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公述人(加藤正之君) ただいま紹介されました加藤でございます。
本日は、公述の
機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。お
手元に配付されております私の
レジュメに沿って
意見を述べさせていただきます。
日本国憲法の
平和主義と
安全保障について。
私は、被爆地広島に住み、被爆者とともにノーモア・ヒロシマを願う市民として
意見を述べていきます。
私は、
日本国憲法の唱える
平和主義、すなわち、政府の
行為によって再び
戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が
国民に存することを宣言し、この
憲法を確立するとの基本原則を支持します。
したがって、国是である非核三原則を堅持するのは当然のこと、いかなる国の核保有にも反対、つまり非核・中立の
立場を
日本国が表明し、国の基本政策としていくことこそが国の安全を保障する根本であると思います。
一、被爆者の心と願い。
私は、広島の被爆者
たちと様々な話合いをしてまいりましたが、その中で、「国破れて山河在り」で始まる
中国の詩人杜甫の「春望」がよく話題になりました。長安の都は破壊されたが、山と川は変わるところは何もなく、「城春にして草木深し」と続くあの漢詩のことであります。
しかし、八・六広島、八・九長崎は違いました。原爆投下によって
戦争の様相は一変し、国破れて山河消えの
脅威を現実のものにしてしまいました。核の炎は、人間のみならず山川草木や花鳥など、生きとし生けるものすべてを一瞬にして焼き殺し、あらゆるものを破壊し尽くしました。目に見えぬ放射能はその後も人間の体をむしばみ続け、今なお被爆者の体を痛め続けております。
究極の兵器である核が地球をすべての生き物が住めなくなってしまう自然環境に激変させてしまうことを広島、長崎は
犠牲をもって
世界に指し示すことになりました。
原爆の惨禍から生き残った被爆者
たちは、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ・ヒバクシャを叫びました。人類が核兵器の時代に入ってしまった今、三たび原爆投下を許してはいけない。
日本は核武装して
アメリカに報復してはならない。やられたらやり返せの核
戦争を仕掛ければ人類が破滅してしまう。人類と核、人類と放射能は共存できない。核廃絶こそ、人類を破滅から救い、生き残る
唯一の道であり、それこそが原爆で焼き殺された死没者の霊を弔うことに通じるのだという、人間としての心からの叫びの声であります。
私
たちは、
国民全体の被爆体験として、被爆者のこの心と願いを共有しなくてはいけないと思います。
二、被爆体験は
憲法の
平和主義に息づいている。
私
たちの前には、さきの
大戦を反省し、二度と
戦争を引き起こさないという決意の下に作られた
二つの基本ルールがあります。
一つは
国連憲章であり、いま
一つは
日本国憲法であります。しかし、この
二つには根本的な違いがあります。
我ら連合国の人民は、我らの一生のうちに二度までも言語に絶する悲哀を人類に与えた
戦争の惨禍から将来の世代を救いとうたう
国連憲章は一九四五年六月に制定されましたが、このときにはまだ
世界は広島、長崎を経験しておりません。一九四六年十一月に公布された
日本国憲法は、政府の
行為によって再び
戦争の惨禍が起こることのないように決意しとうたっております。
国連憲章が、
戦争に反対しながらも最終的には
武力による
正義、すなわち軍事的
安全保障という
考え方を取るのに対し、
日本国憲法は、
正義の
戦争はあり得ない、すなわち非軍事
安全保障をうたっております。この違いは一九四五年八月六日と九日という人類史の記憶に残さなくてはならない日付を経験した上での基本ルールか否かの違いにほかなりません。
核兵器の時代に入ってしまった今日、軍事的
安全保障では際限のない核軍拡に走ってしまい、核の
脅威から人類を救うことはできません。核
戦争に勝者も敗者もありません。国敗れて山河消えの破壊され尽くした地球環境をもたらすだけであります。
日本国民全体が共有した
唯一の被爆体験国としての英知が、核廃絶イコール核と人類は共存できないという理念を
日本国憲法の根底に埋め込んだのであります。
この非核、非軍事の平和理念は、
国連憲章が超えようとして超えられないまま今なお戦火をなくすことができない
国際社会に対し、核も
戦争もない恒久平和の道しるべとして
世界に提示し、この先見性と理念に誇りを持って絶対に堅持すべきであります。
三、NPT
