○
参考人(
佐藤友美子君) はい。
かなり違いが見られます。
大体上の二つの
世代というのは人のためとか大義名分とかそういうものを大事にした
世代でございまして、
昭和三十年代生まれぐらいから大きく変わってきております。そこに
一つの大きな断層があるという問題と、それから、徐々に
選択肢が増えておりまして、その
選択肢の増える中でいろいろな迷いというものが生じているのではないかというふうに思っております。
それと、大体大きくはそういうことなんですけれども、じゃ、その豊かな
時代の新しい
世代の台頭というのは古い
世代といかに違うかということを少し考えていただきたいと思います。
実は、旧
世代と言われるのは進歩とか発展の中で育った
人たちでして、新しい新
世代というのはもうそういうものが既にもうでき上がった
時代に生まれた
人間だというふうに考えていただくと分かりやすいと思います。そうすると、旧
世代に属する
人たちというのは、私も含まれると思いますが、
欠落感から豊かさを志向していたと思いますが、今の若い
人たちはもう既にそういうものがあるというところからスタートしております。その中で、もう外に
目標を求めるのではなく、
自分の中に
目標を求めるという
傾向が顕著でございます。
それと、上の
世代は、やはり努力したら幸せになれると、実際
日本はこれだけ繁栄したわけですから、その
幸せ観というのを持ってずっと暮らしておりますけれども、若い
人たちは先がそんなふうに明るいとは思っておりませんので、どちらかといえば今を楽しみたいという享楽的な
傾向が出ております。
それと、
目標達成という、
目標があったからこそ
達成感もあったわけですし、手続というものも大事にしてきたわけですが、今の若い
人たちはもうそういうものは既に
お金で手に入るという
状況の中で暮らしております。何にこだわるかというと、
自分が
気持ちがいいというものに対して価格とか全く
関係なく手に入れるというような
状況が生まれております。
上の
世代というのは子供扱いされて
随分家の中でも大事にされていないと思うんですが、それに比べて今の若い
人たちは、子供部屋もあるように、子供が主役という
状況でずっと育っております。その中で、保護されるのが楽だというような
気持ちもあって、パラサイトシングルなどという
言葉がもてはやされておりますように、結婚するとかそれから外に出るというようなことがないような
人たちもたくさん増えております。
上の
世代はどちらかといえば世間の評価というものをもって
自分の軸というのを決める
傾向にあったと思いますが、若い
人たちは
自分らしさをいかに表現するかというところに重きを置いているように感じられます。
こういう大きな違いがあるわけですけれども、この中でいろいろ
問題点も実は起こってきております。
例えば、上の
世代は、
自分が意識するしないにかかわらず、例えば家族が多いから我慢しなければいけないとか、
社会に貧富の差があるとか情報がないとか、いろいろそういうことがあったわけですけれども、もう今の若い
人たちは一億総中流と言われてから生まれているようなものですから、差がない
状況の中で暮らしています。その中で、いろいろ
学校などでも問題になっているいじめとかもございますように、想像力、人の
気持ちを察するとか、それから全体を見る、これは情報化の中で
自分の必要なものだけが手に入るような
状況の中でずっと暮らしておりますのでバランス感覚がないとか、それから、言われたことはできるけれどもそれ以外のことはできないというような応用力を失った面というのがあるのではないかというふうに思います。
それともう
一つ、最近、成人式なんかでも非常に話題になりますように、
社会の中の
自分という感覚というのが大分変わってきているのではないかというふうに思います。
本の方には細かく書いているんですけれども、どちらかといえば、モバイル、もう情報機器を持って
自分の
社会をそのまま外に持って歩いているような感覚、友達との感覚も同質の
世代、
人たちが集まってその中で仲良くやっているだけで、
社会というものとはかなり隔絶した
状況の中にいるのではないか。その中で、時々
社会の方がその
人たちに対して注意を与えたりすると切れるとかむかつくとかいうような、
自分の
社会からそういうものを出そうというような、そういう
動きになっているのではないかというふうに思います。
このパブリックの
意味というのが変わってきたということは、もう大きくこれからの
社会を考えるときに考えないといけない条件ではないかというふうに思います。
こんなふうに
世代が大きく変わってきておりまして、
ライフスタイルを考えるときに、じゃ、今の
人たちは何を考えて暮らしているんだということを考えないといけないわけですが、これは若い人だけでは必ずしもなくて全体の
傾向としても言えるのではないかと思いますが、上の
世代が、例えば
