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佐和参考人 お手元に配付されております資料を早口で棒読みさせていただきます。
なお、確認いたしましたら、傍聴席には資料が配付されていないようですので、もし御必要というふうにお感じであれば、後ほどメールなり郵便なりで御請求いただければお送りいたします。
私こと、
国立大学の教官を三十六年間続けてまいりました者といたしまして、また、アメリカの私立、州立
大学に合わせて四年間滞在し、
研究、教育に携わった経験の持ち主といたしまして、
国立大学法人法案につき
意見を開陳させていただきます。
私がアメリカの
大学で
研究、教育に携わったのは一九七〇年代のことですが、そのころ既に
日本の
国立大学の教官を務めておりました私は、日米の
研究、教育のあり方の間に横たわる溝の深さと広さに舌を巻く思いがいたしました。
アメリカの
大学教師は、あくまでも教育のプロフェッショナルであることを自覚しており、
大学院生は
研究することのみならず、教えることの訓練を十分に授かるようであります。昨今、民間
企業や官庁の専門的人材を
大学教員に採用するべきだという向きが少なくありませんが、半年あるいは一年間、起承転結が整い、しかも専門
分野の先端的
研究を踏まえた授業をすることは、その道のプロフェッショナルにこそできる仕事であって、皆様方が御想像なさるほど簡単な仕事ではありません。アメリカの
大学教師の授業の運び方の巧みさは、まるでアクロバットを思わせるほど見事であります。アメリカでは、教えることのプロフェッショナルであることこそが、
大学教師の第一の存在意義として位置づけられているようであります。
ところが、
日本の
大学ではどうなのでしょうか。大部分の
大学教員は、教育よりも
研究こそがみずからの使命であると心得ているかのようであります。そのため、自分の
研究上の関心に合わせて偏った授業をする人が多いようですし、特に人文社会系学部では、かつて森嶋通夫
先生がいみじくも御指摘なさったとおり、
日本の
大学教授は、教室で自説を展開し、学会で通説を語るという傾きが依然として強いようであります。
最初に申し上げたいのは、
日本の
大学での教育の現状を知る者からすれば、今回の
法人法案の
評価すべき点の
一つは、あるいは
法人化がもたらすものと期待される効果の
一つは、
大学教育の改善であります。その点についてまず確認しておいた上で、以下、
研究面での
法人法案のはらむ問題点について、私見を忌憚なく披露させていただきます。
先ほど、
日本の
大学教員は、教育を軽視する反面、
研究を重視するかのように申し上げましたが、
日本の
大学教員の
研究成果は国際的に見ていかがなものでしょうか。
世界の
大学を
分野別にランキングすることがしばしばなされております。序列の指標は何なのかというと、各
大学に所属する教員が過去何年間かの間に著した専門誌に掲載された論文数、または論文の総ページ数、あるいは所属する教員が著した論文の総引用回数であります。
こういう基準のとり方に問題があることは百も承知の上でのことですが、何はともあれ、そういう基準で
世界の
大学を序列づけすれば、百位以内に
日本の
大学が一校でも登場する
分野の数は、そう多くありません。個人として
世界の最先端に位置づけられるすぐれた
研究者は、それぞれの
分野に必ず少なくとも数人はいます。しかし、
組織の
構成員すべての
業績の集計量で見ると、
日本の
大学の序列は極めて低くなるのです。
ということは、教育のみならず
研究の面でも、
日本の
大学はいまだ発展途上の段階にあると言わざるを得ないのであります。この現状をある東京
大学教授は次のように表現いたしました。
日本の
国立大学は、どこをどう変えても今より悪くなることはない。
しかし、誤解のないようつけ足しておかなければならないのは、次の点であります。
日本の私立
大学もまた
国立大学と大同小異というよりも、
研究面に関する限り、私立
大学は
国立大学の後塵を拝しているというのが偽らざるありさまであります。
多少話が飛躍するようではありますが、
日本の
大学教員の
