○
木村参考人 中山会長先生並びに委員の
先生方、きょうはこのような大変に大事な会議にお招きを受けまして、感謝にたえないところでございます。本当にありがとうございました。
本日のテーマは
科学技術の進歩と憲法ということでございますが、
会長先生、事務局からの前もって御連絡によりますと、非常に幅広い視野で、大所高所からこの問題点について論じていただきたいということでございますので、話の途中で、その詳細その他についてもし御疑問にお感じの節は、後ほど御質問いただければというふうに思っております。
私は、海外での
研究生活が大変に長くございまして、大学を出ましてから、
東南アジア比較家族法ということで、タイのバンコクにあります
チュラロンコン大学というところで研究を続けておりました。タイに約五年おりまして、それから、その延長線上に、
ベトナム戦争当時の、一九七〇年と七一年でございますが、
サイゴン大学におりまして、二年間そこで研究、教育の生活をしておりまして、その後、
ジュネーブ大学の大学院、
エキュメニカル研究科というところでございますけれども、そこで三年間研究と教育に従事いたしまして、ここは人権論をやったわけです。
一
たん日本に帰ってまいりまして、
アメリカに一九七八年に参りまして二十二年間、正式には二〇〇〇年まで
アメリカに、最初は
ハーバード大学におりまして、それからジョージタウン大学、これは
バイオエシックスの研究の世界的な
センターのあるところでございますけれども、そこに参りまして、そこで
国際アジアバイオエシックス研究部というのを立ち上げたというわけでございます。
その間、一九八七年から、
早稲田大学に初めてできました、百年を記念してつくり上げられました
人間科学部というところで、世界でも最初の
バイオエシックスの必修の講義を学部の学生並びに大学院の
学生たちに行ってきたわけです。
私は、背景が法学、
法律学、
比較家族法学ということでございましたが、実は
サイゴンにおりますときに、私の学生が一人で私のうちにあらわれまして、先生、日本から着いたばかりだけれども、今何を食べていますかと聞かれたわけですね。うちに引っ越してしばらくたったところでございましたけれども、エビとか魚とか海産物が
ベトナム料理は大変おいしいものですから、そういうものを食べている、お米も食べている、水も普通に飲んでいるということで言いましたら、学生が非常に私の顔を真剣な顔で見詰めまして、先生、エビとか魚とかそういうものを大量に食べると大変なことになりますよ、
毎日エビを食べるというようなことはやめてくださいというようなことを言われました。そして、彼がかばんの底に隠していた
ドキュメントを見せてくれたわけですね。それが、実はその当時行われていた
枯れ葉剤による、その中に含有されている
ダイオキシンの影響で生まれた
赤ちゃんの写真だったわけです。
枯れ葉剤というのは、これは
ダイオキシンを含有しておりまして、大変な猛毒でありまして、これは当時言われていたことですが、ごく微量の、約八十五グラムぐらい
ダイオキシンがございますと、ニューヨークの市民が一挙に死んでしまうぐらいの効力を持つとされていた大変な劇薬でございまして、私は本当に驚きました。もうエビや何かを毎日食べた後なものですからちょっと遅いかなと思ったんですが、それから非常に慎重にして、水もろ過して煮沸してというような生活に入っていったわけです。
これを契機に、私は、
法律学の研究ということで、比較的社会とか文化とか
家族関係とかということを中心にしておりました
研究分野を、
科学技術、特にそれに基づく兵器の悪用、誤用の問題と人間の生命の尊厳ということに焦点を合わせまして、そして、人権と
科学技術の問題等を中心に研究を始めることにしたわけです。
つまり、一九七〇年代の初めにこの問題に取り組んでいったわけですけれども、その契機となったのは、私と
ベトナムの私の学生とのこの出会いでした。この学生は片手がございませんでしたが、後にその学生の友人から聞いたところによりますと、みずから手を傷つけて、そうして戦争に行かないことを、拒否したということでありましたけれども。
そういう状況の中で、私は
サイゴンの街角で、
アメリカ軍が放出した本を売っている本屋さんがありまして、そこの本屋さんで一冊買いました。その本のタイトルを今でもはっきりと覚えているんですけれども、それは「バイオロジカル・タイムボム」、
生物学的時限爆弾という本なんですね。
生物学的時限爆弾というその本の中に、既に一九七〇年代、これは六〇年代の終わりに書かれた本ですけれども、その中に、
体外受精の問題とか死の問題、移植の問題とか、あるいはクローンの問題とか、そういうことが取り上げられておる。
これは
ゴールドン・テーラーという人が書いた本で、後にみすず書房から渡辺格という方が訳されて出していますけれども、その方の本なんですが、その一章を読んだとき、私は大変に驚いたんですね。それは、ジーンウオーズ、
遺伝子戦争というチャプターがあったんですね。七〇年代の初めに、これからの
生物化学兵器は特定の人種の
遺伝子に働くような爆弾を開発することになるだろうということが書いてあったわけですね。大変に私はショックを受けまして、実はその
遺伝子戦争のただ中に私はいたということを実感して、脂汗が出てきたといいますか、非常に衝撃を覚えたわけでございます。
この
遺伝子戦争という、
遺伝子というのは、
先生方御存じのように、ジーンですね。それで、殺すというのはサイドと言うんですね。ジーンを殺す。これは英語ですけれども、
