○
野呂参考人 御紹介にあずかりました
野呂でございます。よろしくお願いします。
私、
憲法を専門に研究している者ではございませんで、むしろ、
都市計画などにかかわる具体的な
法制度について勉強しながら
憲法の
財産権保障についても考えてまいった者でございまして、この場で
お話をさせていただくこと、適任かどうかわかりませんが、日ごろ勉強してまいったことを少しでもお役に立てればと願っております。
それではまず、
レジュメに沿いまして、
レジュメのIから
お話を始めてまいりたいと思います。IとIIでは、経済的自由について、やや概論的な
お話をごく簡単に申し上げたいと思います。
まず、経済的自由と精神的自由という対比、これは皆さんもよく御存じのことと存じますが、精神的自由に比べまして、経済的自由というのは
比較的緩やかに
制限ができる、
制限されやすい権利であるといったことが指摘されております。この
一つの
理由としては、特に
資本主義経済の発展に伴いまして
経済的格差が拡大してまいりますと、弱者の
保護でありますとか、それから実質的な平等を図るために
国家が介入する必要が出てくるといった、そういった歴史的な
背景がございます。
ただ、
一つここで申し上げたいのは、特に
土地所有権については、一般的な経済的自由とは少し違った要素があるということでございます。つまり、
土地所有権というのは、
土地という
財産に特有の、いわば普遍的な
制限というものがあるわけでございまして、一般的な経済的自由の理論には解消できない
特殊性があるということを申し上げておきたいと思います。
次に、
経済的自由そのものについてでございますが、その経済的自由には、主なものとして、
職業選択の自由それから
財産権、これはそれぞれ
憲法二十二条と二十九条に
規定をされているわけでございますが、この
二つがございます。
職業選択の自由につきましては、これは
事務局で御作成いただいた資料に的確な説明がございますので余りつけ加えることはございませんが、
一つ申し上げておきますと、二十二条に、特に二十二条第一項に
保障された
人権の中でも
職業選択の自由、これは営業の自由も含むと考えられておりますが、
職業選択の自由は経済的自由でございます。それに対して、居住、移転の自由、こちらは、経済的自由には解消できない精神的な自由の側面も含む自由である、
人権である、そのように考えられているということでございます。
次に、
財産権でございますが、これは
憲法二十九条第一項から第三項に
規定されているわけでございます。
まず
最初に、
レジュメのアとしまして、
財産権の
保障と
法律による
財産権の
内容形成という
論点に簡単に触れておきたいと思います。これは
憲法二十九条一項と二項との
関係にかかわる
論点でございます。
二十九条一項では、「
財産権は、これを侵してはならない。」
財産権を
憲法上
保障するということを述べているわけでございます。ただ、これに対して、第二項では、「
財産権の
内容は、
公共の
福祉に適合するやうに、
法律でこれを定める。」と述べられております。
なぜこのような
規定が必要かと申しますと、
一つは、
財産権というのは、他の、例えば表現の自由でありますとか人身の自由と違いまして、
法律、特に民法のような
法律によって
財産制度を定めることが
前提になっている。
法律で
財産権を定めないと、そもそも
財産権というものが出てこないという面があるからでございます。
ただしかし、第二項によって、
法律でどのようにも
財産権の
内容を定めることができるとなりますと、
憲法で
財産権を
保障する
意味というのが非常に弱くなってしまうという問題がございます。そこで、従来の学説は、
法律によっても侵し得ない
財産権の
保障というものがあるんではないか。そういう
防波堤を何らかの形で築こうとしてきたわけでございます。
そして、その
防波堤の
内容としては、いろいろなものがございますけれども、
一つの従来有力であった
考え方は、二十九条一項は、
資本主義経済でありますとか
市場経済を
保障している、
法律でこうしたものをなくしてしまうことはできない、そういった
考え方があったわけでございます。ただ、これに対しては批判もございますし、唯一の
考え方ではございませんが、このような議論があったということだけ御指摘申し上げたいと思います。
次に、イに行きまして、
財産権の
制限と
損失補償との
関係でございます。これは二十九条第二項と第三項との
関係にかかわってくる問題でございます。
つまり、先ほど
財産権にも、
制限については二十九条一項によって何らかの
防波堤を設けておこうという
考え方があると申し上げましたが、二十九条三項がもう
一つの
防波堤を設けているわけでございます。
例えば、
公共事業のための
土地収用のように、