日本的に言えば晴れと褻というような言い方がございますように、非日常と日常というところのギャップの中で暮らしているのに比べますと、もうそういうものは日常の方にぐっと寄ってきておりまして、異日常というふうに私たちはちょっと
言葉を作っておりますけれども、日常だけどちょっと違うというような、日常性があるんだけれども少しふだんと違うというような、ずらした感覚というものに興味を持っているというか、満足感を得ているのではないかというふうに思います。
物はたくさんあってももう満足できなくて、その物が提供する
気分だとか、それからそれによって
自分が豊かさを感じられる時間だとか、
自分がちゃんと居場所があるだとか、そういうものに対して非常に興味を持っているのではないか。多分、これが市場の変化という形でいろいろ現れているのではないかというふうに思っております。
それと、
人間関係にも大きな変化がございまして、組織から個人へということはかなり顕著になっているのではないかというふうに思います。
これは
企業社会にいると非常にはっきり分かりますけれども、縦という
関係で
企業は成り立っておりますが、それではなかなか動かなくなってきております。一人一人の個人としていかに評価されるかというようなところにみんな
気持ちが行っておりますし、それから、若い
世代は特に、オン・オフで切り替える、仕事の時間とそれからプライベートの時間をはっきり区別を付けて暮らしたいというような
気持ちがございます。
それから、ユニット感覚というのも、今までの私たちの感覚でしたら、非常にアナログ的な
人間関係の中でネットワークができてそれで物が動いている、組織が動いているような
状況があったと思いますが、今は一番最適な条件での組合せというもので
動きたいというふうに若い
人たちは思っておりまして、これは日常的な
生活においてもこういう
動き方というのは顕著になってきております。
生活、
価値観、全体で言いましても、公というものよりは私というものに興味が行きました。今、そこの極限にもしかしたら行っているかもしれませんけれども、その中で、
社会の中の私というものを位置付けるということがこれから重要な、
ライフスタイルを考える上でもポイントになってくるのではないかと思っています。
そのときにやはり考えなければいけないのは、今までのように
経済の視点だけではない、
経済の物差しではない物差しというものをいかに私たちが持てるかというところなのではないかというふうに思います。
なかなかこれは
企業で今リストラなんか起こっていますと口で言うのは易しいんですが、どれだけ働いてどれだけ会社のためになってくれるんだということになりますけれども、実際、
生活者の視点で見てみますと、やっぱり仕事とそれから家庭とそれから
自分自身の時間というもの、三つぐらいはやっぱり持てて、そのそれぞれの中で満足感が得られなければ生きている
意味がないといいますか、そういうところに来ているのではないか。
最近、子供たちの不登校の問題とかいろいろなっておりますけれども、そういうのも実は、この一本の物差ししかなかった、
経済の物差ししかなかった。まだいまだにそういう
傾向はありまして、いい
学校、いい就職をするために塾通いの子供さんたちもたくさんいらっしゃるわけですけれども、そういう塾というものをやっぱり考え直して、バランス良く生きられるというのが実は豊かな
時代を生きることなのではないかというふうに思っております。
選択肢はたくさんあるわけなんですけれども、どうも若い
世代の迷いとかを見ていますと、選択することができていない。なおかつ、これは非常に問題だと思うんですが、上の
世代が
選択肢をそんなたくさん持った
時代を生きていないので、なかなか子供の
教育という面で難しい
状況があるのではないか。そういう
意味では、
日本の中で、今の
世代間の
関係性だけで解決できる問題ではなくて、もう少し
制度としてそういう
考え方を取り入れるということが必要なのではないかというふうに思います。
これから、じゃ、若い
世代のことを考えたときに、若い
世代が何を訴えているのかということ。なかなか若い
人たちは政治のところにも出てきませんし、選挙にも行かないような
状況ではありますけれども、若い
人たちが今やっていることの中には、豊かな
時代を生きるヒントが実はたくさんあるのではないかというふうに思っております。
将来のことを考えてどういうことをやっているかということを中心に今日はお話ししたいと思いますけれども、フリーターというのが非常にたくさんいるということはもう
皆さんよくお聞きだと思いますけれども、フリーターだけではなくて、閉塞感のある
社会に出ないためにいろいろ若い
人たちは考えております。
ここに書いておりますように、例えば留学するというのも、昔のように語学を頑張ってやって、
日本に帰ってきて何か大きなことをしようというのではなくて、取りあえず
日本のこの閉塞感から数年間抜け出して、割と楽しい
生活ができるんじゃないかというような軽い
気持ちの方もたくさんいらっしゃいますし、大学院というのも、必ずしも専門を非常に極めたいというよりは、就職先の場所のような形で行われていることも多々ございます。
