
国民によって支えられることが必要であります。
改革
審議会
意見書は、改革の三本目の柱である
国民的基盤の確立、
国民の司法参加に関連して次のように述べております。「統治主体・権利主体である
国民は、司法の運営に主体的・有意的に参加し、プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、
国民のための司法を
国民自らが
実現し支えなければならない。」
国民の司法参加にはいろいろな方法がありますけれども、刑事の場での
裁判員制度はその核をなすものであります。
裁判員制度に関して、もう一点強調しておきたいことがあります。それは、その
導入の歴史的意義についてであります。
三谷東京大学名誉教授がそのすぐれた研究において明らかにされているところでありますが、明治維新、明治憲法制定期において既に
国民の司法参加の問題が真剣に語られていたということであります。そのときは結局は
実現しなかったのでありますが、大正十二年、一九二三年三月二十一日、いわば大正デモクラシーの産物として陪審法が成立いたしました。
それに最も貢献した政治家原敬は、枢密院での
会議でこう述べております。陪審の現実は、人民をして司法事務に参与せしむるにあり。我が国においては議会を設けられ、人民が参政の権を与えられたるに、ひとり
司法制度は何ら
国民の参与を許されざりき。憲法実施後三十年を経たる今日においては、
司法制度に
国民を参与せしむるは当然のことなり。
この
法律は昭和三年から十八年まで実施されましたけれども、厳しい戦争状況の中で停止されました。戦後、その復活ないし新
制度の
導入が話題となりながら、結局は具体化しなかったのであります。ただ、
裁判所法三条三項に、「この
法律の
規定は、刑事について、別に
法律で陪審の
制度を設けることを妨げない。」とあります。この
規定は、その当時の状況の片りんをかいま見させるものではないかと思われます。
英米的な陪審制であれ、ヨーロッパ大陸的な参審制であれ、何らかの
国民の司法参加が近代刑事訴訟の根底を形成しているものであるということでありますが、
日本も、ここに来てようやく、新しい時代環境のもとに歴史的な宿題を果たし、
国民がより
信頼できる、よりよい刑事司法をつくろうとしているというように
考えるものでありまして、
裁判員制度の
導入に心から賛同し、その
実現を期待しているものであります。
次に、
法案の
制度設計に関する若干の具体的な論点について述べたいと思います。
裁判員制度は、広く
一般の
国民に参加の
義務をお願いすることになりますが、従来、長らく経験するものでなかっただけに、
国民の間である種の戸惑いのようなものがあるであろうということは十分推測できることであります。
根本的には、既にお話ししましたような今般の
司法制度改革の趣旨、スリーFの司法、
国民にとって身近で頼りがいのある司法を築くために、
国民自身に一肌脱いでもらわなければならないということを理解してもらうように努めること、根本的にはそういうことだと思いますが、もう少し具体的に述べれば、
国民の参加意欲を阻害しないよう工夫し、そして、実際に
裁判員になった
国民が参加してよかったと実感してもらえるようにするということがポイントであろうというように思います。
裁判員制度の趣旨は、
裁判内容に
法律の専門家ではない
国民の健全な
社会常識がより反映されるようになることによって、
国民の司法に対する理解と支持が深まる、これを期待するところにあります。そのような観点から、そしてまた、公正なよき
裁判を
実現するという
国民の共同利益のための
負担は広く
社会全体が担うべきであるという観点から、
裁判員は
一般の
国民、
法律案では「衆議院議員の選挙権を有する者」とありますが、そこから無作為にリストアップされた人の中から選ぶとされていることに賛同いたします。それは、もとより
審議会
意見書の求めていることに適合するものであります。年齢の下限を二十五歳あるいは三十歳とするという
考え方もあったようでありますけれども、二十歳とするということで結構ではないかというように
考えている次第です。
裁判員の欠格事由、就職禁止事由、辞退事由、
事件に関連する不適格事由等、あるいは
裁判員等選任
手続の方式、
理由を示さない不選任の
請求等々について、基本的に私は賛同するものであります。
なお、辞退事由の十六条七号に「次に掲げる事由その他政令で定めるやむを得ない事由」とあり、これに関連して、政府は、思想、信条により
裁判員になることを望まない人は辞退可能と政令に明記する方針を固めたというような報道がございました。確かに、例えば死刑をめぐる微妙な問題もあろうかと思いますが、
国民の
一般的な法
義務を思想、信条を
理由に免除することには、なお慎重に
考えるべきところがあるように思われます。この点、政令での書き方に十分注意していただきたいというように
考えております。
対象事件についてであります。
審議会
意見書は、「法定刑の重い重大
犯罪」とし、その範囲に関しては、「例えば、法定合議
事件、あるいは死刑又は無期刑に当たる
事件とすることなども
考えられるが、
事件数等をも考慮の上、なお十分な検討が必要である。」と述べておりました。この点、
法律案は、「死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る
