○
参考人(五百
旗頭真君) ありがとうございます。
二人の尊敬する大先輩であり賢者である方とともにお招きいただき、大変光栄に存じております。
私は
歴史家でありますので、この第九条にまつわる
歴史を振り返りながら
議論をしたいと思います。ただ、
歴史の話やり始めますと一晩掛かっても尽きないほどございますので、幸い配付していただきました参考資料にそうした
歴史的経緯はかなり詳しく明快に書いておりますので、詳しくはそちらを御参照いただいて、結論的なところをかいつまんで申し上げたいと思います。
まず第一に、第九条は、
自衛を含むすべての
戦争放棄という徹底した
平和主義を装いつつ、その実、
自衛戦争を可能にするよう工夫を凝らした条項である。これは出生の経緯として資料的に明らかになってまいりました。
マッカーサー三
原則というのを一九四六年二月三日に民政局の幹部に渡されたわけですが、その第二
原則は平和条項でありまして、その中で、マッカーサー自身かホイットニーが書いたのか、どちらであるかは筆跡上明らかではありませんが、
国際紛争解決の手段としての
戦争だけではなくて、
自国の生存のための
戦争をも
放棄すると、明白に
侵略戦争と
自衛戦争の
双方を
放棄するということをマッカーサーがこれだけは譲ってはならない
三つの
原則の
一つとして下賜したわけであります。
しかるに、それを受け取りましたケーディス民政局次長は、七つの分科会を作って各条項を一週間余りで用意いたしましたけれども、この第九条になるものについては分科会に任せていてもらちが明かないと
判断いたしまして、彼自身がこれを条文化いたしました。
その中で、マッカーサーの指示であった
侵略だけではなくて
自国の生存のためのという、その
自衛戦争の部分を削除するんですね。軍人でありながら上司の指示に逆らって修正を加えたわけでありますが、このことを私はクリントン大統領が当選したその日にマサチューセッツ州のケーディスさんの住んでいる自宅で二日間にわたるインタビューをして詳細に聞き、確認いたしました。
その話では、もし勝者が敗者に対しての
自衛権すら奪うという
憲法を強いた場合、そのことが占領
終結後、速やかに重大な欠陥として受け止められ、
憲法全体が廃止されるという危険を冒すのではないか、
国際情勢を見れば、必ずしも、この徹底した
自衛権すら返上するという
決定を
国際環境が祝福するとは必ずしも信じ難い、であるならば、より持続可能なものにするために
自衛の部分は外した方がいいというわけで、
侵略戦争のみを
放棄するものに第一項を書き改めたわけですね。それについて上に上げましたところ、マッカーサーと上司であるホイットニー民政局長はそれを了承したというところで、GHQのトップ三人においては既に了解がなされた。しかし、
日本側はそのようには
考えませんで、徹底した
平和主義、
自衛の
戦争すらも
放棄したものと、それでなければ許されないというふうな
認識を広く持ったわけであります。
そう思うのも無理がないのは、マッカーサーもまた、
自衛権すら
放棄するような徹底した
平和主義の
憲法的表明が望ましいという
判断も持っていたわけですね。だからこそ、彼は初めのメモに書いたわけですね。なぜならば、
侵略戦争を重ねて敗戦を招き、
世界に信用を失った
日本が
国際的な祝福を受けて復帰すると、それをマッカーサーはリードしたいわけですが、
国際的信用を回復するために、特に当時、
日本政府と
国民が広く望んでいた天皇制の存続ということを含む
日本の
国際復帰ということを可能にするためには、徹底した
平和主義が望ましい、
国際社会が最終的に何を嫌がるかといえば、もう一度
日本が刃物を持った
侵略的な
存在として
世界に襲い掛かることであって、その危険は全くないということを示すことが
日本に対する寛大な処置を可能にするんだという
判断をしていたわけで、そのためには、あたかも
自衛権すら
放棄したというほどの
平和主義に読めることは差し支えない、むしろ望ましい政治的
意味がある。しかしながら、それでは実際にはやれないので、厳密に読んでいけば
自衛は可能にする、
侵略だけを厳密に言えば
否定しているというふうにも読める、そうした工夫を凝らした条項であった、そういうふうに読める可能性をいわゆる芦田修正はより鮮明にしたと。そういうふうなことを参考資料の中に書いておりますので、見ていただければ恐縮、幸いであります。
三番目でありますが、
日本政府自身、
解釈をかなり振幅させましたけれども、鳩山内閣以降、第九条が
侵略戦争を
否定し
自衛戦争を許容するものであるという
解釈で、
日本政府に関する限り一貫しております。社会はそうではなくて、革新陣営、その中心である社会党は、村山内閣まで
自衛隊が違憲であるというふうにしてきたことは御承知のとおりであります。その
日本政府が
自衛戦争を許容しつつ
侵略戦争を
否定するという
解釈を取ってきた路線というのは、
冷戦下の
日本が
国際安全保障の大きな部分は
米国に依存しつつ経済
国家として復興し発展すると、それに没頭するという段階に適合的な対外
政策であったと言えようかと思います。
さて、
冷戦が終わりまして、
