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太田委員 公明党の
太田昭宏です。
私
たちの党としましては、現
憲法に対する姿勢は、一昨年の十一月二日、
党大会で示したわけですが、
国民主権主義、
恒久平和主義、
基本的人権の
保障の
憲法三
原則は不変のものとして堅持する、そして、
憲法第九条を堅持した上で、
時代の大きな
進展、変貌の中で提起されてきた
環境権や
プライバシー権等の新しい
人権を加えていくという、
加憲という
立場が我が党の
立場でございます。
非常に重い問題でありますので、
党大会という
全員集合の場できちっと
見解を示しながらということをやっていこうと思っておりまして、ことしは、この六月に論点をある程度整理して、そして秋に
党大会が行われるわけですが、そこに何らかの
憲法に対する
見解を示したいということで党内でも
論議をしているということでございます。
加憲という
言葉がやっと定着してきたような気がいたしますが、今まで、この
衆議院の
憲法調査会の中でも、
修憲という
言葉が出たり、あるいはまた
増憲とか
プラス改憲とか、あるいは
創憲——護憲、
論憲、
改憲ということと違って、どうするかということでありますが、我が党のように、いわゆる
護憲という
立場を長い間続けてきた党が、
憲法というものは大事であり、すぐれたものであるという上に立って、
憲法をどのように考えていくかということが非常に大事なことだというように私は思っておりまして、我々としては、増加ということも含めまして、
加憲、加えていくということが適当ではないかということで、
加憲という
言葉を使わせていただきました。
加憲というのは、私は実は非常に現実的なことではないかとも思っておりまして、例えば、九十六条の第二項に、「
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、
国民の名で、この
憲法と
一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」ということが九十六条の二項にうたわれております。「
国民の名で、この
憲法と
一体を成すものとして、」という表現は、まさしく今までの
憲法というものの上にこれを加えていくというイメージというものがあって、いわゆる
アメリカの
アメンドメント方式、加えていく、そして従来のものもそのまま置いておくというようなことが九十六条
自体に登用されているというふうに思っております。
現在行われておりまして、そしてまた、ここの
調査会で行われている
憲法論議は、一番最初は、
憲法制定時のことというのがスタート時の
論議でございました。
当時から、
時代というものの
進展に合わせての
憲法論議ということは当然あったわけですが、その当時から私が
注目をしましたのは、
アメリカから押しつけられた
憲法であるというようなこと以上に、押しつけられたからどうというような
論議ということを超えて、むしろ、その
憲法というものをつくった背後にある
思想、つまり、それが、いわゆる
日本の
思想というよりも、あるいはグローバリゼーションの中で
日本という
位置づけの中の
思想というよりも、欧米の
思想というものの上につくられた
憲法ということではないかという、非常に
思想的、
哲学的論議というものは、私は、非常に
注目をしなくちゃならないというように思ってまいりました。
例えば、
憲法第十三条に
個人の
尊重ということがうたわれて、これがある
意味ではこの
憲法の
かなり骨格をなすものであって、それ
ゆえに、一人一人の
価値というものを最大限に発揮するということの
基本的人権の
尊重という
ゆえに、だから平和というものがあったり
主権在民ということがあるというような
位置づけがこの
憲法の
基本的構成であるというように思っております。
この
個人の
尊重という
概念自体についても、
個人というものが余りにも、
権利は書いてあるが
義務がないというようなこととか、
個人というものが利己的な
個人というものに成り下がっているから公というものが必要だというような今日的な
論議というものは十分あるわけでありますけれども、本来の
個人の
尊重という、
個人の概念というものがヨーロッパ的
思想の上に成っているということは事実でありますが、そのヨーロッパ
思想においても、私は、例えばマルクス主義においても、類的存在としての
人間という
位置づけをしていて、単なる利己というものではないということに
注目をしたいというふうに思っております。
