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2003-04-02 第156回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十五年四月二日(水曜日)    午後一時一分開会     ─────────────    委員異動  二月二十六日     辞任         補欠選任      辻  泰弘君     内藤 正光君  四月二日     辞任         補欠選任      池口 修次君     山根 隆治君      神本美恵子君     辻  泰弘君      円 より子君     岩本  司君     ─────────────   出席者は左のとおり。     会 長         勝木 健司君     理 事                 魚住 汎英君                 中島 啓雄君                 内藤 正光君                 松 あきら君                 西山登紀子君                 森 ゆうこ君     委 員                 加治屋義人君                 小斉平敏文君                 田村耕太郎君                 月原 茂皓君                 藤井 基之君                 松山 政司君                 山内 俊夫君                 池口 修次君                 岩本  司君                 辻  泰弘君                 円 より子君                 山根 隆治君                 和田ひろ子君                 加藤 修一君                 渡辺 孝男君                 畑野 君枝君                 山本 正和君    事務局側        第二特別調査室        長        村松  帝君    参考人        東京女子大学教        授        林  道義君        大学評価学位        授与機構長    木村  孟君        教育評論家        臨床教育研究所        「虹」所長    尾木 直樹君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○理事辞任及び補欠選任の件 ○国民生活経済に関する調査  (派遣委員報告)  (「真に豊かな社会構築」のうち、個の確立  を促す教育学習在り方について)     ─────────────
  2. 勝木健司

    会長勝木健司君) ただいまから国民生活経済に関する調査会を開会いたします。  まず、委員異動について御報告いたします。  去る二月二十六日、辻泰弘君が委員辞任され、その補欠として内藤正光君が選任されました。  また、本日、神本美恵子君が委員辞任され、その補欠として辻泰弘君が選任をされました。     ─────────────
  3. 勝木健司

    会長勝木健司君) 理事辞任についてお諮りいたします。  円より子さんから、文書をもって、都合により理事辞任したい旨の申出がございました。これを許可することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 勝木健司

    会長勝木健司君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。  この際、理事補欠選任を行いたいと存じます。  理事選任につきましては、先例により、会長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  5. 勝木健司

    会長勝木健司君) 御異議ないと認めます。  それでは、理事内藤正光君を指名いたします。(拍手)     ─────────────
  6. 勝木健司

    会長勝木健司君) 国民生活経済に関する調査を議題といたします。  先般、本調査会が行いました委員派遣につきまして、派遣委員報告を聴取いたします。中島啓雄君。
  7. 中島啓雄

    中島啓雄君 委員派遣の御報告を申し上げます。  去る二月十八日から二十日までの三日間にわたり、沖縄県において国民意識の変化に応じた新たなライフスタイルに関する実情について調査してまいりました。  派遣委員は、勝木会長魚住理事北岡理事内藤理事松理事西山理事森理事、そして私、中島の八名でございます。また、島袋議員が現地参加されました。  以下、調査の概要を申し上げます。  沖縄県は、全国平均と比較しても高い失業率など、早急な解決を要する課題を抱えておりますが、昨年から開始された沖縄振興計画では、本県経済の大黒柱である観光産業の一層の発展情報通信産業の集積、中小零細企業の多い製造業活性化等を通じた自立型経済等に向けた諸施策を強力に展開して、豊かな社会の形成を目指しております。さらに、本計画を具体化した推進計画では、観光客数雇用者数及び自立高齢者比率等について将来の数値目標を明示し、その達成に取り組んでおります。派遣委員からは、離島への航空料金と酒税の軽減県外観光客による県内での消費額減少等に関連した質疑が行われました。  次に、視察先について申し上げます。  まず、名護市役所を訪れ、金融業務及び情報通信産業の両特別地区について説明を聴取しました。法人税軽減等の一国二制度的な措置を通じて産業発展等を図るため、当市は昨年、我が国で初めて金融特区及び情報特区に指定されました。進出企業コールセンターでは、地元の若者が投資信託各種保険パソコン操作等についての問い合わせに適確に対応しており、今後は更に高度な対応ができるようにして付加価値を高めていきたいとのことでした。  また、特定企業グループの保有するリスクのみを引き受けるキャプティブ保険会社の設立とともに、我が国投資家海外株式を売買するパスダック市場創設等を可能とする金融テクノロジー開発特区構想を認めていただきたいとの要望がありました。派遣委員からは、特区構想に対する政府からの回答状況や、若年者雇用奨励金を活用したワークシェアリングの現状、雇用者二十名以上の進出企業等に関して質疑がありました。  続いて、具志川市の中城湾港新港地区特別自由貿易地域を視察いたしました。本地域は、外国に再輸出する物品に対する関税と消費税課税免除法人税軽減等の一国二制度的な措置によって、製造業発展等を図ることを目的に、平成十一年に我が国で初めて指定されました。現在、分譲地への進出企業は一社のみであるが、賃貸工場が好評なので、今後も増設していく方針であるとのことでした。派遣委員からは、輸出入手続簡素化等に関連して質疑が行われました。  次に、那覇市の首里城公園を視察いたしました。首里城琉球王朝政治等の中枢で、第二次大戦前は国宝に指定されていましたが、戦争によって灰じんに帰しました。平成四年に正殿が復元、首里城公園として開園され、十二年には遺構が世界遺産に登録されております。同公園は、琉球王朝の重要な歴史・文化施設であるだけでなく、我が国の城郭の中で年間の来訪者が最も多く、開園以来の来訪者は二千万人を超えており、本県の最も代表的な観光施設でもあるとのことでした。  次に、那覇市の瑞泉酒造株式会社を訪れました。同社泡盛のしにせで、本県の代表的な地場産業一つであります。平成十一年には、戦争中に消滅したと言われてきた種類の黒こうじ菌を発見し、この菌で発酵した泡盛の復活に成功したとのことでした。  さらに、那覇市の城間紅型工房を訪れました。紅型はすべて手作業による伝統的な染物で、大変貴重なものですが、本県を代表する伝統工芸として近年注目を集めるようになってきたとのことでした。  次に、沖縄本島から石垣島へ移動し、石垣市役所を訪れ、説明を聴取しました。石垣市への観光客は年々順調に増加しているとのことですが、現在の石垣空港滑走路が千五百メートルしかなく、大型ジェット機の離発着が不可能で、島内で取れた生鮮品等県外移出ができないとのことでした。しかし、先般、長年にわたって議論してきた新空港建設問題について、多くの市民の賛同の下に意見の一致を見て、環境アセスメントに着手したとの説明があり、併せて新空港早期着工の強い要望がありました。派遣委員からは、増加しているUターン、Iターン等人たちのための住宅・医療対策や、外国人に対し査証を免除する観光特区構想等に関して質疑がありました。  次に、同市における視察先について申し上げます。  まず、我が国農業用ダムの中で堤が最も長い底原ダムを視察いたしました。  続いて、約半世紀を要して、黒真珠養殖世界で初めて成功した川平湾黒真珠養殖場を訪れました。黒真珠養殖の最大のポイントはきれいな海であり、川平湾周辺自然保護が重要であるとのことでした。  次に、本県の伝統的な織物、ミンサー織りの「みね屋」を訪れました。八重山ミンサー地元庶民が古くから着用してきた織物であり、上納制度が開始された十七世紀以降は勤勉な職人によって洗練された芸術性も加わり、さらに同社によって大量生産されるようになったとのことです。  さらに、八重山観光ボランティアの会から説明を聴取しました。低調だった観光案内を今年は千件に増加させたいとのことでした。  次に、石垣島から竹富町の西表島へ移動し、国指定天然保護区域の仲間川のマングローブを視察いたしました。近年、観光客増加基調にあり、今後も観光客増加が見込まれており、開発自然保護の調和をどのように図っていくかが今後の島にとっての重要な課題であるとのことでした。  最後に、沖縄本島へ戻り、那覇市の沖縄都市モノレールについて説明を聴取いたしました。戦時中に県営鉄道が壊滅して以来、県内では鉄道が全くなく、市内の道路が混雑の一途をたどっているため、本県で戦後初めての軌道系公共交通機関となるモノレールの建設が進められてきましたが、本年八月に開業する予定となりました。その一方で、市内公共交通機関を担ってきたバス会社を今後どう運営していくかという新たな問題も生じているとのことでした。派遣委員からは収支の見通し等に関して質疑がありました。  最後に、今回の派遣に当たりまして、沖縄県並びに関係者皆様から多大な御協力をいただきましたことに厚く御礼申し上げ、御報告を終わります。
  8. 勝木健司

    会長勝木健司君) ありがとうございました。  以上で派遣委員報告は終了いたしました。     ─────────────
  9. 勝木健司

    会長勝木健司君) 次に、「真に豊かな社会構築」のうち、個の確立を促す教育学習在り方について参考人から意見を聴取いたします。  本日は、お手元に配付の参考人名簿のとおり、東京女子大学教授林道義君、大学評価学位授与機構長木村孟君及び教育評論家臨床教育研究所「虹」所長尾木直樹君に御出席いただき、御意見を承ることといたします。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  参考人皆様におかれましては、足元のお悪い中、御多用のところ本調査会出席をいただきまして、誠にありがとうございます。  本日は、本調査会が現在調査を進めております「真に豊かな社会構築」のうち、個の確立を促す教育学習在り方につきまして忌憚のない御意見をお聞かせをいただきたいと存じます。調査参考にさせていただきたいと存じております。どうぞよろしくお願いをいたします。  議事の進め方でございますが、まず林参考人木村参考人尾木参考人の順にお一人二十分程度で御意見をお述べいただきました後、二時間半程度、午後四時四十分までの間、各委員からの質疑にお答えいただく方法で議事を進めてまいりたいと存じます。  この質疑につきましては、あらかじめ質疑者を定めず、自由に質疑を行いたいと存じます。  また、時間が限られておりますので、質疑答弁とも簡潔に行っていただくようお願いをいたします。  なお、参考人からの意見陳述、各委員からの質疑及びこれに対する答弁とも着席のままで結構でございます。  それでは、林参考人からお願いをいたします。林参考人
  10. 林道義

    参考人林道義君) 林道義でございます。  個の確立を促す教育学習在り方ということで、日ごろ考えていることを述べさせていただきます。  私は、一番初めの発言ということもありまして、この問題についての最も基本的、基礎的なことを述べさせていただこうと思っております。特に、家庭教育それから小学校の低学年ぐらいを対象に、個の確立についての一番基礎となることは何かということでお話ししたいと思います。  言うまでもないことですが、教育あるいは学習の最終の目標というのは、各人が自立した判断力を持てるような個を確立するというところにあると思います。  ただ、この個の確立とは何ぞやということはなかなか難しい問題でして、簡単には述べられませんけれども、私なりに簡潔に要約しますと、第一に、いわゆるアイデンティティーと言われているもの、あるいは自我と言い換えてもそれほど遠くはないと思いますが、これを確立するということが第一であります。  第二に、社会的な主体社会の中で人々と協力しながら生きていかれるという、そして、その中で自立的な判断力を持てるようにするということだと思います。  この二つの意味におきまして、個を確立するということがどういうプロセスを経て行われるのかという点について、多少述べさせていただきます。  アイデンティティーというのは、よく自己同一性などと訳されますが、余りよく説明を聞いても私自身分からない。私なりに定義をいたしますと、自分というものに対する客観的な認識を持っていて、そして、その自分に対して肯定感自信を持っていることというふうに言うことができます。  自分とは何であるかという意識自己意識と言い換えてもいいんですが、この自己意識というのは自分の持っている性質や特殊性というものの総合でありまして、いろんな属性を個人は持っております。  まず一番最初に大切なのが、男女区別自分は男の方に属しているのか、女の方に属しているのかという意識であります。そのほかに、どの民族に属しているか、どの国民であるかということとか、故郷とか地域共同体への所属とか、それから家族への所属等々、そして、最後には自分自身独自性等によって、これをどのように認識しているかということによって構成されております。  このようなものは、自然に育ちますと、正常な場合には自然にでき上がるんですけれども、特に現代の社会との関係で重要になってきますのが男女区別ということでございます。自分の性、男性なり女性なりへの帰属意識というものですね、これを持つということはアイデンティティー確立にとって非常に大切なことでありまして、これが確立できませんと、これがはっきりしませんと、アイデンティティー確立に非常に支障が生じてまいります。  子供は、一般的に考えますと、大体二、三歳くらいから始まりまして男女区別ということを意識するようになります。思春期までには自分が男の特性又は女の特性を持っているということを意識的に確信しまして、それなりの行動基準というものが確立されていなければなりません。そうでないと、価値観とか考え方の面で自分自信が持てないとか、無気力になったり閉じこもりになったりする原因の一つになりかねません。さらには、異性との関係がうまく作れない、こういう現象が今ちまたでよく指摘されておりますが、あるいは同性愛に傾いてしまうとか、要するに、生物としての子孫を残すための必要な行動支障が出るおそれがあるということが、可能性がございます。  よく言われるのに、男らしさ、女らしさなどというものは必要ないので自分らしさが大事なんだということをよく言われますけれども、実は、自分らしさというのは抽象的に真空の中に存在するのではありません。男らしさ、女らしさだとか、そのほか、民族への帰属故郷への帰属家族への帰属といった、そういったすべての特徴が総合されたものが自分らしさでありまして、そういった男らしさ、女らしさということと無関係に別のものとして存在しているのではありません。したがって、男らしさ、女らしさなんというものは要らないから自分らしさだけ持てばよいなどというのは空論と言わなければならないと思います。  この男らしさ、女らしさというのを最近ではジェンダーという言葉で呼びまして、これをなくすのが正しい教育在り方であるということを主張なさる方もいらっしゃいます。  しかし、男らしさ、女らしさというのは、最近、脳科学が非常に発達しまして、ほとんどもう一〇〇%に近いくらい証明されておりますが、この男らしさ、女らしさは生まれ付きのものであるということが明らかになっております。  ただし、現在言われている、社会的に言われている具体的な男らしさ、女らしさがそのまま生まれ付き、生得的なものだというわけではありません。生まれ付きのものは非常に抽象的なものでありまして、男の子は積極的で戦いを好むとか、遊ぶときも活発な遊びをするとか、女の子の方は生まれ付きおとなしいとか、色も明るい色を選ぶとかというのは、それはもう生まれ付きであるということはほとんど証明されております。ただし、それがその社会においてどのように洗練され具体化されているかということは、歴史的、社会的に決められるということが言えると思います。  もうちょっと具体、この辺りは時間がありましたらまた詳しく述べたいと思いますが、いろいろ御議論のあるところだろうと思いますが、時間がありませんので、そのことだけを言っておるわけにはいかないので、男文化女文化というふうに分かれているのは決して後れているということではなくて、むしろ文化的に進んでいるのだということだけ申し上げておきたいと思います。  実際に、男らしさ、女らしさと言われているものが全部そのまま正しいという意味ではありません。その中にはもちろん差別を反映した部分もありますので、そうした部分はなくしながら、適正なものとして洗練していくのが望ましいというふうに私は考えております。  次に重要なこととして、自我を形成するということはどういうことかということを考えてみたいと思います。自我というのは、定義がいろいろございますけれども、今日述べますのは、心のコントロールセンターという意味を強調しておきたいと思います。  人間にはいろんな心の部分があります。脳科学でいいますと、いろんな部位がありまして、部分というものがありまして、それがいろんな能力を持っておりますが、これらを総合して使いこなしていく、組み合わせて使いこなすという必要がありまして、人間中心部というものがあって、そこでいろんなものを総合的に判断して、ほかの部分を手足のように使っていくと、こういう能力が必要になります。これは、個の確立ということでいいますと、絶対に不可欠の部分でありますね。これが脳の中で形成されていきます。これを前頭連合野と名付けられております。  この部分が形成されるのは八歳までということがほとんど明らかになっております。すなわち小学校の低学年の間にこの部分が形成されてしまい、これまでに形成されないとそれ以上は作られないという非常に恐ろしい事実が明らかになっております。  この部分は言わば人格中央司令室というふうに呼ぶことができる部分でありまして、これが形成されるためには確固とした価値基準というものが安定して与えられ続けなければなりません。そうしませんと、基準というものがないので、結局中央司令室というのには、働くためには基準が必要であります。  この基準というのが作られるためには、年齢に応じて枠というものが与えられる必要があります。適正な生活習慣、それから普遍的な価値基準、普遍的といいましてももちろん相対的なものでありますが、人間として当然持っていなければならない価値基準というものを与えておく必要があります。  こういう基盤の中で、特に大事なのが秩序感覚というふうに私が呼んでいるものです。秩序感覚というのは、すべての総合力、つまり心コントロールセンターとしての自我の一番基本にあるものですね。これが私の研究では、細かいことを言う暇がありませんが、三歳までにほとんど形成されます。三歳までにこれが形成されていませんと、物事を組み立てて使っていくというそういう能力も育ってきません。したがいまして、三歳までに規則正しい生活習慣というものを付けさせるということが、その後の自我確立にとって非常に大切になってきます。  憂うべきことに、いろんなアンケート、世論調査によりますと、現在の日本人の家庭の約半分が子供に規則正しい生活をさせておりません。親の寝る時間とは違う、早くに子供だけを寝かせるという習慣を持っているのは日本の家庭の半分というふうに今減少してきておりまして、これは将来にわたって非常にゆゆしい結果を生むだろうというふうに私は憂えております。  こういった基盤の上にいわゆる個という、あるいは自分らしさとか主体的判断力というのが成長していくことができるのであります。これを育てるために、適切な枠に守られた訓練の場を提供する必要があります。  適切な枠とは何ぞやということを本当はもうちょっと詳しく述べたいのでありますが、ちょっと簡単に一つだけ紹介しますと、ある幼稚園で実験をしました。子供たちに枠を与えたグループと枠を全く与えないグループというのを置きまして、枠を与えたというのは、例えばこの部屋の中でこのおもちゃを使って一時間だけ遊びなさいというふうに与えます。枠を与えない方は、無制限に、空間的にも時間的にも、それから何をしてもよいというふうに無制限で遊びなさいという実験をしました。そうしますと、枠を与えられた方は安定して落ち着いた表情で伸び伸びと遊んだというんですね。ところが、枠を与えられなかった子供の方は、全く落ち着きがなくて何をしていいか分からないというふうに不安定な精神状態になってしまったという実験があります。  このように、子供に全く何も基準を与えないでほったらかしにしておきますと、実は子供の方は逆に自主性や自由というものが育っていきません。自主性というのを初めから与えますと、子供自主性が育ちません。なぜか、当然皆さんにお分かりのように、自主性というものはそれぞれの個人の中に基準があって、その基準に照らしてその個人判断をして行動すると、この確固とした基準がない人間は自主的に行動することはできません。  このところを間違えて誤解なさっている方が、教育界の中にもいろんなところにもたくさんおりまして、自主性自主性と言って、唱えて、与えれば自主性が育つというのは大きな間違いであるということを私は特に強調しておきたいと思います。  私は、自己紹介しますと、いろいろカウンセリングとか心理療法もいたしておりますが、閉じこもりとか不登校の子供の親に会ってみますと、お父さんが必ずと言っていいぐらい威張って、私は子供を自主的に育ててきました、好きに何でもしてよいと言ってきましたと必ず言われます。だからそうなるんですよと私は言うんですけれども。  子供には基本となる価値基準をきちんと与え、価値基準といっても特殊な価値基準じゃありませんよ。悪魔という名前を付けるなんて、そういう価値基準じゃなくて、人間としてだれでもが持っていなきゃならないそういったものをきちんと与えるということが基本にならなくてはならない。こういうものを基にして、各年齢に応じて自由を与え、枠を広げ、そして自分判断する訓練を次第に付けていくと。教育には順番というものがありまして、この順番をきちんと踏まないと、おかしな人格が育ってしまうということでございます。  誠に基本的な、分かり切ったことしか述べませんでしたけれども、時間が参りましたので、以上で終わらしていただきます。失礼いたしました。
  11. 勝木健司