条約では核拡散を防げない。
いわゆるNPT核不拡散
条約は、冷戦期の米ソ超大国の意向で作られました。既に核兵器を保有していた
アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、
中国の核保有を認めた上で、これらの国以外に核が拡散しない方が
世界はより安全になるという仮説を
前提にした
条約でした。
しかし、
世界の大半の国々は、核兵器の使用を阻む
唯一絶対的保障は核を完全に廃棄することによってしか得られないと確信していました。その確信は、NPT六条の核軍縮、七条の
地域的非核化
条約の項目に盛り込まれています。他の国々に核兵器の権利を放棄せよと説得するには、五大核保有国が新たな核を作らない、保有する核兵器も最終的には廃棄すると約束して初めて説得力、
実効性のある
条約となるはずでした。
ところが、このような約束は結ばれることもなく、それどころか、五核保有国は自国の核開発を強めるばかりで、NPTに対して極めて不誠実でした。
加えて、安保常任理事国でもあるこれらの国々は、
冷戦下にあって、敵の敵は味方、味方の敵は敵といった軍事の論理で核拡散に手を染めてきました。パキスタンのカーン博士は、核兵器開発に必要な部品は
世界から買い求めることができた、もしある国が拒んでも別の国から買うことができた、実に簡単なことだったと証言しています。さらに、ソ連のアフガン侵攻のときには、ソ連と敵対
関係にあったパキスタンを西側
諸国が援助し、パキスタンの核疑惑には目をつぶったのです。
NPTが成立した七〇年以降、インド、パキスタン、イスラエル、南アフリカ、最終的には核兵器を放棄し、NPTへ核非保有国として参加、そして恐らく、
北朝鮮が核保有国となってしまいました。
このように、NPT
条約は、その目的とは逆に核の拡散をもたらしています。
五大核保有国は保有可能な核兵器を保有し、さらに
国際的監視下にも置かれないまま核関連物質を続けています。
他方、非核保有国だけウラン、プルトニウムなど核関連物質を
国際監視下に置くというのでは余りにも身勝手、差別的であります。
一部の国々が合法的に核を保有し、それに伴う利益を確保している限り、同じシステムにあるほかの国々も同じように核を保有したいとの誘惑に駆られるに違いありません。そして、その国を強圧的に大国が封じ込めようとするとき、
世界に再び悲惨な
戦争やテロの嵐が吹き荒れることになりかねません。
四、
北朝鮮の核兵器開発について。
私は
北朝鮮の核兵器開発に絶対反対です。
拉致を始め数々の不法
行為は許すことのできないものでありますし、核兵器開発を強行あるいは続行することは人類の存続を脅かす蛮行であると同時に、
北朝鮮にとっても
国際的孤立を深めるばかりです。
しかし、
北朝鮮に核兵器開発の断念を迫るのであれば、五大核保有国は自らの核開発を中止しなければ説得力はありません。そして、我が国としても、国の安全上、
北朝鮮に中止を求めるのは当然でありますが、五大国を始め核保有国に対しても核兵器の即時廃棄と開発中止を迫っていかなければ、
北朝鮮への説得力はゼロに等しいと言わざるを得ません。
また、
アメリカが昨年十二月に発表した大量破壊兵器の不拡散に関する新戦略、いわゆるブッシュ・ドクトリンについて、私は、核兵器の危険性を本気で長期的に抑えようとする意思が感じられず、
世界の国々に心から支持されるかどうか疑問に感じます。
この戦略を要約すれば、核兵器そのものが問題なのではなく、独裁
国家やテロリストがそれを保有することが問題であり、この危険を取り除くには先制
攻撃もその政権の打倒も辞さない。一方、
アメリカ自身は大規模な核兵器庫を更に近代化させていくといった内容のようです。
私は、次のように
考えます。
核兵器、核関連物質や核技術、専門知識が
世界的に蓄積されればされるほど核拡散の危険は高まります。たとえ核兵器がなくなったとしても、核関連物質が存在するだけで拡散は進む危険があります。
それよりも、まず核兵器を廃棄し、その上で核関連物質を
国際的監視下に置く方がはるかに簡単で現実的であります。
世界唯一の被爆国として、
日本こそこのような
国際的合意形成と枠組み作りのイニシアチブを発揮すべきだと
考えます。
五、非核・中立イコールいかなる国の核兵器にも反対を明確に。
ここで、
日本国憲法の
平和主義のバックボーンである非核・中立の理念について私の
意見を述べてまいります。
まず、国内にあっては非核三原則や非核自治体宣言など、非核の国
日本を徹底させていく。対外的には、五大核保有国やインド、パキスタン、イスラエル、
北朝鮮に対し核兵器開発の中止を申し入れ、核兵器の全面廃棄を要求していく。
このように、
