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桜内参考人 おはようございます。
新潟大学助教授の桜内でございます。
本日は、この憲法
調査会におきまして発言をいたします機会をいただきまして、光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
お手元に、「国家の意思
決定と
財政システムの
あり方について」と書きましたペーパーを御用意しております。こちらに沿いまして
議論を進めさせていただきたいというふうに思っております。
まず、一枚めくっていただきまして、次のページに目次を書いております。これがきょう私から申し上げる
内容の全体であります。
私は、公会計という分野を
専門としておる
関係から、むしろ、日本国憲法第七章「
財政」の章の全般に関しまして、
財政民主主義あるいは
財政立憲主義と言われるもののその大もとの点について、公会計の
観点から申し述べたいというふうに思っております。
目次のうち、上の方が、憲法を
考える視点あるいは公会計とは何かという、ある種総論
部分がございまして、そこから、
政府と
国民との
関係の基本構造あるいは
国民の位置づけ、
財政立憲主義、それから民主制の
二つの
モデル、こういった点について、ややテクニカルな
部分もございますけれども、なるべく問題の大もとをつかむような
意見表明を行いたいと思っております。それから、パブリックガバナンスですとか、そのパブリックガバナンスというものは一体何かということと、それを生かした
財政システムの設計というのはどうあるべきなのか、それから、本日の一つの大きなテーマであります
二院制の問題ですとかあるいは
会計検査制度との関連について
最後触れていきたいというふうに思っております。
では、次のページから
意見を述べさせていただきます。
まず、
財政というもののシステムあるいは憲法上の
制度を
考える上におきまして、そもそも、憲法を
考える視点あるいは統治システムというのを我々はどこまで我々の国の歴史や伝統に縛られあるいは縛られないのか、あるいは、この憲法
調査会、私は今回参ります前に中間
報告等いろいろ読ませていただきましたけれども、他国の
制度を大変多く調べていらっしゃいます。これは比較憲法というような分野あるいはそのアプローチになるわけでして、これも非常に大事なことなんですけれども、きょうはもう一つの
観点をお示ししたいというふうに思っております。
箱の中に、左から、
制度派的アプローチ、比較憲法的アプローチ、歴史学派的アプローチというふうに書いております。
ちなみに、今ほど言いました比較憲法的アプローチというのが、他国の憲法上の
制度等をいろいろ調べて、それを
参考にしつつ、
我が国に取り入れられる
部分あるいは取り入れられない
部分というのを見ていこうというようなアプローチであります。右側の歴史的アプローチと申しますものは、
我が国固有の伝統ですとかあるいはこれまでの経緯等々を考慮いたしまして、それによって憲法がある種規定されてくる
部分があるのではないかというふうな
考え方であります。
本日、私が
意見として申し上げたいのは、この左側の
制度派的アプローチというものでございます。これは、むしろ会計学あるいは経営学の
観点から、国家の
制度等につきましてどういうふうな意思
決定が行われる仕組みがそもそもあるのか、その
制度について、ある種ミクロ
経済学的な手法を用いたりですとか、先ほどの
参考人の御
報告にもありましたような
プリンシパル・
エージェントというふうな
分析手法を用いて
考えていくやり方であります。そういう
意味で、基本的には
制度派的アプローチに依拠して、きょうは御
報告したいと思っております。
次のページ、おめくりください。公会計とは何かということであります。
まず、公会計の意義ですけれども、利益の獲得を
目的とせず、または利益の多寡が成果の
評価基準とはならない公共部門における経済主体の全般を対象とする会計
技術、手法を指します。
会計というのは、アカウンティングを訳した
言葉ですけれども、これは
責任の体系というふうに言うことができようかと思います。先ほど
アカウンタビリティーという
言葉が出てまいりましたけれども、これも
責任というものに密接に関連した