    会長勝木健司君) ありがとうございました。  次に木村参考人お願いいたします。
  12. 木村孟

    参考人木村孟君) 大学評価学位授与機構の木村でございます。  個の確立という私がずっと考えております事柄につきまして、少し私見を述べさせていただきたいと存じます。  私、四年ほど英国に住んだ経験がございまして、そういうことから、絶えず日本人と英国人を比較して考えるのが習い性になっております。そういうことからいいましても、どうも日本人については個の確立というものが彼らに比べると劣っているのではないかというふうに考えております。  そういうことから、よく日本人は集団としては優秀であるけれども、個人としてはいかがなものかということを外国人から言われることがありますけれども、それも私個人的にはむべなるかなと考えておる次第であります。  しかしながら、これだけ大きな国になり、しかも我々が今住んでいるこの社会が非常に変化が激しくて不透明な時代ということでございますから、やはり何としても日本人においてもその個の確立というものをきちんとやっていかなければいけないというふうに感じております。  しかしながら、翻って私どもの日本のこの社会環境あるいは教育環境を眺めてみますと、決していわゆる個の確立を促すものになっていないのではないかというのが私の正直な印象でございます。  例えば、ここに書きましたように、家庭というレベルで見ますと、少子化のためでしょうか、最近は甘やかしあるいはしつけの不足ということが非常に目立つ、私自身の反省も含めてでありますけれども、そういう傾向があるのではないかと思います。  一方、私は決してアメリカ、ヨーロッパ、英国等の礼賛者ではありませんけれども、住んでみて感じますのは、やはりヨーロッパ、アメリカの社会ではしつけ、いわゆるディシプリン、ディシプリニングということが依然として社会一つの是とみなされております。そういうことから、こういう家庭教育においてもどうも日本はおかしくなっているのではないかというふうに考えます。  それから、初等教育へ参りますと、最近は随分授業のやり方等も変わってまいりました。しかしながら、依然として、やはり伝統的な考え方に基づくのでしょうか、受け身の授業というのが非常に多いということですね。それに対して、英国等でいろんな小学校を見ますと、やっぱり非常に参加型の授業が増えているということでございます。そういうことからも、日本の教育システムの中に個を確立するという考え方がやはりそれほど浸透していないというふうに感じております。  それから、後期中等教育、これは高等学校でありますけれども、高等学校になるとますますひどくなります。これは御承知のとおり、大学受験というものが非常に日本の中で大きなプレッシャーとなっております。最近は大学へ入ろうと思ったら入れるという話もありますけれども、依然として、私どもが中教審等で使っております、特定の影響力のある大学、いわゆるブランド大学、そういうところへ入るためにはどうしても問題解決型にならざるを得ないということであります。それに対して、殊にアメリカ等ではその問題発見型ということが非常に重要視されておりまして、それに向けての教育が現在盛んに行われているという状況であります。  それから、もう一つ大事なのは、ここでモラトリアム期間と書きましたが、日本の場合にはこの後期中等教育から高等教育へとストレートに結び付いていくという状況がございます。これが日本の私、最大の問題だというふうに思っております。  御承知のとおり、特にヨーロッパでは、たとえ高等学校が済んで、段階が済んで、大学の入学試験、資格試験、資格を取ったとしても、ほとんどの若者がそのまま大学へ行かないと。いろんな形で社会へ出ていって社会経験を踏むと。一つ、御承知かと思いますけれども、グレープピッキング、つまりブドウ摘みという言葉が英国にありますけれども、これは大学資格を取った若者がフランス、イタリアへ行ってブドウを摘んでアルバイトをして、そのお金で世界じゅうを旅行するという一つのカルチャーになっておりますけれども、そういうことを社会が是とする、それから家庭も是とする。そういうことで、言わばその時点で若者が親離れをする、社会の一員として自分を自覚するという、そういうステップがあります。それが日本には全くないということ、これが、これも非常に大きな重要な問題だと考えております。  それから、高等教育に参りますと、これ全部一からげでなかなか申し上げられないんですが、やはり依然として日本の大学、最近変わっておりますけれども、殊に研究室等へ入りますと問題解決型の学生がやはり重宝されるということですね。徒弟制度が依然としてばっこしておりますので、そういうことでやはり非常に個の確立ということには問題があるシステムになっていると。  それに対して、欧米の大学ではやはりプロフェッサーの言うことを聞くような学生はむしろ重宝されませんで、いかに新しい発想をするか、人と違った発想をするかということが一つの学生を評価するメルクマールになっているという状況がございます。  そこにちょっと余計なことを書いておきましたけれども、私も理工系の出身でありますけれども、理工系の弁護をすると、理工系は若干変わっております。これはどうしてかというと、やっぱり理工系はどうしても国際競争をしなければいけない。そうすると、従来型のいわゆる徒弟制度あるいは問題解決型の人間だけではもう勝負にならないということがございますので、その点では少し理工系は開かれているかなという気がいたします。でありますからこそ、二年続いてノーベル賞が出たり、また、恐らく私は来年、再来年と確実に日本人、日本からノーベル賞受賞者が出ると確信しておりますけれども、そういう状況が理工系にはあって、少し理工系は違っているということかと思います。  それから、社会へ出るとどうなるかというと、やはり日本人はいまだにお上がやってくれるというそういう発想をほとんどの人が持っているというふうに思います。そういうことからして、私はかねがね感じておりますのは、若い人と海外旅行をしたりいろんな学会へ出ますと、とにかくいろんな意味でセキュリティー感覚というものが全然備わっていないと。要するに、だれかがやってくれるだろうと、こういうことなんですね。  これに対して、欧米の社会の若者、若者だけではありませんが、欧米の社会人たちは、やはり自分たちがタックスペイヤーであるということをはっきり意識して、お上がやってくれるんじゃなくて自分たちがやるんだという発想を持っております。それから、若者もモラトリアムの期間を通過したためでしょうか、一人一人が非常にはっきり明確なセキュリティー感覚を持っているということを痛感いたします。  じゃどうすればいいのかということでありますが、いろんなことが言われておりますが、私はこういうふうに考えております。  家庭では、まず子供たちに責任を持たせる。どうやって責任を持たせるかというと、とにかく自分の役割を持たせるということですね、仕事を持たせる。もうこれは、英国の家庭を私、かなりつぶさに見てまいりましたけれども、ここのところが徹底しておりますですね。普通の家庭では子供に何かやらせるということを必ずやっております。  それから、初等教育では、先ほど申し上げましたように、やはり参加型の授業、全部がその参加型の授業はなかなか難しいと思いますけれども、参加型の授業の比重を増していくということだと思います。どうしてそれが必要かということなんですが、やはり参加型の授業をやることによって初めて子供たちは考える、それから好きになるということがあるんですね。参加型あるいは体験学習と申し上げてもよろしいと思いますけれども、要するに、好きになってもらわないと個の発現というのはもうこれは不可能なんで、そういうふうに授業のやり方を徐々に変えていくということが必要ではないかと思います。  それからその次に、後期中等教育、これは高等学校の教育でありますけれども、これはもう大学受験方法を変えるしかないというふうに思っております。最近では随分、全国的に見ますと、大学の受験方法も、試験方法も変わっております。しかしながら、先ほど申し上げましたように、特定の影響力のある大学だけを見ますとほとんど変わっていない、もう依然としてペーパーテストだけということであります。  これは、こんなことをやっている国は日本だけでありまして、例えば高等学校まで、あるいは高等学校以前、高等学校までにそれぞれの子供たちがどういうふうなことをやってきたかということが、これらの上位の特定の大学の入学試験で一切問われません。これは非常に不思議なことですね、そういうこと。  それから、最近では医学部等ではインタビューをするようにやっとなりましたけれども、やはりインタビュー、そういう、ペーパーテストももちろん必要なんですけれども、スクールレコード、それからインタビュー、そういうものの組合せでやっていくことによって、その問題解決型だけを偏重するというふうな社会傾向が少しは私は減るんではないかというふうに考えております。  それからその次、社会の問題でありますけれども、日本の社会というのは非常に不思議でありまして、現役崇拝主義というのがあるんですね。十八で一流の大学に入って、二十二で出て、それで一流企業へ入る現役崇拝主義。これがやはり日本を全体として非常に苦しくさせているし、また、日本人の個の発現ができない大きな理由になっているのではないかと思います。  要するに、様々な社会体験をした人でも大企業が採用する、大企業に限りませんけれども、社会が認めるというふうなことにならないと、なかなか個の発現を促すような教育学習というのはできないのでは、そういうシステムというのはできないんではないかと考えます。  それから、やっぱり高等教育では、徹底した自主性の育成ということを考えて展開する必要があろうというふうに考えております。  それから、社会なんですが、これはなかなか申し上げにくいことですけれども、私自身はやっぱり官の役割をもっと縮小すべきだというふうに考えております。官の役割が大き過ぎるので、そこへ日本人がどうしても頼ってしまうということで、様々なセクターへの権限移譲をすべきだと、そして様々なセクターへ各個人が、それぞれの日本人が参画していくと。そういうことによって、先ほど申し上げたようなセキュリティー感覚が身に付くし、それを通じて個の確立というものが可能になるのではないかというふうに考えております。  特に、学習の面から個の確立ということを考えてみますと、先ほど申し上げましたように、要するに好きにすることが大切なんですが、要するに学習意欲をどうやって持たせるかということなんですね。そうすると、先ほどから繰り返しになりますけれども、とにかくやっぱり体験学習、参加型の授業、そういうものをもっともっと増やしていかなければならないということであります。  最近、ここのところ日本でノーベル賞をお取りになる方が随分増えておりますけれども、皆さん共通におっしゃるのは、とにかくほとんどが子供のときの自然体験ですよね。そういうものがいかにその後の自分に、影響を受けたかということをおっしゃっておりますので、やはり体験学習、殊に自然体験、そういうものをふんだんに子供たちにさせる必要があるんではないかと。  残念ながら、高度成長社会の時代に日本はすばらしい自然の大半を失ってしまいました。しかしながら、まだまだ日本というのは自然が残っていると思います。そういうことで、例えばイギリスの家庭ですと、中流の家庭でありますと、英国というのは本当に自然がないところなんですが、夏休みには子供たちを率先してファームへ連れていって自然体験をさせるというふうなことを盛んにやります、そういうことが安くできるシステムができておりますから。やはり、そういうふうなことを国掛かりで私はやる必要があるんではないかというふうに考えます。最近、そういう点では企業等でも大分いろいろな試みをされてきておりますので、そういう点では少し変わっていくのかなというふうに思います。  それから、余り知られていないことでありますけれども、英国ではそういう夏休みに子供たちを自然に触れさせるような試みをしているNGOが一万個以上あります。もちろん、それは値段、ピンからキリまでありまして、それぞれの収入に応じて参加していくんですけれども、そういう一万以上のNGOが子供たちを自然と触れさせるような工夫をしているということ、この辺はやはり日本としても大いに見習う必要があるのではないかと考えます。  それから、重要なのは、さっき学習意欲の話をしましたけれども、学習意欲というのは個人によって出る時点が違うんですね。幾ら出そうと思ってもなかなか出ない子がいる。だけれども、そういう子はずっと出ないかというと、決してそうではない。いつかは出てくるということがあるということで、その学習意欲が出た時点で学習ができるシステムをやはり国として作っていく必要があるのではないかということが一点。それから、もう一つ大事なのは、遅くスタートした人がハンディキャップを背負わないようなシステムを作る必要があるということ。この二つを込みにして一つのシステムを作る必要があろうということであります。これは、一言で申し上げますと、最近盛んに言われております生涯学習社会の形成ということになります。  これは、生涯学習社会ということでいいますと、実は英国等が言い出したのははるかに早いんでありますけれども、現実に国としてこういう生涯学習社会の形成ということを取り上げたのは英国よりも日本の方が先であります。一九九六年に英国でデアリング・レポートというのが出ましたけれども、その中で英国は生涯学習社会の形成ということを一つの大きなモットーにいたしましたが、これははっきりと当のデアリングさんが日本から学んだとおっしゃるぐらいでありますから、日本というのは、そういう意味では生涯学習ということの必要性の認識は早かったと、しかしながら、ほかの国の方がインプリメンテーションで先に進んでおりますので少し後れたというふうに私、感じておりますけれども、そういうことからしても、是非、一刻も早く生涯学習社会を形成する必要があると考えております。  生涯学習社会、一言で言いますと、要するに十分な学習の機会を備えるということと、もう一つ大事なのは、そこで学習した成果を社会が認知するということですね。それなくしては真の生涯学習社会というのはできないと。つまり、先ほど申し上げたように、遅くスタートした者が勉強しようと思って勉強する、そして、その人たちが積み上げた学習成果が世の中で認知される、そういうシステムでないとなかなかうまくいかないのではないかと。  甚だ全体として雑駁なプレゼンテーションになりましたけれども、個の確立ということについて私がずっと考えておりますことの一端を申し述べさせていただきました。  ありがとうございました。
  13. 勝木健司