世界唯一の被爆国として、いかなる国の核兵器、核開発にも反対との
立場を表明すること。この姿勢こそが全
世界の国々を説得し、支持を受けるに違いありません。ひいては、我が国の安全を根本的に保障していくと
考えられます。
しかし、残念なことですが、我が
日本国政府はこのような方針から大きく外れてきています。
国連総会では核兵器の使用
禁止決議を何度も採択していますが、
日本政府がこの
決議に賛成したのは一九六一年だけで、一九八〇年と八一年に反対し、あとの二十回は棄権しています。あの五十八年前の惨禍を
日本政府はいかに教訓とし、いかに
国民の生命を守ることに生かしているのでしょうか。
また、自衛のための核兵器を保有することは
憲法の
禁止することではないとする政府見解も大問題であります。このような
日本政府の態度及び見解は、
世界の平和と安全は最終的には核兵器の抑止によって保たれているとする核抑止論を容認しているからにほかなりません。
しかし、核は人類と絶対に共存できないのです。核抑止論、すなわち必要悪的核容認論では核廃絶に近付くことはできません。私は、四十年前、
部分的核実験停止
条約をめぐって原水爆
禁止運動が分裂し、その後の原水禁運動に取り返しの付かない影を落としていった不幸な
歴史を思い出します。この
条約では地下核実験が除かれていたため、核軍縮にどれだけ役立つか疑問でしたが、それ以上に不幸であったのは、社会主義国ソ連の核実験には反対すべきではないという主張が持ち込まれ、大混乱に陥りました。ソ連の赤い死の灰は許し、
アメリカの死の灰には反対という主張と、いかなる国の死の灰にも反対という主張が衝突して、当時盛り上がりを見せていた原水禁運動は深刻な影響を受け、全
国民的
課題であるはずの核廃絶の運動に亀裂が入りました。
核
戦争の被害は、主義主張に
関係なくすべての人間に降り掛かります。私は四十年前の悲しい記憶から、非核はすなわち中立でなければならない、いかなる国の核兵器に対しても等距離イコール中立を堅持してこそ
正当性を主張できると
考えます。
したがって、
世界に緊張
関係をもたらしている現在の
北朝鮮の核開発に対し、その中止を強く要求すると同時に、
アメリカの小型
戦術核の研究開発の最近の
動きに対して中止を申し入れるべきです。
北朝鮮の放射能は我慢できないが、
アメリカの放射能には目をつぶるというダブルスタンダードの態度では、
国際社会の支持も信頼も得ることはできません。緊張が高まっている今こそ、
日本国憲法にうたう
平和主義とそのバックボーンである非核・中立の真価が問われています。
六、二十一
世紀を
戦争の
世紀ではなく環境の
世紀に。
冷戦終結で米ソの核
戦争の危機は遠のき、軍事的緊張と負担から解放されていくのではと、私
たちは二十一
世紀を明るい希望で語ろうとしました。また、持続可能な開発を合い
言葉に、地球サミットで宣言されたアジェンダ21に盛り込まれている地球環境の諸問題、オゾン層、砂漠化防止、大気汚染防止、地球温暖化、森林保全、人口問題、貧困の撲滅等々に本格的に向き合っていく期待が膨らみました。
しかし、その希望と期待はしぼみ、軍事一色の
世界に様変わりしたようです。特に、九・一一同時多発テロ以降、
アメリカのブッシュ・ドクトリンによって殺伐とした社会になってきました。圧倒的軍事力を背景に、先制
攻撃と一方的軍事
行動に支えられた
単独行動主義の
外交に対してどのように付き合っていけばよいのか、
諸国は問われています。
日本とて例外ではなく、
日米同盟の軍事的
側面が先に走っていくような方向は望ましいことではありません。大量破壊兵器の廃棄やテロ撲滅も、さらに地球環境の諸問題にしても、はっきりしていることは軍事力優先では
解決しないだろうということです。
国同士が軍事的
安全保障イコール軍備で対峙し、
紛争解決の最終
手段として
戦争に訴えるという時代は過去のものです。そのことは、これまで述べてきましたように、八・六広島、八・九長崎の被爆体験が明らかにしていることであり、核やミサイルで地球環境問題は決して
解決できません。
私は、
日本国憲法の
平和主義の理念、非核・中立と非軍事の
安全保障の原則は、二十一
世紀を貫く平和理念として堅持していかなければならないと思います。
これからしばらく
アメリカの一極構造ともいうべき時代が続くのでしょうが、そのときに、軍備は最小にしかつ
国際協調の話合いを基本にした
諸国の安保
外交が重要だと
考えます。
私は、国の
安全保障は、つまるところ
諸国から信頼され、尊敬される国づくりにあると思います。
国際的に通用する
言葉で理念を語り、誠実に
行動することが軍備を超える
安全保障につながっていくと信じます。
以上です。
御清聴ありがとうございました。