言葉であります。また、会計というのはもちろん勘定というのを使うわけですけれども、これをアカウントと言います。これは
責任の範囲を画する単位であります。勘定が違えば
責任の所在等々も違ってくるというふうなことであります。
それがなぜ憲法上の
統治機構と
関係してくるのかということなんですけれども、そもそもの公会計という
言葉の由来から申し上げますと、明治十四年に会計法というものが規定されております。また、旧憲法の第六章に「会計」という章がございまして、そこが今現在の日本国憲法におきます第七章「
財政」に対応する章であります。ちなみに、マッカーサー草案の第七章「会計」と書いてありますけれども、マッカーサー草案の段階では、まだ「会計」というふうな
言葉が使われておりました。
なぜ「
財政」という章が憲法上必要とされるのかということでございますけれども、そもそも「
財政」という章が世界の憲法の中で出てきたはしりとされますのが、一八三一年のベルギー憲法であります。その前にもちろん幾つか憲法はあるんですけれども、ちなみに、
アメリカの憲法の場合は、大統領、
議会それから司法という三権の分立の中で、そのそれぞれの中で
財政に関する
部分が条文として取り上げられておりまして、
財政というふうに全部一くくりにして一つの章にはまだまとまっていなかったというような状態にあります。
公会計
制度は、そういった
意味で、国家の意思
決定を財務面から規律するガバナンス構造の設計そのものに関連するというふうに言えるかと思います。ここで言うガバナンスと申しますのは、意思
決定を行うものをどういうふうに規律していくのか、その
制度上の仕組みを指します。それと、
政府の受託者
責任を明らかにする
制度的なインフラとして
機能すべきものだというふうに
考えられております。
ちなみに、受託者
責任ということですけれども、次のページで説明したいと思います。
ここに、
政府と
国民との
関係の基本構造ということを図にして示しております。登場人物と申しますか、大事なポイントは三人、三者というかおります。受託者それから委託者、受益者、この三つであります。これを国の場合に当てはめて申し上げますと、まず受託者というのが
政府に相当します。それから、
国民というのが委託者ないし受益者というふうな位置づけになるわけですけれども、税金というものの位置づけをどう
考えるのかというのが公会計上の一つの大きな論点にもなっておるんですけれども、ここでは、信託という
考え方を前面に出して御
報告したいと思っております。
税金というものを
国民が払う場合、それは
政府に対する信託であって、
予算というものを
国会が議決することによって、
政府自体に対して受託者
責任を設定していくというふうに
考えていくわけであります。
政府は、その受託者
責任の遂行といたしまして、その運用、処分に関する意思
決定、あるいは
政策形成、あるいは公共財等の財・サービスの供給等を行っていくわけですけれども、これ
自体が受託者
責任の遂行というふうに言えるわけであります。
そして、それで話が終わるわけではありませんで、公的
説明責任とここには書いておりますけれども、
アカウンタビリティーというものが生じてまいります。これは会計上は会計
責任というふうに訳される場合もあるんですけれども、受託者
責任が設定されて、それを遂行した受託者の
責任をどういうふうに解除するのかというふうな概念であります。
アカウンタビリティーをもって、公的
説明責任を果たして
報告を
国民に対して、これは委託者ないし受益者ですけれども、それに対して行った上で、了承を得れば、受託者
責任が解除されるというふうな
関係にあるわけです。ですので、
アカウンタビリティーとは、財産管理者の受託者
責任の存在を前提といたしまして、その受託者
責任の成立から解除に至るプロセスを会計的に説明することを
意味します。
次のページをおめくりください。
今申し上げました基本構造にかんがみまして、
国民の位置づけというのがある程度決まってまいります。これは、信託説と呼ばれるものですけれども、そもそもこの信託というのは何だろうということですけれども、基本的には、英米法におきます信託概念に基づいております。
ここに、コモンローあるいは普通法というふうなものが書いてありますけれども、ちょっとこの辺、細かいですが若干説明いたしますと、普通法の世界というのは、いわば