    会長勝木健司君) ありがとうございました。  次に、尾木参考人お願いいたします。
  14. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 教育評論家臨床教育研究所「虹」を経営しています尾木直樹と言います。  僕は、お二方の先生のように専門性が高いというわけではなくて、ここ十年ぐらいで全国千数百か所、講演に回ったり、いろんなシンポジウムに参加したりとか、あちこち駆けずり回っている泥臭い現場からの報告というような感じで、ちょっと今の教育状況を俯瞰的にとらえながらお話ししていきたいというふうに思います。  お手元にレジュメ、簡単なのがあるかと思いますけれども、一つは、今なぜ個の確立を促す教育あるいは学習というものが求められているのかという、その必然性の問題なんですね。  これは、端的に言いますと、日本社会の歴史的、時代的な変化の必然としてこれが教育現場でも、あるいは社会的にも話題になってきているんじゃないかということを思います。それは四つの柱から整理することができるかなというふうに思います。  一つは、御承知のとおり、日本型企業社会、終身雇用制、年功序列を柱とした、それが崩壊しました。学歴社会が揺らぎ、安定した企業、組織体やあるいは集団に所属していくことが幸せの担保にならないような社会に変化してきたと。言葉を換えて言えば、非常に労働力が流動化してきているという問題。  こういう中では、いわゆる一流大学へ、一流高校から一流大学へ進んで、そして一流企業に勤めれば、先ほど出ました、アイデンティティー確立していなくても何とか職場の人間関係で十年、十五年たつうちに一人前に育ててもらえるという発達のプロセスというのがあったかと思うんですけれども、それが今は保障されない状況だと。そういう中では、個人が自らのキャリアイメージを作らなきゃいけないというような、キャリアデザインが必要な社会に、時代に入ってきたという問題ですね。つまり、個の時代というかしら、評価は別にしてですが、が到来してきたということは認めざるを得ないかなというふうに思います。  それから二番目ですけれども、市民、学校レベルでいいますと、保護者が非常に高学歴化しました。今、大卒が四九%に達していますので、そういう中で、高学歴化とそれから価値観が非常に多様化してきた成熟社会あるいは知識社会の要求として、これまでのような、単純なという言い方はちょっと語弊があるか分かりませんけれども、人材育成としての教育から、それぞれの子供たちの個の確立を目指す教育、これは市民的な社会ではよく言われますけれども、共生時代の地球市民としての子育てや教育をやってほしいというような表現で親たちはよく言いますが、そういうものが求められているような変化というのが二つ目です。  三つ目は、国際化、情報化の進展の中での個人生活が激変してしまったという問題です。これは、御承知のとおり、メール、携帯メールでの出会い系サイトでの事件に子供たちが巻き込まれるというのが相次いでいて、いろんな、私たちが悩まされていますけれども、そういうインターネット社会やメール、携帯の普及とか、あるいは大人とボーダレス化した消費主義的な社会の変化ですね。この中では、瞬時の自己判断能力が要求されてきます。自分で決定しなければいけないし、結果に対しては自分で責任を取らざるを得ないような、学校や家庭教育を受けていないにもかかわらず、子供たちはそういう社会に投げ込まれているという状況があります。  それから四番目の問題です。先ほどからも随分強調されていますけれども、家庭の崩壊という問題ですね。これは、今、実は小学生の子供でもお家に帰らなくちゃという表現を使わないというのが話題になっています。特に高校生は家に帰るという概念そのものが非常に弱くなってきていて、今の女子高生なんかは何て表現するかといいますと、お部屋に、私の部屋に帰るということで、家族という意識がないところで家庭教育の重要性を私たち年輩者が強調しても前提がない状況になってきたと、そこまで深刻だというふうに思っています。  それで、地域が崩壊し、社会的モラルも崩壊していると、そういう中でいかに、家庭の復権ということも重要なことは言うまでもないんですけれども、ダイレクトに個をいかに確立していくのかということを独自に考えなきゃいけないような、そういう変化というのがあるんじゃないかなというのが四番目です。  そういう大きな変化の中で、じゃ、あちこち駆けずり回ってみますと、今日の教育改革の実態や方向性にはどんな問題点やあるいは特徴があるのかということでちょっと整理してみます。  全体見ていまして思うことは、非常に私たち大人や社会子供教育あるいは子育てについて自信喪失の状況に今なっているんじゃないかと。過度の自信喪失を感じます。それによる迷いというのがそのまま教育政策、地方、中央を問わず出ているんじゃないかと。  それから、それにしては、地方を回ってみますと、今、規制緩和の影響というのもあるんじゃないかと思いますけれども、非常に実態に即しながら地方は努力しているというか、実績も上げているんじゃないかなと、地方に活力が出てきたというような感じがします。  一つは、これまで、教育と学校の伝統とか常識とされてきたものがことごとく今覆されるような矢継ぎ早の目新しい教育改革というのが進んでいるんじゃないかというふうに思うんですね。  これは、もちろん法的な整備が、裏付けが伴って進んでいるわけですけれども、例えばそこに列挙しました、思い付くままですけれども、今までは考えられなかったことですが、民間人校長ですね。この間不幸な事件もありましたけれども、民間人校長の登用とか、あるいは予備校・塾講師が授業をダイレクトに担当をするとか、東京や今度は福岡でもありますけれども、あるいは学区の自由化の問題とか、あるいはエリート教育が進んできた問題とか、小学校での英語教育が非常に広がっています。東京なんかは八割です。小中一貫校の構想、中高一貫というのはお聞きになったことあると思いますが、小中一貫ということも今話題に上ってきたと。あるいは、大学の独立行政法人化の問題ですね。それから、これは一昔前だったら大変な事態になったことなんですが、習熟度別授業がもう当たり前のことにして今行われています。小学校では半数ですね。中学では七割を超えています。それから、小学校の教科担任制が行われたり、あるいはチームティーチングが導入されたり、それから今話題になっている教育特区構想を見ますと、非常に斬新な目新しいのがたくさんあります。  というふうなことで、現場の校長やあるいは平場の先生方は、九十数%が現場の声を無視してどんどん進んでいくというので悲鳴を上げている状況です。  そういう中で、とにかく新しいことをやっていこうというのが一つのトーンであるのと同時に、もう一つ重要な柱として、何かやっぱり、僕自身もかなり年を取ってきたものですから、体の中にあるんですけれども、昔は良かったなという思いはやっぱりあるんですよね。昔はこうやっていたのにとか、昔の先生はこうだったとか、昔はもっと丁寧に教えてくれた、昔の教科書は良かったと。何か、言葉はこれ失礼があってはいけないんですけれども、非常に回顧的な傾向が強くなってきたなと。なぜなのかという分析が弱いまんまで昔はこうだったからというのに安易に、安易ではないんですが、おやりくださっている先生方はね、そこを非常に思います。  例えば、日本語ブームなんていうのはもう典型ですね。日本人としてのアイデンティティーが非常に確認されますから、それも身体論を通してやるなんていうのは非常に単純明快で、僕は国語の教師でしたから、えっと思うんですけれども、日本語ブーム、御承知のとおりに大変な状況です。誤解のないように、大野晋先生の「日本語練習帳」なんかは全く別の非常にすばらしい本だと思いますけれども。  それからもう一つ教育基本法の改正問題、今ちょうど話題に上っているところですけれども、これなんかも、中身の問題というよりも、改正すれば何か良くなるんじゃないかなという思いがやっぱり市民レベルに相当あるんですけれども、果たしてそうかという問題があります。  それから、心の教育というので、僕も心の教育の本を書いているんですけれども、心の在り方というのはすごく重要で、今、親御さんたちにアンケート調査をしますと、人の痛みが分かる豊かな心を持った子供になってほしいというのが断トツです、学力問題よりもはるかに高いんですね。だから、これの重要性というのは言うまでもないんですけれども、例えば心のノートを配って、そして授業をやっていけば心が豊かに育つかなというふうに、もちろん現場の教師が一面的にとらえているわけではないんですが、ややもすればそういう傾向があるということですね。  それから、家庭教育の強調、これは強調し過ぎることはないんですが、どうも、これを言われるたびに家庭の若いお母さん方はプレッシャーを感じて、どうしようと焦るような雰囲気での家庭教育の強調というのがないだろうかという問題です。  それからもう一つは、数値目標が大流行です。これは、数値目標というのは、例えば高校でいいますと、京都大学に何人合格させる、阪大に何人とか、あるいは英検二級、卒業までに、中学校、生徒、中学三年生の三%、五%という数値目標を出して、そして年度末の三月に親御さんたちに評価をしてもらうみたいな、それがすべてにわたって数値目標が大流行しています、今現場の方では。  それからもう一つは、学力低下論争の中で、百升計算などトレーニング主義が大流行してしまっているということ。もちろん、間違いじゃないんですが、確かな学力というのは重要です。基礎、基本も重要ですけれども、それがかなり形にとらわれた、一面化している傾向があると。個の確立だとか個を尊重する学習在り方とはちょっと縁もゆかりもない方向に進んでいるというようなことです。  それから、進学重点校を指定するというようなこと、これはどこかの県でやっていますけれども。それから、全体的に子供への抑圧傾向が非常に強まっていて、問題を起こしたら出席停止処分にするとか、この間も出た学校があります、九州の方でですけれども。かなり抑圧的な傾向が強まってきたなというふうに僕なんかは思います。それから、受験学力の復活の兆しも感じます。  それから、レジュメには書いていませんけれども、現場は、学校五日制の中で、授業時数をいかに確保するかというのにきゅうきゅうとされています。それから、教える量を、昔の量をどう教えるかというので、これは文科省、僕なんかは第二教科書と呼んでいるんですけれども、補充のテキストをお配りになって、あれをやらなければ親たちには信頼されない状況になっていて、結局、内容は削減されたと言われて批判を受けたわけですけれども、復活しちゃっているんです、今、現実問題としては。大変だろうと思います。枠が小さくなった中で中身的には同じだと。  全国、北海道から沖縄まで、高校に至ってはゼロ時間目をやっている学校が圧倒的に多いです、普通科の学校では。それから、七時間目もやっています。つまり、一日八時間授業をやっているんですね。授業をたくさんやれば学力が付くのかというのは、これは私たちの経験を振り返れば、下手な先生が下手な授業を一杯やったら余計嫌いになっちゃうんですけれども、それが、そういうところの丁寧な研修を抜きにもう現場の先生が、やる方も大変ですけれども、生徒も大変、親たちも朝、昼、お弁当を作るのに早起きして大変な思いをしています。  ところが、三番目ですが、地方の方を見てみますと、意外といいのもあるんですね。現場の実態に根差した地方からの改革にはいいものがあると。  例えば、今、全国で、最新のデータですと、二十二の県にわたってですけれども、少人数学級を自前の、自分たちの財政負担でやっておられます。極端なところは二十五人学級をやっているところもありますけれども、すごく急速に増えています。それから、先ほども出ましたけれども、体験学習ですね。これが、兵庫県のトライアルウイークというのはお聞きになったかと思いますが、有名ですが、これのそれぞれの県版あるいは市版というのがあちこちに広がっていて、社会体験、自然体験ではありませんが、社会体験学習とか進路学習が広がっていて、非常に面白いと思います。  それから、市独自、町独自でカウンセラーを配置するという、文科省の施策とは別に独自に負担しながらやっておられる。それから、学習支援者、学校ボランティアなんていうのも、これはお金が付く場合も付かない場合もありますけれども、全国に広がりました。そういう意味では、様変わりしたなというふうに思います。  こういう中で、じゃ、個の確立を促す教育学習在り方とは何かということで、ここにたくさん時間を取ろうと思っていたら、あと五、六分になっちゃったんですけれども、ここで、今、僕、非常に気になっていること、間違いという意味ではありませんが、例えば習熟度別授業だとかあるいは少人数授業というのが現場では努力されているんですが、形からいいますと、非常に個別化、分断化されていっています。少人数授業なんか大きな成果が上がっていることは言うまでもないんですけれども、果たしてそれだけだろうかと、学校というのは。せっかく大勢の子供がいるんですから、いわゆる昔の団体行動とか集団主義的なという、これは僕は間違いだろうと思いますけれども、新たな二十一世紀の個の確立した時代にふさわしいような協同とか連帯とかコミュニケーションというのをいかに確立していくのかというのを抜きにしてしまったら、これは学校は塾とか予備校に負けてしまうと。  塾や学校の先生方はそれのプロフェッショナルですから、先生たちにかなうわけないわけですよね。だから、それが蔓延してしまうと、東京のある区のように、地元の塾の先生を正規のお金を払って、給料を払いながら教壇に立たせると、それを数学の教師がみんな授業参観して研修させてもらうだとか、この四月から始まる福岡の高校のように、土曜日の授業は予備校の講師がやる、教師がやると。こういうふうにしてなってしまっては違うと、教師の専門性、学校の専門性とは一体なんだろうというのを僕は大事にもう一回見詰め直すべきだろうというふうに思います。  それから言いますと、七つか八つのにちょっとずらっと並べてみたんですが、一つは条件整備、何か中身とは関係ないようなことであれっと思われるか分かりませんけれども、意外や意外、この二十人学級や二十五人学級、これは学会の調査なんかではここら辺が一番いいだろうということが出ていますけれども、世の中一般には三十人学級という言い方で言われていますけれども、これをやっぱり全国レベルで実施する必要があるだろうと。そこら辺の、実施してほしいというのは、資料にも添付しました。汚らしい資料ですけれども、これの二枚目なんかを見ていただきますと、全国のこれは三千二百二十の市町村、それの教育委員会にアンケート調査をしたものですけれども、この教育委員会のアンケートでも、学級規模をもっと小さくしてほしいというのが九二%ということでなっています。それから、国のお金でやってほしいというのも、やっぱり各教育委員会、九〇、政令指定都市では九七%に達しているという状況ですね。  で、ここら辺、学級規模が小さくなってくることは少人数学級とはまた違います。少人数学級のメリットというのはもちろんあるんですが、実は現場の先生方に聞いてみますと、少人数学級はまた独特の問題や困難を抱えているんですね。ちょっと時間がないのではしょりますけれども。  で、そのことによって学力や生活や心豊かな教育ができていくんじゃないかなというふうに、つまり一人一人の個性をしっかり発見できるし、子供たち同士も個性を認め合った学級生活あるいは学習生活みたいなものを送れると、これがすごく重要だと思いますね。  僕も全国歩いていますと、やっぱり少人数学級を実現している県や市の教育長にお会いすると、気のせいか分かりませんが、目が輝いています、少年のように。この一年ぐらいですね、教育長や現場の校長の目が輝き始めたのは。そうじゃない、苦労されているところは落ち込んでおられますけれども、極端に二つに分かれてきました。で、目が輝いている教育行政のところは、もうすべて間違いなく少人数学級を自腹を切ってやっておられるところですね。で、それだけの価値ありますかと僕も質問するんですが、いや、いいですよ、先生方が喜んでくれている、で、子供たちが落ち着いたとか、あります。そこら辺はやっぱりデータやいろんなもので実証していかなきゃいけないだろうと。それを犠牲を払ってやっておられるところは、今研究会開いたりしながら、おいおいデータを発表されていかれるだろうと思います。  それから二つ目、教師の問題で、いろんな教師バッシングもあるんですけれども、やっぱり教師、ゆとりがないともうどうしようもないと思いますね。むちゃくちゃ今、五日制の下で忙しいんですよね。だから、ゆとりを持たせるための例えば教員増をもっと大胆にやるとか、経済的な問題ありますけれども、財政事情の。やってほしいなというふうに思います。子供というのはやっぱり失敗するのが子供特性ですから、それをおおらかに見詰めながら、付き合いながら、心も個性も豊かに育てていけるような学校環境を作ってあげたいというふうに思います。  それから三つ目は、スクールデモクラシーの問題です。  私たちの国の子供たちは諸外国に比べるとセルフエスティームと、自尊感情、自己肯定心情と言われますけれども、これが極端に弱いと。どんな国際調査、比較調査を見てもむちゃくちゃ少ないんですね。  で、これを上げるためにはどうすればいいのかということなんですけれども、あらゆる領域での子供参画を拡大するということであろうと。これは子供に権利があるからという意味ではなくて、そういうことをすることによって、参加することによって自己決定をせざるを得ないと。そのことを通して自信を持ち、自己達成感を持ちます。それは自己責任感を形成していきますし、セルフエスティームを高めていくと。つまり、個の確立した確かな自己責任感が形成されるんじゃないかと。責任を取れという形での責任を追及する声というのは私たち大人によくありますけれども、そうじゃない、発達の一つの結果としての自己責任感情豊かな子供たちをつくるということは、これから個の確立した時代の中では欠くことができない要素じゃないかと思います。  それから四番目は、授業観の転換、これも先ほど報告があったようですけれども、一つは、教えから学びへどういうふうにして転換していくのか。画一的な詰め込みから自ら問題解決型の学習をしていけるようにするのかということ。  それから、評価が相対評価から絶対評価に切り替わりました。これを僕は革命的な戦後の教育改革の一つだと思っていたら、何とコンピューターを使わなければ出せないような複雑怪奇なものに変質しています、今現場は。それもあって悲鳴を上げているんですけれども、もっとシンプルで絶対評価の良さを出していけるようなものに切り替えることが必要であろうと。  それから五番目には、この間、四月に報告が出るようですけれども、不登校問題ですね。政府は一生懸命減らそうと努力されていますけれども、ここを、学校への復帰路線だけではやっぱりうまくいかないなというふうに僕は感じています。ここら辺は、不登校が僕は個性だとまでは言い切りませんけれども、やっぱり学校外教育のもう一本の多様な路線をどういうふうに確保するかという時代の要請だろうと。フリースクールとかあるいはホームエデュケーションですね、それをどういうふうにして、緩やかでもいいですから、制度として作るのかというのが問題だろうと。  それから六番目、学校をベースにした町づくりをどうするのか。スクールコミュニティーという言い方で言っています。これは生涯学習社会をどう実現するのかという問題に正にかかわっています。  それから七番目の特徴として、最近の文科省のいろんな施策を見ていて非常に不思議なのは、他の省庁は必ず国際的な子どもの権利条約ではとかいうように引用が入るんですが、なぜか一番大事な文科省の文章ではこれがほとんど出てこないと。国際的な視点からとらえるべきだろうということを思いますね。どうしたんだろうというのが非常に疑問です。  それから家庭教育、八番目、家庭教育の支援策をどうするのかと。これ、支援に徹しないと、非難視するようだとますます幼児虐待が増えるんじゃないかなというようなことを思っています。  以上、ちょっと焦点が拡散していましたけれども、報告を終わらせていただきたいと思います。
  15. 勝木健司

    会長勝木健司君) ありがとうございました。  以上で参考人意見陳述は終わりました。  これより参考人に対する質疑を行います。  質疑はおおむね午後四時四十分までをめどとさせていただきます。  なお、時間が限られておりますので、発言は質疑者答弁者ともそれぞれ一回当たり三分程度でおまとめいただくようお願いいたします。また、各委員におかれましては、質疑時間が質疑及び答弁を含め全体で十五分以内となるよう、質疑は簡潔にお願いをいたします。追加質問がある場合には、この十五分の範囲内で行っていただくようお願いいたします。質疑の御希望は挙手をもってお知らせいただくこととし、質疑会長の指名を待って行われますようお願いをいたします。  それでは、質疑を希望される方は挙手をお願いいたします。
  16. 小斉平敏文