研究業績が総じて乏しいのは、国立、公立、私立などの経営形態に由来するのではありません。実際、アメリカの州立
大学の中には、私立
大学にまさるとも劣らない
研究業績を誇るところが少なくありません。
では、何が問題なのか。その答えは次のとおりであります。第一に、
日本における科学、学術
研究への社会的関心と
評価が、
欧米先進国のそれらと比べて、いささかならずいびつであること。その結果、科学、学術に対する国の出資といいますか、お金を出すのも非常に少ない。第二に、科学
研究費の配分の仕方が決してフェアでない。第三に、
日本の
大学の
仕組みが、教員に
研究、教育に没頭することを許さないこと、言いかえれば、
研究、教育の妨げになる雑用が多過ぎることであります。
さて、学術
研究の成果は、個人の能力と
努力のたまもの以外の何物でもありません。学者の
世界は、本来的に個人主義の貫徹する
世界なのです。もちろん、チームをつくって
研究することは、特に実験科学の場合必要ではあります。
研究チームを構成し
組織的な
研究を推進するのは、あくまでもチームリーダーとしての個人なのです。
すぐれた
研究者もおれば、劣った
研究者もいます。若いころ前途有望視されていた
研究者が伸び悩み、結局は大した
業績を上げることなく学者人生を終えるという例は決して少なくありません。逆に、若いころには目立たなかった
研究者が予想外の大成功をおさめるという例も少なくありません。
なぜこんな当たり前のことを殊さらに申し上げるのかというと、
法人法案が個人の
評価ではなく
組織の
評価に重きを置き過ぎているからであります。例えば、二つの
組織、すなわち
大学または同一
分野の学科、専攻を比較するに当たって、一方の
大学には、
ノーベル賞受賞者が一人いるけれども、他の教員の
業績は押しなべてぱっとしないといたします。他方の
大学あるいは学科には、
世界に名を知られる卓越した
研究者は一人もいないけれども、教員一人当たりの平均論文数で比較すると前者を圧倒しているといたします。一体、どちらの
組織の方が高い
評価を受けてしかるべきなのでしょうか。
組織とは個人の集合体であります。
研究は
組織で行うのではなく、個人の着想と独創こそがすぐれた
研究成果のシーズなのです。
国が
大学に与える
資金は、人件費等の経常的な出費に充てる
運営費
交付金と
競争的
研究資金の二様に分類されるようですが、いわゆる二十一世紀COE拠点形成プログラムに見るとおり、これまでの個人を対象とするCOEプログラムは廃止され、かわりに
大学の学科、専攻という
組織を対象とするよう、支援体制が再編成されました。これは明らかな改悪であります。個人こそが
研究の推進者であるという
研究個人主義の観点に立てば、こうした改編が
研究を阻害しこそすれ、推進することはあり得ないことが浮き彫りにされて見えてまいります。
また、
競争的
資金の占める割合を高めることは、
予算制約のもとで費用対効果という観点から望ましいことだと言えます。しかし、若手
研究者の萌芽的
研究をどのようにして発掘するのか、科学
研究費配分をよりフェアなものとするためにいかなる措置を講じるべきかなど、
競争的
資金の配分方式の抜本的な改編が望まれます。また、後ほど申し上げる、いわゆる旧帝大と地方
大学との間にある厳然たるインフラの格差を是正する
予算措置をあわせ講ずるべきであります。
今ある
大学制度のもとで欠如している自由で
競争的な
研究環境をつくるべきである、言いかえれば、学術
研究の場にも市場原理を持ち込むべきであるとの現状認識が、
大学改革のそもそもの原点にあったはずです。
研究の主体は
組織ではなくして個人であるという私の仮説から出発すれば、
法人法案の目指すところは、多少大げさに過ぎるかもしれませんが、
日本の
国立大学のソビエト化にほかなりません。
中期計画、
目標を
評価委員会の
意見を聞いた上で文部科学大臣が認可して、六年後に
中期計画の達成度につき
評価委員会が
評価を下すという図式は、かつてのソビエト連邦の経済
運営をほうふつとさせます。
評価委員会はソ連の国家
計画委員会、
大学法人はソ連の工場なのです。ソ連の経済体制の方が自由主義経済体制をしのぐであろうというのが七〇年代半ばごろまでの常識だったのですが、その常識は七〇年代後半に入り、物の見事に覆されました。