法律の要件、
効果が比較的はっきりしておる領域でありまして、もちろんイギリス法ですので判例法等もあるんですけれども、我々の通常の概念でいいますと、民法とか刑法とか、
法律の要件と
効果が比較的はっきりと明確なものを示しているとお
考えいただければ結構だと思います。そのコモンローの世界では妥当な
結論を得られない場面で、救済法として
機能するエクイティー、これは衡平法というふうに訳されますけれども、その主要領域として信託というものが発達してまいりました。
一つ例を挙げますと、戦争に行く人が、もちろんその家族等あるわけですけれども、自分が死んだときのために財産を未亡人等のためにとっておくということのために、知人等に財産を信託の形で譲渡するわけです。通常のコモンローの世界であれば、当然、所有権というのが移転してしまいますので、受託者がその財産を使い込んでしまったですとかという場合に戦争の未亡人等が救済されないというふうな、衡平に反するような結果がコモンローの世界では生じてしまいます。これを何とか助けてあげようということで、受益者としての戦争未亡人の権利を強化するというふうな
法律構成をとります。それが、次の段に書いてありますけれども、受益者は、単なる債権者としてではなく、エクイティー上の物権、無体財産権のようなものですけれども、これを有する者としてより強い保護を受けるというふうな
法律関係が設定されます。
これが、
社会契約の形をとりまして国家の統治構造について応用されましたのが、ここにあります、イギリスの名誉革命におきますロックの所説が始まりであります。その影響を強く受けましたのが
アメリカの独立宣言でありまして、さらには、実は我が日本国憲法にもそれが相当程度色濃く反映されております。
こちらに条文を挙げておりますが、前文の第一段、「そもそも
国政は、
国民の厳粛な信託によるものであつて、」ここで言う「信託」は、今申し上げました英米法の信託に非常に近い概念になっております。
また、憲法十一条後段ですけれども、「この憲法が
国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の
国民に与へられる。」ここが非常に重要なポイントでして、実を申しますと、上の方にちょろっと書いておりますけれども、実は、受益者の設定というのは、まだ生まれていない者も指名することができるというふうに
法律上解釈されておりまして、ちなみに、憲法上、基本的人権というのは、もちろん
法律上の権利、法的権利ですので権利の主体というのが必要なんですけれども、そうしますと、将来の
国民というのが基本的人権の主体となり得るのかというのが通常のコモンロー上の世界では問題となってきてしまうんですけれども、今申し上げました信託の
考え方で、受益者が将来世代も含む、まだ生まれていない者も含むというふうな
考え方からしますと、この憲法十一条の「現在及び将来の
国民」というものが受益者であるというふうに、
国民の範囲を比較的拡大して
考えることができるという利点もございます。
そういった
意味で、
国民は委託者として
政府に対して、
政府というのが受託者ですけれども、納税を行うと同時に、現役世代のみならず将来世代をも含めて
政府の
財政活動の受益者として位置づけられます。憲法上の
統治機構と申しますものは、これは四十一条以下でありますけれども、受益者たる
国民の利益、そのうち権利化されたものが人権というふうにされるものですけれども、これを守るために国家のガバナンス構造を規定するものというふうに言えようかと思います。
次のページをおめくりください。
ここから、
我が国の憲法上の
財政の章におきまして一番の根本とされております、
財政立憲主義あるいは
財政民主主義とも言われますけれども、憲法八十三条、これについて御説明いたします。
これも図にしておりますけれども、ポイントを最初に申し上げますと、二重のガバナンス構造が存在しているということであります。
一つ目のガバナンス構造、これが左上の方にあります、
国会と
内閣との
関係におきますガバナンスの構造であります。こちらにおきましては、強化されたガバナンスの範囲というふうに書いておりますけれども、要は、今の憲法におきまして八十三条、
財政処理
権限の
国会中心原則というのがございますけれども、これは、
予算の編成ですとかあるいはその他もろもろの
