○中川(治)
委員 民主党・無所属クラブの中川治でございます。
きょうは三月三十一日でございまして、
国土交通委員会も、あした以降については道路公団の
法案等で一転して対決モードに変わるようでございますので、三月中に一般
質問という機会をいただいて大変喜んでおります。
きょうは、ひとつ建設的に、十年か十五年ぐらい先の話を、また大阪で取り組んでおります行政の福祉化ということについて
国土交通省としても御協力いただきたい、そんな思いでございますので、どうか気楽にお答えをいただいたら結構かと思います。
まず、私は、いつも大阪十九区の同僚の長安議員、それから私は十八区でございますので、十八と十九であわせて大阪泉州、きょうは民主党・無所属クラブを代表してということではなくて、一般
質問でございますので、大阪泉州の民主党の思いということを踏まえて、ひとつ空港の問題について御
質問をしたいと思います。
まず、五分か十分ほど関西国際空港にまつわる大阪泉州の恨み言をひとつお聞きいただきたい、そう思っております。
関西に新しい空港をつくろうということを最初に話が上ったのが一九六八年であります。今からもう三十六年前になります。そして、一九六八年に、そのときは今の泉州沖じゃなかったんですね、淡路島それから明石沖、それから
島根半島の近海湾、中海ですね、ここにつくったらどうか、それから大阪の堺市沖、それから今の泉南よりももう少し南の阪南地区、こういうあたりで新空港をつくったらどうか、こういうことがありました。
当時は、もう今は亡くなられました玉置和郎
先生が中心になって、近畿じゅうを走り回られて、どこに空港をつくったらつくれるかということをお探しになったというふうに私も聞いております。
そして、二年たちまして、一九七〇年、今から三十四年前に泉州沖の泉南沖、今のちょうど泉州空港の場所であります、ここと神戸沖、二つの候補者が追加になりまして、大体
地元では、どうも最後は泉南沖と神戸沖の勝負やな、そんな話があったやに思っております。
ここからがある意味では恨み節でございますが、当時は、
政府はどうしても本格的な国際空港を新たにつくらなければならなかった。御存じのように、今の成田空港はございませんし、それから羽田空港は満杯、そういう状態の中でありました。そして、外国のエアラインからは、要するに約束どおり飛行機が着陸できないじゃないか、契約不履行であるということで違約金も払わなければならないというのが一九七〇年前後の当時の
日本の空港の
状況であります。
そして、一九七四年に、こんな
状況の中で、初めて運輸省は、当時の航空
審議会が関西国際空港は大阪泉州の泉南沖が最適である、こういうことで、大阪空港の廃港、そして無公害空港が
前提であるという答申をつくったのであります。
私も国会図書館に行ったら、さすがにありました。調べてまいりました。これが当時の、後でまた回します、当時のフォード大統領の初めての施政方針演説、この日ですね、八月十三日に泉州沖空港の案が決まった、こういうことでありました。
この空港、当時は、今でこそ、うちに空港が欲しい、うちに空港が欲しいという世相でございますけれ
ども、一九七〇年代の空港というのは必ずしも歓迎されなかった、いや、むしろ嫌われていたというのが率直なところだと思います。
千葉県の成田空港、これは三里塚農民が反対運動をしました。そして、
全国からこれの反対運動を応援するということで四万人、五万人という支援学生が集まって、農民、学生と警察隊が、四万人対四万人とか、とんでもない衝突、乱闘、そして死者が出る、こういうことであります。年配の方は御記憶に新しいと思います。
同時に、大阪空港の方は、多分現在と比べればジェット機の騒音が倍以上、非常に大きな騒音が出ました。そういうことで、大気汚染と騒音公害で住民が公害訴訟をやっておりまして、相次いで国が敗北をするということが続いておりました。空港を
撤去してくれという周辺十市の市民の運動が非常に盛り上がっていた、こういうことであります。
ですから、大阪府内の関係
自治体からは、一九六八年、初めて大阪、堺あるいは泉南、阪南、こういうところで候補が、名前が出た途端に、大阪府内の関係
自治体は全員すべて反対決議を上げたのであります。
