○
松本参考人 大阪大学の
松本でございます。よろしくお願いいたします。
私に依頼されましたテーマは、
公共の
福祉、特に、
表現の自由や学問の自由との
調整というものでございます。
初めに、問題の所在を指摘させていただきまして、
公共の
福祉という概念のもとで何が論じられているのか、あるいは何が論じられるべきかということについてお話しさせていただきたいと思います。
公共の
福祉という言葉は、
憲法上四カ所で規定されておりまして、いずれも
人権条項であります。ここに
公共の
福祉が
人権との
関係で論じられる源があると言ってよいかと思います。
この
人権と
公共の
福祉の
関係をめぐる争いというものは、
問いの立て方をめぐる争いだったというふうに私は考えております。いかなる
問いを立てるべきか、これが最初の問題であります。
通説的な理解によりますと、
人権と
公共の
福祉というのは相対立する事項ととらえられまして、
人権は
公共の
福祉によって
制限できるのか、そして、この
問いに答えた後に、では、
人権を
制限する
公共の
福祉とは何なのかというふうに問うていくということであります。
人権は
公共の
福祉によって
制限できるのかという
問いを
問い一、
人権を
制限する
公共の
福祉とは何かという
問いを
問い二といたしまして、
問い一、
問い二の順番でお話ししたいと思います。
まず、
問い一をめぐる
議論、
人権は
公共の
福祉によって
制限できるのかという
問いをめぐる
議論であります。
これについて、
最高裁判所は、
昭和三十二年の
チャタレー事件判決という
事件におきまして次のように回答しております。ちなみに、この
チャタレー事件判決というのは、刑法百七十五条によりまして
わいせつ文書の頒布というものが処罰されていることの
合憲性を問うた
事件であります。
最高裁は、この
事件におきましてこのように言っております。「
憲法の保障する各種の
基本的人権についてそれぞれに関する各条文に
制限の
可能性を明示していると否とにかかわりなく、
憲法一二条、一三条の規定からしてその濫用が禁止せられ、
公共の
福祉の
制限の下に立つものであり、絶対無
制限のものでないことは、当
裁判所がしばしば判示したところである。この原則を出版その他
表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり
公共の
福祉によつて
制限されるものと認めなければならない。」
最高裁は、つまり、
問い一の問題を肯定したわけであります。学説もおおむねこの
問いについては肯定するわけであります。が、若干の異論もございます。それは、
表現の自由と
公共の
福祉というのを相対立させて論じる、その論じ方についてであります。
例えば、刑法は二百二十二条によって
脅迫行為というものを処罰しておりますし、あるいは二百四十六条で
詐欺行為というのを処罰しておりますが、こういう脅迫や詐欺の処罰というのは、そもそも
公共の
福祉による
表現の自由の
制限というふうにとらえてよいのか。そもそも、脅迫の自由や詐欺の自由などというものが
憲法によって保障されているというふうに言っていいのか。
人権ならざる
行為の
規制を
公共の
福祉による
人権制限というふうにとらえていいのか。こういう疑問があるからであります。
最高裁判所は、
昭和二十七年の初期の
判決におきまして、犯罪の教唆の自由というような事柄を述べておりまして、そんな自由はそもそもないという
言い方をしております。
つまり、
人権、非
人権というものをまずきちっと区別しないと、何でも
人権としてしまった上でそれを
公共の
福祉によって
制限するという論じ方になってしまうわけでありまして、それが問題であるというふうに言っているわけであります。このような
考え方にはそれなりに
理由があるわけでありますけれども、しかし、
人権、非
人権というものをまず区別するという
考え方にも問題があります。
それは、
人権を定義することによって、その定義によって
人権を
制限するという結果になってしまわないのかということであります。
人権の定義の段階で
表現の自由というものを余り狭くとらえ過ぎてしまいますと、これはもう
公共の
福祉による
制限ということを言う前に、その
行為自体が
憲法上の
保護を受けなくなってしまいますので、それでは都合の悪い場合が出てくるのではないかということであります。