ジェノサイドという言葉がございます。これは、
通常ホロコーストと並べて一緒に使われます、いわば
大量虐殺のことを言うわけですけれども、まさに
遺伝子を殺す
大量虐殺の中にいて、しかもそれは、その本に書かれてあったような特定の人種に対する
遺伝子ではなくて、敵も味方もやっつけてしまう、
遺伝子を攻撃する爆弾なわけですね。
ですので、
アメリカでは、
枯れ葉剤による被害を受けたということで
集団訴訟が起きまして、ベテランズアドミニストレーション、これは
復員軍人局ですけれども、そこでは、
集団訴訟を受けて立って、そして、
枯れ葉剤による戦傷の度合いに応じて
損害賠償金を払っているという事態になりまして、つまりこれは、韓国の人にも、オーストラリアの人にも、当時
ベトナムに従軍していた兵士の間にも、いろいろな被害を巻き起こし、がんの多発とか皮膚病とかあるいは
出生障害、そういうことを巻き起こしている。
つまり、
生物化学兵器というものは、敵、味方を超えて、実はさまざまな影響を長い世代にわたって及ぼす、これが一九七二年の私の体験でしたけれども、今から三年前に
ベトナムを再訪しました。再び訪れたわけですが、そのときハノイの赤十字で私が見せられた
ビデオフィルムがございますが、それは、現在も遺伝的な障害を持った方がお生まれになっている、その数はほぼ十万人というふうに、当時、ハノイの赤十字の方から言われたわけでございます。ということは、
ベトナム戦争が終わってから二十五年たってもまだ遺伝的な障害を持った方々が生まれているという大変に悲惨な事態。
果たして、私は、その私の
ベトナムの学生がうちに来たとき、それから二十年、三十年後のことを考えていたかというと、自分の身を守るためにそういうものは食べないということは誓ったんですが、
ベトナムの学生が私に言ったように、これは
アメリカによる
ジェノサイドですよと言ったそのことには、余り思い及ばなかったわけですね。
まさにそういう被害が及んでいるということを、つまり、
科学技術の悪用、誤用ということが人間の生命に極めて長期にわたって大きな惨害、被害を及ぼすということを
ベトナムで体験したわけです。
今世紀は、前世紀から
遺伝子の時代と言われておりまして、
先生方御存じのように、今、世界的な
スケールで、
ヒューマン・ジーノム・プロジェクト、
ヒトゲノム解析の研究が進み、そして、今から四年ぐらい前でございますけれども、
クリントン大統領は、これは月へも到達する偉業に比べられる、あるいはそれ以上の大きないわば成果が
ヒトゲノム解析研究によって与えられる、人間の
遺伝子の解析を
ベースにしたテーラードメディシンもできるかもしれないし、あるいは
再生医療にもつながるかもしれないし、
バラ色の未来が
ヒトゲノム解析の研究の結果得られるというふうに
クリントン大統領は声明文の中で言っておりまして、そして、日本におきましても、
ヒトゲノム解析研究の一端を担って研究が推進されてきていたという現状があるわけです。
しかし、よくよく考えてみますと、このことについてはほとんど指摘されていないことなのでございますけれども、私の、Iの「
環境破壊—ジェノサイドの悲劇」の2のところでございますが、「
ヒトゲノム解析プロジェクトとヒロシマ・ナガサキ」というふうに書いてあります。
ヒトゲノム解析プロジェクトというのは、
アメリカで始まったときには
エネルギー省が、つまり、現在、
厚生省、特にその管轄のもとにあります
NIH、ナショナル・インスティチュート・オブ・ヘルスという
一大研究機関、
ノーベル賞学者が何十人もいるという
世界最大の
医学研究機関の中の
ヒューマン・ジーノム・プロジェクトの研究所としてあるわけですが、これが最初に出てきたときには、
NIHでも
厚生省でもなくて、
エネルギー省から出てきたんですね。
エネルギー省からなぜ出てきたかといいますと、
ヒトゲノム計画と
エネルギー省というのは普通結びつきませんが、これをさかのぼって考えてみますと、
エネルギー省の前身は
原子力委員会、その前身はABCCなんですね。アトミック・ボム・カジュアリティー・コミッションといいまして、これは、広島と長崎に
原子爆弾が投下されてからすぐ
遺伝子の
専門家を広島と長崎に派遣して、それによって人間の
遺伝子が、特に放射能によってどういうふうに変化したかという、放射能による
遺伝子の変容を調べる、そういう
科学研究技術プロジェクトがあったんですね。その膨大な
データ、つまり、広島と長崎の原爆のいわばサーバイバー、被爆者の方々の血液からとった遺伝的な
データを
ベースにして、これを
ベースにして何かできないかということを考え出したのが
エネルギー省だったんですね。
この膨大な
遺伝的データの蓄積を人間のいわば未来への研究、新しい
遺伝子の研究につなげることができないだろうかということで始まったのが
エネルギー省の計画で、それにつなげていったのが
アメリカの
厚生省だったわけでございます。
私たちは、そういう意味で、
バラ色の
ヒトゲノム計画を見るときに、いつも私自身は、広島と長崎の被爆、そしてまたそれで亡くなった方々のことを思いながら、
バラ色の未来というのは一体何だろう、
科学技術というのは一体何だろうということを考えていたりしているわけです。
ユネスコができましたときに、これは第二次
世界大戦後の
教育文化機構ということで、宣言をつくって、そして
ユネスコができるんですけれども、
ユネスコというのは、
御存じのように、教育、文化、そして科学が入るわけです。
サイエンスが入るわけですね。初めは
