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船曳公述人 書いてきたものを読み上げます。ちょっと単調になりかねないところがありまして。私の授業は、何かおもしろいんだけれども、聞き終わったとき何を言っていたかよく覚えていないというので有名でありまして、ノートもとりにくいというところがあります。それでレジュメのようなものをお配りしまして、少し幾つかどぎつい言葉も並んでいますが、申し上げます。
私は、東京
大学で文化人類学を
研究し、
教育しております
船曳建夫と申します。
きょうは、
日本国憲法の第九条に絞って私の
考えを申し述べます。
まず、第九条については改正すべきかすべきではないかという
議論があります。そのときに、
憲法は改正してはならないと、改正自体をすべきではないといった物言いが聞かれますが、それは
憲法に反しています。
憲法には改正のための第九十六条があり、初めから改正することは可能になっています。ただ、その言い方に潜む問題は、そうした理屈の問題にとどまらないのです。
憲法は改正してはならないという言い方が第九条に限定してその改正を反対するという
意味であるとしても、それは第九条を改正しようとする
意見を、
憲法全体をひっくり返すものだという
意味を含ませて、
議論を封殺することになります。そうした言い方、それがどんなにやわらかに言われたとしても、たとえ平和主義者の発言であっても、それはある種の脅迫、言葉による暴力なのです。
さて、改正は可能であるということを前提に
憲法九条を読みますと、これがまことに厳しいものがあります。この条文で
日本と
日本国民はどうしていけばよいのだろうかと途方に暮れる
思いです。親が判こをついてしまった借用書を前に腕組みをする遺族のような感じであります。
では、この借用書、契約書、
憲法九条はどのようにしてできたのかというと、それは今小熊さんのお話にありましたようなことですが、
アメリカの利益と人類的理想主義との交わったところに一九四六年時点ではでき上がったのだと
思います。
アメリカの対外政策が常に
アメリカの利益と人類の理想の二本立てであるということは、その後の
歴史と最近の
アメリカの行動を見れば明らかでありますが、では、この一九四六年の
日本国憲法の起草時における
アメリカの利益とは何であったか。それは、
日本の武力の完全なる解除です。
アメリカは、
日本と戦っている間じゅう、よくわからない相手と戦っているという不安感がありました。それが
日本と二度と戦わなくても済むようにしたいという
考えになり、同時に巨大な
戦争の後の平和についての理想主義とが交差してこの条文ができたのだと
思います。しかし、「国の交戦権は、これを認めない。」とありますが、そもそも交戦権のない国があるのかというのが我々の途方に暮れてしまうところです。
この異常さは、当時
日本を占領し、
憲法の草案をつくった当の
アメリカという国が、GHQ草案の方ですね、その独立に当たっての宣言である独立宣言の最語尾に、「
アメリカの各州は、自由にして独立な
国家として、
戦争を行い、講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、その他独立
国家が当然の権利として行い得るあらゆる行為をなす完全な権限を持つものである」と、
戦争を始め、終わらせる権利、フルパワー・ツー・レビー・ウオー・コンクルード・ピースを独立
国家の当然の権利として宣言しているのですから、この異常さはますます深まります。
日本の独立のための
憲法を交戦権なしで起草したのは、明らかに、
日本の反逆を恐れたと同時に、
日本を守るのは
アメリカがやればいいと
考えたからにほかなりません。
日本の
政治家も、ここまで書いておけば
世界から平和
国家として信用されるだろうと計算したのでしょう。この間のGHQ草案といわゆる芦田
修正については皆様は御存じでしょうから、省きます。いずれにせよ、
アメリカの
基準にとっても異常な独立
国家の
憲法が起草されたのです。
その後、
自衛隊がつくられ、戦力は保持されるようになったのですが、
日本の
自衛も
アメリカの戦力があってこそでした。よく、
日本がともかくも戦後、
戦争しないで済んだのは平和
憲法があったからだという言い方がされますが、当たっている
部分もありますが、半分以上は当たっていません。冷戦下の構造のもと、
アメリカの武力があったためでありまして、
憲法九条は最初から
アメリカの軍事力とセットになって
意味をなすようにつくられていたのです。
日本国憲法だけで