例えば、
名誉毀損の理解をめぐる
最高裁判所の見解にこの点の問題があらわれておりまして、初期のころ、ここでは
昭和三十三年の
判決を挙げさせていただきますが、
昭和三十三年の
判決におきましては、
最高裁は、
名誉毀損というのは、「言論の自由の乱用であつて、
憲法の保障する言論の自由の範囲内に属するものと認めることができない。」というふうに判示しておりました。つまり、
名誉毀損というのは、これはもう
表現の自由じゃないんだ、それは
表現の自由の範囲内に属しないんだ、こういう
言い方をしたわけであります。
しかし、その後、
最高裁判所は態度を変更いたしまして、これは
北方ジャーナル事件という有名な
判決ですが、
昭和六十一年の
判決におきまして、
名誉毀損という
行為も言論の自由の範囲に一応属すると考えた上で、しかし、
名誉権という、これも
憲法の
保護を受ける
権利でありますが、
名誉権と、そして
表現の自由という
憲法上の二つの
権利が衝突している事例であるというふうにとらえました。そして、その衝突については「
調整を要することとなる」とした上で、「いかなる場合に
侵害行為としてその
規制が許されるかについて
憲法上慎重な考慮が必要である。」というふうに判示したわけであります。
ここから考えまして、確かに、
脅迫行為あるいは
恐喝行為といったようなものを
憲法上の
権利の行使と見るのは難しいかもしれない。つまり、
憲法上の
権利の行使とは言えない
表現行為というのはあり得るだろう。しかし、それは一見して明らかに
憲法の
保護を受けることのない
表現行為だけに限定して考えるべきであって、疑わしきは
憲法上の
権利と推定した上で、そして
表現の自由と
公共の
福祉との
関係として論じていくべきではないかというふうに考える次第であります。
以上が、
問い一をめぐる
議論であります。
次に、
問い二をめぐる
議論であります。
問い二というのは、
人権が
公共の
福祉によって
制限される、
制限できるとした上で、では、
人権を
制限する
公共の
福祉とは何かという問題です。
これについての
最高裁の回答は、
正面からの回答はございません。
個別事例ごとにアドホックに回答していくというのが
最高裁の態度でありまして、先ほどの
わいせつ文書規制が問題となった
チャタレー事件判決においては、「
性的秩序を守り、
最少限度の
性道徳を維持することが
公共の
福祉の内容をなすことについて疑問の余地がない」とした上で、その
規制を合憲であるというふうに判示しております。
しかし、このような
公共の
福祉とは何かという
正面からの
問いという
問いの立て方が適切かどうかについては疑問があるわけでありまして、近年ではこのような
問い方自体がされなくなりつつあります。いわば
問いの転換がなされているわけでありまして、
公共の
福祉とは何かという大上段の
問いから、
人権と
公共の
福祉の
相互調整の方法というものがどのようなものかというふうな
問いへと変わってきているというわけであります。
これは、
人権も大事だけれども
公共の
福祉も大事だという
議論と、それから、
公共の
福祉も大事だけれども
人権も大事だというこの二つの
議論、これはどちらにも
理由があるということで、そうすれば、結局両者の微妙な
調整ということが問題とならざるを得ないのではないか。
公共の
福祉とは何かということだけを問うても、それでは済まない。
人権と
公共の
福祉というのは
相互制約の
関係にあるのであって、
人権を守るということは、それは
公共の
福祉もまた制約されるということを意味する。
公共の
福祉を守るということは
人権が制約されるということを意味するんだけれども、逆にまた、
人権を守るということは
公共の
福祉の方も制約される、そういう
相互制約の
関係にあると理解すべきなのではないか。だとすれば、両者の微妙な
調整ということを真剣にとらえる必要があろうということであります。
そこで、どう考えていくかですが、
公共の
福祉と
人権というのを、単に対立させるだけではなくて、
目的、
手段図式というものによって再把握する。すなわち、
公共の
福祉による
人権制限を正当な
目的を達成するための正当な
手段による
規制と考えまして、
目的、
手段ともに正当な
規制であれば
公共の
福祉に適合した
人権制限とみなす。
規制の
目的、
手段を多方面から考察することで細やかな検討をしていき、