財政処理に関しましては
国会が最終的な
決定権限を持つというふうな規定であります。どのような
予算ももちろん
国会が議決することは可能ですし、また、公債の発行ですとか、あるいは年金の
制度の設計ですとか、
国会がすべて決めることができるというふうな原則が八十三条であります。
これは、後ほど若干説明いたしますが、明治憲法下においては、
予算編成権というのは
内閣、
行政権の方にございました。これを、日本国憲法に変わりますときに、
民主主義の一つの大きな柱といたしまして、この
財政立憲主義ないしは
財政民主主義というものが規定されたわけであります。
そういう
意味で、
内閣を
国会が縛る、
内閣の意思
決定、もちろん
内閣には今現在も、
予算を作成し、
国会に
提出するという
権限が憲法上定められておるわけですけれども、しかしながら最終的な
権限は
国会がすべて持つということで、法規範としての拘束力を持って
予算というものが
国会で議決されてくるというふうな
意味で、この
内閣に対します
国会の規律をつける力、拘束力というのは非常に強いというふうに言うことができます。そういう
意味で、強化されたガバナンスの範囲ということが言えるかと思います。
話がこれで終われば簡単なんですけれども、実はガバナンス構造はもう一つございます。それは、
国民と
政府との間のガバナンス構造であります。
今ここで申し上げました
政府というのは、
内閣と
国会、両方を含む概念であります。ちなみに、日本国憲法の中におきまして
政府という
言葉が使われるのはただ一カ所、前文の中にあるだけでありまして、これは、
行政、
内閣、立法、この三権すべてを指す概念であります。ここでは、
内閣と
国会、先ほど言いましたように、強化されたガバナンスの範囲双方を含みまして
政府というふうに申し上げますけれども、それと
国民との
関係というのがもう一つのガバナンス構造として必要になってくるわけであります。
もちろん、
国民というのはいろいろな
立場があります。左下にありますように、
政府の財・サービスのアウトプットを
予算を通じて配分してもらって享受する顧客としての
国民の
立場というのは当然ありまして、他方で、右側にありますように、委託者としての
国民というのは税を納める側の
国民でもあります。また、先ほど申し上げました、将来世代を含めまして、受益者としての
国民という概念もあるわけであります。
ところが、こちらの
国民と
政府とのガバナンスの構造が弱い場合には、なかなか
国民が
政府の意思
決定を縛ることができないというような状況がどんどん出てまいります。そうした場合に、若干絵もかいておりますけれども、タックスイーターというふうな言われ方をしますけれども、
政府の意思
決定を、なるべく自分の利益にかなうようにその
影響力を及ぼしていこうとする行動が当然見られるわけでありまして、そうしますと、
予算編成の配分というものがどんどんゆがめられてくるというような現状が実際あるわけでございます。
ここで問題としますのは、
二つ目のガバナンス構造、
国民と
政府とのガバナンスの構造をどういうふうにとらえるのか、あるいはとらえた上でどういうふうに設計していくのかということを申し上げたいと思います。
次のページをおめくりください。
ここに民主制の
二つの
モデルというふうに書いております。
政府と
国民との間のガバナンスの強弱ということを述べたいと思います。
今申し上げましたのは、先ほどの図でいいますと
二つ目のガバナンスの構造を指しております。
内閣、
国会あわせたところの
政府と
国民との間のガバナンス構造ということであります。
直接参加
モデル、強いガバナンスの
モデルであります。実を言いますと、今現在はどちらかというとこちらに依拠した
財政運営等が行われているかと思います。
国民全員が直接意思
決定に参加する形態、これは直接民主制ですけれども、あるいは
国民全員が
国民を代表する
国会を通じて直接意思
決定に参加するものとみなされる場合、これがこの
モデルに相当いたします。
この
モデルに合致します場合、どうなるかといいますと、受益者、委託者としての
国民は、意思
決定者たる
国会と、これは受託者ですけれども、完全に一体化しているとみなされるため、
国会と
国民との間でのガバナンスのメカニズムは不問とされる。
