○大
仁田厚君
大臣、結構です、もう。
僕は、いろんな
意見があると
思いますけれども、自主性がなくなったりするとか、そういった
部分というのは反論は確かにあると思うんですけれども、僕は、大人がやっぱり入口を示してやらなければ、やっぱり分からないことは分からないですから。
だって、溝を掃除しよう、下水を掃除しようって、あの石をこうやってやってこうやるんだよということを示すわけじゃないですか。大人がやっぱり示してやらないと、やっぱり
子供が分からない。先ほど副
大臣が言われたように、そういった教師の中の免許の中に組み込んでいるみたいな。だけれども、僕は、やっぱりこの
時代だからこそ、そういったものを議論し、闘い合いながら、どういった
部分で持っていくか、示していくか、
子供に示していくかということを僕は必要な
時代になっていると
思います。是非、そういったものを議論し合いながら世の中に輩出していくことが私
たちの務めだと思っておりますので、是非よろしくお願いします。
ちょっと、とんとんとんとん進んでいくのに、いろんなことをお聞きしたかったんですけれども、
自分で試行錯誤しながら、たくさんのことがあるんですけれども、僕は、先ほど言われました、副
大臣が言われました教師の資質なんですけれども、僕はちょっと昔の話を取り上げるわけじゃないですけれども、やっぱり
人間、教師と
子供という
部分で、別に昔の例を取り上げるわけじゃないですけれども、やっぱり心に、感動したり心に残っているんですよね、物すごく、
先生という。
先生というものの価値観が今と、今現代と昔の
人たちというのは、僕は、変わっているか変わっていないかというのは定かではないですよ、現実の
先生たちを僕は見ていませんから。今の大学の
先生というのは、僕、大学二年生なんですけれども、もう遠いものですから、遠いものですから、教授と生徒みたいな物すごく遠い存在なんですよ。
僕は東京にいまして、東京にいまして、東京のそこの麻布の東町小
学校だったんですけれども、僕は生まれは九州なんですけれども、ちょっとおやじの都合で、おやじがろくでもないものですから、東京に行こう、連れてこられまして、それで急に九州弁から、僕は九州弁を話すわけですよ。何と言っているんだというのをなんば言うっとかと、こう言ったらばかにされまして、みんなに、おまえ何を話しているんだいとか言われるんですよ。おいは、おいは九州弁ば話しよっとと言ったら、分からないと言うんですよ。それで困りまして。それで
子供ってすごいですね。ボキャブラリーがすごいですよね。すぐ順応しちゃうんですよね。
それで、今度また、またおやじが九州に帰ろうと急に言い出すものですから、九州に帰ったんですよ。そうしたら、僕が九州に帰って
学校に行ったら、君
たち久しぶりだねと言ったら、おまえなんば話しよっとかと言われるんですよ。いや、僕は普通に話しているんだとか言ったら、おまえ汚か言葉ば使うなとか言われて、また、いや困ったなと思って。だけれども、
子供って不思議ですね。順応性がありますね。そんなんで。
僕らの
先生はおもしろい
先生だったんですよ。おまえら今日はやる気あるかとか言うんですよ。今日はやる気あるかと。ファイヤーとかは言いませんけれども、おまえらやる気あるかとか言うんですよ。そうしたら、みんな、やる気あるかと言ったら反応ないじゃないですか。勉強なんかしたくないんですから、しんとしたんです。しようがない、おい、教科書閉じろと、こう言うんですよ。どこに行かせるのかなと思ったら、おい、走ろうと言うんですよ。急にばあっと出ていって、山まで走っていくんですよ。その方がつらいんですよ。ばあっと走っていくんですよ、山まで走っていって。
そうしたら、一人の生徒が、済みませんと言うんです。これも九州弁なんですけれども、済みませんとか言うんですよ。おい、何だと言って、うんこばしたかとですと。しようがない。おまえな、こんなところでとか言うんですよ。こんなところでしようがないけれども、それは僕なんですけれども、それは僕なんですけれども。それで、草むらへ行ってこいとか言われて、草むらへ行って、ばあっと草むらでうんこばしよったとですよ。それで、うんこしようったって、さっき教科書ばんとやってばあっと出てきたわけじゃないですか。そうしたら、やっぱり紙持っていないわけじゃないですか、紙持っていない。済みません、
先生と言って、紙のなかとですと言ったら、おい、その辺にペンペン草のあるぞと言われて、ペンペン草って何ですかと言ったら、その辺に大きな葉っぱのあるやろと言われて、ああそうですかと言って、こう、何というんですかね、初めて葉っぱでふいたんですよね。
何というんですかね、これが何の話につながるかといったら、何の話につながるかといったら、やっぱり僕は教師の資質って物すごく問われていると思うんですよ、この
時代。いや、だって、だってその
時代、その
時代が良かった
時代だとかそういったものじゃなくて、やっぱり現代を
考えなきゃいけないわけじゃないですか、
教育という
部分で。
やっぱり教師というのは何だろうという、やっぱり教師を見て、
学校に行ったとき教師を見て、その人がやっぱり尊敬できる
人間か、感動させてくれる
人間か、やっぱり心と心が通じ合う、そういった
部分も必要だと思うんですよ。ただ黒板に書いてその授業だけをやるような教師だったら、今僕ははっきり言って、はっきり言って必要ないです。
大臣は僕の試合を見に来られたことないでしょうけれども、内舘牧子さんがこの間、内舘牧子さんが僕の試合を見に来て、あんたの試合は宗教的だねと、こう言っているんです。いや、僕は宗教じゃないですよ。ただ、プロセス、プロセス、そうなんです。
子供でもそうなんです。僕は、高校生ぐらいから二十歳ぐらい、三十代までずっといるんですけれども、その
人たちがリング上に集まるわけですよね、こうやって水をばっとまいて、俺は邪道だとか言っているわけですよ。ろくなものじゃないですよ、
考えたら。だけれども、その
人たちは何を見ているかというと、ちゃんとした過程を見ているんです。
子供が、
子供が見てないようで
子供って意外と大人の行動をちゃんと見ているんですね。そして、言葉の端々の中で
自分で吸収できるものは吸収している。そういった
部分というのを逆に僕は、逆に大人が今の
時代感じてないんじゃないかなって、そういうふうなことをちょっと懸念するんですけれども、教師の資質についてどういった改革や制度をお
考えでしょうか、
大臣。