公共の
福祉を重視しつつも
人権を尊重するということを可能にするわけであります。
そこで、
規制目的の
正当性、そして
規制手段の
正当性という二段階で
問いを立てていくことになります。
まず、
規制目的への
問いということでありますが、
人権制約の
目的が
正当化できるかというふうに問題を立てます。ここで、
人権制約の
目的の
正当化としてしばしば挙げられるのは、
一つは、
他者の
人権の
保護ということであります。そしてもう
一つは、
公共の
利益の
保護であります。
最初の
他者の
人権の
保護というのは、
公共の
福祉の中身として
他者の
人権というものを考える、そして
人権を別の
人権によって
制限する。例えば、その例として、
名誉毀損の事例におきます
名誉権というものが挙げられます。名誉を
保護するために
表現の自由を
規制するという場合がその例です。それから、
ビラ張り規制等で挙げられております
他者の
財産権の
保護ということもその例として挙げられます。
それから、
公共の
利益の
保護については、これもいろいろあるんですが、
公共の
利益とここで申しますのは、
他者の
人権に還元できないような、個人の
権利に戻せないような
公益の
保護ということであります。かつては、こうした
公益によって
人権を
制限するということは、それ自体が許されないのではないかという意見が強かったんですが、最近は、
憲法学者の間でもそのように考える人は少なくなってきておりまして、
最高裁判所はもうずっと以前から、こういう
他者の
人権に還元できない
公益の
保護というものを正当な
人権制約の
規制目的であると考えております。
例えば、その例としては、
わいせつ文書規制における
性的秩序、
最少限度の
性道徳の維持でありますとか、あるいは
有害図書規制における
青少年の健全な育成の保障、それから、
屋外広告物規制におきます都市の
美観風致の維持、最近では
景観法というものが制定されることが見込まれているそうですが、そこでも
美観風致というものが
規制の
理由として挙げられているわけです。あるいは、公務員の
政治活動を禁止する
理由として挙げられます
行政の
中立的運営の確保とこれに対する国民の信頼の維持でありますとか、あるいは
選挙運動規制で挙げられています選挙の公正、公平の確保というものがあります。
これらは、いずれも正当な
規制目的であると言ってよいかと思いますが、
目的が正当であるからということだけで直ちに
人権制限が許されるというわけではありません。まず、その
規制目的の
審査をする場合には、とりわけ
公益保護ということが問題となるときに言われることでありますが、その
公益の中身というのをできるだけ
明確化あるいは
特定化する必要があるということです。これは、
目的が抽象的なままでは、意味のある
目的審査ができないということが
理由であります。
例えば、
選挙運動の
規制目的として挙げられています選挙の公正、公平の確保ということがありますが、これだけだと
目的としては非常に抽象的であります。
最高裁判所は、この点について、
昭和四十三年の
判決それから
昭和五十六年の
判決におきまして、この
目的を
明確化、
特定化いたしました。
具体的に、例えば買収、
利害誘導の防止であるとか私生活の平穏の維持、
候補者の煩瑣の回避、多額の出費の抑制、投票における
情実支配の排除、こういうふうにできるだけ具体的な
目的へと言いかえていくわけです。こうすることによって、意味のある
目的審査が可能になるわけであります。もちろん、すべての
公益についてこのような
具体化が可能であるというわけではありませんが、これはできるだけその方向で
目的審査というのを行うべきであるというふうに考えられます。
それから、
規制目的として、何らかの
弊害が発生するので、その
弊害を防止することが
目的であると言われることもしばしばあります。特に、
公益に対する
弊害ということが挙げられることが多いわけですが、この場合、
弊害発生の
蓋然性というのを考えておく必要があります。幾ら正当な
目的であっても、
弊害が観念的であると、やはり意味のある
目的審査にはならないと思われます。
つまり、
規制目的への
問いの段階では正当な
規制目的なのかどうかということをまず考え、そしてその
目的の中身について
明確化、
特定化、そして
弊害発生の