これはどういうことかと申しますと、一〇〇%株を持っています個人企業のオーナーが、その会社が上げた利益等を、交際費で遊んだりどういうふうに使ったりしようとも、それは自分のお金だから自分の勝手だということで意思
決定を縛るものは何もないわけですけれども、それと同じでして、まさに
国民と
国会が完全に一体化しているというふうにみなせるのであれば、どういうふうに
予算を編成しようがそれは
国会の勝手であるというふうな言い方ができるわけであります。
ちなみに、ここで言う
国民の範囲はやや狭くございまして、現実に意思
決定に参加する意思と能力を兼ね備えた人々、これが有権者でありますけれども、現役世代の有権者に限定されます。
ところで、実際にはどうもそういう強いガバナンスというのは働いていないんじゃないか、意思
決定する人と意思
決定に参加できない人というのはどうも分かれているんじゃないかという現実の認識が当然あるわけでして、それが下の間接参加
モデル、弱いガバナンスとして認められる
モデルであります。
これは何かと申しますと、意思
決定者と意思
決定者以外の者に分かれてしまう場合、その後者の方、これは業績不振の意思
決定者を解任する
権限を留保するという形で、ガバナンスのメカニズムを通じて間接的には意思
決定に参加するというふうなことが言えるわけであります。
この場合、
国民と
政府の
関係がどうなるかと申しますと、
予算あるいは
財政運営と申しますものは、実は時間軸上の資源配分という言い方がされるんですけれども、これは、先ほど申し上げました、将来への波及
効果の大きい、例えば公共
事業によってインフラ資産を形成するですとかあるいは公債を発行するですとかあるいは公的年金債務に関しまして年金
制度を設計していく、こういうふうな将来への波及
効果の非常に大きいお金のやりとり、資産、負債を持って将来と現在との間で資源をやりとりするという
意味で、時間軸上の資源配分というのがあるわけです。
そうしますと、
予算編成を行う受託者としての
政府というのは、もちろん現役世代のみから成る
内閣と
国会でありますけれども、これと、実は受益者としての
国民というのは先ほども申し上げましたように現役世代のみならず将来世代も含めておりますので、意思
決定者と受益者たる
国民というのがどうしても分かれてきてしまうわけです。その利害は必ずしも一致するわけではないということであります。
この場合、公会計
制度というものを確立して、意思
決定者たる
政府の受託者
責任の明確化というものを通じまして、
政府と
国民との間のガバナンスを強化する必要があるというのが一つの
結論であります。最終的には、業績不振と
評価された
政府、こちらが恐らく
政策評価とかそういった領域になろうかと思うんですけれども、その場合は、
国民によってそういった
政府は解任されてしまう、これは選挙に負けるですとか
内閣がかわるというふうなことになろうかと思います。
まとめて申し上げますと、
内閣と
国会との間のガバナンスは、
財政立憲主義によって非常に強化されております。しかしながら、今申し上げました直接参加
モデルであると仮定するのであれば、
政府と
国民との間のガバナンスは不問とされるのでありますが、他方で、実際にはガバナンスが弱く、間接参加
モデルしか成立していないのではないかという場合であれば、
政府と
国民との間のガバナンスを強化する必要があるというふうなのが理論的な一つの
考え方であります。
次のページ、おめくりください。
こちらは旧憲法下の
財政システムとの比較を若干書いております。
これも同じく図にしておりますけれども、ポイントは、実は二重のガバナンス構造のような小難しいことはありませんで、旧憲法下におきましては、非常にシンプルな一つのガバナンス構造で済んでいたということであります。ですので、
予算編成を行う
権限はもちろん
内閣に当時あったわけですけれども、
内閣は
主権者たる天皇に対してもちろん
責任を負って、それが一つのガバナンス構造を形成していたというふうなことが言えるわけです。シンプルで、これはこれでいいんですけれども、一番大きな問題点は何かと申しますと、実は
国民というのがどこにも登場してこない構造にあった。それが、戦後の日本国憲法におきましていろいろな改革がなされた点であります。
枠の中に細かい論点も幾つか書いておりますけれども、きょうは
