○大
仁田厚君 ありがとうございました。
もう先ほどから何回も言いましたけれども、だって人間
社会の中で生きるために借りたものは返す、僕はそうだと思うんです。やっぱり、そういった規則とか義務とか、そういったものを家庭の中で教えられないなら国単位の中でそういったものを義務化していくとか、そういったものを
社会とか国がやっぱり教えていくべきだと僕は思っているんです。
何ですかね、エネルギーというのは僕はどこから得ているのかよく分からないんですけれども、僕
自身考えてみて、常にどうしてこういうことをやっているのかなと思うと、やっぱりコンプレックスなんですね。常にコンプレックスと、僕の、変な言い方をすると、
大臣、偏見なんですね。偏見との闘いなんですね。これは、かのアントニオ猪木さんというのがいまして、プロレスが八百長だ八百長だと言われるわけです。それでストロングというのを打ち出すわけです。
自分はストロングなんだ、力強いんだ、プロレスは本当に力強いんだという、ストロングというのを打ち出すわけですね。それによって、それによってプロレスに対する偏見を消していこうとするんですね。それで参議員になられたんですね、最初に。プロレスラーとしては初めて参議員になられた。あの参議員になられた自体が、僕は猪木さんの根本的な
部分でやっぱり世の中に対する偏見との戦いだったと思うんです。これは僕の、あくまで僕の観測なんですけれども。何かありますか。僕は思いますけれども、そうなんです。
いや、だって、僕は国会に来てこう思いますもの、当選したとき五十万票近い票をもらいましたけれども。票をもらいましたけれども、じゃ全部が全部認めているかといったら、
社会が認めていないわけじゃないですか。子供のころを
考えてください、
遠山大臣、副
大臣。そうです、みんなが最初から認められているわけじゃないんですよ。
遠山大臣だってそうです。
大臣になるまでいろんなプロセスを経ているわけじゃないですか。
僕は十五のとき、十五のときリュックサック背負って長崎の県庁前から歩いたんですよ。二十八日間かけて神戸の元町の駅まで歩いたんです。その二十八日間だけでもいろんなことがあるわけですよ、二十八日間。もう聞き飽きましたか、この話は。聞いていなかったですか。それで、その十五の子供が長崎の県庁前から
友達に送られて、じゃ行ってくるねと、こう歩き出すんですね。
それで、まだ時間ありますね、その当時、うちの母親がうるさい母親なんですよ。じいさんは金持っていたんですけれども、うちの母親はうるさいやつで、靴は穴が空くまで履けと言うんですよ。しようがないからそのまま中学校で使っていたズックでこうやって歩くわけです。すぐ穴空くわけですよ。それで、その十五の少年が
考えたんですよ。それで、手持ち資金が二万三千円ですよ。アルバイト、新聞配達で稼いだ二万三千円持ってこうやって歩くわけですね。それで、運動靴屋へ行って靴買ったんですね。
それで、飯食うだけで、御飯食べるだけで金減るじゃないですか。金減るから、しようがないからやっぱり靴代どうにかしようと思って
考えたのが、十五歳の人間が
考えたのが、子供が
考えたのが、どうにかしようって、タイアップというものを
考えられないかなと思って靴屋の電話番号に電話掛けたんですね、僕ね。済みません、話の分かる人いますかと言ったら、営業部長さん出てきてくれたんですよ。これは偉い人だなと思って、済みません、こうやって
日本一周歩いている者なんですけれども、靴提供していただけませんかと言ったら、分かったと言うんですよ。このおやじ安易やなと思いながら、大阪へ行ったらちゃんとフグごちそうになって、靴三足くれたんですよ。
それで、今何でそういう話をするかというと、やっぱり信頼
関係が、ちゃんと人間と人間の信頼
関係がやっぱり確立された時代というのは僕はあったと思うんです。これは、
一つは十五の子供がタイアップということを
考えたということなんです。次に