蓋然性というものを具体的に考えるということが必要になるのではないかということであります。
この
規制目的の
審査というものをクリアした後、
規制目的が正当であると考えた後に、次は
規制手段について問うわけです。
人権制約の
手段が
正当化できるかということを問うわけであります。
これについては、
表現の自由についてでありますけれども、
憲法二十一条二項におきまして検閲というのが特に禁止されているということがありますので、まず
規制の
手段としてそれが検閲に該当しているかどうかということを考える必要があります。これは
表現の
自由特有の問題でありますが。
手段として検閲という方法をとっていた場合は、もうそれだけでその
手段は
正当化できないということです。
しかし、
表現の自由以外の自由については、このように禁止された
手段というものが
憲法上明文化されているということはほとんどありませんで、
規制手段の
正当性というものを、
憲法から直接その基準を導き出すということは難しいわけであります。
そこで、どうするかといいますと、
目的との
関係で
手段の
正当性を問うということです。
まず第一に、
手段の
目的有用性を問う、言いかえますと、
目的達成にとって役に立つ
手段かどうかということを問うということであります。これは、逆に言いますと、幾ら正当な
目的を追求する場合であっても、その
目的達成にとって役に立たない
手段であればそれは
手段として不当であるということになります。したがって、そのような
手段は
正当化できないということになります。
それから次に、
手段の
必要最小限度性を問うということであります。同じ
目的を達成するために
手段というものは通常複数考えられるわけでありますので、その中でも、より緩やかな
手段がないかどうか、より緩やかな
代替手段ということを考える。いわば、
手段の間で比較を行って、
人権に対する
規制度が最も緩やかな
手段でないと
手段としては
正当化できないというふうに考えるということであります。
そして最後に、得られる
利益と失われる
利益というものを衡量するということです。それは、損失以上の
利益を見込める
手段かどうかを問うということであります。幾ら正当な
目的を達成するための有用かつ
必要最小限度の
手段であっても、失われる
利益が得られる
利益よりも大きいと
判断される場合については、それは
手段としてやはり
正当化できない、こう考えるわけです。
このように、
公共の
福祉とは何かということを
正面から問うのではなくて、
規制目的の
正当性、
規制手段の
正当性ということを個別に問うことによって
人権制限の
合憲性というものを
判断すべきであるというのがここでの見解であります。
ただ、このように
問いを転換することに対しましては批判もございまして、やはり
公共の
福祉の実体を
正面から
問い直すべきだ、
公共の
福祉とは何かということをもっと真っ
正面から考えるべきだという見解もございます。
このような見解にも意味があると思うわけでありますが、ただ、こうした大きな
議論というのは、
道具性を欠いていることから非実践的な
議論になりがちではないかというふうに私は考えております。それより、むしろ、先ほど申し上げましたような
規制目的、
規制手段というような小さな
問いを積み上げていって
一つずつ順番に答えていくという
やり方をとる方が生産的な
議論になるのではないかというふうに考えております。
公共の
福祉とは何かという大きな
問いを立ててしまいますと、そこでの話というのは勢い抽象的な
議論になりかねないわけでして、それは
実践的議論にはほど遠いものになるというふうな気がするからであります。
さて、最後に、残された
問いについて考えてみたいと思います。それは、だれが
問いに答えるのかということであります。すなわち、だれが正当な
目的、正当な
手段について考え、答えるのかということであります。
ここでは、四つ挙げてみました。
まず第一に、
憲法制定者がこの
問いに答えるということです。あるいは、もっと正確に言いますと、
憲法改正権者がこの
問いに答えるということです。つまり、現在、
憲法に多くの
人権条項がありますが、その
人権条項に
憲法改正権者が
制限事由をつけ加える、つまり、
憲法上明らかに
制限されるべき
理由というのを明文化しておくという
やり方が
一つの
やり方であります。
例えば、
ドイツ連邦共和国の
憲法、
基本法には、
表現の自由の