特定の者の
財産権を
公共の
福祉のために剥奪してしまうような場合、つまり、非常に不平等な
負担が
特定の者に課されるような場合には、必ず
補償しなければならないということを二十九条三項で定めているわけでございます。二十九条二項による
財産権の
内容の
規定、これは一般的に
財産権の
内容を定めるわけでありますから
補償は要らないけれども、
特定の者に不平等な
負担を課すようなそういった
国家の行為については
補償が要る、そういった
区別が一応できるわけでございます。
ただしかし、
財産権、
国家による
財産権の
制限の
内容が多様化してまいりますと、一般的に
財産権の
内容を定めるのか、それとも個別的に
財産権を剥奪するのか、そういった単純な
区別ではうまく整理ができなくなってまいります。
例えば、ため池の堤防で農耕や
建築をすること、これを災害の防止を
理由に禁止するといった場合、この場合には
補償は要らないと解されております。
他方で、
文化財、例えば法隆寺の周囲で、その
文化財の環境を守るために
土地の利用を
制限する、高い
建物を建ててはならないといった
制限をする場合、この場合には
補償が要るというのが一般的な
考え方でございます。
ただ、これを、どちらが
内容規定でどちらが個別的な
侵害かというふうに
区別することは難しいわけでありまして、少し別の
基準を用いて
補償が要るか要らないかを判断せざるを得ないと考えられているわけであります。そこで、現在では、ある
財産権の
制限が一般的な
内容規定か、それとも個別的な
侵害かというのではなくて、それが特別の
犠牲に当たるかどうかによって
補償が必要かどうかを判断するということをしております。
特別の
犠牲の
内容というのもこれ
自体いろいろ議論がありますけれども、
一つは、どの程度強い
制限、
侵害が
財産権に加えられるかという
制限の強さの問題、それからもう
一つは、
制限の目的から見て、
財産権者、
所有権者のみに
負担を課すことが妥当かどうか、そういった実質的な観点、この
二つによって判断するというのが現在の有力な
考え方だろうと考えております。
これを
前提にしまして、これからが本日の主たるテーマになりますけれども、
都市計画や
景観保護と
財産権の
保障との
関係について、
ドイツと
日本を
比較しながら申し上げていきたいと思います。
ここからの
お話は、あらかじめ
先生方にお配りいたしました「
委託調査報告書」の
内容にほぼ沿って、かいつまんで
お話をしていくような形になります。
まず、
ドイツと
日本の
まちづくりを
比較してみますと、特に
ドイツの
まちづくりについては、かなり
日本と違ったものであるといった印象を受けます。とりわけ、
都市の
内部と
外部が非常に明確に分かれている。そして、
外部に行きますと、
建物とか
広告物といったものが見事なほど全くない。
他方、
都市の
内部に行きますと、
建物の形でありますとか色というのが
統一性がある、または調和している、そういった特徴がございます。
こうした
まちづくりが行われている
理由としまして、もちろん歴史的、地理的、文化的な違いというのも無視できないわけでございますが、しかし、それだけでは解消できない
法制度の違いというものもあるのではないかと考えているわけでございます。
そこで、以下、もう少し具体的に申し上げていきたいと思います。
最初に、一般的な
都市計画制度の
比較でございますが、一般的な
都市計画制度を
比較してみますと、
比較する際にまず重要なのは、
新規開発、それから
建築をどのようにコントロールしているのかという問題でございます。そして、この点が特に
ドイツにおいては特徴的でございまして、
計画なければ
開発なしと言われる
原則が妥当しているわけでございます。つまり、どういったものかと申しますと、
既成の
市街地以外の場所で新たに
開発、
建築をしようとする場合には、
市町村が詳細な
都市計画を定めてからでないとそれを行うことはできない、こういった
仕組みが
法律によって
形成されているわけでございます。
これと対比しまして、
日本においては、
開発ないし
建築の自由の
原則というものが妥当していると言われます。つまり、
日本におきましては、
都市計画法その他の
法律で具体的に
地域を指定して初めて
ドイツのような厳しい
制限を行うことができるわけでありまして、いわば
最初から
原則と例外が逆転しているわけでございます。その結果として、どうも
都市計画というのはしばしば後追い的に、後を追いかけて
規制をするといったような形になっているわけでございます。
それからさらに、具体的な
都市計画の
システムに、
レジュメのイでございますけれども、話を移してまいりたいと思います。
ドイツの
都市計画の
中心は何かと申しますと、これは
