○津川
委員 時間がたっぷりあるものですから、
議論があっちこっち行ってしまいがちなんですが、少しもとに戻します。
その前に一点だけ言うと、私は無料にするのがベストだとは思いません。関門トンネルは有料ですし、トンネルですとか特殊な橋に関しては、通行、利用される方々に通行料を一部
負担していただくというのは当然あっていい
考え方だと私は思いますから、それはいいと思いますが、ただ、
建設費なり、あるいはそれにかかった資金
コストまですべて御
負担いただくというのはいかがなものかということと、少なくともそれでは賄い切れないという現実があるわけですから、それではない別のスキームが必要である。
民営化推進委員会も、
債務を一部切り離すべきだと、これは全くそのとおり言っています。言っていますが、幾らにするべきだとは言っていないんです。それよりも、通行
料金をこのぐらいにするべきだ、それから、政府と
地方の
負担はこのぐらいにするべきだということだけ言っているんです。ですから、むしろそちら側を優先するならば、政府が今切り離してとらなければならない
債務がもっと大きくなるという結論になるんです。ですから、それができないということを説明していただく必要があると思います。
そこで、今ちょっと責任問題についてもう一回触れます。事実かどうかは別として、一般的に言われることは、やはりこれは本州
四国の間に三つの橋をかけてしまったことがかけ過ぎであったのではないか。それがなぜそうなったかという
経緯を見ると、
地域に有力な政治家がいて、なかなか調整がつかなくて、結果的に三つともになってしまったんだというような話がございます。
その最初の段階のスキームから直轄でやるというような話であれば、借金が借金を生むというような形にはならなかったかもしれませんが、そうであるにもかかわらず、つまり、
必要性の
議論がなされる中では三本はつくり過ぎかもしれないと言われる
議論がいろいろある中で、なおかつ一本に絞れなくて三本ともになってしまった。その中で、需要の
議論というものを、逆にそれに後づけするような形のものをやってしまったから、当然のごとく外れてしまったという形ではないかということが言われております。
それで、
経緯を私の方で確認した分だけでもお話ししますが、例えば、個人名をお出しするのがいいかどうかわかりませんが、明石—鳴門
ルートに関しては三木元首相がいらっしゃったとか、あるいは原健三郎元衆議院議長がいらっしゃったとか、あるいは坂出
ルートに関しては大平元
総理がいらっしゃったとか、あるいは江田三郎元社会党書記長がいらっしゃったとか、お名前だけ聞けば、確かにそうそうたるメンバーです。それだけ聞くと、これはすごい方々がいらっしゃるんだなというのはわかりますが、そういうすばらしい政治家の方々がいるとむだな公共事業ができてしまうというのでは、これはまた先輩に対して大変失礼な話でありまして、当然、
全国を見て、ここは必要だから必要だと言っているはずなのに、いや、あの
先生がいたからこれができたんだ、よかったよかったと思ったけれどもむだだったなんて話になると、これはやはり論理的な話ではない。
そこで、三本に
ルートが絞られた。最初は五本あったそうでありますが、そこから三本に絞るところまではできた。その中で、私は、いろいろ調べた中では、そこから一本に絞ろうとしていた
経緯を読み取っております。
ところが、六九年の二月に、保利
建設大臣が予算
委員会で二
ルートぐらい必要であるとおっしゃった、それが初めて政府として複数
架橋の意向を示したことになるというような記述がございます。つまり、それまでは一本に絞ろうとしていたけれども絞り切れなかった。絞り切れなかったけれども、二本ぐらいは必要かなという
建設大臣の当時のお話。それで、三
ルートをそのまま残した新全総という形につながっていった。
その後も、例えば七三年のオイルショックのときに一回凍結をされた。これはすべて凍結でありますが、その後で、低成長に入って、三
ルート建設という
計画自体の
見直しという
議論が高まってきた。その中で、しかし、一つはやはり必要であろうというところから、七五年、
関係三
大臣による三者会談の合意で、当面一
ルートの早期完成を図る。これは三全総で決める。他の二
ルートは別の
議論で決めていく。他の二
ルートはやらないとは言わないけれども、まず一
ルートをやりましょうという話です。その中で、三全総では、いわゆる坂出
ルートというところが当面の一
ルートとして決定をされた。
その当時、金丸
国土庁長官が
建設委員会で発言をされたのは、三本かけてもいいという希望はあるだろう、希望までつぶす必要はない、しかし、我々の
時代の十年、十五年には到底
考えられないという答弁を金丸
国土庁長官がおっしゃっています。
つまり、このときの
議論からしても、需要に対して、つまり通行
料金で
建設費を賄うというやり方を前提にするならば、三本ともかけるというのは非常に困難だというのは、これは政府側の
考え方として私は見てとれます。それがなし崩し的に四橋目が着工されてしまう。
その後で、八三年の臨時行政
調査会で、
本州四国連絡橋は一
ルート四橋に限定するという決定をしています。これが八三年です。その後、これは新聞の報道でありますが、
建設推進派の反撃が非常にすさまじかった。それで二年後、八五年に凍結が解除されて、全
ルート建設という形に進んでおります。
ですから、私は、最初の段階では三本とも必要だという
需要予測が出て三本つくろうと思ったけれども、
時代が変わったから三本つくったらつくり過ぎだったという話ではなくて、最初の段階から、三本はちょっと幾ら何でもつくり過ぎじゃないか、少なくとも一本ずつ始めていこうというような結論が、かつて、もう
建設が始まる前に出ていたにもかかわらず、それが何らかの理由で突破されてしまった、それが今につながっているという流れで読み取りますと、だれがそこを突破したのかというのはやはり非常に重要な問題なんです。
その結果、予定どおり償還されたというのならいいんですが、結果が一兆三千四百億円の
国民負担ということにつながるのであるならば、これはやはり無視して通れない。一時的に、最初一本に絞ろうとしたのが三本になったというところもそうですが、その後もとめるところは何カ所もあった。一度とめるべきだということも、これは政府側から何度も出てきているんです。それがとめ切れなかった。
そこでお伺いをいたしますけれども、最初から三本かけたら
採算がとれないということはわかっていたんじゃないですか。いかがですか。