それと同じく、
組織を
研究の主体とみなす
計画主義的な
大学改革もまた、それほど遠くない将来、憂き目を見るであろうことはほぼ確実だと言っていいのではないでしょうか。なぜそうなのかは、経済を
計画するのが不可能だったのと同じく、科学、学術
研究もまた、
計画することは不可能なばかりか有害だからなのです。
研究には多大な不確実性がつきまといます。
研究成果のいかんを事前に予測することは、神ならざる
人間にとっては不可能なしわざなのです。したがって、
研究は経済以上に中央集権的な
計画になじまないのであります。
必要なことは、個々の
大学法人に対してできる限り多くの自由度を与えて、それぞれの
大学法人が固有の、一律でない
目標と
評価基準に基づき、創意工夫を発揮することを督励し、多様な
大学法人をつくる余地を与えることなのです。
従来、
国立大学に対して、国は、金は出すけれども口は出さないという方針で臨んでまいりました。口を出さなかったから
国立大学の
研究のレベルが低かったのだという必ずしも誤りとは言えない命題を、口を出せば
国立大学の
研究レベルが引き上げられるという命題に短絡させてはなりません。前者が後者を論理的に
意味しないのみならず、科学、学術
研究という観点から見ると、後者の命題は偽り、偽である
可能性が極めて高いのです。
八〇年代末、私は、
国立大学を都道府県に移管すれば、各
自治体は創意工夫を発揮して、個性と特色のある
大学づくりが行われ、いい
意味での
競争が促されるという趣旨の論考を書いたことがあります。要は、各
大学に創意工夫を発揮させる余地をいかにして確保するかなのです。各
大学法人に
運用面での自主性を担保するよう、
法人法案に盛り込まれた規制的措置を見直すことをこの場をかりて切に
お願い申し上げる次第であります。
例えば、経営協議会の
委員の総数の二分の一以上が
外部有識者でなければならないといったたぐいの規制は取り除くべきだと私は
考えます。なぜなら、元
企業経営者などの
外部有識者に経営協議会に加わっていただくことがいいことなのか悪いことなのか、その占める比率はどの程度が適切なのかは、先験的には判断の下しようがない問題だからであります。試行錯誤の末に、また他の法人の成否を見ながら、それぞれの法人がみずからにとって最適な
委員構成にたどり着く、これしかないのです。経営協議会や役員会の構成については、あくまでも
大学法人の自主性にゆだねられてしかるべきなのです。
ただし、次のことに十分留意しておかなければなりません。もともと東京
大学を初めとするいわゆる旧帝大ないし戦前からある
大学と戦後に設置された
大学との間には、講座制と科目制という
予算算定の根拠に差異があり、配分される校費の金額における有意な格差が長年にわたって存続してまいりました。
その結果、来年度を
競争の
出発点といたしますと、
競争に参加する
大学法
人間で初期条件に有意なる格差が存在することは否定するべくもありません。自由
競争社会における公正を担保するためには、
競争参加者の初期条件にいささかの差異もあってはなりません。これは経済学のABCの教えるところであります。したがって、長年にわたり培われた初期条件の格差を埋め合わせるための適切な手だてを文部科学省及び
評価委員会は
運用面で講じるべきであります。
そして、少々長い時間がかかるでしょうが、初期条件の格差に起因する不平等を
文科省の手によって是正していただかなければなりません。こうした措置を講じることは、
制度変更に伴うコストとして、変更を実施する主体である
政府が負わなければならない責務と心得るべきなのです。
私自身は、もともと地方分権論者なのですが、地方の
国立大学は、地方分権を推し進める上で不可欠のインフラだと
考えます。それゆえ、
法人化法案が地方の
大学を衰退させる危険性をはらむとすれば、その点を見過ごして済ますわけにはまいりません。
次に、最も重要な問題の
一つである
評価についての私見を申し上げます。
そのよしあしは別にして、
学問の細分化が一直線的に進んだ結果、
一つの
研究プロジェクトからいかほどのオリジナルな成果が期待されるのかを的確に