サイエンスが入らなかったということなんですね。ユネコという名前だったらしいんですね。
それは総会の
議事録をごらんいただけばわかりますが、Sが入って
ユネスコという、Sが入ることになった理由が、人間がつくり出した
科学技術が、このように一瞬に大きな
スケールで人間に危害を加え、そしてまた、それが長期にわたって人間に極めて激しい悲しみ、苦しみ、悩みをもたらし、そしてまた死んでいく、
サイエンスの問題を入れなくちゃいけないということで、そして
ユネスコという、Sが入ったんですね。
私は、今世紀、「「戦争」の世紀から「いのち」の世紀へ」というエッセーを書いて、これは皆様方のお机の上にお配りしてございますけれども、戦争の世紀から命の世紀へということで、これだけ大きい
スケールで起こったことへの命の反省が、これは
基本的人権を基礎にしてなされねばならないということで、
国際機関に、そしてまたそれぞれの国の多くの立法の中にいろいろな影響を与えたというふうに考えているわけであります。
私は、
サイゴンでの仕事を終えましてから
スイスに行きましたけれども、
スイスでは、
ジュネーブ大学に行きまして、これもまた大変に感銘を受けたわけですけれども、
先端医科学技術の問題をどのように人間の権利、人間の尊厳と重ね合わせて考えるかという
プロジェクトが、一九七二年の段階で
WHOで進行していたわけですね。
ここにその当時の
ドキュメントも持ってまいりましたけれども、
WHOでは特に、「ヘルス・アスペクツ・オブ・ヒューマン・ライツ・イン・ザ・ライト・オブ・ディベロップメンツ・イン・バイオロジー・アンド・メディスン」、
生物学と医学における発展の光の中で見た
基本的人権の健康的諸問題ということで
ドキュメントが出ておりまして、そういう
ドキュメントに基づいて、その後
WHOはいろいろな文書をつくってまいります。
特に、私が一九七二年に
ジュネーブに行った段階で既に、例えば目次にございますように、
人工授精の問題、それから
遺伝的障害を持って生まれた
赤ちゃんの問題、あるいは胎児を使った研究の問題、あるいは断種の問題、そしてまた避妊の問題、
予防医学の問題、
人体実験、
臨床治験の問題、インフォームド・コンセントと医学へのボランティアとしての参加の問題、そしてまた死をどのように定義するのか、それに関連して
臓器移植をどう考えるかというのを、もう一九七二年、今から三十二年前の段階でやっていたわけでございますね。
それに伴いまして、私も
国際会議を
ジュネーブでオーガナイズいたしましが、その一つが
チューリヒで行われた
ジェネティクス・アンド・クオリティー・オブ・ライフという会議でございました。この
ジェネティクス・アンド・クオリティー・オブ・ライフ、これは一九七三年、今から三十一年前の会議ですが、ここで出てきた国際的な意見というのがその後の世界の各国の立法府にいろいろな影響を与えている。
どういう点で影響を与えていたか。三つあるんですね。一つは、命の問題については、命の
専門家と称する方々、それが当然、今から三十年前ですから、命の
専門家といえば、これは医師であり
生命科学者であったわけですけれども、そういう方々に任せてはいけない、私
たち一般の市民の一人一人が命の問題を自分の問題として考える方向を出していくべきだ。そのためには、さまざまな
学問分野の領域を超えた共同の
研究システムをつくると同時に、
科学研究についてはある一定の
ガイドラインを設ける必要がある。そして、その
ガイドラインを、特定の国でつくる
ガイドラインというものを踏まえて、国際的な
ガイドラインをつくる必要があるだろうということをこのときに話し合ったわけでございます。
私が一番感銘深く思ったことの一つは、このときまだ、
体外受精、IVFと言いますが、イン・ビトロ・ファータリゼーションですけれども、成功する前で、これは一九七三年のことでしたが、ロバート・エドワーズというケンブリッジ大学の
体外受精の
専門家、その後一九七八年に世界で最初の
体外受精児を成功させるわけですけれども、研究の第一線の
先陣争いのただ中にある
研究者が
スイスの
チューリヒでの
国際会議に来られて、
宗教家、哲学者、
科学者はもちろんのこと、
政策担当官、スウェーデンからも元
科学技術庁の次官、ドクター・アネーという方がおいででしたが、それから
遺伝学者、さまざまな分野の方々がおいでになって、その
ガイドラインのあり方について一緒に考えていたわけですね。
私は、その当時考えましたのは、このような広がりの中で
科学技術が方向づけられるということの非常に大きい意味、しかも、ディプロフェッショナライズといいますか、
専門家が
専門家であるがために見えなくなっている感覚がございまして、それを広げる形で、一般の参加者も含めて
ガイドラインを公開でつくっていく、ともにつくっていく。これを
バイオエシックスという私の
専門分野の用語で言えば
パブリックポリシーと言うわけですが、そういう
パブリックポリシーを国際的、国内的につくり上げていくということの意味をこのときに教えられたわけです。
生殖補助医療にいたしましても、あるいは
臓器移植にいたしましても、脳死にしても、
遺伝子操作にいたしましても、このときの手法を取り入れまして、今までは学会の
専門家中心、そしてまたあるときには
行政担当官、特に健康、医療を中心にしている、
アメリカでも
厚生省の方々を中心にした
専門家による
ガイドラインという
システムが大きく変わるんですね。
そして、公開の席で、しかも、委員の中には必ず