制限理由として、名誉の
保護や
青少年保護といった事柄が規定されております。このように、
憲法上、例えば正当な
規制目的というものを明文化しておく。つまり、
憲法制定権者あるいは
憲法改正権者のところで
人権と
公共の
福祉の
調整を行うというのが
一つの
やり方です。
ただ、この
ドイツの
やり方というのは、正当な
規制目的を明示しただけのことでありまして、
規制手段についてでありますとか、そういった細かいところまで規定しているわけではありません。名誉の
保護にいたしましても、
青少年保護にいたしましても、それ自体正当な
規制目的であるというのは
憲法に規定されていなくとも明らかでありますので、このようなことだけであれば
憲法に
明文規定を置くことにそれほど大きな実益があるというわけではないと思います。
仮に、このような正当な
規制目的を
憲法上明示したといたしましても、
人権と
公共の
福祉の
相互調整の
必要性それ自体はやはりなくならないわけでありまして、
憲法上微妙な
調整というものをあらかじめすべて明示しておくということ、これは無理であります。というのは、やはり
憲法というのはどうしても抽象的な規定にならざるを得ないというところがありまして、
抽象的判断の限界と申しますか、
具体的判断がどうしても必要になるからであります。
そこで求められますのが、
議会による
調整あるいは
行政による
調整であります。
議会は
法律を制定して
人権を
制限いたします。そして、この
議会の
一般的判断を踏まえまして、
行政が命令、処分を通じて
人権を
制限いたします。いわば、
議会の
一般的判断を踏まえて
行政が個別的な
判断をするということであります。
そして、この
議会やそれから
行政の
判断というものを、
裁判所が、
具体的事例においてでありますけれども再
審査するというのが通常の
行き方であろうと思われます。
憲法学は、従来、
裁判所の
判断の仕方について主として論じてまいりました。例えば、二重の
基準論という
考え方が
憲法学の通説としてございますが、これは、
合憲性の
審査においては、
精神的自由権について厳格な
審査基準を用い、
経済的自由権について緩やかな
審査基準を用いて
裁判所が
判断せよという
考え方であります。つまり、
人権と
公共の
福祉の
相互調整の主体として、主として
裁判所を念頭に置いて、その
裁判所による
相互調整の仕方ということを従来の
憲法学は主に論じていたということであります。
これはこれで非常に重要な
議論であるわけでありますけれども、しかし、私はここで、その
裁判所の
議論の前に、とりわけ
議会の役割ということを強調しておきたいと思います。
憲法上の
権利の
制限、
公共の
福祉による
制限については、まず
議会がそれを行うということであります。
議会が
人権と
公共の
福祉の
相互調整というのをまず行うということでありまして、これは非常に重要なことだろうというふうに考えております。
そして、
議会の
判断を
法律の形式で
表現するということであります。
法律に
議会の
判断をできるだけきちっと書き込むということが、
人権と
公共の
福祉の
相互調整を行うという点においては重要なのではないかというふうに考えているわけであります。
言い方をかえますと、
行政に
判断を丸投げするような立法はしないということであります。あるいは、
法律の
規律密度を高めて
行政裁量の領域を小さくするということであります。
従来、
法律は、一般的、抽象的であるということを心がける余りに、みずから
人権制限について微妙な
相互調整ということをやらずに
行政に
判断を丸投げしていたというようなところがなかっただろうかと考えるわけでありまして、むしろ、
行政でやることはなくならないわけではありますけれども、しかし、できるだけ
議会のところできちっと
判断をして、そして
相互調整を行う。そして、
議会が行った
相互調整を踏まえて
行政が
判断するというその
行き方、仕方というものにもう少し敏感であるべきではないかというふうに考えているわけであります。
このように、
人権と
公共の
福祉の
調整の場面における
法律の意義ということをここで特に強調させていただきまして、私の話を締めくくりたいというふうに考える次第であります。
どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)