何を申し上げたいかといいますと、大阪泉州がみずから空港を望んだわけではない、むしろ嫌やけれ
ども、国のためにどうしてもつくらせてくれ、こういうことで始まったのが関西国際空港であるということをまず御認識をいただきたいというのが私たちの思いであります。
どうも最近は、やはり空港を欲しがる
自治体が多いものですから、泉州はええ思いしているやないか、何を厚かましいこと言うてんねん、こういう雰囲気がありますので、そうではありませんよということをまずしっかり踏まえていただきたい。
一九七四年といいますと、
大臣はまだ十歳のころでございますので、私はそのとき二十四歳でございまして、空港反対運動をしておりました。難しい過激な運動はやめておこう、ただ、大阪空港へ行きまして、キーンというあの甲高い、今よりも三倍ぐらい甲高い音を録音でとってまいりまして、そしてそれを駅前で流して、皆さんこれが空港や、反対しましょうというようなことをやった覚えがあったんですが、もう時間がなくなってまいります、こんなことをしゃべっていたらあかんわ。そういうことになりました。
ただ、七四年から、大阪が府議会も含めて空港に賛成しようというのに、これからまだ八年ありました。ですから、一九六八年から七〇年にかけて大阪の各市町村、特に泉州は空港は来ていらんという決議を一斉に上げました。そして七四年が過ぎてから、もう一度、空港は結構ですという決議を上げました。それから、最終的に空港受け入れということになるまでに、例えば運輸省が観測塔を建てる、観測塔を勝手に建てんといてくれ、これも泉州の各
自治体はすべての
自治体が反対決議を上げました。
にもかかわらず、何とかつくらせてくれということで最終的にまとまったのが、海上五キロ、陸上ルートを飛行しない、そして周辺
地域の整備を一体としてやっていきましょう、こういうことの中で、ようやく、一九八二年秋であります、三点セットということを条件にして関西国際空港の着工、建設ということを大阪府議会もそれから泉州の各
自治体も認めたというのが経過であります。
ここから先がもう
一つまたドラマがございます。釣った魚にえさはやらないという悪い男がよくおりますが、一九八二年の七月に大阪府は空港を受け入れましょう、やっと
地元がオーケーをしました、こういう話をしたときに、一九八二年十一月二十七日、第一次中曽根内閣が誕生いたしまして、中曽根さんは途端に、公団方式を考え直したい、
地元も金を出してくれ、これはひどい話であります。ただ、そのころは泉州としても大阪としても、この空港をきっかけにして関西の復権を図ろう、いろいろな夢をもう描き始めておりましたから、着工するためには受けなしようがない、断腸の思いで受けたわけであります。
ですから、国の第一種国際空港に
自治体が金を出す、経済界が金を出す、今では当たり前かもしれませんけれ
ども、そういうとんでもないことが初めて行われたのも、ある意味ではだまし討ち、我々はそんな思いがしております。
そういう
状況の中で、今度は、空港ができました。そして、一九九〇年には大阪空港を残すということも決まりました。運輸省もそういうことで了解をしました。そういうことに決まりました。
つまり、公害のない、二十四時間飛行のできる、そして国内線と国際線、これが
一つの建物の中で運営できる空港をつくろう、こういう世界で例のない理想的な空港をつくろうというこの目標がいろいろな段階の中で損なわれてきたというのが関西国際空港の現状であります。
そういう経過も含めて、私は、そういう経過を余り知らされないで、あるいは理解をされないで、どうも、関空、赤字の空港をしょい込んでえらい目に遭うている、そんなふうに思われている方々が多いのは、泉州の立場としては非常に腹が立つわけでございまして、こんな歴史の中で、ある意味では、我々は初めから、一九八二年のときには、本当に公害の全くない、そして二十四時間飛べる、国内線と国際線が有機的に結びついた、世界で一番理想的な空港をつくる、だから、そうしたら賛成しようか、こういうことで賛成した空港、これが今どうなっているのか、そんな思いで、今いろいろな思いを私たちは抱いております。
大臣、恨み言でございますから、率直にこの三十年間の歴史、私はやはり、国は理不尽やな、ええかげんにせいよという思いがございます。
大臣の御感想をお聞かせいただきたいと思います。