財政制度の大もとについて申し上げたいと思いますので、こちらは割愛いたします。
次のページ、おめくりください。
きょう何度もガバナンスという
言葉を述べておりますけれども、特にこのパブリックガバナンスというものについて、
内容を説明したいと思います。
このパブリックガバナンスの意義でありますけれども、先ほどから出ています
財政立憲主義との
関係で、二重のガバナンス構造があると申し上げましたが、
二つ挙げた二番目の方、
国政上の意思
決定者たる
政府、これは
内閣、
国会両方を含む概念と思っていただければいいんですけれども、これは受託者です、これに対する
国民、受益者ないし委託者ですけれども、
国民による規律づけを
意味します。
政府の
財政運営上の
責任の明確化を通じまして、外部からの監視ですとか内部マネジメントにおける
自己規律の向上を促す組織の構造とメカニズムを指します。
そこで、
予算とは何かと申し上げますと、財産管理者たる
政府による財産の運用ないし処分の形態をあらかじめ定めたものであって、それによって
政府の受託者
責任を設定するものであります。
ちなみに、
内閣の受託者
責任というのは、もちろん、
予算を作成し
国会に
提出する
権限がありますのでそういう
責任があるわけですけれども、これは
決算の
会計検査報告を伴う
国会の承認によって解除されるんですけれども、実は話はここで終わりません。
先ほど言いましたように、
政府と
国民との
関係の、ガバナンスの
関係でいいますと、業績不振と
評価されます
内閣は、
国民によって解任されるあるいは更迭されるという
意味で政権がかわっていくということが、ガバナンスの理論からは言えるかと思います。
ちなみに、先ほどイギリスの名誉革命のジョン・ロックのお話をいたしましたけれども、ジョン・ロックが抵抗権というのを言っております。実は、今言った
内閣を更迭するというのは、この抵抗権の
考え方を今の憲法上の言い方でいえばこうなるというのを申し上げた次第です。
財政活動の現代的変容というのがございます。
実は、昔の
財政というのは、非常にのんびりしたものと言うとちょっと問題ですけれども、ある会計期間に調達した税財源をその期間内に全部使い切るというのであれば、現役世代の代表
機関である
国会がすべてを決めればそれで済んでいたわけです。自分たちが出し合ったお金を自分たちがどういうふうに使うように決めようがそれは勝手であると、これは当然の理屈であるんですけれども。
ところが、
財政活動の範囲が非常に広がってまいりますと、資産や負債という将来に対する波及
効果を持つ、そういったストックのコントロールが、
政府の
財政活動の大きな
部分を占めるようになってまいります。そうしますと、先ほど言いました時間軸上の資源配分、将来と現在との間での資源をどういうふうに配分していくのか、将来世代にどれだけの負担をお願いするのか、あるいは自分たちがどれだけ持つのかといった
意味で、将来世代の利益をどう守るのかという問題が生じてまいります。
制度上、
財政運営上の意思
決定者というのは、もちろん我々有権者なり、有権者からの選挙によって選ばれます
国会議員、それから
国会で、
議院内閣制によって組織されます
内閣、これはすべて現役世代から成っております。それと、先ほど申し上げました将来世代を含む受益者たる
国民の利益というのは、必ずしも一致するわけではありません。その場合に、常に現役世代の意思
決定を優先するような仕組みをとりますと、実は、
財政立憲主義というのは現役世代の意思
決定を完全に優先させるという原則でもあるんですけれども、これを形式的に守るだけでは、将来世代の利益を保護することはできないということであります。
次のページ、おめくりください。
今申し上げたように、
財政立憲主義というのは憲法上の大原則でありますけれども、その形式的な適用だけでは、将来世代を含む受益者たる
国民の利益を守ることはできない。したがいまして、
国民の側、特に受益者たる
国民、将来世代も含む
国民からの、
政府の意思
決定をどうコントロールするのか、規律づけるのかという
意味でのガバナンスの強化が必要となってくるわけであります。
具体的には、財務諸表の体系と開示
制度を定める公会計
基準等の
整備によります公会計
制度自体の
整備というのももちろん必要であります。また、
財政活動を