    ○小斉平敏文君 自民党の小斉平でございますが、まず林先生にお伺いしたいんですけれども、先生の父性の定義ということで、この資料の中に、子供社会のルールを教えるということも重要であるという、四つの柱の一つ、これを挙げられておるわけなんです。また、木村先生におかれましても、自然が減少して自然体験をする機会が少なくなってきて今の子供たちは不幸だと、子供たちはコンピューターゲームに熱中したり塾などに縛られておると、このように言われましたし、また今日、林先生のこのお話の中で、自我の形成ということで、自我とは心のコントロールセンターであると、これは八歳までに形成されると、このようなお話でありました。正にそうだとすれば、私は地域における子供社会在り方、これが私は非常に重要だと、八歳までに形成されるというんであればますますそのことが私は重要だと、このように思うんです。  私は宮崎県というところ、非常に田舎ですけれども、またその中でも一番田舎に住んでおります。そういう田舎でさえ子供の遊ぶ声というのを全く聞かないんですね。  私どもが小さいころは、学校から帰る、親に見付からないようにすぐかばんを放り出して遊びに出ると。そこで子供社会というのがあって、年長者がいわゆる幼い子供たちを集めて、いろんな、正月あるいは七草がゆとか、あるいは十五夜のお相撲とかそれを含めて、いろんな遊びを四季折々に触れてやりおったものです。その中で、やっぱりやってはいけないことと、ここまでは許されるということと、やってはいけない、ここまではいいというような社会のルールというものをそういう子供社会の中で一定程度学んでいたと、このように思うんです。  ところが、今言ったように、もう全く家から出ないんですね、もう子供が。もう家から出ないということで、そういう初期のルール、社会のルールというものを身に付ける機会が全く余りないと。ましてや家庭教育でも、今非常に問題になっておるとおり、しつけ等々がなかなか大変だと。  だから、やっぱり学校と家庭、その中における地域、これの地域教育力、そのことがすなわちいわゆる地域における子供社会、これの再構築、これが私は重要だと思うんですけれども、林先生の御見解をお聞かせいただければ有り難いと思います。
  17. 林道義

    参考人林道義君) 全くおっしゃるとおりで、地域子供社会子供文化というのはなくなっておるというのはそのとおりでございますが、それをどのようにして再構していくかということが課題になっておるわけでございますね。  一つのものがなくなったのを再構するというのは非常に難しいことでして、つまり、そういうものができ上がるためには一人一人の子供が、つまり上級生の子供がそのルール感覚なり指導力なりを持っていなければならない。それは、小さいときにそういうものに参加しながら次第に磨かれていくわけですけれども、参加していないでいきなり、では、そういう指導力を発揮しろといっても無理な場合がございますので、どうしたらよいかというので、やっぱり最初は大人が指導しないと無理だろうと思います。  ある地域子供たちを集めて合宿をさせて、そこから学校へ通わせると。その中で自然に子供たちが分担、食事の支度等々を分担してやるだろうと思っていると、できないんですね。大人が介入したらいけないということで大人は指導しないと言っておりますと、そういう子供たちの自助、自立した集団は作られないわけですね。やはり、最初は大人がある程度指導しないとだめだろうということが一つ、私は現実として、それは良いか悪いかというのは別として、不可避だろうというふうに思っております。  それからもう一つは、場を提供するということですね。今、学校を開放して、学校を遊び場にして、そこを場を提供するというのがこれから始まろうと、今始まり掛けているというところでありますけれども、そういったことも、今場所は、要するに子供たちが大勢集まって遊んだりなんかする場所としては、もうほとんど公園というのは余りなくなっておりますので、学校をうまく使うということが必要になるんじゃないかというふうに考えております。  そういうことをすべての基本として私は──時間ありませんかしら、よろしいですか、ぼつぼつ。強調したいのは、それらのことが可能になる人格的な基盤をまずどこでつくるかということだと思います。それが私が考えている、先ほどから申している、家庭教育というものはきちんとしなきゃいけないわけでして、それから、学校の中の特に小学校の低学年においてルールとか秩序感覚というものをきちんと持たせるようにするということが基本として必要になってくるんじゃないかと思います。  以上でございます。
  18. 小斉平敏文

    ○小斉平敏文君 木村先生の今日のお話の中で、後期中等教育、大学受験方法の抜本的改革ということで、ペーパーテストだけの入試からの脱却というお話を賜ったわけですけれども、そこで、尾木参考人にお尋ねをしたいと思うんですが、尾木参考人、この資料の中で「豊かな「基礎・基本」を考える」ということを書かれておられます。審議会でも、生きる力の育成を基本として、学校は知識を教え込む教育から自ら学び自ら考える教育へと転換すべきと提言をされております。また、尾木参考人は、できる力は基礎であって、分かる力が基本である、基本を欠くと基礎学力も発展した専門的な学力も極めて危ういというようなことをこの資料の中で言われております。正にそのとおりだと思うんですけれども。  木村先生が先ほどお話しになったように、高校とか大学受験、あるいは企業や公務員、あるいは教職員の試験、そういうのを思うときに、やっぱりそういう基礎が重視をされておって、基本がちょっとないがしろになっておるんじゃないかという気が非常にするんですよね。だから、そこら辺りを改善しないと、いわゆるこの審議会が言っておるような、知識を教え込む教育から自ら学んで自ら考える教育への変換、これは私は全く無理だと思うんですね。ですから、そこら辺りもうちょっとやっぱり、我が国の、だから教育というか、我が国の世の中の仕組みそのものを変えないと教育も変わってこないのかなという感じがするんですけれども、いかがでしょうかね。
  19. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 僕もおっしゃるとおりだと思います。特に基礎・基本の問題では、さっきもちょっと報告しましたけれども、そこが重要であるというのはもうだれもが認めることだと思うんですけれども、本当に基礎的なトレーニング、掛け算の、四則計算を始め、そこを一生懸命やれば何か応用的な、自ら問題解決していけるような力が付いていくのかなという見通しもないままに、それから、国際的な視点で見ましても、そういうことはもちろんいろんな国で議論されてきているわけですけれども、そこら辺が実践的にもう行き詰まっているというかしら、新たな地平というのは築かれていないにもかかわらず、今、我が国の学校現場はどっとトレーニング的な、例えば掛け算を九秒も掛かった子が三秒を突破したとかいうのが報告されたりしているんですけれども、それはやっぱり相当違うなというふうに思いますね。  例の、去年あった中国の瀋陽での事件ありましたよね。あのときも、英語が係官が読めなかったんじゃないかということ言われていますが、たとえ英語が、例えばヘルプという単語が分からないにしても、状況を見れば、人というかしら、人間としてどう対応すべきかというのは、職務の問題ではなくても当然出てきただろうというふうに思うんですけれども、そこら辺、基礎的な学力がどれだけ高くても、やっぱり人としての基本、心が分かるということができなければ、なければ、やっぱり豊かな生き方というのはできないんじゃないかなというふうに思いますね。
  20. 小斉平敏文

    ○小斉平敏文君 木村先生は中央教育審議会副会長ということで、週五日制あるいはゆとり教育、これを推進されてきたわけなんですけれども、ゆとり教育を導入してから、導入された昭和五十五年からいじめやら校内暴力、不登校、こういうのが非常に増加してきておるんですね。ある一部の方々に言わせると、ゆとり教育ではなくてたるみ教育だと言う人まで、極論する人までいるわけですね。  そういう中で、小中高の、二学期制を導入するという学校が非常に全国的に増えつつあります。導入したところでは、子供や教師にゆとりが生まれるということで導入したというところもありますし、今から導入するところでは週五日制の導入で学習の時間が減ったことを受けて、学力低下の防止、これをねらうというところも、導入する、今からしようとするところでその目的として掲げておるわけなんですけれども、これはどういうことなんですかね。週五日制の欠点を、この小中のいわゆる二学期制、これで補おうとしているんですかね。どうも私は何か場当たり的だなというような感じがして、どうしても納得がいかない部分が非常に多いんですけれども、木村先生、これはどのように理解したらよろしいんでしょうか。
  21. 木村孟

    参考人木村孟君) ゆとり教育については、そもそもあの当時を思い出していただきますと、子供たちが過度な受験競争で非常に痛んでいる、非常にストレスが子供たちに掛かっているから何とかしてくれというふうな声が圧倒的に世の中に多かったんですね。  そういうことを背景にして、もう一つは、どうしても日本の子供たちというのは、先ほどから出ておりますけれども、知識偏重、知識詰め込み型の教育にならされ過ぎているということで、自分で、先ほど私申し上げた、問題を発見するといいますか、そういう考える力が足りないのではないかと。これは私はもう自分自身の経験からしても明らかにそうであります。自分たちが受けてきた教育の結果、自分がどうなったかというと、明らかに同じレベルの研究者と議論をするときに考える力が足りません。考える力というか、知識を総合する力が足りないんですね。  そういうことから、ゆとり教育というのは考える力を少しでも付けてもらおうと、詰め込まれる知識の部分を少し減らしてでも考える力を身に付けてもらおうということで始めたわけでありますけれども、残念ながら教育のフロントがそこまで付いていけなかったということがたるみ教育だというふうな悪口を言われる原因になっているかと思います。  しかしながら、私は、そのフィロソフィーそのものは今でも間違っていないと思っておりまして、日本人にとにかく欠けているのは、そういう少ない知識でも総合する力、自分で考える力だということで、これからの若い人には是非その辺を身に付けてもらいたいと、個人的には思っております。  今の、先ほどからちょっと話出ているんですけれども、私も気になりますのは、ゆとり教育という、私は非常にハイ、高い高邁なフィロソフィーの下に始めた教育がどうもうまくいかないからというんで、何というんでしょうね、対症療法みたいなことばっかりやって、今おっしゃったような二学期制の導入なんかそうですね。ですから、むしろ一つのポリシーを打ち出したら、時間を少し掛けてその結果を評価して、そして次へ動いていくということにしないと、フロントもたまらないし子供たちもたまらないだろうというふうに個人的には思っております。
  22. 内藤正光

    内藤正光君 民主党の内藤正光でございます。  今日はお忙しいところ、大変有意義な話をお伺いできましてありがとうございます。  お三方にそれぞれ質問をさせていただきたいんですが、まず尾木所長にお尋ねしたいと思います。  実は、私、昨年スウェーデンの方に行っていろいろ教育についても議論してきました。御存じのように、スウェーデン、もう若者から当然年輩の方も含めて大変社会問題に意識が高くて、その結果として投票率も高いわけでございます。別に決まりが、罰則があるわけでもないのに投票率が何と九〇%という大変高い国なんですね。学校の先生方に率直に聞いてみました。何でこんなに、特に若い人たちの間で社会に対する意識が高いんですかと。そしたら、学校教育在り方が何か違うんですかと聞いたんですが、彼らは率直にこう言ったんです。いや、学校教育というよりもむしろ家庭で親と子がごく普通に、例えば原子力の問題だとか、そういった難しいテーマを家庭で話し合うと。そういった中で、そういった環境の中でしっかりした個を確立した、持った子供が育っていくんじゃないのかということをおっしゃっていました。  こういった話を聞くにつけ、私は、学校現場の改革も必要だとは思うんですが、やっぱり親の教育といったらいいんでしょうか、そういった視点もやはり大事なんじゃないかなと思うんですが、親の教育というとちょっとおこがましいような気がするんですが、こういった視点についてお伺いしたい。具体的に、じゃもし、親を教育といっても再教育するわけにはいかないんで、どういう方法があるのか、もしヒントとなるようなものがあれば教えていただきたいと思います。  次に、木村さんにお尋ねしたいと思います。  実は、私は議員になる前ある民間企業に勤めておりまして、バブルのころちょっと留学をさせていただく機会をいただきました。アメリカのコロンビア大学で勉強する機会をいただいたわけなんですが、本当に向こうに行って驚いたのは本当に授業が楽しいんですね。双方向の、日本の大学の授業というと大体マスクラスでもって片一方の授業ばっかりをやっていて、もう本当に生徒は、私も含めてそうなんですけれども、ただ単に先生の言ったことを板書するだけという。ところが、向こうの授業は本当に双方向で本当に楽しいと。  やはりキーポイントとなるのは先生なんですが、これは単なる教育技術というよりも、やはり実経験に裏打ちされた奥行きのある知識がやはり先生、知識というか、経験お持ちなんですね。やはり、そういった先生の下に展開される授業というのは実に面白いというふうに思いました。具体的に言えば、先生というのは、先生もやっているけれども、実はほかに仕事を、その分野の仕事を持っていたりとか、大変様々なバックグラウンドを持った方々が先生をやっていらっしゃるんですね。  ところが、今の日本の学校、大学に限らず高校も中学校もそうなんですが、大体、大学卒業してすぐもう先生というポジションで働いていらっしゃると。社会経験だとかほかの知識はどうかというと、ちょっと心もとないものがあるんです。  私は、大学だとかそういった学校機関の機構改革もさることながら、先生の育成方法というか、先生の在り方そのものも大きく見直していかないことには本質的には変わっていかないんじゃないかなと思いますが、その辺の教員の在り方、育成と言ってもいいかもしれませんが、その辺についてお考えをお聞かせいただきたいと思います。  そして、最後になりましたが、林先生にお尋ねしたいと思います。  一つ、二点あるんですが、よく三歳児神話とかよく言われています。私は、どちらかというと三歳児神話あるんだろうなという思いで、家内と一緒にちゃんと親の愛情をしっかりと小さいころは注いであげようなんということでやっているんですが、実際、この三歳児神話というのは科学的にどこまで立証されたものなのかどうか教えていただきたいと思います。  そしてもう一つ子供自主性を育てるために、小さいときからの教育が大事だということはよく分かりました。そこで、更に一歩踏み込んで、父親と母親の役割についてお尋ねしたいと思います。特に、私個人のことで恐縮なんですが、私は長男、次男、両方とも、二人男の子がいるので、男の子の教育という観点で父親と母親の役割を教えていただければと思います。
  23. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) まず、スウェーデンの感想についてですけれども、本当にスウェーデンでは若者のところに行けば行くほど投票率高いですもんね。そこら辺のことで、僕、スウェーデンへ視察、何回か行ったんですけれども、やっぱり学校での個を尊重した授業システムやいろんなものが日本とは相当違っていると。  例えば、私がウプサラの小学校を訪問したときですね、七十五人ぐらいの小規模の学校でしたけれども、七十五通りのカリキュラムを持っていました。五、六人でグループを作って、円いテーブル囲みながら勉強しているんですね。同じ国語をやっているんだろうと思ったら、お絵かきをやっている子もいれば、英語の勉強をしている子もいれば、算数をやっている子もいると。もうまちまちで、こんなので成り立つのかいというので相当驚いたんですけれども、でも、自分で決定したことについては自分で責任を持つと。  日本の場合なんかは、一生懸命、今、習熟度別授業というのを導入されているんですけれども、非常に矛盾しているんですが、それでどれだけやっても、たとえできなくても学年進行ができますよね。履修主義というのを、態度を取っていますけれども、スウェーデンの場合なんかでは、これはカナダなんかもそうですけれども、習得主義です。つまり、学力が一定のところへ上がらない限り、小学校三年生でも留年をするわけですね。  これは、日本でそれがいいとか悪いとかの問題じゃないんですが、そこまで責任を持って学校も教えるし、家庭もしつけもするし、そして、うまくいかなかったときは留年してもそれをだれも非難しないで、あ、また丁寧に見てもらえるのねというような感じで、私たち日本人の感覚からするとちょっと分からないんですが、でもそうなんですね。そして、十八歳になったときに、そうですね、ほとんど十八歳や二十歳になるころにはみんなアパート住まいで、親のところに同居して生活しているというと、おかしいんじゃないかと思いますよね。大学の学費だって、全部ローンを組んで自分たちでやるのが当たり前ですよね。学校だけではいかない、さっきどなたかおっしゃいましたけれども、全体を通して、社会全体を通してやっぱり個を確立するというのがみなぎってしまっているというふうに思うんですね。だから、例えばいじめなんかも、スウェーデンなんかは最も早く取り組んだ国ですけれども、子供たち自分たちでいじめを発見し、克服のために取り組んでいます、自主的に。  それからもう一つ、親の支援の、親の教育が必要じゃないかとおっしゃるのは、僕は大賛成ですね。言葉は悪いですが、親の教育なんて言うとばかにしているように聞こえるか分かりませんが、そうじゃなくて、子供が生まれたら自動的に親になれるわけないわけですから、子育てをどういうふうにして支援していくのかというので、例えば、カナダのトロントなんかはそういうのが最も進んでいる都市ですけれども、多民族でいろんな文化があるところなのに物すごく徹底して子育て支援というのが進んでいます。  ペアレンティングセンターだとかいろんな、夫婦セットで教えて、子供のおしめの替え方から離乳食の作り方から。しかも、そういうところに来てくれない人ほど本当は求めているんだということで、アウトリーチというので、外へバスを仕立ててでも出掛けていく、日曜日の夜の十一時しか駄目といっても行くと。日本の行政は結構、アドバイス行政というふうに僕はちょっと批判しているんですけれども、ここに行ったらどうですかとアドバイスはするけれども、とことん面倒を見てくれないところがありますけれども、面倒を見切るわけですね。そういうところが大きな違いで。  ただ、僕、日本の母親たちも新しい兆しが出ていまして、今、インターネットなんかを使いながら物すごくネットワークを張ってきているんですね。例えば、横浜市内だけでも五百を超えるサークルがあります。千葉市もそうですし、全国各地がそうです。離乳食の作り方とか断乳の仕方とか、いろんな、みんなが情報交換しながら必死になっているんですね。そういうのを是非行政が、国や地方が応援してくださればというふうに思います。
  24. 木村孟