地区レベルの詳細な
計画であります、
Bプランというふうに普通言われますが、
Bプランをコアにした二
段階の
計画が用いられているということが言えます。この
Bプランというのは、
市町村が策定するものでございまして、極めて詳細にその
地区の将来像を描くものでございます。そしてさらに、この
Bプランを策定する
前提としまして、
市町村の全域について、
Fプランと言われるマスタープランを、これも
市町村が策定する、そういった
システムが用いられております。
そして、
ドイツにおきましては、今申し上げた
Bプランと、それから、先ほど申し上げました
計画なければ
開発なしの
原則が組み合わさることによりまして、
市街地が拡張していく際に必ず詳細な
計画を策定して、そして、長い時間をかけて現在のような
町並みを
形成してきたということが言えるわけでございます。
これに対して、
日本の
都市計画の
中心は何かと申しますと、やはり
用途地域制度、
都市計画法に基づく
用途地域制度が
中心になっていると言えるのではないかと思います。
ただ、この
用途地域制度というのは、
Bプランとは違いまして、最低限の一般的な
基準、一般的な抽象的な
基準を定めるだけでございまして、具体的な
地区の将来像というのを描くものではございません。
日本にも、
都市計画法に
比較的新しい
制度としまして
地区計画という詳細な
計画制度がございますが、これはあくまで必要に応じて
用途地域などに
上乗せをして
規制するにすぎないものでありまして、それほど広く用いられているわけではない、こういう違いがあるわけでございまして、そうしたところから、どうも
日本の
町並みというのは
統一性に欠ける、またはスプロール的な
開発を十分コントロールできないといったことになっているわけでございます。
次に、こうした
都市計画の
制度を
前提としまして、
都市景観に関する
法制度の
比較をしてみたいと思います。
まず、
都市景観に関する
法制度のうち、
ドイツの
法制度について見てまいりたいと思いますが、
ドイツの
都市景観に関する
法制度は、大きく三つに分けて整理することができるのではないかと考えております。
一つは
記念物保護法制でございまして、これはおおむね
日本の
文化財保護法に相当するものでございます。ただ、
記念物保護法制というのは、すべて州の
法律で定められておりまして、多少州によって違いはあるわけでございますけれども、
個々の
建造物だけではなくて、歴史的な古い
市街地、そういったものを面として保全する、こういったことを可能にしているわけでございます。そして、
日本の
文化財保護法制にも同じような
制度があるわけですが、この点では共通するものがございます。
次に、
二つ目としまして、
都市景観に深いかかわりを持った
制度として、先ほど既に申し上げました
Bプランの
制度がございます。この
Bプランというのは、先ほど申し上げましたように、
地区の
建築のあり方を非常に詳細に
計画するものでございますから、
建物の高さとか、それから
建物の
敷地内の
位置、こうしたものが
ドイツなどヨーロッパの
町並みでは
統一性があるわけでございますが、こうしたものはこの
Bプランによって基本的に実現されているわけでございます。特に、
日本の
都市景観といいますと、よく高さの問題がクローズアップされるわけでございますが、こうした高さの問題というのは、基本的に
Bプランによって解決をされているということになります。
ただ、ここで注意する必要がございますのは、
Bプランというのは、こういう高さとか
敷地内の
建物の
位置については
規制をできるんですけれども、
個々の
建築物をどういう
デザインにするか、例えば
屋根の色をどうするかとか、または、平たい
屋根にするか、それとも
切り妻の
屋根にするか、こういったことについては
Bプランで定めることはできません。
他方、
日本の
地区計画というのは、
建築物の
意匠についても定めることができるとされておりまして、
地区計画に比べますと、
Bプランというのは定めることのできる範囲がある
意味狭いということになります。
これはなぜかと申しますと、
Bプランというのは
市町村が定める
計画ではありますが、
連邦の
法律に基づいて定める
計画でございます。ところが、こうした
個々の
建築物の
意匠、
デザインといったものは、これは
ドイツの
憲法上の問題なんですけれども、
連邦の
法律に基づいて定めることはできずに、州の
法律でこれについて根拠を置かなければならない、そういった
仕組みになっているわけでございます。
そこで、では、具体的に
建築物の
デザインについて定める
法制度は何かと申しますと、次の
建築規制法制というものになるわけでございます。つまり、各州が
建築規制法と言われる