それから、資格取得というのもそうなんですが、専門
学校に行っているのが、大学を卒業してから専門
学校に行くという人がたくさんいるんですが、多分、かつてでしたら、最初から専門
学校に行くとか、ある
程度就業経験があって、必要だから行くというようなことがあったと思いますが、今は、取りあえず試験を受けるということを言っておけば親も満足するというか、取りあえず留保されるということで行くようなこともございます。
それから、問題になっているフリーターです。
これは、
学校によっては、もう半分ぐらいが高校を出てフリーターになってしまうというような
学校もあるようです。こういうのは必ずしも、マイナスの部分はもちろんありますけれども、今までの卒業して就職するという従来型のベルトコンベヤーに対するやっぱり拒否感というものがあると思うんです。もう少し迷っていたいという、そういう
気持ちというのが表れているのではないかと思いますので、逆に、それは必ずしも悪いことかどうか分からないというふうに私たちは感じております。
従来でしたら、
目標があったわけですから、ベルトコンベヤーに乗っていくのが正しいというのはそれはそれなりの説得力があったわけですけれども、今、
目標がない
時代にあって、一人一人が
自分の
目標を決めなければいけないときには、やっぱりそういう迷いの時間というのは当然必要なのではないかというふうに思います。
ただ、問題もございます。
この①に根拠のない自信というふうに書いてありますが、若い方の中には、本当に勉強もしていないけれども司法試験を受けるというようなことを言っている人とか、努力はしないけれども何か面白いことができるんじゃないかと、そういう割と安易な、できる
可能性だけを持っているような人はたくさんいますので、それはその思い込みというのをやっぱり一回は、つぶすと言っては言い過ぎかもしれませんけれども、反省して、
自分を見詰めるような機会というのは作っていかなければいけないと思います。
それから、迷いの時期というものをフリーターという形で今は言っているわけですけれども、本当にそれでいいのかと。逆に言えば、そういう時期というのを容認してしまうというのも
一つの
やり方ではないかというふうに思います。これは、イギリスなんかではギャップイヤーと言われて、この前、チャールズ皇太子もそういう
制度を取られましたけれども、高校を卒業して、大学入学資格を取ってから、一年間遊学するような、そういう期間を設けているようなところもございます。直結で行くのが普通というような
価値観をひとつ変えてみるというのも
一つの手ではないかと考えております。
それから、
社会経験を評価する
仕組みというのも大事ではないかと。一直線に行くのではなくて、就業経験を経てから大学に行くと。スウェーデンの場合などは、これをちゃんと大学の入学の評価にも入れております。やっぱりそういう、それは逆に言えば、大学にただ親の
お金で行くのとは全く違う効果が、もしかしたらその大学の
教育の現場で行われる
可能性というのも有しているのではないか。
それと、なかなか
日本の場合は、失敗したりとか一回フリーターになってしまうと立ち直れない、失敗に対して非常にシビアな
社会ですけれども、やっぱりその失敗を評価していくような、迷いを評価していくような、そういうリターンマッチが許されるような
状況というのも作っていかないと実はいけないのではないかというふうに思っております。
このように閉塞感のある
社会に出ないわけですけれども、閉塞感のある
社会ですけれども出ようという
人たちがたくさんそれはおります。この方たち、若い
世代百人ばかりにいろいろヒアリングをしました結果、どの方も異口同音にサラリーマンにはなりたくないという表現をなさいます。それは、労働者、例えば時間を売って
自分の成果が見えない仕事をしたくない、もっと
自分で管理できて
自分の努力とか能力というものがちゃんと仕事の上で反映されるような仕事をしたいということを言って、それが一部フリーターのように見えているところにもかなりいらっしゃるのではないかと。
目標をはっきり持った方というのは、実は今の
社会でも非常に努力もしていますし、頑張っているなというふうに思いました。その中には、専門職、例えば看護師さんだとかお医者さんだとかいう人もいますし、それから職人さんという
人たちの中にもそういう
人たちがたくさんおりました。それから、Iターンでも、今言われていますように、農林漁業の世界にもそういう若い
人たちが今たくさん入ってきております。それから、アートの世界、芸術文化の世界にも同じようなことが言えると思います。それから、
地域のやっぱり
活性化というところにも入ってきているのではないかと。この
人たちの仕事というのは、
自分のやったことが目に見える形でコントロールできる仕事だという評価、これは実は非常に豊かなことなのではないかというふうに私などは考えております。