    参考人木村孟君) ただいまの御質問といいますかコメントについてでありますけれども、私も全く全般的に同感であります。  まず、日本では、先ほど申し上げませんでしたけれども、やはり、殊に高等教育機関においては、教育をするということに対して、はっきり申し上げて先生方が不熱心だということがあります。それが一つ。  それから、やっぱりどうしても研究中心になるということが一つ。  それからもう一つは、日本人のこれ共通の私、弊害だと思っておりますけれども、相手がいて話をするときに、その人にどれぐらい自分の言うことを理解してもらうか、そういうことに余り大きな価値を置かないんですね。ですから、話し方でありますとかプレゼンテーションの仕方、大分最近の若い人はうまくなりましたけれども、それでもやっぱり外国人に比べるとはるかに下手くそですね。そういう努力が足りない。したがって、授業も面白くないということ。  それから、先ほどおっしゃった、やっぱり先生方が、日本の場合には、教育界にいったん入ると非常に閉じた世界で、もうずっとそこにいるということで、社会経験みたいなものがほとんど積む機会がないということですね。  ですから、私は今、先ほどおっしゃったように、大学でいいますと、大学と産業界あるいは経済界、そういうものがもう自由に人材交流をするというふうな時代が来ないと本当にいい教育はできないのではないかというふうに考えております。  いずれにいたしましても、最近は、私、今、やっております仕事の関係から大学の教育評価というのをやらされているんですが、随分大学も、国立大学といえども非常に、保守的な国立大学といえども教育に対して非常に意を払うようになってまいりまして、急速に変わりつつあります。ですから、そういうことで期待するところは大きいんですが、しかしながら、システムとしてもっと外部の人を大学に簡単に入れるようにする、そういうふうな、あるいはその大学の人が外へ出ていって社会経験を積む、そういうことによって個人としての厚みを増していく、教育者としての厚みを増していく、そういうことが必要ではないかというふうに考えております。
  25. 林道義

    参考人林道義君) 二つの御質問をいただきましたけれども、それぞれについて一時間ぐらい話さなければならないような大きなテーマなのでちょっと困惑はしているんですが、要点だけお話しさせていただきます。  三歳児神話という言葉をお使いになりましたけれども、どうもお考えを聞いていると、三歳までは母親の役割が大事だということをおっしゃっている。神話というと、これを批判する人たちが使っている言葉でして、うそだ、それは違うという意味を込めて言っておりますので、ちょっと言葉の意味が逆になってしまうと思います。  それで、三歳までは母親の影響が非常に多い、大きい、非常に大切であるという意味であるならば、これはもう山ほど実証的な研究等々ありまして、ここでずらずら並べるわけにもいきませんけれども、自分の本を言うようで大変僣越でこの場にふさわしいかどうか分かりませんが、私に「母性の復権」という本がございます。ここにいろいろ基本的な日本語で読める資料がたくさん掲げてございますから、それを読んでいただきたいというふうに。ここではとても申し上げられないくらいなんですが、そういう研究は、最近赤ちゃん学というのが盛んになってまいりまして、赤ちゃんにとって母親がどんな意味を持っているかということも非常に研究が進んでおります。  結論を言いますと、科学的、実証的な研究はもう非常に積み重ねられております。三歳までではなくて、実はもっと思春期までは母親というのは非常に大事だと。一口で言いますと、子供の心を安定させる作用です。そのほか、子供人格形成のときに基本的な安定を与えられるという、そういうことが一番大事なんですが、そのほかたくさん、数え上げればいろんな意味が、重要な意味があります。  第二の父親と母親の役割分担ということ。これも非常に議論が、反対意見とか議論が非常にあることでありまして、父親と母親は役割分担をしてはいけないという考えの人と、役割分担した方が良いという考えの人が非常に強く対立しておる問題でございます。  私の立場は、父と母は役割分担をした方が良いという、そういう考え方です。これは、一般的に言いましても、子供にとって別々の刺激とか、あるいは雰囲気とか、そういう異なる対応が、もちろん矛盾したり対立してはいけませんけれども、異なる人格というものが、あるいは刺激というものを与えられた方が子供の心の発達にとって有益であるということはもちろん言えます。もちろん、それが余りにも対立したり、けんかしたりしては困りますけれども、それは一般的に言えます。  もう少し中身にまで言いますと、一般的には、父親の方が子供に対して強い刺激を与えるということが実証されております。母親の方が、先ほど言いましたように、子供の心を安定させるような作用をする。これは、父親、母親の持って生まれた性格というのもありますけれども、子供の方もどうやらそれを求めているということもいろんなことで確かめられております。母親が相手するときと父親が相手するときの子供の反応がまるで違います。  これについても、また自分の本を言うようで大変僣越で申し訳ないんですが、「父性の復権」という本がございます。この「父性の復権」の中に写真がありまして、父親が相手しているときと母親が相手しているとき、同じ子供がどんな表情をしているかというのが収めてございますので、写真だけでなくて文章も読んでいただきたいんですが、そういう問題があります。そして、性別役割分担はいかぬ、いかぬというようなことを言われますが、その役割分担も、子供を育てるときには分担をした方がむしろ子供の心は豊かに育つだろうというのが私の持論です、立場です。  それから、男の子を育てるときに父親はどうあったらよいかという御自分の体験にも、関心も交えての御質問ですが、やはり一番大事なのは、モデルを提供するということなんです。男としてのモデルを提供する。そのモデルは決まっているわけではありませんので、各人の父親が男としてこうあるべきだという姿をきちんと自覚的に示すことが必要だと思います。一番悪いのは、男らしさを否定してしまうということです。それをしますと、たくさんの事例がありますが、男は腑抜けになってしまいます。女はどうなるかというと、これは下品になるということがあるんで、それは余り言うと怒られるかもしれませんが、現実にそうなるんですけれども。特に男の子の場合は、男らしさを否定して育てますと、男としての自信という、人間としてのと言った方がいいかもしれません、自信がなくなって萎縮してしまいます。  ですから、男らしさは何だということはいろんな考え方がありますけれども、例えば、不当なことをしているやつがいたら戦うというようなことを男らしさと考えてもよろしいし、真の勇気を持てとか、弱い者がいじめられたら助けろとか、いろんなのがあり得ると思います。それをそれぞれの父親が自覚的に、きちんと考えを持って、それを子供と一緒に話し合っていく、それで子供が納得したらそういう態度を持たせるという、こういうことが私は必要じゃないかというふうに考えております。  実に単純で、そんな単純なことじゃないんですが、基本線だけ申し上げましたので、あとは私の拙著なりなんなりで補っていただきたいと思います。     ─────────────
  26. 勝木健司

    会長勝木健司君) この際、委員異動について御報告いたします。  本日、池口修次君が委員辞任され、その補欠として山根隆治君が選任されました。     ─────────────
  27. 松あきら

    ○松あきら君 公明党の松あきらでございます。  本日は、お三方の参考人の先生、お忙しい中お出ましいただきまして、ありがとうございました。  もう先ほどから伺っておりまして、この十五分の時間では、お一人十五分でも足りないという思いで、質問し切れないという思いで伺っておりましたけれども。  私は、木村先生のおっしゃったこと、もう全く実感なんです。というのは、私の子供が中学からイギリスへ参りまして、言うなれば、日本でいいますと中学、高校、大学、今はもう弁護士になりまして成人しておりますけれども、その中で、ずっと文教で私は、こうしたいろいろな、例えばイギリス型のいいところというところで、日本の教育の中で変えなければいけないところというので、質問なり意見なりを言っておりまして、正に今日、先生のこのペーパーが全部私の思いが入っているなという思いで伺っておりました。  例えば、十六歳で受けるGCSE、これは今ちょっと名前が変わっているかもしれませんけれども、これなんかも都合三回あるんですね。自分が実際受ける年齢の半年前にも腕に覚えのある子は受けられる。そして、仮に本チャンで失敗した場合は半年後にまた受けられて、三回のうちの全部、一番いい成績を取ってくれる。しかも、体がちょっと具合悪くて成績悪かった、ふだんはちゃんといい成績取っている、授業態度もいいとか、ふだんのペーパーテスト、宿題、これもみんな総合して点数を付けてくれる。つまり、落としていくんではなくて拾い上げていくというところ、そして、しかもAレベルの試験では、例えばAを三つ以上取ればオックスフォードあるいはケンブリッジの法学部にでも、あるいは美術、歴史、音楽とか、そういうものでも入れるという、こういうような、簡単に今は言っているんですけれども。  非常に子供たちにとってチャンスが広がる正に教育方法が、私は、イギリスがすべていいとはもちろん思っておりません。欧米、特にヨーロッパ、ドイツ、イギリスなどの教育がだんだん日本と近づいてきたという、つまり少しカリキュラムを増やしているとか、そういうところもあるんですけれども、非常に人間教育というものをしっかりしているというふうに思っておりまして、尾木先生のおっしゃいました正にトライアルウイークなども、うちの子供などもあちらで経験しまして、中学三年ぐらいのときに美容師になりたいと言っておりまして、この学校でトライアルウイークで美容師のところに行って、何日間か、いわゆる拭き掃除とか掃いたり、とても大変だというので断念いたしまして、やはりそういう実際、実体験でいろいろな経験をさせていただきながら、パン屋さんに行ったりいろんな経験をしながら、その中でいろんな思いを培っていくというふうに、私はすばらしいというふうに思っているんですね。  それから、今の、実はゆとり教育の批判もいろいろあるんですけれども、大手の、名前は出しませんけれどもある新聞社が、今の日本のこの偏差値教育、カリキュラムが詰め込み過ぎた教育は何だということでかなり批判をしていたと。そして、今このゆとり教育になったら全く正反対のことを社説に、こんなゆとり教育では国際競争に後れてしまうということを載せていると。  私は、正に先生のおっしゃったように、やってみないと分からないと。ですから、今のゆとり教育もある程度やってみて駄目なら、その代わり、文科省の言うように十年待っていたんじゃ遅いんですね。ですから、せめて五年ぐらいで駄目だったら直していくというような少しことを持っていかなきゃいけないかなというふうに思って、感じている次第でございます。  何からどういうふうに伺っていいかというものがあり過ぎちゃって困るんですけれども、例えば、それでは今の、木村先生、今の新しいカリキュラムの中で、先生はこの今の新しいゆとり教育を続けてみるのもいいことだというふうにおっしゃって、私もそう思っているんですけれども、あるいは個の確立ということを考えて、例えば今あるカリキュラムの中でどの、どこを、あるいはその総合時間でもいいんですけれども、どこをどういうふうにしていけばこれにプラスになるというふうにお考えでしょうか。まず、お聞かせいただきたいと思います。
  28. 木村孟

    参考人木村孟君) 大変すばらしいコメントをありがとうございました。  そのゆとり教育については、私は期待しておりますのは、今、一番最後に先生がおっしゃいました総合学習の時間なんですね。これは、やはり非常に世の中が、先ほど申し上げたように錯綜した世の中になってきまして、例えば環境問題でありますとか人権問題でありますとか、こういう複雑な問題というのは、例えば理科あるいは社会科、その単独のディシプリンではもう処理し切れなくなっているわけですね。いわゆるよく言われますインターディシプリナリーな領域に入り込んできているということで、やはり総合学習の時間というのは非常に大事だと思うんです。  ただ問題は、言わばある日突然導入されたような形になりましたので、先生方がこれに付いていけないという実態があるんですね。殊に、日本人はこういう複数の領域にわたって活動をするということが下手くそな国民なんです。これは大学でももうそうで、例えば学科等の壁というのは非常に高くなっていまして、この辺がヨーロッパやアメリカとは全然違うという状況になっておりますけれども。ですから、私はその総合学習の時間を本当にマネージできるような先生方を一人でも増やしていくということではないかというふうに考えております。  ちなみに、議員も御承知だと思いますけれども、日本の教育のポリシーというのは英国に非常に大きな影響を与えております。先ほど申し上げましたデアリング・リポートの生涯学習社会もそうでありますし、例えば昨年の九月から英国が始めましたシチズンシップエデュケーション、あれは実は、英国のトニー・クラークという高等教育相が数年前に日本に来て詳細に日本の公民教育を調べていった結果、これはすばらしいということで導入したものですね。それから、御承知のナショナルカリキュラム、これも英国はそういうもの持っておりませんでしたけれども、日本の例に倣って、彼ら、日本から習ったとは絶対言いませんけれども、日本の例に倣って、非常にすばらしい、日本よりも本当に分かりやすいすばらしいナショナルカリキュラムを作っております。  そういうことで、日本がそういう意味では先見性はあるんですが、なかなか実施がうまくいかないというところがありますけれども、やはりいいことはやってきたので、例えば総合学習の時間なんというのは非常にすばらしいアイデアだと思いますので、やっぱりそれを国としても今後一生懸命進めていく必要があるんではないかと。そういうことによって、個の確立みたいなところへ結び付いていくのかなというふうに考えております。
  29. 松あきら

    ○松あきら君 ありがとうございました。  時間がなくなってまいりまして、尾木先生に、本当におっしゃることは、もう伺っておりまして本当にそうだなという思いで伺っておりました。  その中で、今、教育基本法の改正問題出ております。私自身も先生のおっしゃるように改正問題を、改正すると何か良くなるのかというような、果たしてそうなのかなという思いがあるんですけれども。  ちょっと、すごく大掛かりな質問なんですけれども、教育基本法の目的に人格の完成というのがうたわれているんですよね。その基本法の目指す人格の完成とは、どういうものだと先生お考えになっていらっしゃるのか。私自身は自分の力で人生を生き抜く力かななんて思っているんですが、ちょっとお聞かせいただきたいというふうに思います。
  30. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 文科省的な表現で言えば、文科省の表現で言えば、今日的な表現で言えば生きる力になるだろうと思います。それは、国が求める枠をはめるものではなくて、それぞれの子供やあるいは家庭の願いというものを反映した形になっていくんだろうと思います。
  31. 松あきら

    ○松あきら君 難しい質問を申し訳ありません。  時間なんですけれども、林先生、私も実は三歳児神話というのはある意味では信じている一人でございます。神話という言い方が何かよくないんでしょう。三歳まで母親がどうかかわるかということは、実は私自身も、子ども読書というのを推進しておりまして、双方向のやり取りがないと、特に母親が五、六歳までにどうかかわっていくかで子供人格の九〇%が決まると。これは私も常々言っておりまして、双方向がないと前頭葉連合野も動かないと。電車の中で御飯食べちゃう女性とか着替えちゃう女の子が出てきたのも、この前頭葉連合野が発達していないという、こういうことで、テレビばかり見せているととんでもないことになりますよというようなことは常々話させていただいているんですけれども、私は、基本的な人間としてだれでも持っていなければならないものを順次、教育として順番に教えるというのは、実は私は、これは親じゃないかと、学校じゃなくてまず親じゃないかというふうに思っているんですね。  しかし、今、日本は母親も働かざるを得ないような社会的な状況の中で、やっぱり好むと好まざるとにかかわらず多くの母親たちが働かなければならない。ですから、自分のことだけを考えているわけじゃないけれども、家庭というもの、子供のことも考えて、経済的な面も考えて働かざるを得ない。その中でやはり私は子供本位の両立というのは、やっぱりこれは社会が進めていくものではないかというふうに思っておりまして、その辺の御意見をお伺いいたしたいと思います。
  32. 林道義

    参考人林道義君) 子供にとって母親ももちろん父親も両方大切なんですが、特に子供が小さいときは母親の存在が大切だということは、ほとんどもう普通の人なら認めているところです。それを、今の社会では母親が働かざるを得ないのでどうしてくれるんだと、こういう話になるんですね。  私、その前提そのものを変える必要があると思います。どういうことかといいますと、母親が働かなくてもよい社会にすればよい。今は制度的に母親が働かざるを得なくなっているんですね。これは経済的にもそうですし、それから社会の風潮もそうなっております。女性が働くのは当たり前だという。  私は、二つの方法が現実に可能だと思います。乳幼児の母親も働ける社会にというのが今の日本社会あるいは世界のコンセンサスになっておりますが、私はそれは間違いだと思います。乳幼児の母親は働かなくてもよい社会にするというのが私は理想にすべきだと。これは現実に可能、やっている社会、可能です。財政的にも制度的にも可能です。  すなわち二つの方法がありまして、一つはいわゆるM字型と言われている労働形態を可能なようにするというのが一つの方法ですね。もう一つの方法は、いわゆるワークシェアリングによりまして、乳幼児は、全然働かないようにした方がいいと思いますが、年齢に応じてパートタイムで働ける、そしてそれをだんだん増やしていく、そしてそれを正社員と同じ給料を保障するということは、現実にやっている国もありまして、これは簡単に、国がそのつもりになれば、もちろん国も経営者も労働者も労働組合も一緒になって、その方向に進めようという気にさえなれば可能な方法です。今、保育所のために乳幼児一人当たり平均十万円使っております。十万円の金を子供、乳幼児を持っている母親に子供一人について与えれば予算的には全く同じです。さらに、保育所を作る金が要らなくなります。こういう形で、家庭の保育というのを大事だというふうにおっしゃるならば、それを可能にするような制度を考えていただきたいし、それは現実に可能だということなんですね。  ですから、今の時代は母親だって働かなきゃならないというふうにおっしゃいましたけれども、お言葉を返すようでございますが、それは現実の制度がそうなっているからやむを得ず働かざるを得ない。経済的に困っているというのでしたら、今、保育所を作ったり、その運営のためにお金を出しているというのを、それを一人一人の家庭に与えれば簡単に済むことです。もちろんそんな単純な計算ではないですけれども、例えばの話、そういう計算ができます。  ですから、我々日本人全体が、子供にとっての母親をどう考えるか、そしてそれをどのようにして保障するかということで国の政策なり制度を考えさえすればよいんだと思いますね。だから、現実が良くないということを知っていても、そうせざるを得ないんじゃないかという発想ではなくて、その現実の制度を変えることは可能であるし、変えようということが、私は日本人全体のコンセンサスを作っていく必要があると考えております。  以上でございます。
  33. 松あきら