評価するための財務指標というものを開発いたしまして、それによって
予算編成上の意思
決定が適切であったか否かを検証可能としていくような、そういう
行政評価との連携によります
財政規律の確保ですとか、次はややテクニカルでありますけれども、
予算を、
一般経常経費等から成る経常収支勘定と、それからインフラ資産の形成ですとか公的年金
制度の設計
自体にかかわるような、そういう中長期的な影響の大きいもの、これを資本的収支勘定というところに区分した上で、特に中長期的な影響の大きい
部分、勘定については
複数年度の
財政計画を作成するなど、こういった
二つの
予算をつくる。複会計
制度というふうな言い方をしますが、これは現行の
財政法四条にもその
考え方が若干あらわれてはいるんですけれども、これをやや精緻化するですとか、よく言われます
複数年度
予算というものをそういった分野に適用させていくということも
考えられます。
財政運営上の意思
決定者、これは現役世代ですけれども、その受託者
責任を明らかにすることを通じてパブリックガバナンスというものを強化いたしまして、将来世代を含む受益者たる
国民の利益を保護するということは、一見、
民主主義というものの
関係で微妙なところがありますけれども、これは実質的に
財政立憲主義を補完することだというふうに言えようかと思います。
最後のページに参ります。
二院制とそれから
会計検査制度というのが本日の一つの主題でありますので、その
関係で一つ申し上げます。
パブリックガバナンスを補強するもう一つのアプローチというふうにとらえられるかと思います。要は、将来世代の代弁者としての
役割を果たす
機関というものをどうつくるのか、あるいはそういった将来世代の利益を反映することのできる
財政システムの設計ということであります。
参議院ですけれども、やはり
特定の選挙区を持っていますと、どうしても現役世代の利害
関係に左右されてしまいますので、そういった選挙区を持たない憲法上の
独立機関、旧憲法下におきましては貴族院ないし枢密院というのがあったわけですけれども、そういったものを想定いたしますと、そういう意思
決定というのもある種必要ではないかなというふうに思っております。
また、先ほど言いました
予算を
二つの勘定に分ける複会計
制度を採用する場合、特に中長期的な影響の大きい資本的収支勘定における
予算におきましては、
参議院の
予算編成上の
権限をむしろ強化するということも
考えられるかと思います。単に
決算審査の
権限を強化するだけでは、ガバナンスの
観点からいえば、ちょっと力不足だというふうに思っております。
それから、
最後に、
会計検査院の位置づけということですけれども、よく
議院内閣制かあるいは大統領制かという
行政権の
あり方の違いによってその所属が変わってくるというような
議論がされる場合が多いんですけれども、私は、むしろこれは
予算の法的性格の違い、要は、
予算編成権の所在が実質的にどこにあるのかということに左右されるのではないかと
考えております。
なぜならば、
会計検査院が、単に
決算の
合規性だけではなくて、これは法規準拠性とも言われますが、適正性の
観点から、いわゆる三E監査、
経済性、
効率性及び
有効性といった
政策上の
判断の是非をも問うような監査を行うのであれば、
予算編成権の所在しているところに附属させないと、そういう
判断はそもそもできないということが言えようかと思います。
ですので、
予算が
行政の一環であるとされた旧憲法下におきましては、当然、
予算編成権が
行政権にありましたものですから、
行政権の中の独立した
機関とされていたわけでありますし、これは非常に合理性のあった
制度設計であります。
他方で、
財政立憲主義のもと、現行憲法下においては、先ほど言いましたように、
国会が最終的に
予算をすべて
決定する
権限がある、持つということであれば、
会計検査院は
国会に属する組織、
機関として位置づけることも非常に合理性のあることであるというふうに
考えられます。
要は、公会計の
役割というのは、将来世代の声なき声というものをなるべく数字であらわしていこうとするものであります。それによりまして
政府の意思
決定を
国民が直接コントロールしていく、自分の利益を害さないようにしていくというふうな
考え方であります。
若干時間が過ぎました。以上で終わります。(拍手)