考えたのが、これはパブリシティーなんですよ。たまたま博多まで歩いていたら、旅館が泊めてくれないんですよ。家出少年か何かと間違えられたんでしょう。それで、しようがないから小倉の方までずっと歩いていたら朝方になって、こうやって新聞紙が僕の足に絡み付くんですよ。新聞読みながらこうやって歩いていたんですよ。囲みの記事の中に、サウジアラビアの二人の兄弟がサハラ砂漠を徒歩で旅しているという記事が載っていたんですよ。あら、外国の人もこうやって宣伝しとんのやなって。僕もやっぱり
自分の過程を宣伝せなあかぬと思って、門司の
スポーツニッポン新聞社の支社に行きまして、
自分を売り込みに行ったんです。こうやって
日本一周やっている者なんですけれども、記事にしていただけませんかと言ったら、上の編集部へ行けと言われた。
それで、今で、この年になってやっと分かるんですね。その記者の人がちゃんと話を聞いてくれて記事になったんです。アドベンチャー少年って、今度見せてあげますよ、
皆さんに。僕がやったことばっかりを何か
自分で思っていたんですよ。そうじゃなくて、今
考えると、逆に
考えてください。十五の子供が、済みません、僕は
日本一周やっているんですけれどもって。それをちゃんと受け止めてくれた
人たちがいたんですね。だって、
遠山大臣、こうやって一人の中学卒業した子供が来て、僕
日本一周やっていますからと言ったら、
遠山大臣、信用されますか。いやいや、その信用する信用しないの問題ではなく、ちゃんと受け止めてくれる
社会があった。何でそれが、何か訳の分からない、アバウトな世界になってしまったのかなと僕は何か
考えるんですけれども。
僕
自身の人生は、僕
自身の人生はいろいろな闘いだと思います。僕、人間いろんな
考え方があり、
先生、そうですよね、人間いろんな
考え方があり、だってそうですもの、僕はプロレス界から来ているんですけれども、江本先輩はやっぱりプロ野球から来ている。だけれども、僕、こうやって江本先輩と会ったときに何を感じるかというと、やっぱり先輩と僕言いますよね、いつも、先輩と言いますよね。何で先輩かというと、やっぱり
一つのプロというくくりの中で、それは八百長と言われようと何と言われようと、僕からしたらプロの世界なんです。
一つの世界なんです。その世界で最初に、僕より先に足を踏み入れた人がやっぱり先輩なんです。僕、そうだと思うんです。
ただ、先輩たちにもお伺いしたいんですけれども、副
大臣でも最初にこの世界に入られたときはやっぱり一年生だったと思います。──縮めて。はい、分かりました。もう一分で終わります。先輩たちも一年生だったんです。だけれども、僕は思うんです。その一年生を一年生と見るんじゃなく、やっぱり四年生なら四年生、五年生なら五年生の人はやっぱり一年生を引き伸ばす、引き出してやるということが僕、
社会の中で絶対に必要だと思っています。
是非、大人
社会、子供
社会ということじゃなく、やっぱり
社会全体の中で、相手を
指摘するばかりではなく、やっぱり引き出してやる、相手の才能を伸ばしてやる、能力を伸ばしてやるという
社会づくりをしなければ、抜本的に変えなければ僕は絶対駄目だと思います。何か言えば人のことばっかりを言う、そういうのじゃなく、やっぱり
自分自身の僕は生き方であり、
自分自身の表現だと思います。その子供たちを、そういったものを伸ばしてやるためにも、
社会全体がやっぱり前を向いて一生懸命やる
姿勢というものを示してやるのが僕は一番理想的な
社会づくりだと思います。
僕は
日本は絶対に負けないと思っています。絶対に潜在的に力を持っていると思います。絶対に負けない
日本、頑張る
日本、そしてまた二十一世紀に対応できる
日本をつくるためには、僕は文教科学の努力というのがもう本当に不可欠だと思っております。
是非、
皆さんの努力と、僕も一生懸命頑張りますので、今日はもう
質問、ありがとうございました。是非、もうちょっとです、あと三十秒です、五秒です、是非こういう
制度を拡大して、分かりやすく、そしてまた多くの人が受けられるように是非していただきたいと思っております。
どうも今日はありがとうございました。