レイパブリックの代表、つまり、
専門家でない方々を、いろいろな分野の方々を入れてやっていこうということになっていくわけで、そういう点から考えますと、一九七〇年代の初めに、主催したのは
世界教会協議会という、これは欧米の方々ならどなたでも
御存じの国際的な
キリスト教の
世界組織、
キリスト教の
国際連合と言えるような組織、ワールド・カウンシル・オブ・チャーチスというところが主催したわけでございますけれども、その主催のオーガナイジングコミッティーのメンバーの一人としてこの会に私は参加して、いわば国際的な
バイオエシックスの
ガイドラインづくりを今から三十数年前にやったわけでございます。
アメリカでもヨーロッパでも、そしてまたアジアの各地でも、この会議に対する注目度は極めて高かったんですが、日本は余り注目しませんでした。当時、「世界」という雑誌が少しこれについて書いたわけですが。
ジェネティクス・アンド・クオリティー・オブ・ライフという言葉に象徴されておりますように、いわば
遺伝子の問題をどう考えていくのか、それを考えるときに、
政策担当者並びに
専門家だけではなくて、一般の方々を踏まえてこれを展開していく方向にしていかなければいけない。そのためには、公開のいわば検証が必要である。パブリックスクルーティニーが必要であるということで、
NIHにいたしましても、あるいは
アメリカの
厚生省にいたしましても、さまざまな会議は公開でやっておりまして、今まさにそれから三十年を経て我が国も、これは
閣議決定によりまして、さまざまな
審議会、政府の関連の諸
委員会、本日も含めて、公開という方向が出てきているというのは、ある程度時間的なギャップはございますが、大変にこれは望ましい形ではないかというふうに思います。
私自身も
厚生省の
厚生科学審議会の委員として公開の主張をいたしましたし、その中には、いわば論議されている事柄の焦点になるべき方々、例えば
遺伝子治療あるいは
障害者の遺伝的な欠陥をめぐる諸問題について討議いたしましたときには、まさにそのような方々をも含めた公開の
委員会が開かれ、そして、それがインターネットで公開されるという時代になったという、いわば三十年たって日本も随分変わったなということを感じているわけでございます。
今、私は内閣の
司法制度改革推進本部事務局の
法曹制度検討会の委員もしておりますけれども、そこも、これは公開にすべきかすべきでないかという話がいろいろ出てきたわけですが、これは完全に公開にいたしまして、
議事録ももちろん
名前入りということで、日本としても大きな変革のときに来ているという方向を、私は大変に望ましいというふうに思っております。
ジュネーブでの仕事を終えましてから、
アメリカに行きました。
アメリカでは、私は
ハーバード大学で、私は元来が
法律出身なものですから
ロースクールと、それから私の宗教的な背景ということがありまして
世界宗教研究センターというところでの
プロジェクト、
ロースクールといわば神学部そしてまた医学部との共同の
バイオエシックスのいろいろな研究の
プロジェクトがございまして、それに参加しました。それは一九七八年のことでした。
ハーバード大学では、
客員研究員をしておりましたので、
先生方のいろいろな講義にも出ることになったわけです。
私は、本日のテーマにもこれはそのまま関係してくることでございますけれども、
ハーバード・
ロースクールで憲法の
セミナーに出ました。これはそのときの資料の一冊ですね。
ハーバード・
ロースクールでは、判例その他を全部読みまして、それから、関連するものも全部こうやってとじてあるわけです。
私は、この
ハーバード大学での
セミナーをとって大変に驚いたんですけれども、
セミナー、コンスティチューショナルローというんですね。コンスティチューショナル、憲法。
アドバンスト、これはいわば上級コースです。上級コースの副題がこうなっているんですね。「バイオメディカル・テクノロジー・バイオファンタジー・アンド・ザ・ロー」、生命医
科学技術と生命幻想小説、バイオファンタジーですね、そして法律。いろいろな教材を使いましたが、その教材は
サイエンスフィクションです。私は大変にショックでした。憲法の
セミナーで
サイエンスフィクションを使って、そして論議をしている。
例えば、今でもよく覚えております、これは、ローレンス・トライブという
アメリカの憲法学の最高権威の一人の教授のゼミですけれども、将来、人間がクローン技術を開発して、人間のクローンだけじゃなくて、動物のクローンはもう容易にできるようになるだろうから、しかし、人間の持っている情報を例えば猫なんかに入れた場合、そしてまた猫の生態なんかを変えて猫人間みたいなのをつくった場合に、それを猫と見るのか人間と見るのか、猫人格か人間猫かというような論議をやっているんですね。
法律というのは、時代の中で大きく社会を変化させる意味を持っているんですね。我々、一般的に考えますと、法律というのは後追いですね。大体、社会の後追いなんですが、この
ハーバード・
ロースクールの教授は、法律がイニシアチブをとって社会を変化させるようなことも考えていこうじゃないかという非常に前向きの論議を、将来
アメリカの大統領や国務長官になるような方々、若い優秀な方々を集めた、たった十五人のゼミで、これから五百年ぐらい先を見て憲法の論議をしようと、この人はマーシャル群島の憲法をつくった人なんですけれども、ということを言っているんですね。