法律を定めまして、これに基づいて
建築物の細かな
規制を行っているということになります。そして、この
建築規制法制について特に特徴的でございますのは、これは私のネーミングでございますけれども、二
段階規制システムとでもいうべき
仕組みが存在していることでございます。
まず第一
段階は、直接
法律に基づいて行われる
醜悪化の禁止でございまして、これは、
地域の限定なしに、あらゆる
建築許可について
醜悪化してはならないということが要件とされているわけでございます。この
醜悪化という概念、これは主観的なものでございまして、非常に難しいわけですが、
ドイツの判例によりますと、平均的な
美的感覚を持った者がいわば目を背けたくなるようなひどい
デザイン、平均的な人であれば見たくないと思うような、そういったひどいものを禁止する、そういった趣旨でございます。
これに対して、さらに、もっと美しい
町並みを実現しようといったことで
規制を設ける場合には、これは
市町村が
条例を制定しまして、
条例に基づいてより積極的な
景観の
保護や
形成を行うということになっております。
このように、二
段階の
仕組みによりまして、
都市の
景観保護・
形成を行っているわけでございますが、もう
一つ興味深い点は、特にこの
景観保護のための
条例につきまして、
Bプランの
制度と一体化することが可能になっているということでございます。つまり、
Bプランというのは
連邦の
法律に基づく
制度であり、
建築規制法は州法でございますけれども、運用上それを一体化して、同時に
一つの
条例として制定することができるわけでございます。これによりまして、
一つの
地域を総合的に
計画するということが可能になりますし、また、
Bプランと一体化するということは、これは
計画なければ
開発なしの
原則と結びつくことでございますから、新しく
市街地ができるときに
Bプランをつくり、また
景観条例もつくって
景観についても定めていく、そういったことが可能になっているわけでございます。
これに対して、
日本の
法制度がどのようになっているかと申しますと、まず、先ほど申し上げましたように、
文化財保護法を
中心とした幾つかの
法律によりまして
歴史的町並みを面的に保全するということが行われまして、これはかなりの成果を上げているのではないかと思っております。
これに対して、
都市計画法それから
建築基準法にも
景観保護・
形成のための
仕組みがございます。
都市計画法上の
美観地区でありますとか
地区計画の
制度、それから
建築基準法上の
建築協定の
制度がございます。しかし、これは、率直に申し上げて、
景観保護のためには十分活用されていないという指摘がございます。この
一つの大きな原因としましては、
ドイツのような
計画なければ
開発なしの
原則が存在しないために、こういった
制度を用いるときは、既に存在する
町並みについて後からいわば
上乗せをして
規制するという形にならざるを得ない。しかし、既に人が住んでいる
町並みについて後から
規制をしようと思っても、なかなかそれは容易なことではないわけでありまして、そこが
一つの
ネックになっていると言わざるを得ないわけであります。
そして、では多くの
地方公共団体などで
景観保護のために何がなされているかといいますと、
法律に基づかずに、
自主条例によりまして
景観条例と言われるものを制定いたしまして、
景観政策を進めているという状況がございます。ただ、これは
自主条例でございますし、またなかなか市民の強制的な
景観規制に対する理解が得られないということもございまして、一般的に
強制力のない、いわゆる
お願い条例が多いという状況になっております。
もちろん、
景観行政において、行政が一方的に
特定の
景観をすぐれたものであると決めて、そしてそれを強制するということは、これは適切でもないし、不可能であると思うわけですが、すなわち住民の理解と協力というものを得て
景観行政を進めていくことは当然のことでございます。しかし、全く
強制力がありませんと、多くの者が
景観保護のために協力していても、ごく一部の者がそれに従わないと、結局多くの
正直者が損をするといったことになってしまうわけでございまして、こういった
仕組みで本当にそのままでいいのかどうかという問題が残るわけでございます。
そこで、現在、
景観三法に含まれる
景観法案というものが出されまして御審議いただいているところかと思いますが、この
制度というのは、ある
意味、従来の
制度をいろいろな
意味で改善し大きく進めるものであるということが言えます。ただしかし、現在の
景観保護にとって
ネックになっております、
計画なければ
開発なしの
原則がないもとで従来の
制度を改善してもどうしても限界が残るのではないか、そういった懸念は抑え切れないわけでございます。