冷戦終結期に起こりました
湾岸戦争は、
日本は一九七五年にG7サミットに加わりましたし、
冷戦終結時には
世界のGNPの一五%を一国で占有する、
世界に二百余りの国があるというのに一国で一五%を占有するというとんでもない経済大国となっていたわけですが、そのようなグローバルな経済
国家となった
日本に、
侵略か
自衛かの二分法を超えた
国際安全保障への関与を問う
意味を持ったと思います。
敗戦国であり社会更生中であるとき、あるいは貧乏な
国際的影響力を持ち得ない
存在であるときには
国際的な
安全保障への貢献ということは余り問われない。しかしながら、こういうグローバルな経済大国であるということから、自分自身の
自衛かあるいは
侵略戦争かということを超えて、ある国が
侵略戦争を行った場合、
国際安全保障問題についてどう
考えるのかと、これがどう
考えるのかということがまず第一であり、続いてそれにどのような
役割を引き受けるのかということが問題になったわけですが、
日本は
侵略か
自衛かという
憲法神学の
議論に没頭していて、それに対する答えを機敏に打ち出すことができなかった。
しかし、その苦い経験から、こちらに
明石さんがおられますが、平和維持のためであれば
国連の下での
PKOに
地域的限定なく
自衛隊を派遣し得ると。
カンボジアPKOが最初の大きな営みとして行われたのは御承知のとおりであります。さらに、九・一一テロ
攻撃後、テロの脅威に対して極東周辺
地域を超えた
自衛隊の後方
支援活動が行われるようになったことは体験してきたところであります。
さらに、本日の朝刊を見ますと、有事法制ということが
実現することになった。ようやく有事に際して
国民を守る枠組みというのが制度化されることになったことは、大変、遅かったですけれども、なされるべきことがなされたと、国会の努力に敬意を表したいと思います。
以上のように展開してまいりまして、少しまとめますと、
安全保障、軍事活動は大きく
二つのカテゴリーがある。
一つは
自衛権にかかわるものであり、他は
国際安全保障への参画にかかわるものである。
自衛権については、
個別的自衛権と呼ばれる
日本自身の国土、
国民への防衛にかかわるもの。これについて、有事法制によって、超法規的決断という違法
行為を犯すことなく合法的に危機に対処する法制が作られることになったのは喜ばしいことであります。それから
集団的自衛権。米軍への
攻撃が
日本とその周辺で行われた場合に、これを共同対処するということでありますが、
日米安保条約にはこの
地域的な限定が付いておりまして、そのようなことが行われた場合には、
集団的自衛権が
権利としてあるが
行使しないというのではなく、
行使されるということが不可避であるというふうに
考えます。
日本の安全を全うするために来ている
アメリカ軍がこの
地域で何かをされた場合、これは
日本としてはできませんということであれば、安保
条約そのものを損なうことになるだろうと思います。
それから、他方の
国際安全保障の
側面でありますけれども、これについては今申し上げましたように、テロのような無差別大量殺りくが行われたことに対する
国際的な他国の
行動への後方
支援が行われること、そして
PKOが行われ、実施されてきたわけであります。
対処をする場合に、私のような
歴史を比較して見る者からいたしますと、
憲法改正論あるいは
立法論を
議論しているときにも、
日本人は、
憲法及び法的枠組みからそれを神聖な規範として協議する好みが非常に強いです。大事なことは、実態を見据えて何をなすべきかということについて理にかなった対処法を
考えることではないかと思います。そのためには、まず
国際環境とその変化を
認識するということが第一に極めて重要であります。そして第二に、
日本の安全と福利のために望ましい方策ということを
考える。そして同時に、三番目に、
国内的、
国際的な
正統性というものを十分に考慮すると。
日本の法規というのはそのような
国内的
正統性の一部をなすものだと思いますけれども、それを余りにも絶対枠組みとして
考えるために、実際を十分に見て効果的な対処法を
考えるというイマージナティブな考察ということが非常に弱い。したがって、一度でき上がった法制度というのを変えることは著しく困難でありますが、私は、
歴史家として、もし明治
憲法を大正デモクラシー時代に変える力が
日本政治にあれば、
日本は滅びなかったであろうと思っております。法規、前例に縛られて、できないできないというふうに金縛りになることを脱却しなければ、新しい時代の
国民的な利益と幸福を切り開くことは難しいと思っております。
そこで、どういうふうに第九条を変えるかという問題でありますが、第九条以前の
集団的自衛権という問題について、これは
解釈、適用だけで済む問題でありますが、
集団的自衛権を発動するかどうかという場合に
二つの問題が混同されている。慎重な考慮をもって適用するということが非常に大事だと一方で強調しなければなりません。しかし、それを必要な場合
行使するということは同時に確保されていなければならないと思います。
これは、
状況の中で、