そのときに、今はっきりと思い出しますのは、君たち、人間でなくても人間として扱われているものがあるけれども、人間でないけれども人間、どういうものだと思うね、あるいは、人間なのに人間でないことも法律的に可能だったよね、それをどう思うと言うんですね。
人間だったのに人間でないということを
アメリカのコンテキストの中で言えば、これは、
ロースクールの学生諸君ですと、人間なのに人間として扱われたことがなかった、
アメリカの歴史の中でそれはどういう事例ですかと言われれば、これは、ここにいらっしゃる
先生方もおわかりかと思いますが、奴隷のことですね。一八五七年の判例に至るまで、その段階でも、これは、人間で、ちゃんとした、れっきとした、本当の尊厳と人格とを持った黒人でありながら、これをいわば家畜と同じように蓄財の対象とし、それをふやしていく、そしてまた家族を分けていくというような、人間なのに人間でない。
では、人間でないのに人間としたのは、君たち、どういうふうに思いますか、そういう事例が世界の歴史の中であったかねという質問をしたんですね。そのときに配られた
ドキュメント、一九一一年の
ハーバード・ロー・レビューの論文のコピーを配られまして、これは判例に基づいて書かれたものですけれども、人間でないのに人間というのは、私たち、言われてみればわかりませんよね、よく。
しかし、ここに書いてあるのは、コーポレートパーソナリティーということです。法人ですね。法人という
システムを人間はつくり出して、これは、世界の貿易のいわば興隆期に当たって、十六世紀、十七世紀、そういう中で、法人という、そこに投資して、そして人間と同じように誕生して、人間と同じように法律行為ができて、そして人間と同じように死亡する、そういういわばリーガルフィクションをつくって、そして社会を変革していった、この法人という考え方があったために資本主義社会は大きく世界の
スケールで定着していったと。
つまり、法律家というのはそういうことを考えられるんだよ、将来の未来に向けて、私たちは、大体五百年ぐらい前から、そしてまた五百年ぐらいを展望して、ローヤーというのは考えていかなくちゃいけないんだよということを教育されるわけです。
ロースクールが今度できまして、いろいろな形で実務との交流が起こるわけです。日本の大学の法学教育というのは、こういう発想は一切なかったんですね。私自身が、法学徒としてかつて勉強した者として言いますと、
サイエンスフィクションを読むということすらほとんどなかったわけですが、それを教材の中に取り入れて、そうして実際に
サイエンスフィクションを読みながらやったわけですが、私はこれをリーガルイマジネーション、法的な想像力というふうに言います。
私の本の中に書いてあるんですけれども、米国でのイマジネーションの教育は、
バイオエシックスや価値観教育の中で行われていますが、現実にSFを教材にして徹底的な学習をさせる例がふえてきているのが注目されます。ウィスコンシンのアルベルノ大学の価値観教育や
ハーバード大学法学部の憲法ゼミ、これは
ロースクール、法科大学院ですけれども、生物医
科学技術と生物幻想物語・SF及び法律等々で取り上げられてきたテーマには次のようなものがあります。
臓器移植の法的、倫理的問題はもちろんのこと、クローン人間の人権、地球外生物・動物と人間の合成生物、大脳機能の外的な操作、生命、死、人口のコントロール、中性人間並びに性転換の人権のあり方、あるいは試験管内授精、超人間計画、スーパーヒューマンですね、それから場合によっては人口増加に備えて、疫病の人為的流行計画、ある程度人間はふえ過ぎると困るのでそれを人為的に、他に及ばない形で減らしていくようなこととか、あるいは細菌戦用の
遺伝子兵器等々、こういうことを実際に討議しているんですね。
私は、こういう素養を
アメリカの
ロースクールでやっているということに大変な衝撃を受けたわけです。
そういう観点から見ますと、リーガルフィクションによる社会変革ということは、これは
アメリカのニューディールの動向を見ればおわかりのように、
アメリカの最高裁は、憲法の中身を変えるというよりか、条項でつけ加えていく、
アメリカの場合には憲法に附帯条項がついていくわけですが、いろいろな裁判の判例を最高裁が下していくことによりまして、そして社会のイニシアチブをとっていくという方向が、
アメリカの場合にははっきりと見えている。最高裁判事の任命にかなりポリティカルなエレメントが働いたということが、一九三〇年代、四〇年代にあって、ニューディールがいわば成功した。このいわば
アメリカのニューディーラーたちが日本の戦後に来て、その理想主義に燃えて、そして占領政策をいろいろつくっていくことになるわけですね。
アメリカは、いろいろなことをやりました。
アメリカというのは、いろいろな
人体実験を含めて、極めて人権侵害を意図的に、大胆にやってきた国の一つでありますし、そしてまた、広島、長崎という、人間が、人類が絶対起こしてはならない犯罪的戦略によって日本の人口に対するアタックをしたわけですけれども、
アメリカがしたもう一つの実験の一つは、日本に優生保護法をつくったということです。
これはもちろん、戦前に国民優生法というのがありまして、これをなくしまして、戦後に優生保護法というのをつくるわけですが、この優生保護法というのは、私たち日本人は、これの持っている国際的な意味合いを余り感じないままに法律として受け入れてきたわけですね。つまり、簡単に言いますと、刑法にあります堕胎罪の違法性を阻却して、優生保護法の適用によって人工妊娠中絶を可能にしたわけです。
これは、
アメリカ占領治下に可能になった法律でありますので、