したがって、これからの
一つの方向としては、
景観規制のための
制度を整えるだけではなくて、
計画なければ
開発なしの
原則に少しでも近づくような
制度改革を進めていくことも同時に必要ではないかと思っております。例えば、
市街化調整区域を市街化区域に編入する場合でありますとか、
用途地域の指定がえによって
容積率をアップするときでありますとか、または
既成の
市街地で再
開発事業が行われたとき、そういったような場合に、その後で
地区計画のような詳細な
計画を設けて具体的に
地区像を描いていくことを進めていく、場合によっては義務づけていく、こういった形で徐々に
制度を改革していく必要があるんではないかというふうに思っております。
このように、
ドイツと
日本ではいろいろな
制度の違いがあるということを申し上げたわけでございますが、最後に、では
憲法による
財産権保障とこういった
制度の違いがどういった
関係を持っているのかということについて申し上げたいと思います。
まず、
日本国憲法二十九条と
ドイツの
憲法でございます
ボン基本法十四条の
財産権保障について
比較してみたいと思います。
ボン基本法の
条文については
レジュメにも書いたとおりでございます。
さまざまな
条文の違いがあるわけでございますが、その中でも特に注目を引くのは、
ボン基本法十四条第二項、
所有権は義務を伴うんだ、こういった
規定がございまして、これについては
日本の
憲法二十九条には
規定されていないものでございます。ただしかし、最終的な結論としては、私は、この
規定というのは、実際の具体的な
法制度をつくっていったり
憲法を解釈する際には決定的な違いにはならないのではないかというふうに思っております。
といいますのは、ここで言う「
所有権は義務を伴う。」というのがどういった
意味を持った
条文かと申しますと、
所有権というのは絶対的なものではなくて、それを乱用してはならない、何らかの
制限が伴うんだということを言っているわけでございます。そうしますと、
日本でも当然、
都市計画法その他の
法律によりまして、
財産権、
土地所有権というのはさまざまな形で
制限されているわけでございまして、いわば当たり前のことを念のために強調しているにすぎないという見方ができます。
それからもう
一つ、こういった
規定が
憲法に盛り込まれた歴史的な
背景を探ってみますと、もともとは
ワイマール憲法にこういった
規定が初めて採用されたわけでございます。ただ、
ワイマール憲法がなぜこのような
規定を置いたかと申しますと、その
背景には、
所有権についてのゲルマン法的な
考え方とローマ法的な
考え方の対立がその
背景にあったと言われているわけでございます。
ゲルマン法的な
考え方とローマ法的な
考え方は何が違うかと申しますと、ゲルマン法というのは、
所有権の概念の中に
最初から何らかの制約、義務というものが含まれているという
考え方でございます。これに対してローマ法的な
考え方というのは、
所有権、特に民法上の
所有権は
原則としては無
制限な絶対的なものである、まずは絶対的な
所有権というのを民法上確立して、そして、ただ、
所有権の
制限というのは公法などによって外から、後から加わるんだという
考え方でございます。
したがって、最終的な結論としては、
所有権に何らかの
制限が加わるということは、これはゲルマン法的な
考え方でもローマ法的な
考え方でも変わりがないわけでありまして、ただ概念の組み立て方の違いと言ってもいいわけでございます。
ところが、
日本ではローマ法的な
所有権の絶対性という言葉がどうもひとり歩きをしている嫌いがございまして、もともと
所有権というのは、実際の
法制度を見てみますと、さまざまな形で
制限されているわけでありまして、絶対的であるわけがないんですが、しかし、どうも
所有権の絶対性というものがスローガンとしてひとり歩きして有効な
制限を阻害する、そういった役割を果たしていたのではないかといった印象も持っているわけでございます。
次に、
ドイツの判例による
憲法解釈でございますが、
ドイツの判例においては、特に
憲法の解釈においては、
土地所有権の
特殊性というものを強調する、そういった
考え方が出てきております。
一つは、
土地というのは不可欠であり、そして有限である、そういった特殊な
財産であるから、ほかの
財産以上に強い社会的制約を帯びている、そういった
考え方でございます。
それからもう
一つは、状況拘束性理論というものでございます。これは、
土地というのは、その
土地が置かれた周囲の状況でありますとか、または従来の利用方法によって許容される利用方法が変わってくる、
土地一般というものは書かれずに、具体的な
土地ごとに利用可能性が変わってくるんだという