戦争の抑止力があると思うのは、余りにのんきな誤解です。
しかし、戦後の
日本が
戦争しない期間がかくも長く続いたのは、いわゆる平和
憲法の建前と
アメリカの軍事力の本音があったからだというのでは足りません。ここまで私が申し上げてきた、
憲法改正と戦後のいわゆる平和
憲法の
役割についての
考えは、これまで護憲派と呼ばれる方々の
意見に、意識的にせよ、無意識的にせよ、しばしば潜んでいた事実認識の誤りをつくことでした。しかし、それはきょう申し上げること、それは戦略的平和論とでも呼ぶべきものですが、の前提にすぎません。
憲法九条の
議論が実質を帯びるようになったのは、冷戦終結以降であると
考えます。それまでは、戦力を放棄しながら
自衛隊を持っていたことは、米軍の存在と日米安保条約によって外側を守られた上でのその内部における論理的整合性の問題であり、その論理的整合性をついたりつかれたりすることを国内
政治の問題にいかに利用するかという、専ら軍事的鎖国状態の内側での九条に関する
議論であり、実質は持っていなかったのです。
それは既に、
憲法制定時のGHQと
国会内外で行われた当時の老練な
政治家や学者たちのさまざまな
議論の中に出尽くされていて、それを繰り返すにすぎなかったように見えます。先ほど小熊さんの吉田茂の発言などがその典型であります。要するに、戦後の四十五年間に、最初の四十五年間に問題となっていたのは、
自衛隊が存在するという状態が九条に合わないということであり、それは、困った、困ったといっても、そこから危険が飛び出てくるような焦眉の急を要する事柄ではなかったのです。ただ、小熊さんの先ほどのお話で、朝鮮
戦争のときにはある程度要求されたということがあったということでありましたので、多少ここはつけ加えなければいけないわけですが、しかし、全体として、危険が飛び出てくるような焦眉の急を要する事柄はなかったと私は
考えます。
危険があるとしたら、それは他国の
戦争に巻き込まれるか否かの話であって、それを米軍が守ることは恐らく目をつぶる、自分が守られるのに目をつぶるも変な話ですが、恐らく目をつぶることとなったのであり、実際、私も、朝鮮
戦争のときに戦線が九州まで南下したらどうなったのかということを
考えますが、少なくとも
日本自体が国際
紛争を武力で
解決するか否か、交戦権を行使するか否かといった九条の問題と
国家の存立、
国民の生命の問題が解きがたいジレンマとして突きつけられるということはなかったのです。
さて、今や冷戦はなくなりました。その
意味するところは、
アメリカが
日本を守ることが疑うべくもなく前提であった
状況はなくなったということです。比喩的に言えば、例えば、例えばです、こういったことは中国からの留学生の教え子と話すことがあるのですが、
日本と中国が争うようになったとき、常に
アメリカが
日本に全面的に味方するとは限らないのです。
将来のある時点の
アメリカの
世界戦略と、
アメリカの国内
政治、
世論がどのようになっているかは、今から予想はできません。
アメリカは中立の
立場をとるかもしれませんし、中国に有利に働くかもしれません。また、
アメリカと中国の深刻な対立に、
日本が中国寄りの軍事的
立場を明確にする必要が出てくるかもしれません。もちろんこれは仮定の話です。しかし、
可能性の十分にある仮定の話です。ここに至って、今や
日本は、
憲法を改正して戦力と交戦権の保持を認めるようにするかどうかという問題が出てきているわけです。
さて、次の段落は、
戦争はなくなりつつある、少なくとも先進国の間ではというところです。
さて、この問題は冷戦の終結が大きな転機だと申し上げましたが、同じく
歴史を振り返って現在を見てみると、
日本国憲法が制定されてから現在に至るまでの
世界の変化は、
日本が独立
国家として戦力と交戦権を持たないことがどうにも不都合になったという変化だけではありません。
世界に
戦争は次第になくなりつつあるのです。
日本のある論者たちは、
日本は戦後平和で幸せだったと、あたかも平和
憲法を持っていた
日本だけがそうであったかのように言いますが、同じ敗戦国のドイツもイタリアも、同じく
戦争をしなかったという
意味では平和だったのです。ほかの多くの先進国でも、
戦争がないか、もしくは二十
世紀の最初の五十年間と比べると、
戦争は数の上でも規模の上でも少なくなってきているのです。
イギリスとフランスが戦後行った
戦争は、大半が植民地におけるものです、フォークランド
戦争は違いますが。大半は植民地におけるものです。
日本、イタリア、ドイツは、そうしたみずからつくった不良債権ともいうべき植民地、そういう言い方は語弊がありますが、私は