アメリカの戦後の統治の文献などを読みますと、日本にやらせてはいけないことの一つとして、人口の増加ということがあります。人口を極力抑えるということも踏まえて、そして、この優生保護法がマッカーサーの監督下にできることになるわけですが、これについては、
アメリカ側から、予想外ですけれども、大変な反発が起きるんですね。
特にバージニア州のカトリックの方々からマッカーサーに対していろいろな手紙が来ます。このような優生保護法を日本でつくったら、あなたは日本人を
ジェノサイドしたゼネラルと呼ばれるだろう。
ジェノサイドゼネラルと呼ばれることになると。日本人の人口を集団的に、大きい
スケールでいわば滅ぼしていく人工妊娠中絶をやめるようにという投書が
アメリカから来るんですね。
日本側は、論議がないんですね。日本側は、背に腹はかえられない。これはいろいろなことがございまして、戦時下の状態の中でどうしても、生活困窮、要するに、背に腹はかえられないということで、苦しい中でいろいろな決断をしなくちゃいけないということが先に立ちましたが、
アメリカ側から見ると、これは
ジェノサイドゼネラルということで、アキューズされるんですね。
これは、日本で比較的有名で、
御存じかと思いますが、マーガレット・サンガーというファミリープランニングの
専門家がおりまして、戦前に日本に来て、演説をするわけですが、軍部によって退去を命ぜられるわけです。つまり、人口増加を国是としていた国に来て産児制限を説くとは何かということになったわけですが、このマーガレット・サンガー、彼女が残したすべての
ドキュメントが
アメリカの国会図書館にありまして、その中で見た、マッカーサーがサインした手紙がございます。
今、マッカーサー資料室にもありますし、日本側にも恐らくコピーが来ていると思いますが、その中には、ダグラス・マッカーサーが自分でサインした手紙、私は、日本人を
ジェノサイドするつもりはないと。これは当然ですよね、私は関係ありませんと。日本では
御存じのように、太田典礼とかあるいは加藤シヅエとかそういう方々が、当時の衆議院議員の方々ですが、国会に出して、そしてこの法律を通した。このときの日本医師会も、これに対してはやや肯定的であったということになるわけです。
そういう形で、いわば人工妊娠中絶を極めて世界的なレベルで、結果的にその違法性を阻却した世界で最初の国の一つに日本がなって、そして、これは非常にドラマチックに日本の人口の下降現象が起き上がったわけでございます。
そういうことから考えると、法律というのは、日本では特に、法律があればモラルがそこにあるというふうに思っちゃうんですね。ですから、人工妊娠中絶がいいとなっちゃうんです。
アメリカの場合は、これは一九七三年のロー・バーサス・ウエイドという人工妊娠中絶についての最高裁の判例がございますが、これは、女性のプライバシーの権利として認めた。
これは、人工妊娠中絶をプライバシーの権利として認めるんですが、法律が認めようが認めまいが、やらない人は絶対にやらない、道徳的に反していると。これは、特にカトリックの方々、バージニア・カトリック、マッカーサーたちに手紙を送った方々ですけれども、そういう方々はもう絶対に反対なわけですね。
マッカーサー司令部の中にはナチュラル・リソース・セクションというのがあって、そこにはジョンズ・ホプキンス大学のトンプソンという、これは元来人口制御論者なんですけれども、日本の人口をふやさないという論者ですが、この人がつくった
ドキュメントがあって、それを全部マッカーサーが回収して、我が占領軍は関係ないという形で、日本人がつくったという形になっていますが、そのことにつきましても私は論文に書いております。
そういう人間の命の問題にかかわりを持って、どこかの国がそれをいわば
ジェノサイドしていくということを徹底的に避けなければいけない。つまり、私たちは、戦争という形ではなくても、いろいろな形で
ジェノサイドが起こりつつある、その現状を見ていかなければいけないというふうに思うわけでございます。
私たちは、自分の健康についてのいろいろな情報、今までの日本の中でありますと、特に医療の現場では、患者に対して、その患者ががんの末期であるとか、あるいはさまざまなその他の病気についての情報を流さないことが当然であると。これはいわば、セラピューティックプリビレッジ、治療の特権といいますか、そういうこととして、患者側にその診断の結果の内容を告げるも告げないも自由ということで、日本のみならず、世界の諸国でそういうことが行われてきたわけですが、こういう時代の中で、私たちは、きちんと自分の命に関する情報については、それを自分が手にして、それに基づいて自分が判断を下すという時代になったということが言えると思うんですね。
私が、一九七〇年代の終わり、特に八〇年代の初めから、インフォームド・コンセントということを臨床の現場で使うように、私自身がこの片仮名用語で、いろいろな形で、病院や医師会あるいは医学会その他で講演をし、またキャンペーンをしてきたわけですが、そのときに、医師会の
先生方を初め、いろいろな方々から忠告を受けました。あなたみたいに若い
アメリカ帰りの法律家が、医療という経験と教育と、いわば実践等を踏まえた方々に対して何を言ったって意味がない、医療のことは医者に任せなさいというふうに言われたわけですね。
私自身も患者になりまして、これは
サイゴンにいたときですけれども、結石が発病いたしまして、日本に帰ってきて手術を受けましたが、そのときには、もうほとんど医師には何も言われませんでした。診察室の中にいた医学生と、これはどうだねとレントゲンの写真を見ながらやっていた主治医との間の会話で私の手術を翌日すると決まったわけですが、