    ○松あきら君 ありがとうございました。
  34. 西山登紀子

    西山登紀子君 日本共産党の西山登紀子でございます。  今日は本当に三人の参考人の皆さん、お忙しいところをありがとうございます。  本当に興味深いテーマですけれども、時間は非常に少ないということなんですけれども、まず、今日はこの当委員会にお越しいただきましたので、私たちの委員会というのは三年間という長丁場の委員会でございまして、そのテーマは「真に豊かな社会構築」を大きなテーマにして調査活動をやっております。前の三年間は少子化問題ということで取り組んで、参議院の本会議に決議案を提案するというような仕事もしてまいりましたが、今期のテーマ、三年間のテーマは、「真に豊かな社会構築」をテーマに掲げております。  そこで、三人の参考人の方々にお一人ずつお答えいただきたいと思いますのは、なぜ私たちがこれをテーマにしたかといいますと、日本は非常に経済大国になったわけですけれども、国民は真の豊かさを実感できていないと、なぜなのだろうかと。物や金は、大分お金の方も大変になってまいりましたけれども、あふれるような状態にあるんだけれども豊かさを実感できない。これはなぜなのか、これからの社会というのは本当に真の豊かさを国民が共有できるには何が必要なのだろうかと、こういうことを今調査に取り組んでいるところでございます。  それぞれの参考人の方々、本当に真の豊かさとは何なんだろうかと、お一人お一人の実感でも結構ですし、国民にとってというようなことでも結構ですので、まず、そのことをまずお聞かせいただきたいなと思います。
  35. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 真に豊かな社会を実感できるためには、やっぱり私たち、僕のように教育の領域から見ますと、今、教育界全体が非常に競争主義的あるいは効率主義的なというかしら、そういう方向に流れています。そういう一つの角度からいろんな教育政策見ていくと、何か、自動的に何か整理されてしまうほど、非常に現場は厳しい状況になっています。  そういう中で、豊かな、豊かさを実感できるというのは、伸びる子がどんどん伸びていくというのはだれも否定しないわけですけれども、手間暇が掛かる子というのも、生活の面でも、学力の面でも、心の面でも一杯いるわけですよね、非行の子供たちもいますし。そこのところをきっちりとケアしていけるセーフティーネットがしっかり張られている安心感。何回もやり直しも、もちろん学力の面でもできるし、非行を起こしてしまうのは良くないかも分かりませんが、起こすこともあるわけで、それをしっかり温かくケアしていけるようなそういうセーフティーネットがどういうふうにして張られているか。それが子供たちや大人、親御さんも含めて私たちにも実感できる社会であるかという、そこがポイントじゃないかなというふうに思います。
  36. 木村孟

    参考人木村孟君) 今の御意見で、確かにこれだけ物質的に豊かになったのに日本人が豊かさを感じられていないということはそのとおりだと思います。  その理由としては、私はやはり、今申し上げたように、戦後、物質的なところへ価値を置き過ぎたんだというふうに思っております。殊に、私の大した、長くもありませんけれども、先ほども申し上げました四年間英国に住んだ経験でいきますと、この東アジアの地区というのは非常に金とか物に物すごく大きな価値を置いているところだというふうに個人的に考えております。それが、戦前はそうでもなかったんでしょうけれども、戦後、日本にもやってきた結果、やはり物質的なものを追求する限りこれは絶対に満足感というのは出てこないわけで、それが我々が豊かさを感じられていない理由の一つ。  もう一つは、やはり戦後、非常に社会体制がある意味では整備されてきたということで、個人が進むべき道が少なくなってしまった、つまり選択の余地が非常に少なくなってしまったと。そこに苦しさがあって、それがために豊かさを感じられないというふうなことになっているのではないかと思います。  真に豊かな社会とは何だということでありますけれども、今日のこのテーマに基づいて私の感じているところを申し上げますと、先ほどこれは申し上げたことでありますけれども、それぞれの個人が、学習ということでいいますれば、学習の意欲がわいたときにすぐそういう学習社会に参画できて、そしてその成果が社会で認められる、そういう社会になれば人々というのは豊かさを感ずるんではないかというふうに感じております。
  37. 林道義

    参考人林道義君) 大変難しい質問で、私の能力ではとてもお答えできないというような大きな、また哲学的にも難しい問題を与えられたと思います。  それで、一般的には、今お二方が述べられたようなことが大切だろうと思います。抽象的に申しますと、真の豊かさとは何かといいますと、今お二方がおっしゃったような、金銭的な、物質的な豊かさを求めていたんでは到底得られない、何か精神的なものですね、そちらの方に価値をシフトしていかないといけないんじゃないか。  精神的なものとは何かと言われたら、家族や友人や周りの人たちといかに仲良く愛し合っていかれるかということとか、それから、能力は、自分能力はどの程度社会の中で伸び伸びと生かしていかれるかという、そういう社会の活力といいますか、そういった面も必要になってくるんではないかというふうに思われます。  それから、自由競争の社会ですと、一方では、今言いましたように、能力のある人はどんどん伸び伸びと能力を発揮できる、生きがいを追求できる。しかし、自由競争で敗れた人というのは、やはりそれをどのように社会保障などによって生活を保障するかということも、これも必要なことになってまいると思います。そういう具合に基準がいろいろあり得るだろうと思いますので、それぞれの基準をどのようにバランスを取っていくかということも大切になってくるというふうに思います。  ちょっと抽象的なお答えであれですが、そんなところを考えております。
  38. 西山登紀子

    西山登紀子君 先ほど、内藤理事の方からも海外での経験とかいろいろお話がありました。  私も実は小さな子供三人抱えまして、スイスのチューリヒで一年間公立小学校子供をゆだねたことがございまして、そのときびっくりしたんですけれども、少人数学級で二十三人の教室でございまして、先生が大きな犬を連れてきて、それをゆったり自分の黒板の下に寝かせて、ゆっくりじっくりと教育をしているということに本当に、ああ、こんなにも、先生と子供のコミュニケーションというか、そして親はいつ行って見てもよろしいよということになって、私も見せてもらいましたけれども、それに比べて日本の先生方は、これは本当に、この四十五人、今は四十、ずっと下がってきておりますけれども、教育の場所じゃないというか正に動物のおりのような感じがしまして、これはもう学校の先生、日本の学校の先生はスイスの学校の先生なんかと比べるともう三倍、四倍過重に労働していると。本当に、教育を本当にやりたいけれどもやれないというような現実があるんじゃないかなと痛感をして、ずっとこの間その問題を取り上げてまいりました。  この調査会の、九九年の二月にも、私は地元は京都なんですけれども、教職員組合の女性の先生方が八百八十人の先生方のアンケート調査をやったんですけれども、在職死亡が年間、その当時の六年間ですけれども、年間十五人在職で亡くなっていると。それから、学校を辞めたいと思うかという問いに対しては、よく思うというのが二二・六、時々思うは五〇・六というようなことだとか、それから多忙過ぎるというのは三九%、学校を辞めたい理由のですね。それから、過労死の不安は六〇・六%、自分がひょっとすればというふうな不安を抱えているという、この数字に私は本当に驚いたわけですけれども。  尾木参考人にお伺いします。  現場をよく歩いていらっしゃるということなんでお聞きしたいと思うんですけれども、私は、豊かに子供を育てるには、やっぱり教職員が豊かじゃないと、これは実現は不可能ではないかと思います。日本の今の、私は、現場は非常に異常な、先生方に過重労働であり、教師が教師としての役割を果たせないような実態ではないかと思うんですけれども、その点、先生がどのようにお考えになっていらっしゃるか。それが子供にどんなしわ寄せといいますか、教育問題を起こしているかというようなことなど、実際にお感じになっていることなどお出しいただければ有り難いと思います。
  39. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 今、京都の事例をお話しになったわけですけれども、それは九九年のことですか。
  40. 西山登紀子

    西山登紀子君 そうです。
  41. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) というので、二〇〇三年の今は、それの数字はもっと増加していると思います。  先ほども言いましたけれども、学校五日制の下での移行期の大変さももちろんありますけれども、学力保障のことや、枠組みが小さくなったところで量は要求されるという状況の中で本当に大変な事態になっていて、実は新任の先生のお辞めになる率が物すごく高くなっています。新採で来たての先生が、一年たったらもう辞めちゃうんですよね。大変もったいない話だと思っていますけれども、それが驚くほどの高率になっております。先生たちにゆとりがなければ、ゆとりがある豊かな教育も、一人一人の子供の個性を発見できないということも言うまでもないというふうに思うんですね。僕もそのとおりだと思います。  特に、教師の豊かさとは一体何かというのは、それは時間的なゆとりというのはもちろん大前提で、条件として物理的なものがあります。と同時に、教師を、市民的な生活をいかに保障するかというのがポイントじゃないかなというふうに思っています。今、教師たちは土曜日も部活の指導、日曜日も部活の指導、それからボランティアで学力低下の補充をしなきゃいけないということで学校に行く先生、それから、実務がほとんど積み残しになってしまうんですね。週五日間ではやり切れませんので、土曜日に出掛けている教師が、これもある調査では五六%ぐらいとかいう状況にもなっています。  そういう中で、例えば文科省もそうですが、地方の教育行政も、先生たちが社会性がないという批判の中で、社会性を身に付けさせるというと、イコール企業研修になってしまうんですね。企業研修を僕、全面的に否定するものではありません。レポートを読みますと、非常に感動されたいいもの一杯あるんですけれども、むしろそれよりも市民として土曜日、日曜日をいかに自分地域で充実した生き方ができるかと、地域に奉仕できるか、ボランティアできるか。例えば、美術の教師だったら、金曜日の夜、地域のための高齢者美術教室だとかあるいはパソコン教室だとか、自分の専門性を生かして地域とどういうふうに、地域にもう一つの根っこを張れるかというところが、僕は社会性形成の上でお金も掛からずにやれることじゃないかというふうに思います。
  42. 西山登紀子

    西山登紀子君 私のそのスイスの子供の担当の先生は、夏休みに何やってきたかというのを子供たちにお話しするのを楽しみにされていたんですが、その話がまた振るっておりまして、アフリカに自分のヘリコプターで行って、そしてテントを張ったら、その横を象が通っていったよという、そんな話を夏休みの体験で子供たちに話して聞かせているんですね。まあ、日本の先生と何と違うものかというふうに思いました。  だから、そういう意味の先生方のゆとりも大事なことでありまして、先生方に、春休み、夏休み取っ払っちゃって、猛烈社員のように働かせればいいというその考え方は、私はどうもいただけないなというふうに思っているんですね。  それから、最後にですけれども、実は私は三人の子供を産休明けから保育所へ預けながら学童保育所、共同学童に、子供を育てて働きながら、今は議員をやっておりますけれども、女性の自立という問題についてずっと考えてまいりました。大学のときには心理学を専攻いたしましたが、当委員会で少子化の問題を審議いたしましたときに、三歳児神話についてもやはり問題になりまして、ここでたしか厚生労働省の方からか、あるいは岩男壽美子先生の方からか、三歳児神話については科学的な根拠はありませんというようなことの御答弁があったと思いますので、そのことも申し添えて質問を終わりたいと思います。  今日はどうもありがとうございました。
  43. 森ゆうこ

    ○森ゆうこ君 国会改革連絡会(自由党・無所属の会)の森ゆうこでございます。どうぞよろしくお願いいたします。  今ほど、西山先生の方からも三歳児神話ということがテーマになりましたけれども、私は西山先生とはちょっと逆の立場、基本的には逆の立場であるということをまず申し上げておきたいと思います。  まず、林先生にお伺いしたいんですけれども、先生がここで言われていらっしゃることというのは、私は非常に重要なことだなと思うんですが、ただこのレジュメの真ん中の中で、そうは言ってもやはりこの男らしさ、そして女らしさというところの定義が、どこまでが生まれ付きで、どこまでがいわゆる社会的に後から形成されていったものであるか、それは先生は洗練だというふうにおっしゃるんですけれども、その辺のところをやはり苦しんでいる女性もいるし、そういうものを超えた本当に人間らしさということは何かというテーマもあると思いますので、この辺のところについては逆に誤解を受けるのではないかなと思うんですが、その点について少し、先生がもし言い足りない部分がおありでしたら一言お願いしたいんですけれども、まず。
  44. 林道義

    参考人林道義君) 生まれ付きのものにプラスして文化的に男性、女性の性の差というものをすべての社会が際立たせるように、そして区別をはっきりさせるような仕掛けを、文化的仕掛けを持っております。最近は否定する人も、社会も出てきておりますけれども、歴史的に見ると、ずっとそういうものは人類は持ってきたんですね。それは何のためかというと、男性、女性が青年期になるに従って違いというものをはっきり、自分がどちらに所属しておるかということをはっきり自覚させるための装置ですね、文化的装置というものを持っておりまして、これは私は非常に大切な必要なものだというふうに考えております。  昨今は、性の差というもの、文化的な性の差はいけないということが非常にはやっているんですけれども、それを言ってしまうと文化そのものは要らないということになってしまいます。文化というものは、人間にとって必要なものでして、性の差を際立たせることも必要。ただし、それは一般論で、際立たせ過ぎればよいというものじゃないんですけれども、それは基本的には必要だと。  その中身は、では適当かどうかというのは何で決めるのかと言われると、これはまだ決まっておりません。つまり、我々の社会ではそういうコンセンサスは存在していない。というのは、そういう問題意識を持っている人が少ないからですね。必要だから、大切だから、ではどのようなふうにしましょうかという議論がなされていないんですね。それはもうそういうのが抑圧の機構だからいけないからやめてしまえという議論ばかり盛んであって、それに反対する人たちは、ただ要るだろうということだけで、なぜ要るのか、そしてどの程度のどういう性質が要るのかという議論をしていないと言っても過言ではないと思います。  私が具体的にこうしろああしろということも、もちろん提案はしておりますけれども、そういうことよりもむしろ社会的にみんなでそういうことを討論しなきゃいけない。だから、必要だという前提に立った上で討論しないと、必要だという人と必要でないという人とがけんかしていってもちっとも生産的でないんでありまして、性の差ということは厳としてあると。それで、それは生得的なものだとしてあるということを前提にしまして、その性の差は体の違いだけじゃありません、生理的な違いだけじゃありません、脳の仕組みが違っているんですね。言わば脳の配線が違うと言ってもいいと思います。それはもう完全に科学的に一〇〇%証明されておりますから、それに逆らうような文化を作るんではなくて、それに合った文化を作るということが必要だというふうに私は考えております。  ですから、先ほど、よろしいですか、まだいいですか、先ほどからも言っているように、現在ある文化的性差が全部良いという意味ではありません、誤解のないように言っておきます。その中にはその差別を反映した部分もありますから、そういうものは全部なくしていって、積極的にこれは良いものだというのを選び取っていくという作業が必要だというふうに私は考えております。
  45. 森ゆうこ

    ○森ゆうこ君 ありがとうございます。  ややもすると、この話というのはどちらかの極端に振れるところがございまして、でも私が見る限り、むしろ一般の国民は非常にバランス感覚が取れていて、一方でそういう話はあるけれども、でもこうじゃないかというところでは上手にバランス感覚を一般の国民は取っているのではないかと思っております。  それで、先ほどの林先生のお話の中で、乳幼児期の母親が働かなくてもよい社会を作るべきではないかというふうな御発言がありました。実は先週の、私、今、厚生労働委員でして、厚生労働委員会で先生と同じ趣旨の発言をさせていただきました。同じコスト負担という意味では、行政がそのコストを払うということで考えれば、それを幼稚園、保育園を作る費用に充てるのも、乳幼児を持つ親に子育て手当という形で出すということでは同じではないかということです。  ただ、私も誤解をされないように申し上げたいと思いますが、要は選択肢を設けるということが重要なのではないかと思っております。子育て中の母親がやはり継続して仕事を続けたいというときに、子育てに十分時間が取れるような働き方が選択できる、そしてその期間は休みたいと、子育てに専念したいということであれば、それが所得的にも、収入的にも保障されるというような、その選択肢を用意することが重要で、また元に戻りますが、結局、日本というのはすぐ偏るんですね、どっちかに、極論に走りたがるというか、その辺が問題ではないかなと思っておりますが。  あと、それぞれの参考人に伺いたいと思いますが、今の学校の現状という、教育の現状というのがあります。先ほどゆとりがないというお話があったんですけれども、完全週五日制が始まったということで現場の先生たちがゆとりがないというものもありますが、私はもう一つ、この学校の教育が危機的な状況に陥っている大きな原因に、学校というものに対するある意味での権威ですね、学校ということに対する権威、その社会が持っている、与えている権威、それから先生という職業に与えている権威、そういうものが完全に失墜してしまっていることによって、子供たちに秩序を持ってそして伸び伸びと学習してもらいたいと思っても、そもそも家庭教育が崩壊しているがゆえに子供たちが秩序を保つだけのしつけがまずできていないところへもってきて、学校に対する権威というものを社会がもうなくしてしまっているということで、非常に先生方は教育に困難を感じていらっしゃるのじゃないかと思うんですが、この点について三人の先生のそれぞれの御意見を伺いたいと思います。
  46. 木村孟