考え方でございます。これは、例えば東京のど真ん中の
土地と世界遺産になっているような貴重な自然の中にある
土地とが全く同じように利用できるということはあり得ないという、いわば当然のことを言っているわけでございます。
ただ、こうした
考え方が
日本の
法制度にとって全く異質なものかというと、決してそうではないわけでございます。一般論ではございますが、例えば
土地基本法の
最初の方にはこういった
考え方も既に取り入れられているわけでございまして、こうした
土地の
特殊性を強調するということは決して
日本法にとっても一般論としては異質ではないと言うことができます。
では、なぜ違いが出てくるのかということを、もう少し具体的な
法制度との関連で見ていきたいと思います。
まず、
日本においては
建築の自由の
原則というものがあるというふうに先ほど申し上げました。そして、最近の研究では、
日本の従来の
都市計画制度においては必要最小限度
規制原則というものが妥当している、必要最小限しか
規制しないという思考があるというふうに言われているわけでございます。
ただしかし、それだけではなくて、なぜ
建築の自由の
原則を克服できなかったかということをもう少し、
土地所有権のあり方について具体的に見ていく必要があるのではないかと思うわけでございます。
それが
レジュメの次でございまして、
財産権の
保障の重点がどこにあるのか。つまり、価値に重点を置いて
保障するのか、利用に重点を置いて
保障するのか、こういった違いがどうも
ドイツと
日本ではあったのではないかというふうに思うわけでございます。
ドイツの
都市計画法制において定められております
補償規定、どういう場合に
補償するかという
規定を見てまいりますと、どうも
日本の
都市計画法などと比べて、
土地を資産として
保障する、それも
一つ必要なことでありますけれども、それ以上に、資産よりもどう利用するかという点に重点を置いて
土地所有権を
保障しているように見えるわけでございます。それからさらに、例えば
土地の利用を
規制するときに
損失補償をすべきかどうかということを判断する際に、
土地所有権者の個別的な事情を考慮した上で
補償するかしないかを決めているという特徴がございます。
もう少し具体的に申し上げますと、例えば、従来、法的に許容されていた、法的に可能であったけれども実現していなかったような利用方法が新しく
規制されてできなくなった、そういった場合に、例えば地価がそれによって下がったからすぐに
補償するのか、必要があるのかというと、
ドイツの
法制度では必ずしもそうなっておらずに、
土地所有者が本当に従来許容されていた利用方法を実現する意思と能力があったのかということを審査して、本当に利用する意思があったのであれば
補償するといったようなことが一部ではなされているわけでございます。これは必ずしも
都市計画だけに限ったものではございませんが、ある
財産について
補償すべきかどうかを決める際に、その
財産が自分の能力や努力によって
形成された
財産かどうかということも考慮するわけでございます。
これについては、例えば
一つの例としまして、先祖が植えて自分の庭に大木があった、現在の所有者としては、先祖が植えてくれたものだけれども、これを材木として売ってお金もうけをしたいと思っていた。ところが、その木が非常に貴重な木であるということで、天然記念物に指定されて伐採してはならないということになった場合、そういった場合に
補償すべきかどうかということを考える際に、その
財産ができるに当たってその本人、現在の所有者がどれだけ貢献しているかということも考慮する必要があるんじゃないかということが言われているわけでございます。ところが、
日本の場合にはそういった点は余り考慮せずに、単に資産としての価値が失われたらやはり
補償しなければいけないという思考が強過ぎたのではないかと思うわけでございます。
そうなりますと、
計画なければ
開発なしの
原則を広げていこうとする場合に、
都市の
外部にある利用されていない
土地に新しく
規制をかけるということになるわけでございますが、資産としての価値が失われたらすぐに
補償しなければいけないという
考え方に立っておりますと、
計画なければ
開発なしの
原則を広げるということは非常に難しいということにならざるを得ない。そうではなくて、本当に
土地所有者が利用する意思があるのか、また、
土地所有者の自分の努力によって
形成された
財産かどうかということも考慮するのであれば、従来利用されていない
土地の現状を固定するといったことは
比較的容易になるのではないかというふうに思うわけでございます。
最後に、
景観法制に即した検討でございますが、
日本においては、先ほど申し上げましたように、
強制力を持った
