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鴻池国務大臣 阪神・淡路大震災のあの日あの瞬間、私も寝ておりまして、飛び起きました。ひょっとしたらミサイルをぶち込まれたのではないか、そのようなすごさが、今なお身に覚えているというか、記憶に残っておるわけであります。真っ暗な中で、比較的小高いところに頑丈な建物、マンションの一室でございました。大火はございませんでしたが、家の中はむちゃくちゃになりました。夜が明けてくると、すぐ前を通っておる高速
道路が腹をこちらに向けてひっくり返ろうとしておるところでありまして、バスやトラックがしがみついている、そういう
状況でありました。
しかし、あの神戸を中心とした大震災で亡くなられた六千四百三十三名、いまだに行方不明者が三名でございますけれども、その方々の大半といいますか、九割近い方々がみずからの家の倒壊によって亡くなってしまわれました。逆に、そのような同じ
状況で助かった方は、倒壊から引っ張り出されて助かった。だれが助けたかといいますと、これは自衛隊でも消防署でも、実は警察でもございません。自分の家族、あるいは向こう三軒両隣のおじさん、おばさん方でありました。だから、冗談のように言っているんですけれども、家族に愛される、また近所で愛されるおっさんでないと救ってくれない、まさにその
状況でありました。
そして、実動部隊がやってきたのは三日後でございました。初日にヘリコプターがやってきても、たった一人の重篤患者しか外に運び出せなかった、四日間で四十七人しかヘリコプターで運び出せなかったという現実がございます。
それを反省点として、それに引きかえ、今回の、ただいま
委員の、一部お褒めをちょうだいしましたけれども、
初動体制と申しますか、
状況把握ということに関しましては、極めて迅速にいったと思います。先ほど御
報告申し上げましたように、官邸の地下二階へ私もすぐさま飛び込みましたけれども、そこで各省庁の
情報連絡というものが極めて敏速にとられておったということは、担当
大臣といたしまして大変うれしいことでございました。
また阪神・淡路の話に戻りますけれども、時の村山
大臣の耳に大
被害が達したのは、恐らく午後になってからではなかったか。村山
大臣には全く
情報が入らずに、財界と昼食会にお出かけになるといったようなところであったと思います。
そういう意味で、あの阪神・淡路大震災の反省のもとに、
初動体制、まずは
情報収集でございますから、それが比較的うまくいって、私の把握をいたしましたところ、死者なしではなかろうかと思いましたのが一時間後でございました。そういうことで、ある意味ではほっとしながらも、なお
情報の収集に随分骨を折ったわけでございます。
ただ、その反省のもとに、
震度五になりましたら、自衛隊のヘリコプターが
発災している現場に向かって飛び出す、こういうこともできておりますし、あるいは、
消防庁のヘリコプター等が現場の
状況を把握して、すぐさま官邸の地下二階に
報告をして、一キロ以内のメッシュ
状況で
被害の
状況を把握、想定をしていく、こういうシステムにもなっておるわけであります。
そういう中で、特に私が印象に残りましたのは、夕食時で、火事が少なかったじゃないかと今、
委員がおっしゃいましたけれども、私は、後でテレビを見ておりまして、ニュースをやっているキャスターが机につかまりながら、皆さんもごらんになったと思いますけれども、机につかまりながら、火を消してください、火元を確認してください、火を消してくださいとどなっておった、あれは大変印象的だったし、大変すばらしい効果があったのではないかと思っております。
また、日本海の
地震を記念してと申しますか、五月の十五日以降、四カ所、五カ所で
訓練をされておったと聞いております。そういったことも大変いい方向の結果に導いたのではないかと私は思っております。