政治家ではありませんので、理解を助ける比喩は誤解と無礼を生まない程度に使っていきますが、そうした不良債権を第二次大戦によって失ってしまったので、その処理に苦しむことがなかったのです。私は、太平洋
戦争の敗戦がなければ、
日本は、フランスにとってのインドシナとアルジェリアと、イギリスにとってのインド亜大陸や北アイルランドを足したよりも大きな内乱とテロとを朝鮮半島で
経験し、両
国民は非常なる不幸を味わったことだろうと思っています。
さて、
戦争がなくなりつつあるというのはどう説明するか。
現在、例えば十九
世紀以来、数十年に一度は
戦争を繰り返してきたフランスとドイツが
戦争するのは、もはやよほど難しかろうと
思います。大急ぎでつけ加えますが、私は、クラウゼビッツの
戦争は
外交の延長であるということは、
戦争の本質の一つだと思っています。
しかし、相手を力で強制するということは、
戦争の技術が飛躍的に発達した今、同じように高い兵器の水準を持っている国同士の場合はそれができなくなっていると思えます。ヨーロッパ大陸の隣国同士が
戦争をするというのは、海の上の小さないかだで相撲をとるようなもので、相手を押し倒したときには、自分も水の中におぼれてしまうのです。それは冷戦時の米ソの間の力の均衡ということと同じですが、違いは、現在の先進国同士の不信の度合いというのは、現在の米ロを含めて、当時と比べて格段にそうした不信は低いということがあります。隣同士でミサイルを撃ち合ってもどうにもならない、どっちも損するからやめようとフランスとドイツは言い合えるわけです。
EUの成立には、
経済の側面も、ヨーロッパの外、
アメリカに対する戦略的な側面もありますが、第二次大戦の反省からくる平和への望みが強い底流としてあります。第一次大戦後も同じように平和を望んではいたのですが、第一次大戦後と第二次大戦後では、兵器と、それから、後ほど述べますが、
戦争という
活動への価値観が変わったのです。兵器はもはや古典的な
戦争をするには余りに人を殺しやすくなってしまった。だからといって、ある国の
世論が一方に流れ、また、ある突発事件が引き金となって
戦争が起こらないとは言えません。だからこそ、EUが望まれたわけです。
私が申し上げているのは、
戦争がなくなったということではなく、次第にしづらくなっていることであります。その結果、先進国の定義にもよりますし、先進国の手先同士の
戦争はあったわけですが、第二次大戦後、直接先進国同士の
戦争は皆無だったということです。
また、
戦争が少なくなったということに関しては、
戦争が
経済的に割に合わなくなっているということもあります。
日本は、日露
戦争では土地と賠償金を得て、国として利益を得ました。第一次大戦では、フランスはドイツからやはり土地と賠償金を得て、大いに潤いました。しかし、そうした、
戦争によってある国から土地を得、金を得、その国の人々を労働力とするといったことは、二つの点で難しいこととなっています。
第一に、理念的に、
思想的にそれは許しがたいというのが常識となっています。そんな甘いことを言うのか、どこに侵略主義の悪いやつがいるかわからないとおっしゃる方がいるかもしれませんが、侵略主義は
経済的利得を
考えてのことであります。しかし、もしそうしたやり方が人間の
考え方と価値に反すれば、長い目で見ればその
国家は多くの
国民を引きつけられないことになり、国を弱体化させ、結局は
経済的には利得は低いということになります。それは、
国民国家が生まれて二百年の間、私たち、少なくとも
国家間の
戦争に関して、先進的に愚かなことをしてきた先進国は、悲惨な
経験から学んできたわけです。
第二に、こちらの方がわかりやすい
議論かもしれませんが、そうした状態、いわば領土を奪って支配下に置くという植民地的状態を維持するのは
経済的コストがかかり過ぎるということも常識です。第二次大戦後、植民地が独立を果たしたのは、植民地主義が人類として許されない行為であるという理念と、
経済的に合わないという利得の計算の二つがあってのことです。
戦争が
外交の手段としても
経済的な
活動としても国益をもたらさないとしたら、
戦争は少なくなるはずです、少なくとも同じような高度な兵器を持っている国同士では。そして現在、実際そうなっていると私は
考えます。単に今までそうであったというだけではなく、今後そうした
傾向は増すと
考えます。EUの成立は、今後も紆余曲折はありましょうが、先進国に
戦争がなくなりつつある一つの証拠です。
戦争ができなくなりつつある