景観保護というのは非常に例外的、限定的なものとなっているわけでございます。そのようなものになっている
一つの原因としては、既に述べましたように、
計画なければ
開発なしの
原則がないために、後から
上乗せで
規制しようと思ってもこれはなかなか難しいということがございます。
ただ、もう
一つ、理論的な
ネックとしましては、特に従来の学説においては、
景観といういわば主観的な利益というのは、
財産権を
強制力を持って
制限する、そういった根拠としては十分ではない、弱い、そういった思考があったのではないかと思うわけでございます。
それでは、例えば
ドイツを初めとするヨーロッパ諸国では
強制力を持った
規制をしているわけでございまして、どうしてこういったことが正当化されるのかという問題が出てくるわけでございます。これについては、従来それほど明確に説明した研究があるわけではございませんで、これは私なりの理解でございますけれども、
土地所有権の
特殊性というのをどこまで突っ込んで考えるのか、そういった問題があるのではないかと思うわけでございます。
土地所有権の
特殊性というのは、もう一度整理しますと、不可欠であるけれどもふやすことができない、しかも動かすこともできない。さらに、
土地というのは相互に隣り合っておりまして相互に影響を及ぼす、そういった特殊な
財産であります。言いかえますと、
土地というのは確かに私的に所有されているけれども、いわば
地域という
公共的な空間を
形成する、そういった公的な存在でもあるわけでございます。そして、このような
土地の
特殊性というのを
前提にしますと、次のような
土地利用の制約というのが出てくるのではないかと思うわけでございます。
つまり、
土地所有者というのは、やはり
原則としては自分の
土地を自由に利用する権利がある。そして、赤い家を建てようと黄色い家を建てようと自由であるわけでございます。しかし、
土地所有者は自分の望む
デザインをある
特定の場所で利用する権利までは主張できない、そういったことが言えるのではないかと思うわけでございます。
つまり、利用できるけれども、例えば二階建ての家を建てることはできるけれども、しかし、黄色い家にするか赤い家にするかというのは、これはある程度周囲の状況によって、周囲に調和するように利用しなければいけない。もしどうしても自分の好むような
デザイン、色というのが、ある
特定の場所で実現できないのであれば、それは別の場所に移動してその利用を実現する。つまり、
土地利用のいわばすみ分けをしていく、そういった制約というものを
土地所有権というのは帯びているのではないかと思うわけでございます。
つまり、従来の議論というのは、ある
土地の利用の方法、ある
デザインというのを
特定の場所で実現させるかさせないかという、いわばゼロサム的な思考が強かった。しかし、そうではなくて、
土地の利用のあり方というのはある程度調和するようにすみ分けをしていく必要があるのではないかということでございます。
ただ、こうしたことを言うためには、
二つの
前提が必要であると思っております。
一つは、こうしたすみ分けを図る際に、
土地所有者に追加的な、プラスアルファの経済的な
負担が生じないということが
前提であります。例えば、ある場所において少なくとも木造二階建ての家を建てたい、その木造二階建ての家を建てること自体は禁止されていない。しかし、周囲に調和するように黒いかわらの
屋根にしてくれという制約がかかってくる、本人はどうしても白い平べったい
屋根の家を建てたい。そういった場合には、どうしても白い平べったい
屋根の家を建てたければほかの場所に行って建ててくださいということになるわけでございまして、ただ、その人は黒いかわら
屋根でよければその場所、自分の望む場所で家を建てることができるわけでありまして、経済的にはプラスアルファの
負担はかからないとなるわけでありまして、経済的
負担ない限りにおいて、別の場所に移動して
土地を利用することを求めてもいいのではないかということでございます。
それともう
一つは、特にこの
景観の
保護・
形成ということにかかわってでございますが、
保護・
形成されるべき望ましい
景観というものが、上から一方的に強制されるものではなくて、いわば
地域住民の参加によって、自主的な秩序
形成によって生まれた、そういったものでなければならないというふうに考えております。これは、特に
景観という利益がかなり主観的なものに依存するからでございまして、こうしたものを住民の意向を無視して一方的に強制するということはあってはならない。それを
前提にして、特に
景観保護に当たっては、
地域ごとのいわばすみ分けというものを求めていってもいいのではないか、そのように考えているわけでございます。
私の方からは、以上で終わらせていただきます。(拍手)