それ以上に、今の我々の
時代からいきますと、
個人の
尊重ということは、実は、より言うならば、
人間の
尊重という
言葉の方が私にとっては適当であるというふうに思っておりますし、その
人間の
尊重という背後には、
人間中心主義的な物の
思想ではなくて、
人間も自然も、そして動物もということを含めた生命の
尊重という概念の上に立つ
人間の
尊重というものがあって、そして、
人間という
言葉が、東洋
思想の中には、人という字が、人と人との間ということであると同じように、
人間ということも、東洋
思想においては、ジンカンというふうに読んで人と人との間の
社会を表現するということであったり、あるいは、和辻哲郎さんが「
人間の学としての倫理学」という中で、倫理の倫というのはともがらであるというような表現をしているわけでありますけれども、そうした我々の持っている深き
人間洞察というか、そうした上からの
個人の
尊重という概念をもう一度立てて、そして
憲法というものを考えていかなくてはいけないというふうに思っております。
こうした
憲法の背後にある、欧米の
思想というものではない、これからの
日本の哲学的、
思想的な
位置づけというものの上に立って、同時に、現
憲法におきましては、やはり物事というのは当然
時代性の中の産物でありますので、戦後を色濃くこれは反映している、投影しているというふうに私は思います。
例えば、前文の表現というものはまさにそういうことでありましょうし、そしてまた、例えば二十六条に教育ということが書いてあるわけであります。この教育を受ける
権利と受けさせる
義務、例えば
義務ということの中でも、「すべて
国民は、
法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる
義務を負ふ。
義務教育は、これを無償とする。」という表現があるわけですが、当時の、戦後、なかなか子供を学校に行かせない、せめてそれぐらいはちゃんとやりなさいよという親に
義務を課したという表現は、今、高校以上にかなりの人が行くというような
時代ということとは違った、そうすると、もう少し積極的な教育というものあるいは生涯教育というようなものを含めた、そうした
憲法の表現というものがあっていいのではないかというようなことを感ずるわけでございます。
過去から比べて現在が
時代にそぐわないということは、当然
憲法ということで論じなくちゃいけない項目はあるわけですが、やはりここで行うべきは、将来の
日本、百年後とかいうことは想定できないかもしれませんが、二十年とか三十年後の
日本ということを想定する、そうした未来志向の
憲法論議というものが必要だというふうに思っております。
今後の未来志向の
憲法論議ということで言うならば、そのキーワードは幾つかあると思います。例えばITであるとか、ゲノムであるとか、あるいは環境であるとか、住民参加というようなことはかなりキーワードになってくるというふうに思っておりまして、そういう
意味からいきますと、そうした未来志向というものを踏まえた、
国民主権というものをより確立していくという
意味での
国民憲法という方向での
論議が大事だし、
人権ということをより明示する
人権憲法という方向が大事であるし、あるいは環境ということを、二十一世紀の
日本は環境という立国にしていかなくてはいけないという
意思を表明した環境
憲法ということが私は大事なことであろうというふうに思っております。
環境権やプライバシー権などの意義ということについては、やはりこの
憲法調査会の中ではいろいろな方から、あの
権利、この
権利というものを明示する、読めるからそうしたことを加える必要はないかもしれないという学者の方々の
意見がございました。
権利のインフレというものを起こしてはならないという、
憲法はどこまで表現をするかということと
法律事項ということのバランスをしっかり考えなくちゃいけないということを考えると同時に、私は、未来志向というと、政治家の
論議としては、今後の
日本をどうするかということを鮮明に打ち出すというのが、学者の
憲法解釈ということや
憲法論議とは違ったものでなくてはならない、このように思っております。
そういう
意味で、新しい
人権を明示するということは、現在の
憲法で読めるということではなくて、これから
日本をどういう方向に持っていくか、それを明示して、そして
日本の国の
あり方というものを問いかけるというようなことも含めて、私は新しい
加憲という方向での
論議というものが非常に大事だというふうに思っております。
以上でございます。