事件」、それから、
裁判所法二十六条二項二号に掲げる
事件で「故意の
犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの」というように定めております。
これですと、
裁判体を構成する
裁判員を六人とした場合、
事件数は約二千八百、選任数は約二万五千人、召喚数は約十二万七千人ほどになると言われております。そして、一生涯のうち選任される人の割合は六十八人に一人、召喚される人の割合は十四人に一人ということであります。
国民の
負担等も
考え、まずこの辺から出発するということも賢明ではないかと
考えている次第であります。
裁判体の構成、すなわち
裁判官と
裁判員の数をどうするかということが大きな
争点になりました。いろいろな
主張がなされたということは承知しておりますが、
法律案では、それぞれ、三人と六人、公訴事実に
争いがないというような場合には一人と四人ということとされております。この点、
審議会
意見書は、「
裁判員の主体的・実質的関与を確保するという要請、評議の
実効性を確保するという要請等を踏まえ、この
制度の対象となる
事件の重大性の程度や
国民にとっての意義・
負担等をも考慮の上、適切な在り方を定めるべきである。」としていたところであります。
裁判官に対する基本的な
信頼をベースに、
裁判員の実質的関与を確保する、
裁判員が参加してよかったと実感してもらえるようにするという観点から、スタートとしてはこの辺がいい線ではないかというように評価している次第であります。実態を見て、必要があれば将来また見直せばいいというように
考えております。
さる新聞社の世論調査によりますと、参加する場合、必要だと思う条件として、
裁判のやり方を
一般市民にわかりやすいものにする、あるいは、拘束時間が長くならないよう
審理のスピードを速めるということを挙げる回答が多かったようでございます。このような反応は当然のことでありまして、
裁判員制度の
導入は、まさにこういう結果を引き起こそうとして、それをねらいとしていると言ってもいいと思います。
法律案が
公判前の
整理手続等を設け、それから、これは五十一条でございますが、「
裁判官、
検察官及び
弁護人は、
裁判員の
負担が過重なものとならないようにしつつ、
裁判員がその職責を十分に果たすことができるよう、
審理を
迅速で分かりやすいものとすることに努めなければならない。」と定めておりますが、
証拠開示の徹底を図り、
公判準備手続で十分に
争点を絞り込み、連日開廷を
実現して、
関係者はわかりやすい表現で
議論を展開する、そういう姿を期待しておるところであります。
お話ししたいことはほかにもありますが、最後に、
裁判員の守秘
義務のことについて言及しておきたいと思います。
裁判員の守秘
義務について、懲役刑まで科すのは行き過ぎではないかという
意見も強いようでございます。ただ、お金をもらって、だれがどう言った、ああ言ったというようなことが明らかになるというようなことがあるとしますと、
裁判員になることへの大きな阻害要因になるということを恐れます。と同時に、
裁判員制度が
国民の間に定着し、所期の機能を果たしていくようにするためには、経験の共有といいますか、
裁判員の役割というものについて十分な情報を
国民が持つ必要があります。
どの辺まで言っていいのか、どこまで言ったら危ないのかということの
判断に関して、私は
国民の良識を信ずるものでありますが、
裁判員制度をスタートするに当たって、
法律案のような制裁を設けることもやむを得ないのではないかというように思います。と同時に、懲役といった刑はごくごく悪質なものに限って適用することとし、そして、守秘
義務の範囲に関して、
関係者の
意見を集約する適切なガイドラインのようなものが明らかにされることを期待したいと思います。
最後であります。口幅ったいことでありますけれども、
裁判員制度導入の文明史的意義と言ったら大げさでありますが、そのようなものに触れて終わりにしたいと思います。
日本は、戦前は富国強兵を目指して失敗しました。戦後は富国を目指して懸命に努力し、成功をおさめると同時に、その限界を思い知らされたというように思います。もちろん、経済は依然として大事であります。ありますが、それを上手に生かす政治と文化、これが二十一世紀の
日本にとって極めて重要であるというように
考えるものであります。
また、別の観点からいいますと、戦前は滅私奉公が強調され、戦後はそれへの反動からか、私中心で、公共的なものへの意義、公共の意義をともすれば軽んじ、公といえば官、官といえば公といったように、公を官にゆだねてしまいました。そして、
国民主権のもとで、公、公共なるものを
国民みずからの課題としてはぐくむ努力をやや怠ったところがあるように思われるのであります。
日本がこれまで達成した成果を踏まえながら、二十一世紀にあって、さらに活力のある自由で公正な
社会を築こうとするならば、政治と文化、それから新しい公共的なもの、公共性の空間、こういうものを構築する必要があるのではないか。そして、
裁判員制度の
導入は、そのような方向に向けて我々が歩み出す象徴的かつ実際的な大きな一歩であるというように信ずるものであります。
雑駁な話でありますが、御清聴ありがとうございました。(拍手)