正統性のレベルの高さ、例えば極端なことを言えば、
アメリカが挑発して
行動したという場合に、
日本は御一緒する義理はありません。しかしながら、
日本と
アメリカに対する重大な
攻撃が行われたというときに、法規
主義に立ってそれはできないとか
解釈が違うなどと言っていては
国民的な生存、安全を損なうということになりますので、
日本は賢慮をもって慎重に適用すると。そして、極めて
世界のいかなる国よりも
平和主義的な志向性が強いと。これを大事にしながら、二人の先輩の先生がおっしゃったとおりしながら、しかし必要な場合には
行動するということが必要であると
考えております。
二番目に、
国際安全保障の方でありますが、簡単に言えば、
国連憲章にありますように、加盟国は
侵略戦争はしない、万一だれかがそれを侵したならば加盟国みんなでそれを抑えるというのが基本的な
考え方でありますが、それが
侵略だけではなくて著しい
人権の侵害、ジェノサイドのようなもの、テロのような無差別殺りくのようなこと、それに対してもやはり適用されるというのが
国際的な
認識の変化だと思います。
アメリカの一
国主義の危険ということは、私もこの一年間ハーバード大学におりまして分からないではありませんが、しかしながら、安全を守るということの
国際対処の深化と、必要ということもあると。今
アメリカという国は非常に試行錯誤というか、あえて試みるという性格の強いところです。
日本人は継続と安定を非常に大事にしますが、
アメリカの場合には変化を好みます。新しい試みを非常に大事にします。プラグマティックであって、そのときにはやや極端に見えるんですが、やがて、変化が制度化されているだけに、また政治文化も変化を好むだけに、それが欠陥があると思ったら、四年後、八年後に違う、逆の方へ振るんですね。
そういう
意味で、
アメリカはもう
国連を捨てたなどと
考えるのは短見でありまして、現在は
国連では間に合わなかった安全のために激烈な
行動に見えることをやっている。しかし、
アメリカ人は目の血走った狂人集団であると
考えると絶対違います。極めて多様であって自由な
議論が行われているから、自律的な復元力を持った社会であるというふうに
考えておかなければならないと思います。
ともあれ、そういうふうな
侵略やジェノサイドが行われた場合に、
日本はその
国際的対処に我が事として参画すると、これがまず非常に大事な姿勢だと思います。
日本は、その軍事対処への直接参加には極めて慎重であります。しかしながら、事の重大性、それが
世界にとって、
日本にとって、
日本の安全にとってどれほど重大であるかという問題、それから事の経緯から
判断される
正統性、あるいはやられる側からすれば可罰性の明瞭さ、重大さ、そうしたことを
判断して、
日本は直接軍事
行動にも場合によっては参加し得るというふうにすべきではないかと思います。
特に私がそういうふうに言いますのは、御承知のような朝鮮半島の情勢が押し詰まってまいりました。私は大局的にはもうとっくに勝負があったと思っておりますが、北朝鮮を支持する国は一国もないわけで、大局は決まっているんですが、十対零で終盤を迎えながら、何をしでかすか分からないという妙な
状況であります。
北朝鮮も
米国もある種の瀬戸際
政策を用いる面があると。もし
アメリカが外科手術的な基地の爆撃というふうなことを行いますと、金正日の政権は屈服するか
戦争かというふうなところへ追い込まれます。
もし
戦争になった場合に、
日本はそこで何をすべきかというのは大変難しい事態になります。
湾岸戦争の比ではありません。
日本の安全そのものが次に自動的に上がってくるからでありまして、その場合に、後方
支援は当然でありますが、
戦争の起こり方にもよりますけれども、後方
支援は当然として、
自衛隊派遣の要請が
アメリカや韓国
政府から行われるかどうか、恐らくまだ行われることはないだろうと思います。でも、行われたらどうするのか。
そういう問題はやや蓋然性が少ないとして、その場合に
日本がどうしてもやらなきゃいけないのは邦人、外国人、被災者の救出活動ではないかと思います。これについて本格的な訓練、準備、少なくとも知的準備があるのかどうか、極めて重大な備えであろうと思います。
ともあれ、第九条の修正案といたしましては、先輩の先生方と余り違わないんですが、第一項を残して第二項を削除する。代わって第二項、つまり第一項によって
侵略戦争は
否定し、
自衛戦争はオーケーであるということが既に含意されております。したがって、第一項を残せば、
自衛戦争、
侵略戦争の
否定ということが出ておりますので、第二項には
国際安全保障に
日本が参画すること、今申し上げましたような
日本は平和的な手段の極みまで求める、そういう国柄であると。しかしながら、必要な場合、
国際的な安全、平和秩序のために諸国とともに
協力して貢献するということを第二項に入れるべきではないかと思います。
前文については申しませんでしたけれども、よい
日本語で、
国民の安全と
国際の安全、その平和的達成を望むが、あらゆる努力をするんだということをうたえばいいのではないかと思っております。
どうもありがとうございました。