    参考人木村孟君) 学校の信頼性ということは、我が国の非常に大きな問題になっていることはもう周知の事実であります。今、権威という言葉をお使いになりましたが、確かに戦前は学校というものは権威がありました。しかしながら、それはある意味でいうと国から押し付けられたような権威ということでありまして、自然に出てきた権威では私はなかったんではないかというふうに思います。  このような時代になったときに、果たして学校の権威って何だということを考えてみますと、それはもう、そこへ、学校というものに関与する人たちが共同して一つの学校という組織を作り上げる、そういうシステムを作られない限り、そういう権威みたいなものは、まあ権威と私は申し上げたくないんですが、信頼性みたいなものは回復できないんではないかというふうに思います。そういうことで、教育改革国民会議でもアメリカの例に倣ったわけでありますけれども、例のチャーターズスクールとか、そういうふうなものを日本でもできるようにしようという提言をいたしております。  要するに、申し上げたいのは、学校の信頼性がないないと言いながら、その信頼をしない人たちが学校のマネジメントに参画したがらない、しないというこの事実、そこを何とかしなければいけないと私は考えております。  ちょっと余談になりますけれども、今、年間六百人のアメリカの先生方、小中高の先生方を日本政府の全額出資で三週間来ていただいております、二百人ずつ、三回ですね。その先生方に私は毎回キーノートスピーチをやっておりますけれども、その先生方と議論をすると、アメリカの平均的な家庭ではまず自分子供の担任の先生の悪口を言うことを絶対させないと、そういうことを厳しく教えるそうであります。ただし、隣のクラスの先生の悪口は言うと言っておりましたから、ちょっと変だなと思いますけれども、いずれにしても、自分の担任の先生は仲間であるという意識をまず持つということですね、その辺のところから日本も始めていかなければいけないのではないか。  要するに、申し上げたいのは、親が、関係者が積極的に学校の経営、経営という言葉は好きではありませんけれども、そういうものに参画していくという、そういうシステムを作ることではないかと思います。
  47. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 今おっしゃられたとおりだと思います、御質問のですね。本当に学校の権威というのはもう急速に失墜してきているわけですけれども、それを、原因や背景については、やっぱり学歴社会が崩壊したというのが最も大きいんだろうと思うんです。決して個別的な、先生方一人一人の人格的な問題だとか、あるいは教える技術の問題とか、そこで言えばよく教師のことを批判されるんですが、今新しく採用される先生方は非常に有能です。非常に高いものを持っておられて、しかも国際的な比較しても日本の教師は僕は一流だというふうに思います、教える技術やいろんな面で。  それで今、教育行政なんかは、学校選択の自由だとかいうのが各地に広がっているわけですよね。いろんな競争をさせて、ちょっとでも親たちを消費者に見立てていいものを提示しようというふうに努力されているんですけれども、どうも僕は違うなと思うんですね。粗悪品ばかり並べて、さあ好きなの選びなさいなんと言われたって面白くないわけで、やっぱり基本的には、今教師の権威で、学歴社会の中に乗っかって教師が権威がある位置付けというのがなくなった以上はみんなで立ち上げていくと、さっき言いましたけれども、学校をベースにした町づくりという言い方で生涯学習社会をどうイメージするかということを言いました。ここのところがやっぱりかなめだろうというふうに思います。  イギリスなんかの学校理事会だとかフランスやいろんなところ、そうですけれども、みんなで立ち上げていって、人事権やいろんなことも含めて、運営や含めて、そして作り手というか担い手に親たちにもなってもらうというかしら、選び手じゃなくて、選び手から作り手になってもらうことによって、学校はまずい点があっても親の責任でもあるんだと、先生たちももちろん頑張るけれどもという、みんなで責任を共有し合っていくというふうになっていけば、新たな信頼とか新たな学校への権威というのは形成されるんじゃないかなというふうに思います。
  48. 林道義

    参考人林道義君) 権威については私もいろいろ書いたことがあるんですが、権威というのは、ある地位にいるからその人が信用されるとか、その人の言っていることをみんなが聞くということではなくて、その人の実力とか人格とか、おのずからにじみ出るものを皆がそれを信用するというのが権威ですね、本当の意味での権威です。  先生がいい意味での権威を持つということは、これはもう子供に対しては絶対必要なことなんですね。ただ、親との関係でどうかということになります。  先生と親とがうまい関係になかなか現場ではいっていないというのはよくぶち当たる事実でして、本当は子供を正しく育てていくためには親と教師が同じ考えを持つことが理想なのはもう当たり前のことなんですが、現実になかなかうまくいっていません。こういうことを学校でしつけてくださいといって親が言ってくると、先生は、それは家庭の責任でしょうといって押し問答をしているというのはよく見られる光景ですね。  一体何を家庭できちんとしつけをするのか。どこまでを家庭でやってください、で、学校はこういうことをやりますということで、きちんと役割分担あるいは協力、これを普通、学校と家庭の提携というようなことで言っております。あるいは地域社会も含めて、そういう教育主体が、三つなり四つなりの教育主体が提携をしていくと、正しい協力関係に持っていくということが非常に大切だと思います。  これをやらなきゃいけないという意識を持った上で、どういうふうに場を、話合いとか場を確保していくか。そのためには、社会のコンセンサスというものは家庭の中ではどこまで教育をするのか、しつけをするのか、それを学校では何を補うのかということをきちんとしないと、社会家庭でそんなことをしなくてもいいよというようなことを言っていますと話が合いませんね。提携というのはうまくいきませんですね。  だから、その辺をきちんと、これは強制するわけにいかないんですね。特に家庭教育というのは強制できないんです。ですから、説得力のある考え方というものを、本当の意味での権威のある方がきちんと語っていくということしかないんじゃないかと私は思っております。
  49. 勝木健司

    会長勝木健司君) 時間です。
  50. 森ゆうこ

    ○森ゆうこ君 ありがとうございました。
  51. 加藤修一

    ○加藤修一君 公明党の加藤修一でございます。  今日は、三人の参考人の方においでをいただきまして誠にありがとうございます。非常に有益な話を伺うことができまして。  それで、先ほど木村参考人の公述の中で公民という話がございました。公民というのは恐らく公と民という、それは公民教育ということなんでしょうけれども。私は、この公と民における考え方にも、やはり個の確立という観点からも言える部分があるんではないかなと思います。  戦後、アメリカの占領下において、日本においては公としてはやはり官であるし、政府を中心とした復興及び発展を積み重ねてきたと。後ほど三人の方に今の話を含めて御質問させていただきたいと思っていますけれども、そういう復興及び発展があって、民としての個は、あくまでもより良い社会構築するための個であることが求められてきていたと。より良い社会といっても、私はこの場合は産業社会のための個であって市民社会のための個ではなかったのではないかなと、そんな思いでいるわけなんですけれども。  それから、他人思考の強い日本人にとっては個の主体性を喪失させることにも頻繁にあったのではないかというふうにも考えられますし、この個の問題とともに、民主主義と言いながらも個の意思が反映されにくいそういうプロセス、社会的な制度があったということもこれは事実ではないかなと、そんなふうに思います。  さらに、社会のいわゆるグローバル化、ボーダーレス化が進み、新たな社会の枠組みが要求されてきている。この新たな社会の枠組みが教育に与える影響も当然大きいというふうに判断をしなければいけないと。そして、個性重視の教育と言いながらも、実は受験によって画一的な知識偏重の教育がなされてきたこともまたこれは事実であろうと。やはりそこには、グローバル化した、あるいはそのITの発展に伴うブラックボックスですかね、そういったブラックボックスの拡大によって、経験に基づかない知識が拡大してきている。こういった意味では、私は、リアル感がなくなってきているし、あるいは場合によっては生きている実感が伴わない、感動の機会がない、あるいは自信につながるような機会がだんだんなくなってきていると。そういった意味では、これが個の確立に大きな影響を与えているのではないかと、そんなふうに考えているわけなんですね。  そういった意味では、個と社会とのかかわり合いを重視しなければいけないと。社会のための社会を考えるのではなくて、やはり個のための社会を考えていく、そういった視点を大きく持っていかなければいけないと、こんなふうに私も思いますし、恐らくこういうふうに考えている方が大勢いらっしゃるというふうに私は思います。  グローバル化やボーダーレス化によって新たな社会の枠組みが作られていて、しかしながら、そういうふうに作られていたとしても、教育の再編が日本ではうまくいかないで、また個においてブラックボックスに含まれる社会事象が急激に増大してきて、この増大するブラックボックスに対応するためには、やはり私は、先ほど述べましたけれども、経験に基づいた確かな知識、そういったものも必要でありましょうし、あるいは情報におぼれることなく判断ができるような、そういう価値基準というのを持っていかなければいけない、そういった面における学習を進めていかなければいけないと、そんなふうに思います。  それで、こういった点で、やはり身近な地域に働き掛ける学習とか、あるいは例えば自分たちの住んでいる郷土を知る、学ぶ機会、さらに、メディアに対するリテラシーですか、そういったものを高めていく学習、こういったことが一つには有効な考え方の一つになっているんではないかなと、そんなふうに考えます。  以上の話を基にして、二点ほど質問させていただきたいんですけれども、まず、木村参考人尾木参考人についてでございますが、今述べてきた中で、いわゆるグローバル化とかボーダーレス、そういった構造の変化に日本が十分に対応できてこれなかったと、それは教育も同じで、やはり教育の再編に失敗した日本と、こんなふうに議論をされているわけなんですけれども、こういった変貌に付いていけなかった日本ということについてのこういった議論、どのように御見解をお持ちなのかというのが第一点でございます。  それから、林参考人の方につきましては、いわゆる個の発見とか個の確立に向かう過程で、やはり多くの機会、情報を提供しなければならないことは言うまでもないことなんですけれども、そのうちの一つとしては、先ほども若干触れましたけれども、知識、イメージ、そういったものだけではなくして、実物を見るとか、映像によって知る機会はもとより、参加とか体験によってリアルな感覚を把握する、そういう機会をもっともっと増やしていくべきではなかろうかと、これはほかの二人の参考人からも出てきた話でありますけれども、林参考人におきましては、こういった面についてどのような御見解をお持ちでしょうか。  以上、三人の参考人にお尋ねいたします。
  52. 木村孟

    参考人木村孟君) 今の最初の御質問、つまりボーダーレス社会、つまりグローバリゼーション、そういう状況に日本が付いていけなかったのはどうしてだろうかということでありますけれども、これは私、いろんな理由があるんではないかというふうに思います。  やはり、一つ大きな要因として考えられますのは、戦争ですべてなくしてしまって、とにかくキャッチアップを是として国中がそっちの方向へ向かっていった、その過程で一体世界がどう動いているのか、そういうことを十分に考える余裕が社会の中になかったということではないかと思います。それが教育の、先ほども御指摘ございましたけれども、確かに日本の教育のポリシーは世界的な動向を踏まえて実施、考えられたものではないということですね。その辺が非常に大きな要因になっているのではないかと私個人的に考えております。  それからもう一つは、先ほどから申し上げよう申し上げようと思っていたんですが、御指摘ございましたが、やはり戦後の日本の社会というのは極めて企業あるいは大企業にドライブされた社会になってしまったということですね。それが国是みたいになってしまったということで、大企業がやることが正しいことだと。それによって、いろいろ議論はありますけれども、物質的に豊かに日本なりましたから、それをそういうふうな見方をするのも分かりますけれども、そこのところが余りにも行き過ぎて、そのほかのところへの目配りができなくなってしまったんではないかというふうに考えております。  恐らく十年ぐらい前までは、大企業、日本の大企業というのは、もうとにかく世界は全部自分が取ってしまったと、世界の市場は取ってしまったと、そういう思い上がりをしていたんではないかと思います。したがいまして、向こうから、向こうの立場になって眺めるとか、それから、その国、例えば商品を売る国の文化だとか伝統だとかいうものを考えるというようなことはほとんど私はなかったんじゃないかというふうに思います。  その辺が今、日本人がボーダーレス社会になって付いていけなくなった大きな要因になっているのではないかと考えております。
  53. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 僕は二つあるんじゃないかなというふうに思っています。  やっぱり、今おっしゃられたように、戦後の教育というのは人材育成路線でずっと来てしまったというところですね。いかに産業界の発展を支えていく人材を養成していくかというところにかなりきゅうきゅうとしてきたと。生活指導の面から学習指導から、そこに収れんされていたんじゃないかなというふうに思います。  だから、その名残がまだ、例えば教師の社会性を身に付けるんだといえば企業研修に出すというような問題ですね。例えばNGOとかNPOとかいろんなところ、もっと広やかにとらえていけばいいのがなかなかできていないという問題。それからもう一つは、この間不幸な事件があった。民間人校長であれば、民間人であればいいんじゃないかというので、わずか二日間の研修で赴任させてしまうというむちゃくちゃな状況とか、そこら辺はまだ名残じゃないかということが一つあります。  それからもう一つは、先ほどもお話ししましたけれども、日本のこの教育行政というのはどうしてこんなに国際的なレベルから後れているんだろうと。それは、例えば児童の権利条約だとか学習権宣言だとかリヤドのガイドラインだとか、いろんな土台になるようなものがあるわけで、何もそれをそのまま踏襲する必要はないにしても、それが一つのたたき台になっていっていないというところ辺だとか、あるいは今各地で行われている習熟度別の授業だとか、あるいは飛び級ですね。飛び級なんかはもう国際的にははやっていないわけで、イギリスなんかもですね、いろんな実験の結果もう明らかなわけですよね。  だから、今、日本の教育改革と称しながら先頭を切って動いている方向というのは、世界の流れから見ればどうなのかというところですね。もっと私たちの国の教育実践に自信持っていいんじゃないかなというところまでかなぐり捨てているような気がします。  そういう点では、例えばほかの省庁はいつも国際的な感性を身に付けて判断していないと国がつぶれてしまいますけれども、教育は十年二十年ぐらい後れていてもつぶれないんですよ、変な感じなんですけれども。ちょっと俗な言い方で申し訳ありませんけれども。  だから、非常に視野が狭いなということを思います、教育行政一般がですね。そこら辺がこのグローバル化やボーダーレス化に対応できていないという、打つ手が非常に狭いなというのの原因じゃないかなと僕は思います。
  54. 林道義

    参考人林道義君) 問題提起をしていただいたのは全く賛成で、そのとおりだと思います。  今の子供たちが現実感覚がない、そして生活感覚がない、そういうことを非常に私も前から感じて、警告と言うとおこがましいんですが、いろいろ発言をしております。  今の親のかなり多くの人たち子供に対する生活の自立教育というのを、これをやっておらないんですね。簡単に言うと、勉強ばかりさせると。母親が子供に言うには、お手伝いはいいから勉強しなさい、こればっかり言ってこられたというのを、学生のもう大半が皆そういうことを言いますね。自分生活自分で行っていくというようなしつけをやっていないんですね。単に、自分の例えば食事を作るなどというような、そういう生活技術だけではなくて、自分の人生を自分でやっていくというような覚悟、それから危機管理、危機に対するセンシビリティーといいますか敏感さ、それに対して自分の身を守る方策をいかに考えるかというような、そういう問題意識を持たせていないんですね。  ですから、何も教えないで田舎から東京にぱっと下宿をさせる。今、下宿とは言いませんが、マンションか何かに住まわせる。御飯は作らない、二食うどんだけ食べてずっとそれでやっているというような学生もおりますので、そういうところから指導をしなきゃいけない、ちゃんと三度三度食べなさいなんというようなことを言わなきゃならないという状況があります。  他方には、自分生活はする、できると、非常にたくましいんだ、こういう子供たちもおります。自立はできているんですけれども、こういうのに限ってモラルとかマナーができていないという、そういう偏りというのがありますですね。日本の子供を自立させていくための教育というのが、家庭教育に今限って言っていますけれども、非常に偏っているという事実があると思います。  これは、家庭での一家の団らんというようなものも、在り方が非常におかしくて、日本人の一家団らんというのは、政治問題は話しませんとか、そういう緊張したことは話さないで、まあまあ仲良く群れて冗談言っているようだというふうにしか考えられないので、先ほどスウェーデンの話が出ました。家庭で政治問題もどんどん話し合うというようなことを言いました。別に政治問題を話せということじゃなくて、いろんな生活上のこと、そして自分の自力で生きていくためのこと、大学生になったらヨーロッパの国では全部ほっぽり出してしまって一銭も援助しません。全部自分でアルバイトなりなんなりやって生活しろということでやっております。もちろん授業料がただ同然ですからそれも可能になるという面もありますけれども、その辺が丸抱えで、全部面倒見てあげるからいい学校へ入りなさいというようなことだけ言っている親が非常に多いということですね。  じゃ、どうしろと言われても、私は、そういう問題があるということしか私は言えませんけれども、御質問のような認識というのは全く同じに持っているということだけ申し上げておきたいと思います。
  55. 加藤修一

    ○加藤修一君 ありがとうございました。     ─────────────
  56. 勝木健司

    会長勝木健司君) この際、委員異動について御報告いたします。  本日、円より子君が委員辞任され、その補欠として岩本司君が選任されました。     ─────────────
  57. 勝木健司

