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岩永委員 大変残念なことでございます。
約三十一名の
国会議員が、私
ども、ちょうど敗戦後に生まれた方が多いわけでございますが、
日本が
大変困窮をしていたことを思い、今の
カンボジアだとか
ラオスだとか
ミャンマーだとか、ああいう
戦時下にあって厳しい
環境の中で勉学を続けている
子供たちにすばらしい施設を提供していこうじゃないか、これが、
平成九年の十月七日に、そういう趣旨で実は
議員の会ができたわけでございます。そして、月に約一万円ずつ
ポケットマネーを拠出しようじゃないかということで、それからだんだん人がふえまして、年間五、六百万集まるわけですね。そして、五、六百万集まったお金でもって各
地域に
学校を建設している。そういうことでございます。
第一回は、
カンボジアのプノンペン市で、二棟六
教室、
ダムコー小学校というんですが、それを寄贈しました。そしてその次には、
ラオスのカムアン県に、
ポンサワン小学校というのを一棟五
教室寄贈しました。それから次に、
カンボジアのプレイベン県というところに、これは
プレイキー小学校というのを一棟五
教室で寄贈しました。それから、
カンボジアのコンポンチュナン県というところに、
チュロロミエッタ分校小学校を寄贈したわけでございます。それから次に、
カンボジアのコンポンスプー県に、
アンロントン分校小学校というのを寄贈して、そして
最後に、
ラオスのビエンチャン市に、もくれん
小学校というのを寄贈したわけでございます。
それのすべての
学校に、
ともだち小学校という形で
学校名をつけて、そしてそこへ
日本の日の丸をつけて寄贈したわけでございますけれ
ども、それまでは本当にトタンぶきの、雨が漏る、そしてむしろに
子供たちが百人ぐらい座って、そして机もない
状況の中で勉強している
子供たちに、
日本で五、六百万といいますと、やはり向こうへ行くとすごい
学校でございまして、
民間でもこういうことをやっておられるところがたくさんあるわけでございますが、
議員の
活動としてこういうことをやっておるわけでございます。
今回、
ミャンマーで
学校を一つ寄贈しようじゃないかということで、私
ども、先般、
ミャンマーへ四月の二十九日から五月の四日に、もう建設されておりますので、行ってその
状況を見てまいりました。今度、七月の十八日から二十三日に、竣工、引き渡し、
贈呈式をやるわけでございますが、
キン・ニュン総理自身がここでつくってやってほしいというようなことでその場所も提案されまして、
総理自身の
出身地でもあったというようなことで、約三百名程度を収容して、
小学校、中
学校に相当する
子供たちが通う
予定になっておるわけでございます。すばらしいのは
便所でございまして、本当に水洗の
便所を提供しているわけでございまして、そういう
活動を、我々当選してから約八年たつわけですが、ずっと毎年毎年やっているということの御
認識をいただきたい。
これは、
大臣がまだその
状況をお知りおきいただかなかったというのは、大変、私も
情報提供不足だと思いますし、あなたの方からいいますと
情報収集不足だった、このように思いますので、ひとつ、各
外務省の官僚の
皆さん方にはその間大変な
お世話になっております。また、
日本にいるそれぞれの
外交官にも
大変お世話になって、そして、みずからこういうものが生まれてきたということでございますので、最初にその話を申し上げておきたいと思います。そのことが私が
ミャンマー問題を今回
質問するきっかけになったわけでございますので、ひとつそういう面で……。
この間も、その途中の
視察に行ったときには、
文部大臣も我々に対して大変な歓迎をされたわけでございますし、
総理は当時会うとおっしゃっておられたんですが、会えなかったんですが、
総理大臣の
特別秘書官という方がみずから来られた。そして、
子供たちが入る御父兄の
皆さん方も皆、我々の
視察に
拍手喝采でお迎えいただいた。そして、
学校の
先生方も本当に礼儀正しくお迎えいただいて、大変な御
期待をしておられる
部分を見たわけでございます。
そうした
状況の中で、ずっと
ミャンマーの
地域を
視察してまいりました。しかし、御
承知のとおり、
カンボジアと
ラオスと
ミャンマーが年三百ドルの所得で
生活しているというように、本当に貧しい
国家なんですね。そして、私
どもも現地の服装でずっと
ミャンマーにいる間過ごしたわけです。そして、住民の
皆さん方、特に
貧民街あたりにもずっと
視察をしながら
ミャンマーという国を知りました。
御
承知のように、
インパール作戦のときに、三十万、戦線に
参加している。そして、十八万、亡くなって、十二万、
日本の兵隊が生きて帰国した。ただ、その中で、「ビルマの竪琴」の映画にあるように、
イギリス軍から
日本兵をかくまってくれたり、いろいろな
状況の中で、
日本に対してはすごい親日的な
国家でございまして、今でも、行くと、
日本は大好きだ、
日本と深い交流をやりたい、こういう話を至るところで聞くわけですね。
ちなみに、この周りにある
中国だとかタイだとか
インドなんかは
ミャンマーとしては嫌いな国でございますので、遠くにあるけれ
ども、
日本ともっと
友好を結べたら、そういう話を聞くにつけ、私
どもも同じ
仏教国でございますし、なおかつ信心深い、そして純真な
国民の姿を見るにつけ、私は、
日本が積極的にその応援をし、そして
友好を深めていく
国家ではないかというようなことを、伝統的な
部分からもそのように思ったわけでございます。
そういう
状況の中で、
大臣も願っておられるような、開放的な国になってほしい、そして国が
民主化されてほしい、そういう
部分はあるわけでございますが、今、
ミャンマーを見ておりますと、どうも、
スー・
チーに代表されるように、なかなか、
そこらあたりの
部分が大きなネックになっている、こういうことでございます。
それで、私は、二〇〇三年の五月三十日に起きた
スー・
チー女史襲撃事件を原因として
政府側が彼女を軟禁してきた、そして、以来、
日本政府は
人道援助も含めてすべての
援助を停止することなどを通告してきた、しかし
経済制裁を科しているEUや米国すら
医療支援などの
人道援助を現在も続けている、こういうような
状況の中で、こういう
部分だけでも何とか再開できないか。
そして、
国民から見ると逆に、ほかの国は、東南アジアなんかどんどん経済成長している、しかし、
我が国は
生活レベルが低く、そして純粋なものは純粋なものとして残したいけれ
ども、やはりできるだけ文化的な高い
情報化社会の中に入っていきたいという気持ちがあるわけでございますが、最近、むしろ
スー・
チーが
経済制裁を世界に訴えている
部分が逆に
国民の怒りになっている
部分もあるのではないかというのを私はずっと
訪問団の
皆さん方と
お話しして感じてきたわけでございますが、このことについてどのようにお思いでございますか。