評価できるのは、数人ないし数十人規模の狭義の専門家に限られます。
そのため、多くの専門誌は、匿名の査読者、レフェリーの
評価を踏まえた上で投稿論文の掲載の可否を決めるのを慣行といたしております。ほとんどの専門
分野においては、レフェリーつきの専門誌上に掲載された論文の多いか少ないかに応じて、またそれらの論文が何度引用されたかによって
研究者の
業績が
評価されるのです。アメリカの
大学教授の来年度の年俸がどれだけふえるのかは、一に今年度の
業績、すなわち論文の数と質に応じて決まるのです。要するに、アメリカでは、プロ野球選手と
大学教授は同じ扱いを受けるのです。
大学の学科の
評価は、所属する教員の論文の合計数などによってなされます。そのため、
大学間の人材の引き抜き合戦にはすさまじいものがあります。外国にもリクルート網を張りめぐらせて、優秀な人材を集めることに余念がありません。要するに、
組織は、個人の
業績の集計量に応じて
評価されるのです。
日本の
大学の
研究のレベルを向上させる最善の策は、アメリカの
大学に倣って優秀な若手
研究者を輸入することなのです。それにまさる特効薬はないはずです。
さて、六年間という期限を定めて
中期目標、
中期計画を策定し、
組織を
評価の対象に据えるという法人法の趣旨は、集団主義の国、
日本らしさを物語って
余りあるように見受けられます。それが
研究のフットワークをのろくするという懸念もまたぬぐえません。
と同時に、それは、さきに申し述べましたとおり、意図せざる
国立大学のソビエト化を
意味するのではないでしょうか。当初は市場原理を
導入することを
目標としてスタートしながら、皮肉なことに、結果的には中央統制色の強い反市場的な代物となってしまったのはまことに残念であると同時に、その先行きについて懸念をぬぐえないのであります。
科学、学術
研究にとって、画一性は、その障害となりこそすれ、促進剤であろうはずがございません。科学、学術の
研究を促進するには、多様性を確保することが何よりも肝心なのです。そのためには、学界における個々の
研究者の
評価こそが重んじられるべきであって、
組織を
評価の対象としたり、
評価する主体が中央集権的な
委員会であったりしてはならないのです。
加えて、有用性という、役に立つという尺度で
学問の価値をはかるという愚を犯してはなりません。
かつて京都
大学数理解析
研究所の
教授を務められた伊藤清
先生は、確率微分方程式という全く新しい
分野を開拓されました。伊藤
先生は、御自身の興味と関心の赴くまま新
領域の開拓に励まれたのですが、その後、数十年を経た後に、伊藤の確率微分方程式は、金融
工学にとって欠かせぬ基本的ツールの
一つとなったのであります。
学問の価値をはかる尺度をどうするのかもまた、
大学法人の自主性にゆだねられてしかるべきではないでしょうか。一見無用の学を尊重する
大学法人があってもいいではありませんか。一見無用であっても、実は思わざる応用
分野を先々だれかが見出して有用性を発揮する例は枚挙にいとまがございません。目先の有用性を尊重することは、戦略的に見ても決して賢明な方策とは言えないのであります。
最後に申し上げたいのは、
日本経済が目下の長期停滞から抜け出すためには、工業化社会からポスト工業化社会への速やかな移行をなし遂げることが必要不可欠だと私は
考えます。一九六〇年に策定、公表された所得倍増
計画が、科学、学術
研究を経済のしもべとする、すなわち、狭義の有用性を学術
研究の
評価基準とすることを
政府が公式に認知した皮切りであります。以来、
日本の科学、学術政策はこの路線上を突っ走ってまいりました。
確かに、工業化社会における高度経済成長の動力源の
一つとして、こうした路線が欠かせぬ役割を果たしてきたことは紛れもない事実であります。しかしながら、こうした学術政策がポスト工業化社会向きでないことは火を見るよりも明らかではありませんか。一見したところ無用の学、とりわけ人文
社会科学や芸術の振興を、有用な学の振興と相またせることこそがポスト工業化社会への移行のために必要不可欠な戦略であることを、手前みそながら強調して、私の
意見陳述を終えさせていただきます。(拍手)