そのときに、やっぱり幾つか問題があるのではないかと。
例えば、職人になりたいといってもなかなか
日本の場合、職人自体がまだ今難しい
状況にある中で、入っていけない。ただ、京都伝統工芸専門
学校のように、非常に伝統工芸の
社会で実力のある
人たちを先生に迎えているような
学校も少しずつは出てきておりますので、そういうものも
一つですし、それからワーキングホリデーのような、先ほどもちょっとお話がありましたけれども、Iターンで最初からもう覚悟を持って農家に来いということではなくて、もう少しトライアルをするような
仕組みというのがいろんな分野であってもいいのではないかというふうに思っています。
それから、多様な就業
形態。これは林業なんかでもそうなんですけれども、三百六十五日働かなくてもかなりの部分が兼業的にいけるという分野がございますので、例えば林業と家具作りのようなものをセットにするだとか、それから、ヘルパー
制度というようなものが農家なんかでも出てきていますように、やっぱり休暇が取りやすいような
制度にするとか、そういう形で多様な就業
形態を担保することによってより就業しやすくなるのではないかというふうに思っております。
それと、一番問題なのは、こういう若い
人たちが意欲的に新しい分野、古くて新しい分野と言った方がいいかもしれません、そういう分野に行こうとしているときに、なかなかこれが
経済的に難しい
状況にあるということです。例えば、年間二百万ぐらいの収入にしかならない場合もありますし、文化芸術分野ではもっと厳しい
状況にあると思います。こういうものを実際は産業としてちゃんと
活性化しないと、フリーターのままきっと終わってしまうと思うんです。
ただ、今豊かな
時代というのは、実はこの
人たちが今食べられないところが産業化して初めて豊かな
社会と言えるのではないか。例えば、文化なんかでいいますと、男性はほとんど演劇とか音楽とか行かれなくて女性だけが行っているような
状況ですけれども、こういうところに男性、
国民の半分が行くようになれば多分ロングランということも可能でしょうし、美術館だってもっと人が来るし、絵だってもっと買ってもらえるかもしれない。林業なんかもそうで、外材の安いのを買って
経済的に安いからということで家を建てるのではなくて、国産材を使ってやっぱり豊かに、
自分たちの国の中でできたものを使うという意識改革があって、そこが産業化すれば、逆に言えば、十分食べていける、すごいもうかることを意識しなければ、
生活としてはやっていけるような
状況というのがあるのではないか。これをやっぱり産業化して、ちゃんと認めていくというのが若い
人たちに夢や希望を持たすことなのではないかと。その
辺りが今、現状では食べられないところに参入するということに対して非常にシビアな評価をしているのではないかと。やっぱり少し長い視点というのを持つ必要があるのではないかなというふうに思っております。
実は、
交流ということなんですけれども、
交流というのはこういう場で実は生まれるんだと。今御紹介させていただいたこの二つの事例の中に、実はたくさんの
交流の機会というものがあるのではないかと。
交流というのは上の
世代が何か下の
世代に教えたいというところで
交流が多分多く考えられがちなんですけれども、若い
世代、二十一世紀を担う豊かな
時代に生まれた
人たちが望んでいるところに私たちが一緒にやっていくことというのが実は
交流が始まるきっかけなのではないかなというふうに思っています。
この
辺りは後でまた御質問があったらいろいろな事例を御紹介したいと思いますが、最後に、
交流のスタンスということで少し、これはかなり情緒的な
言葉になっておりますけれども、書かせていただきました。これは、箱を作っても魂入れずということがよくあったように、
交流の設備はたくさん今もあると思うんです。
仕組みもたくさんあると思うんですけれども、実際、そこに大事な要素というのが幾つかあるのではないかというふうに思っております。
若い
人たちはやはりかなり情報検索能力もあって、テーマ性というのを重視して
自分の趣味、嗜好にこだわっておりますので、共通のテーマというものをちゃんと立案できているかということと、それからみんなが引かれているのは志なんですね。
お金をもうけたいとかじゃなくて、認められないけれどもこれにこだわるような、そういう志に引かれている
人たちがたくさんおりますので、そういうものを持った
人たちがそういう
交流の
仕組みの中にちゃんと入っているかどうかということと、それからこれは大人から一方的に言うのではなくて影響し合う
関係というものがちゃんと存在し得るか、これも非常に大事なんじゃないかと。一緒に
交流することによって、若い
人たちが大人
世代の情報を得るだけではなくて、上の
世代にとっても非常に新しい
時代の変化に触れる機会を持ち得るのではないかというふうに思っております。
この
辺りで、今日の
世代間
交流と新たな
ライフスタイルということで、私の御
報告を終わらせていただきます。