アメリカで、
ハーバード大学におりましたときに結石の手術になりまして、もう一遍病院に行ったときには、約一時間時間をかけてレントゲンの写真を見て、詳しく説明してくれて、そして、最後に言われたことが私は大変に、これまた大きいショックだったんですね。
それは、日本では有無を言わせず、これは当たり前だと思っていましたからいいんですが、有無を言わせず手術です。ところが、
アメリカでは何と言ったか。医者は、これがあなたの病状です。そしてまた、この病状を避けるためには、薬を飲む方法、手術をする方法、それからまた、セカンドオピニオン、ほかの医者に聞く方法、いろいろありますよ。そしてまた、手術を受ける受けないは、私でなくてもいいですと。ドクター・レザビッツという
ハーバード大学のマウント・オーバン・ホスピタルの医者でしたけれども、私でなくてもいいです、どこか行きたいならどうぞ行ってください、情報は全部上げますと。ですけれども、最後に言った言葉が、ユー・アー・ザ・ファイナル・ディシジョンメーカー、あなたが最終的な決定者ですよ、手術するのもしないのも。
私は、医療における裁量権は医師側にあると思っていましたので、そのときを契機に、情報を十分に受けて、自分がこの医者に手術してもらいたいとか、あるいは自分がいわば違う形の治療を受けるとかいうことを基本的にわきまえる時代にならなければいけないなということを一九七九年の手術のときに知ったわけです。
一九八〇年に、私が日本でその経験を踏まえてインフォームド・コンセントの話を片仮名用語で言ったときに、日本の医師会の方々は、ここに医師会の方々もいらっしゃるかもしれませんが、説明と同意でどうして悪い、今までは説明も同意もしていなかったので、説明と同意をする時代になったらそれでいいじゃないですかと言ったんですね。
私は、私の「
バイオエシックス・ハンドブック」という本の中にも書いてありますが、新しい酒は新しい皮袋にという、これは聖書の中の言葉ですけれどもございますが、新しいコンセプトは、古い言葉、説明と同意という言葉よりも、インフォームド・コンセントという片仮名用語でアピールした方が、非常に日本の医療に対するチャレンジングなアイデアになるし、患者さんにとってもいいと思うから使っているんですと言ったんですね。これを使ってくださいと言ったんですね。そうしましたら、いや、これは説明と同意でいきましょう、そして、片仮名用語で長いから、これは定着するはずがないというふうに言ったんですね。私は、いや、五年のうちには定着します、一九八〇年でしたが、八五年ぐらいまでには定着しますと言ったんです、ちょっと時間がかかりましたが。
今、インフォームド・コンセントという言葉は大学に入ってくる学生のほとんどが知っています。これは、二十年前にはほとんどだれも、ここにいらっしゃる
先生方も、ほとんどインフォームド・コンセントという言葉を
御存じなかったと思うんですね。国語の字引にも入って、最近はこれを納得診療とか日本語にまた変えようという動きもございますが、インフォームド・コンセントが説明と同意や納得診療とどこが違うのかといいますと、私の
アメリカでのショックの体験の中にございますように、ともかく本当のことを言うということですね。
説明と同意というのは、医療側が自分で裁量して本当のことを言わなくてもいいんです。しかし、本当のことを言う、本当のことに基づいて、そして診断のためのいわば検査の内容についても正確にそれを伝える、どういう検査を何の目的でやるかということを伝える。そして、具体的な処置について、医療側はこれを提案する。
大事なことは、説明と同意の場合には、私はこれをやりますよと一生懸命説明してくれるわけですね。しかし、インフォームド・コンセントの場合には、その選択肢を言わなければいけないんですね。どういうやり方があって、どういう選択肢があるのか。日本の場合の説明と同意の中に入ってこないのは、リスクということですね。これをやった場合にどういうリスクがあるのかということを言わなくちゃいけない。
今起こっている医療事故の大半は避けられたでしょう、もし患者に本当のことを言っていたら。そして、リスクについても、これだけのリスクがあるということを言っていたら、患者がもしかすれば避けた可能性がある事故が極めて多いんですね。それをいわば説明と同意という形で、医療の分野ではムンテラ、ムントテラピーという言葉が伝統的に使われておりましたが、口の治療ですね。要するに、口でごまかすと言うと語弊がありますが、口でうまく言いくるめるという形でやっていた。そして、リスクを踏まえた上で、その処置をやらなかった場合にはどうなるのか、予後はどうなのか、それ全体をわかりやすい言葉で相手に伝えて、相手が納得したかどうかを確認するということがインフォームド・コンセントなんですね。
インフォームド・コンセントという考え方は、診療の、医療の現場の中の問題だというふうに大体普通の人は思うんです。しかし、私が唱えております
バイオエシックスの考え方からすると、これは社会の基本の考え方。政府は政策について国民に十分な情報を出す、それはこの最後のところにもなりますが、インターネット時代の中でさまざまな形でその情報を出し、そして、その情報について国民が選択して、いろいろな形でこたえられるような
システムを、つまり、双方向性の社会をつくり上げていくという展望がこれからは必要になってくるというふうに思うわけです。