    会長勝木健司君) 質疑を希望される方は挙手をお願いいたします。
  58. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 日本共産党の畑野君枝でございます。  もう少し詳しく伺いたい点で、尾木参考人に二点伺います。  一つは、個の確立を促す教育学習在り方の中で、セルフエスティーム、自己肯定心情ということについて触れておられましたが、その次の評価の在り方とかかわってもう少し伺いたいと思います。  二つ目に、先ほどメディアリテラシーの話が委員の中からもありましたけれども、国際化、情報化の中での個人生活の変化にかかわって、参考人は放送と青少年に関する委員会の副委員長をされているということなんですが、どういうふうに子供への影響あるいは対応を含めて考えていったらいいのかという点について伺いたいと思います。  特に、今イラクへの攻撃の問題がテレビでも放映されているわけで、そういった物の見方あるいはその報道の在り方などについて伺えればと思います。
  59. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 二つ御質問ありましたけれども、後半の方のメディアリテラシーのことについて、ちょっと僕それにかかわっているものですから、ちょっとお話ししてみたいと思うんですが。  今ちょうどイラク戦争の報道がどのチャンネルつけても流れているわけですね。実は、例のあの九月十一日の事件があった二か月後に、私の研究所で全国の子供たち、幼児のところに調査してみました。影響が出ているという話を講演の先で保育園、幼稚園の先生方から聞くんですね。戦争ごっこがはやってきただとか、うなされて寝れない子が出てきたとか、ブロックを積んでそこに飛行機をぶつけて遊ぶのがはやってきたとか、外国人のお友達を見るとビンラディンと言っていじめるとか、いろんなことが聞かれて、一体どうなっているのかというので二か月後にアンケート調査を、何人ぐらいでしたかしら、やってみたんですね、全国で。  そしたら様々なことが分かりまして、多くの子供たちがあの映像を見ていると。しかも、先生方もごらんになって分かるように、残虐なシーンが、残酷なシーンが繰り返し流れるのが報道の特に特徴なんですよね。しかも、私たち見せる側の親の方からいえば、ニュースはやらせではないし、真実が報道されているわけですから、ある意味で安心しているわけですね。だけれども、ニュースの怖さというのは、いきなり血のりのべっとり付いたシーンが流れるかも分からない、何が流れるか分からないのがニュースのまた特性でもあるわけですね。そこに、二歳や三歳の小さな子供、お母さんは今料理忙しいんだからテレビ見ていなさいと安心してニュース番組を見させているなんというのは、大変な子供たちにトラウマを残しているということが分かりました。  今回の戦争のまた報道もずっと流れっ放しになっているわけですね。既にやっぱり四歳の子が、二歳の子ですか、夜泣きをするようになったとか、あるいは小学校四年生の子が戦争のそのシーンが映り始めると顔を背けてしまうとか、あるいは高校生の女の子がうなされて助けてというふうにしてわめいたとか、聞いてみると戦争に巻き込まれているシーンの夢を見ていたとか、大きな子でも影響が出ているんだなということが分かりました。  それで、アメリカなんかでは、例の九月十一日以降、静止画像に切り替えるだとか、あるいは、そういう症状が出てきたお子さんがいたら、しっかり抱き締めて音楽を聴かせたりお話を聞かせたり、安心感を与えてくださいとか、そういうメッセージが流れたようですけれども、我が国は、真実は報道しなきゃいけないわけですから、残酷なシーンを流すということもしなきゃいけないんじゃないかなというふうに僕は思っています。目をつむるべきではないだろうと思うんですが、ただそれは、子供も幼児も見ているという前提でやっぱり放送局側は考えてほしいと思います。それで、見ちゃったときにはこういうふうに対応してくださいというメッセージも、ニュースの最後、ほんの二十秒でもいいですから使って流してくださると、親は、ああそうかというので対応できるわけですね。そういう意味での母親たちや父親たちに対するメディアリテラシーというのも、私たちの国では非常に後れているんじゃないかと。  それから、先進国の中で学校教育の中にメディアリテラシーが入っていないのは、選択的にも入っていないのは日本ぐらいじゃないかなという気がします。それから、教職課程にある教職科目の中にメディアリテラシーがないのもやっぱり日本の特徴で、今年の十二月から地上波もデジタルになっていきますけれども、二〇一一年には全部なるわけですけれども、全然教育界は対応できていないというふうに思います。むしろ我が国のテレビ界、いろんな問題持っていますけれども、メディアリテラシーの実践、学校現場と協力しながらやろうとされている姿勢は世界の中でも非常に優れているんじゃないかと。逆にメディア界が一生懸命やっているという、何か変なメディアリテラシーが日本ではゆがんだ形で進んでいると思いますけれども、そんなことを思います。  それからもう一つ、セルフエスティームの問題ですけれども、戦後日本の教育というのは常に相対評価で来ました。これまでも皆さんもお話しになっているとおり、人材育成の、産業界でどういうふうにして働ける人をつくるかということで一生懸命やってきて、それの成果というかしら、大きく出たわけですけれども、だけれども、こういうふうにして成熟した社会になった段階ではじゃどうなのかというのは、全くそれは通用しないわけで、だから教育改革というのが今求められているわけですけれども、そこでやっぱり登場したのが、二〇〇二年の、去年の四月から始まった、他人との競い合いで評価が決まるんではない、あくまでも目標準拠という言い方を文科省はされていますが、一つ目標、到達度を設定して、それに対してどこまであなたは到達しているのかということを一人一人の個々の生徒に応じて評価していくのが理念的に言えば絶対評価の優位性だろうというふうに思います。これを高めていけば例えば、ただし高校入試側の方からは、相対的な位置が分からないということで絶対評価に対する不信感というのが随分表明されました。メディアでも表明されたんですけれども、それはすごい誤解に満ちているなというふうに思います。  相対評価と絶対評価とどちらが学力が付くかといえば、絶対評価の方が付くに決まっているわけです。例えば、教え方が超下手で、そして生徒たちも全く勉強しなくても、百点満点で三十点の子が一番であれば、その子は五が付くんですね。これが相対評価です。だけれども、絶対評価はここの基準まで来なければ駄目だという目標設定しますよね、教師の方が。例えば、点数で言えば八十点取れなければ五はとても上げられないということで設定して、クラス四十人中三十人がそこまで来たら、三十人に五が付いてもちっともおかしくないんですよ。それは信頼できないじゃなくて、そこまで学力を上げたということであって、誇るべきことなわけですよね。  ところが、教育界でも誤解されていて、絶対評価は主観だとかいろんなことが言われるんですが、もちろん問題点もありますから長期にわたって直していけばいいんですけれども、そういう意味で、そこが高まっていけば、お互いがみんなが到達する競争に、競争の質が変わってくるわけです。他人をけ落としたり、自分、百点満点で三十点しか取れなくても威張っているんじゃなくて、みんな全員が五が取れるように教え合ったりとか励まし合ったりとかできる。国民的なレベルで言えば、みんな子供たちの学力が高い日本になっていけるんじゃないかというふうに思うんですね。  そしてそれは、子供たちの達成感、セルフエスティームを確実に高めていくと。他人と比較して、いつも自分は駄目だなというふうに思っているこれまでの子供とは一味違った子供像になっていくんじゃないかなということを思います。
  60. 畑野君枝

    ○畑野君枝君 ありがとうございました。
  61. 渡辺孝男

    ○渡辺孝男君 公明党の渡辺孝男でございます。  今日は御三人の参考人の方々から貴重な御意見をいただきまして、林参考人の方からは脳科学の知見からのお話もございました。私も脳神経外科専門医としてこれまで脳科学関係するような仕事をさせていただいておりました。文部科学省の方では脳科学の研究の推進を図っておりまして、これまで「脳を知る」あるいは「脳を守る」、「脳を創る」という三つの分野に加えまして、「脳を育む」という新しい分野を昨年から加えたわけでございます。  そこで、最近の脳科学の知見によりますと、脳の発達には不要な脳の機能を捨てて新しい脳の機能を取り入れるということで脳が発達していくというような知見があると。そういうことから考えると、過剰な刺激を与え過ぎると逆に脳の発育に悪いというような、そういう説をおっしゃる学者の方もいらっしゃいます。  そういう意味で、御三人の参考人の方々にお伺いしたいのは、胎教とかあるいは乳幼児の早期の、超早期のですね、教育というものも行われておるわけですけれども、そういう中で五感のバランスの取れた子育てあるいは教育という面でお考えがあればお伺いをしたいと思います。
  62. 林道義

    参考人林道義君) 脳をバランス良く発達させるという教育が大変大切だと思います。脳細胞の発達というのは、先生おっしゃるように、要らないものをどんどん、細胞の数がどんどん減っていくわけでございますね。その代わり必要な部分が分化して枝分かれしていく。そしてそれが一番大事なことは、枝分かれしたもの同士が結び付いてネットワークを作るというところが一番大切なんですね。そのネットワークを作るためにはどうしたらよいかといいますと、いろいろな異なる刺激を関連させていくということが非常に大切であるというふうに言われておりますですね。  私の我田引水になりますけれども、例えば父性と母性というのがうまくバランスで提携し合うということですね。あるいはそのほかのいろんな体験、情操的な体験、それから知能的な体験、それから体を使う体験というものがうまく組み合わされて与えられるということが非常に大切だということで、おっしゃるとおりのことだと思います。それを具体的にどのように保障していくか、家庭教育の中でどのように保障していくか、学校教育の中でどのように保障していくかという観点がこれから求められていくんではないかと思います。
  63. 木村孟

    参考人木村孟君) 直接には私なかなか今の御質問にお答えできませんけれども、確かに今御指摘のように、過剰な刺激を与えるということはやっぱり子供にとってはいいことではないんじゃないかと、体験的にもそう考えております。  日本人は子育ての段階で褒めるということが非常に下手な国民だと言われているんですね。先生御承知のとおり、要するに褒めたときの脳波の状態というのは、怒ったときの状態と全然違う波が出てくるということですね。それから、非常に、例えば海岸の快適な波の音などを聞くと、どっちでしたか、アルファ波でしたかベータ波でしたか、とにかく好ましいという思うような波が出てきて非常にいい気分になるというふうなことですから、やはりその辺を、脳科学も随分進んだようですけれども、その知見を生かして子育てに応用していくということが非常に必要でないかというふうに思います。  東北大学の川島先生とお話ししたときに、彼、いろんな刺激を与えて脳が一体どういうふうに活性化するかというのを調べているんですけれども、非常に面白いと思ったのは、コンピューターゲームをやらせるんですね。それから数学の問題を解かせる。どっちが脳が活性化するか。つまり、かっと熱が集まって子供たちが活性化するかというと、コンピューターゲームはほとんど活性化しないんですね。数学の問題を解かしたときの方がはるかに脳が活性化するというふうなことを彼から聞いたことがありますけれども。  やっぱりそういうふうな知見を生かして子育てをする。特に、冒頭おっしゃった過剰な刺激を与えないということは、子供にとっては非常に大切なことではないかというふうに考えております。
  64. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 僕も、そこのところは難しくて分からないんですけれども、いろんな意味子供たち、学級崩壊とかいろんなことが言われていますけれども、そういうところでやっぱり集中力が高まっていかないわけですから、脳の発達というのも思うようにいかないのかなというような気もします。  今いろんな、先ほど僕は批判的に言ったんですけれども、九九の計算を九秒よりも三秒でできるようにとか、百升計算どうだとかというのが、一部でやっぱりそれは脳を発達させていくんだという脳科学上の知見が披瀝されていますけれども、それはそうだとしても、僕、すごく現場的な感覚でいいますと、それが競い合って、何か、け落とし合うみたいな感覚の中でそれが行われては心が豊かにならないんじゃないかなという不安があるんですね。  やっぱり、失敗しても許してくれるし、先生が温かくその失敗の中にある真実性みたいなのを認めてくれてきちっとフォローしてくれるとか、そういう安心感のある中でのやっぱり集中力とかいうものが僕は、それから刺激にしても、人間的な信頼に満ちた集団とか生活の中での刺激ということが重要なんじゃないかなというふうに、現場感覚で思いますけれども。
  65. 渡辺孝男

    ○渡辺孝男君 三歳神話という、先ほど神話じゃないというお話もありましたが、やはり母親が赤ちゃんにタッチングをするとか、そういう五感のバランスですね、そういうのがやはり大事なのかなと思いまして、余りにも視覚的な刺激とか聴覚的な刺激が過剰になり過ぎて五感のバランスが取れなくなれば、やはり心の問題にもかかわってくる、あるいは人格の、何といいますか、全体的な涵養にも問題が起きてくるんではないかということで、今までの教育的な、教育の分野での様々な知見にプラスして、やはり科学的な知見も合わせながら教育を推進していくことが大事なのではないかなというふうに思っております。  ありがとうございました。
  66. 山根隆治

    山根隆治君 学説を私拝見したということではなくて、自分の経験的な感覚の中でお尋ねを一つしたいんですけれども、子供教育について本当に親が教育にずっと携わるという前提での今それぞれのお話ですけれども、乳児のときはともかくとして、幼児からの教育ということについて、私はもう高齢社会の中にあって社会的な環境もかなりバックアップされるというふうに思いますので、祖父母による子供教育ということについてのメリット、デメリットというものについてどのようにお考えになっておられるのか、尾木先生と林先生にお尋ねしたいと思います。
  67. 尾木直樹

    参考人尾木直樹君) 僕は、この三世代家族というのは非常に大好きなんですよね。今おっしゃったように、祖父母と同居することによるメリットというんですか、それが非常によく出てくると。  特に、教師だとか母親、父親の子供への愛情というのはどうしてもやっぱり条件が付いてきます。例えば先生ですと、八十点クラスの平均が行ったらとか、あるいは生活の問題でもちゃんと校則を守れたら今度おやつを持っていくのを許してあげるとか、それから親だと、お母さん、百点取ってきたよなんて見せても、クラスで何人いるのと聞かれて、三十人と言うと何だとか言ったりとか。常にやっぱり他者との比較、それは親としての子育ての責任感から来ているんだというふうには思うんですけれども、条件付きの愛情というのが教師と親の大きな特徴なんですよね。  それに比べて、例えばおじいちゃん、おばあちゃんの愛情というのは、無償の愛情というかしら、なんです。だから、例えば孫が零点取ってきても、何だ、初めて零点取ったんじゃない、おじいちゃんなんか五回も取ったことがあるとか言って、あるいはちょっとぐらい悪さしても、子供のときはそんなもんだよ、けがしなかっただけいいよとか、そうやってして子供のある意味での逃げ場になっていって、子供から見たら、お母さんのそういう厳しい愛情もあるし先生の条件が付く愛情もあるけれども、無条件でこんなに許される愛もあるんだということを、いろんな多様な大人たちを見ることができると思うんですね。だから、そういう意味では、僕は祖父母の愛というのは、無償の愛というのは非常に大きいと思っています。  ところが、最近は変わってきたんですよ。つい最近なんですが、どうもおじいちゃん、おばあちゃんが元気がやたらいいんですね、最近。七十といったってもう現役みたいなパワーですので、元気がいいし、それから子育ての知恵も一杯持っています。それと、厳しい戦後を生き抜いてきたという自信もありますよね。しかも、お金までたくさん持っているんですよね。本物の親がかなわないんです、すべてのところで。  高齢者の方のところに講演に行きますと、すぐ挙手されて、孫の教育で何をすればいいんでしょうなんて質問が出るんですが、口を出さないことだと言うと若いお母さんたちから拍手が起きるぐらいの感じがありましてね。やたら口を出していくと条件付きになってくるんですよ。条件付きの愛情をやっぱり出していくと、おじいちゃん、おばあちゃんでも刺されるようになるんですね。僕の持論としておじいちゃん、おばあちゃんは刺されないと思っていたら、最近命をなくすおばあちゃんまで出てきたりしているというのは、どうも質が変わってきたというふうに思っています。  以上です。
  68. 林道義

    参考人林道義君) 私は、かねてから、祖父母の力というか、祖父母が子供に持っている意味は大変大きいということを主張しておるものでございますが、おばあちゃんだけやり玉に上げると悪いんですが、えてして、非常に猫かわいがりで干渉的になるという面は確かにありますですね。もう二十年か三十年前に余り干渉的なんで高校生の子供から刺されてしまったという、殺されてしまったという不幸な事件さえありました。あれはもう過干渉が明らかに原因でしたですね。  そういう問題点はもちろんありますけれども、全体として見ますと、今、尾木さんのおっしゃったとおりだと思いますが、おじいちゃん、おばあちゃんの一番いいところというのは、その民族なら民族に特有の文化を伝えるということにおいて非常に適していると思いますですね。お父さん、お母さんはどうしても忙しいですから、勉強しっかりせいとか、きちんと礼儀正しくしなさいとか、そういうことももちろん必要なんでそういうことも教えなきゃならないんですけれども、そういうことに、中心になってしまいますから、もう少し情緒的な面とか宗教的な面とかそういった面において、いろいろな昔からある行事をやったり、その意味を教えたり、そういった面で心を豊かにするようなそういう影響というのは、そのつもりにならなきゃもちろん駄目ですけれどもね、そういう問題意識を持っているおじいちゃん、おばあちゃんですと非常に良い影響を子供に与えることができると思います。  このごろ一緒に住んでいる方が非常に少なくなってきておると、非常に残念なんですけれども。でも、夏休みなどに田舎に帰って、そういう七夕だのお盆だのというような行事を一緒にしながら、そういう中で、その持っている意味とか、御先祖様が帰ってきて迎え火だよなんというようなことを一緒に体験するということは非常に大事なことだというふうに考えておりますです。
  69. 勝木健司

    会長勝木健司君) 他に御発言はございませんか。  それでは、以上をもちまして参考人に対する質疑を終了いたします。  林参考人木村参考人及び尾木参考人には、御多用の中、本調査会に御出席をいただき、誠にありがとうございました。  本日お述べいただきました貴重な御意見は今後の調査参考にさせていただきたいと存じます。本調査会を代表して厚く御礼を申し上げます。  ありがとうございました。(拍手)  本日はこれにて散会いたします。    午後四時六分散会