アメリカの場合はどうでしょう。
では、ヨーロッパから離れている
アメリカはどうか。
アメリカは
戦争をしている国の代表のようですが、その
アメリカも
戦争ができなくなっていると私は
考えています。これは
現実に反するようで、皆さんを納得させるのは難しそうですが、お話ししてみます。
幾つかの理由が挙げられます。それを、新
世界への移民
国家としての、外の
世界に背を向ける
国家的性格や、
外交上のモンロー主義といったことから説き起こすこともできるでしょう。それは
アメリカに昔からある一つの
傾向です。しかし、ここでは近年の、そして将来ますますそうなるであろう
傾向についてお話しします。
それを端的に言えば、
アメリカ人といいますか、すべての先進国の人々はそうなのですが、
アメリカ人にとって、命の値段が高くなっているということです。この命の値段とは、例えば交通事故で死んだときの補償金の額や一人当たりの年収で
考えられます。あるいは、ある一人の人間が誕生したときに、一生に得られる人生のさまざまなオポチュニティー、
機会の総計で
考えてもいいでしょう。それは、その
社会がどれぐらい豊かになったかにかかってきています。そうしたものを
基準に、
アメリカの兵士一人と、便宜的に
経済的に貧しい国と呼びますが、貧しい国の兵士一人と比べると、価格は圧倒的に違うはずです。
議論を簡単にするために、命の値段が仮に
アメリカと貧しい国とでは百倍違うとします。それを
戦争時の損失に還元すれば、貧しい国の兵士を百人殺しても、
アメリカの兵士が一人死ねば、
アメリカにとって
経済的損失は同じになってしまいます。
アメリカという
国家は、ベトナム
戦争以来、そのように兵士を簡単に消耗することはできず、びくびくしながら高価な兵隊を投入しているのです。
この見方を、
政府ではなく、今度は兵士一人の方から
考えてみます。また人間の方から
考えてみます。
アメリカと貧しい国を比べると、そもそも二十歳の若者の平均余命は、一方が六十年、
他方が三十年といった倍近い違いがあります。そしてそれ以上に、その双方の若者がこれからの人生で消費することができるエネルギーや
社会的財、そうしたことから受ける恩恵の差はより多く、先ほどの
社会的な
機会、
可能性という点でも違いは大きいのです。
ですから、そこからごく単純に、人が
戦争に赴くとき、
戦争で死ぬということを想定して、ある人が戦死によって失われる自分の利益と、自分が死ぬことによって守られる
国家の利益とをてんびんにかけるとします。現在、
アメリカと限らず、先進国の人間は、技術とグローバルな制度の発達によって、
国家の内側だけで生きているのではありません、
国家の内側だけで生きなくとも構わないのです。
アメリカ国民は、自分が
戦争に加わることによる自分の損失と
国家の利益とをシビアに計算するでしょう。また、これまでは、
戦争における
アメリカの大義に関する疑いや反省は、
世代ごとにそれを忘れてしまい、新たな若者が新たな
戦争に向かう、そうしたことがあったかもしれませんが、メディアと記録の発達はその健忘症を防ぐことと
思います。
その結果、少なくとも、
アメリカの中枢を占める豊かな白人の子弟で、自分が犠牲になって
戦争に行こうとする者は少なくなっているのです。クリントンもドラフトを迂回しましたし、現在のブッシュ大統領も、どうも
戦争に行くことは余り好まなかったようであります。
アメリカの兵隊たちはますます、
アメリカ社会の周辺部から、または底辺部からリクルートせざるを得なくなっています。兵器が発達しても兵士の水準は落ちているというのがこのたびのイラクでの問題にかかわっているのではないかとも
思います。
それでも
アメリカはまだ
戦争をせざるを得ない。しかし、もはやそれは、すべきものではなくて、せざるを得ないものであり、独立
戦争以来、
アメリカの
戦争の内容は、
国家的な正当性からいって次第次第に劣化しています。この劣化はそう簡単に覆すことはできないし、この劣化による
戦争を行えなくなっているという条件は、私は強まっていると思っています。
このように、
戦争がしづらくなっている、そして、事実的に減っているという事態があります。しかし、もちろん完全にはなくなっていないし、
戦争ではないが、今はまだテロと呼んでいるところの、しかしかつてのテロとは既に異なっている、多分新たな武力の行使の形態なんだと
思いますが、それがあるというのも事実です。
ここで、
憲法九条をどうするのかという問題に立ち返ります。この問いに完璧な正解はないと
思います。すなわち、変化に対して