いわば、インフォームド・コンセントという考え方が患者側にぴったり入ったんですね。ですから、言葉は定着しました。言葉が定着すれば、それを定着したままで使っていくのが新しい文化のあり方です。日本語という言葉自体がいろいろな言葉を入れて成り立っている。漢語がなければ日本語は成り立っていないわけですね。そしてまた、平仮名のほかに片仮名があり、いろいろな洋語が入って日本文化が現代に至る形で形成されてきているわけで、そういう意味で、インフォームド・コンセントという言葉が、私から発して、こうやって日本社会の中に定着するようになったということは、これは極めて望ましいことであったというふうに私は思いました。
これは、ついでながら余談ですけれども、この国際シンポジウムを日本でやりましたときに医学研究振興財団、当時の学術会議の会長の塚田裕三先生、慶応義塾大学の名誉教授を今されておりますけれども、その先生のお招きなんかで来たわけですが、そこに武見太郎先生がおられて、武見太郎先生が、これは私に直接言ったんではないんですけれども、
アメリカ帰りのあんな若造が何を言ったって、医療は医師中心じゃなくちゃだめだよと言っていたんですね。
そうしたら、その後のパーティーで、木村君、武見会長はああ言うけれども、君が本当に信念を持っているならそれを言い続けなさい、君みたいな法律家が日本の医師の前で話す時代が来た、
早稲田大学など、大体、医学部がないところの人が
アメリカへ行って勉強して、そして、世界をまたにかけて勉強した人が帰ってきて日本の医師にチャレンジするのはすごくいいから、君、それをやり続けなさいと言った人がいるんですね。それは、私が大変敬愛する井深大さん、ソニーの当時の会長でした。ソニーの当時の会長はパイオニアとしての生き方を私に示したかったんだと思うんですね。パイオニアというのは大変だ、大変だけれども、やることがあったら徹底してやり続けなさいというふうにして私を激励してくれたので、現在の私があるということになると思うんです。
そういう意味で、インフォームド・コンセントという考え方が日本の社会に定着する、それは、
アメリカの場合には医師と患者との関係だけではなくて、政府も、そしてまた地域の病院も、いろいろな形で情報を流し、そしてそれを踏まえて地域の住民が、どこの病院がいいか、どこの医師がいいかということを判断できるようなことを考えていくような方向にあるわけです。
健康情報ということにつきましては、そういうことで、本当のことを正しく知らせるということになるわけですけれども、これはさまざまな問題が出てきます。
例えば、BRCA1とここに書きましたが、家族性のいわば乳がんの場合に、医師の守秘義務というのは、患者といわば
専門家としての医師の倫理的な規定の根本にある考え方ですけれども、このBRCA1というのは家族性であるためにそのお子様やあるいはごきょうだいの方に絶対に発症する可能性があるので、BRCA1の
遺伝子があった場合にどうするかという問題がありますし、それからHIVの場合もそうですけれども、診断については、例えば夫なり妻なりが診察を受けてそれが判明した場合に、その夫なり妻なりが配偶者に言っていない場合に医療側は言っていいのか。
アメリカではタラソフ・ケースというケースがありまして、精神的に疾患を持った方があの人を殺すと言っていたのを知っていたわけですね。しかも、その殺すと言っていた相手方も医師は知っていたわけですね。何回かこれはアドバイスをしまして、そしてキャンパスの警察官がそばに張りつくようなことをやっていたわけですが、本人には言っていなかった。最終的にその人が殺されてしまったという大変に大きい事件がありまして、急迫不正の侵害に伴う可能性がある場合には、生か死かという問題にかかわる場合には、医師の守秘義務を超えた倫理的な原則に基づいて、他者に情報を与えるということも許容の範囲内ではないかという説も今できているわけです。
時間が迫ってまいりましたが、「おわりに」というところで、「未来ジェネレーションの人権と法の支配」ということで、きょう先生の方にもお配りしてございますけれども、資料の出典「
バイオエシックス・ハンドブック—生命倫理を超えて—」というところがございます。この中で、少し後ろの方になりますけれどもごらんいただきますと、四百二十四ページですけれども、
ユネスコで未来世代の人権に関する世界宣言というのをアイデアとして出しました。
これは、そのところを読んでいただければおわかりいただけるかと思いますけれども、その次のパラグラフです。「地球の保全への権利、未来世代の選択肢の自由の権利、生命と人類保存の権利などをはじめ、個人と民族の出自を知る権利、所有権、文化財産権、生態的に調和のとれた環境への権利、平和への権利、未来の差別禁止、未来世代の人権保障」ということで、
ユネスコでは未来を展望しながら新しい人権ということを考えているわけです。
私たちはやはり、この現代の日本の中で今の問題を考えると同時に、恐らく日本のこれからの百年先、二百年先、
ハーバード・
ロースクールでやったように、五百年前の日本はどうだったのか、五百年後の日本はどうなるだろうかというふうな
スケールの中で、人権と平和と、そしてまた私たちの人間の尊厳、生命の尊厳、環境の保全ということを踏まえた大きな
スケールで、日本の国のために新しい方向を見出していくような努力をしていきたいというふうにかねがね思っているものでございます。
ちょうど時間になりましたので、これで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)