対応するとき、その変化が完全に読めないときには、行動はよりよい方をとるという、比較的よりよい回答を
選択するということでしかないと
思います。
私は、今、
戦争に関しては、
戦争の破壊による悲惨を人間の不幸と
考える人ならば、というのは圧倒的な人間はそう
考えるはずですが、そうした不幸を避けるためには、正しい
戦争しかしないと言うか、防衛的な
戦争しかしないと言うか、
戦争はしないと言うかの三つしかないと
考えています。いずれも、正しい
戦争があるのか、また、すべての
戦争は防衛的と言えるではないか、また、
戦争をしないというのでは攻められたらどうするのかといった反論に答えることはできません。
戦争に関するいかなる条文も、ある
意味で虚偽を含み、問題を抱えることになっています。
では、
日本はどのようなことを言うべきかというときに、私が
考える最も大きな要素の一つは、
日本はこれまで、武力を行使しない、戦力は保持しない、交戦権は認めないと言いながら、
自衛隊を持ち、
自衛権はあるだろうという苦しい
議論を行ってきました。この六十年の積み重ねが財産だと思っています。この
議論をする
過程で、
戦争というものの現在の問題を
議論してきていると
思います。それは重視した方がよいと私は
考えます。
また、第二に、今述べたように、
世界は次第に
戦争をしなくなっているというのが現状だと
思います。この
傾向は増すと思われます、少なくとも先進国の間では。このとき、
日本は
憲法九条を、論理的に苦しいまま、しかし明らかに未来を指し示すものとして保持し続ける方が私は得策だと思っています。
国家的な理念としても、その継続性としても、また
外交上も十分使い得る資産だと思っています。
もちろん私は、
自衛隊は認めています。私個人の
意見ですが、
自衛権も認めています。また、武力の行使が、例えば
国連軍という形で国際平和をもたらすということがあり得ると
考えています。それならばなぜそのようなことに合った文言に
憲法を変えないのかといいますと、自問自答しますが、それは、現状と論理整合性があるだけで、将来的な展望とは合わないからです。
世界は次第に、
戦争ができなくなっているということを理念的にも、
現実的にも認め始めています。つまり、
世界の方が
日本の
考えに近づいてきているのです。そして、現在、この
憲法九条の
戦争の放棄という縛りが国益を損なうことになっているとは
思いません。むしろ、その逆ではありませんか。そのときに、
日本が、
世界の先進国が動いている
方向の逆に進むのは危険なかけです。かつて、二十
世紀の初めに植民地主義が
国家の利益にならなくなっているときに
日本が植民地主義に進んだ、つまり、植民地主義が利益にならなくなっているときに逆に進んだように。
憲法九条を改正するのは、現在の
判断としては、逆に進むことになって、
国家百年の計ではありません。
私は、娘に、
憲法十四条では、人は性別により差別されないとあり、二十四条に、両性の本質的平等とあるのに、男女の差別はいつだってあるじゃないか、どうしてそれなのに
憲法はそのままなのかと聞かれたとき、おおよそこう答えました。
いまだかつて、農業文明以降、人間の
社会で男女が不平等でなかった
社会はない。
憲法は、そうした
意味で、男女の平等ということを
考えれば
現実と論理的に不整合である。しかし、
日本は、明治以来、戦後も次第に男女の不平等はなくなってきているし、この産業
社会では今後もその
傾向は進む。だから、実際に男女差別がなくなることは、残念ながら、おまえが、というのは娘ですが、おまえが生きている間にはあり得ないけれども、
憲法は百年後またはそれよりももっと先のことを目指しているんだと。
戦争はなくならないし、
戦争をせざるを得ないということが出てくることを私たちは
考えていなければならないのですけれども、そのときにでも、いかなる
戦争をするかを決める際に、これまで積み重ねてきた
議論は大いに役立ちます。私たちは、
世界が
日本の
議論に追いついてくるまで、この
憲法九条のある面でのやりづらさを
議論のおもしとして、
日本と
日本国民の利益を図り、
憲法がうたっているように、全
世界の
国民が平和に生存する権利を有するように
努力するのが戦略的に正しいと
思います。
なお、きょうの私の話では、先進国間の
戦争の問題を語って、いわゆる開発途上国における
戦争の問題、テロの問題、そして文明の衝突と言われるような
戦争の問題は直接語りませんでしたが、文明論的な話の枠組みの中でそれは語り得ます。御質問があれば、できる限りお答えいたします。
どうもありがとうございました。(拍手)