○
坂野参考人 時間が四十分ですので、早速話させていただきます。
一番目に「普通の
憲法成立史」と書いて、aとbと書いてありますものは、実は、
事務局がお
つくりになった
明治憲法と
日本国憲法に関する
基礎的資料の二十七が基本的にこれでできておりますので、細かい中身には入らないで、
問題点だけを指摘して、私がなぜ、二以下、こういう構成で物を言うかの説明だけをさせていただきたいと思います。
aの方は「
民権派の
憲法史」でして、
明治七年一月七日に
板垣退助たちが
民撰議院設立建白をやってから
民権派の運動が続いていって、四番目に書きましたように、一八八一年、
明治十四年に
民権派のすごいたくさんの、すばらしい
憲法構想が出た。いかに民主的で、いかに立派な
憲法が民間から出たかというものです。
bの方は、その運動がほぼ最初の一年だけかみ合うんですが、
明治十四年、一八八一年七月に
井上毅の
憲法意見、太政官大書記官、
法制局長官に当たるかと思いますが、それが出て以来の、今度は
明治政府側がいかに苦労して
憲法をつくっていったのか。特に二以下の、
伊藤博文らの
憲法調査のための一年半にわたる調査とか、それから、帰ってきてから伊藤のもとで、
金子堅太郎、
伊東巳代治も含めた、それからドイツからはレースラーを連れてきてやった
原案づくりの過程、それから
枢密院での
審議活動。要するに、
明治憲法をつくった側がどういう
憲法を考えて、どれぐらい苦労したかの話が書いてあります。
aの方は、運動の側がどんな立派な構想を考えていたかという話になっていまして、「
問題点」で指摘しましたように、反
体制派の
憲法史が
明治憲法にどういう影響を与えるのか、あるいは、
体制派の
憲法が
憲法制定過程で反
体制派の
憲法草案にどういう影響を与えたとか、そういう話は全く出てこないんであります。それと同時に、今度はbの「
明治憲法成立史」、
稲田正次先生の立派な本があるんですが、それを幾ら読んでも、実際に、一八八九年、
明治二十二年以降展開していった
憲法と
制定過程とはどういう関係にあるのかが全く関心の外にある。
そういうことを考えますと、この二点の問題を考えまして、まず第二としまして、
明治憲法の実際運用上の
問題点を指摘しておいて、それが
制定過程からどういうつながりがあるのかをお話しした方がわかりいいんではないかというのがきょうの報告の趣旨でございます。
最初に、
明治憲法そのものについて、やや面倒くさい話です。
御存じのように、
明治憲法の第一条は「
大日本帝国ハ万世一系ノ
天皇之
ヲ統治ス」とあって、第四条で「
天皇ハ国ノ
元首ニシテ統治権ヲ
総攬シ此ノ
憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とある。
二つ問題がありまして、一つは、これは
同義反復というか重複しているんじゃないか。万世一系の
天皇がこれを統治する、その
天皇が国の元首で
統治権を総攬するなんて当たり前で、なぜ二つあるのかというのがまず一つの問題。
次は、第四条で、前半と後半で随分違うじゃないか。「国ノ
元首ニシテ統治権ヲ総攬」する
天皇が「此ノ
憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」。
憲法で縛られているのか。それでは、「万世一系ノ
天皇」は一体どうなるのかという話があります。
制定者たちは当然このことに気がついておりまして、
伊藤博文と
井上毅の合作によります
明治二十二年の「
憲法義解」、「
大日本帝国憲法義解」ではこういうふうに説明しています。第四条の前半の「
統治権ヲ総攬」するというのは主権の体であって、後半の「此ノ
憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」というのは主権の用だと。体だけあって用がなければ専制になってしまう。用だけあって体がなければこれは散漫になる。言いたい放題になってオーダーがとれない、だからそのバランスをとるんだというのがつくった人間の側の
解釈です。
明治の末年になりますと、
東京帝大法学部の
美濃部達吉さんの「
憲法講話」というのが出まして、これが、後半だけにアクセントを置いて
憲法を
解釈改憲いたします。読んでみますと、「
憲法実施の後は
統治権の行使は
憲法に依
つて一定の制限を設けられて居つて、」、後ろだけですね、「此ノ
憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」、「
憲法の条規に
従つてのみ
統治権を行はせらるるのであります。是が
立憲政治の
専制政治と異つて居る所以でありまして、
天皇の
統治権に斯の如き制限が有るが為めに、我国は立憲政体の国たるのであります」。これは、さっきの
伊藤博文の警戒したこと、「用ありて体無ければ之を散漫に失ふ」方の
解釈になるわけです。
それに対して、前半の方に重点を置いたのが、同じ
東京帝大法学部の
穂積八束の「
憲法提要」。
美濃部の二年前に出ています。全文は引用いたしませんけれども、中身だけ言いますと、
統治主体の
天皇が
憲法上の
統治機関に従って運営するというだけであって、前段の「
天皇ハ国ノ
元首ニシテ統治権ヲ総攬」するというその主体と、その下にある機関、議会あるいは
憲法なり、そういうものは本末、主従の分界があるんだと。
天皇が総攬するのが本で、この
憲法の条規によるという方が末なんだという解釈をする。同じときにこの二つの解釈が行われているわけです。
なぜこういう正反対の
解釈が出てくるのかが、三で述べる
憲法制定史のプロセスであります。
次は、「
立法権」です。
これは、
衆議院でのお話ですから一応述べておきますと、割と簡単で、
明治憲法のもとで、議会には
立法権は完全にあります。第五条で、
天皇の側から規定しますと「
天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ
以テ立法権ヲ行フ」と書いてある。第三十七条で、議会の方からいいますと「
凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ
経ルヲ要ス」と書いてある。合わせると、議会の同意なくして
天皇は法律をつくることができない。これは
明治憲法のもとでそうなっております。学者によりましては、この「協賛」というので議会の権限は認めていないという方もありますが、これは、
英文版の「
憲法義解」を読みますと、コンセントになっております。だから、はっきり同意なんです。
その結果どうなるかと申しますと、
伊藤博文の
解釈がもう一つありまして、確かに
立法権は議会に全面的にあるんだけれども、一院の可とするところにして他の一院が否とするところは、これを法律とすることはできない。そうすると、例えば
衆議院がオーケーしても
貴族院がノーと言えば、これは法律にならない。こうなりますとどうなりますかというと、当時、今の
参議院と違いまして
貴族院ですから、
貴族院は
政府案は必ず通る、そのかわり
衆議院で通らない。今度は
衆議院が減税をやれという法案を出して
衆議院を通したら、
貴族院がノーと言うから、今度
貴族院は通らない。
要するに、政府も議会も守ろうと思えば、どんな
増税案も
衆議院は否決できるけれども、
減税案は
貴族院が否決するから、これは通らない。どこかで妥協せざるを得なくなるというのがくだんの
立法権の問題。その問題、
貴族院と
衆議院の関係を除けば、基本的に
立法権は
明治憲法で認められておりました。
次の
ページに行きまして、最初の第八条、
緊急勅令は飛ばします。
三の
天皇の四大大権、
行政大権、
統帥大権、
編制大権、
外交大権、これが
明治憲法のかなり重要な、基本と言ってもいい。もう
余り中身を詳しく言っていると時間がありませんけれども、第十条の問題は、要するに、
天皇は藩閥の
政治家を
総理大臣に任命してもいいし、しなくてもいい、
政党員をしてもいい、どちらも合憲だというのが第十条の
行政大権でして、ただし、
総理大臣が
天皇によって任命され、各
大臣も
天皇によって任命されるという、そこが戦後
憲法と別の決定的な違い。
問題は、
御存じ、
統帥大権、第十一条。これは「
天皇ハ陸海軍ヲ
統帥ス」というだけしか書いてない。何のことかといいますと、要するに、
作戦用兵のことを
統帥権という。これに対しては議会はもちろん
内閣も介入できないというのが
明治憲法十一条の意味でありまして、注目すべきことは、史料五で、あの
天皇機関説、
大正デモクラシーの
憲法学者と言われる
美濃部達吉の「
憲法講話」におきましても、この
統帥大権は認められておるのであります。
ちょっとだけ大急ぎ読んでみますと、史料五ですね、「
軍令権といふのは軍隊の
統帥権を謂ふのであつて、是は
天皇が大元帥として親しく総括し給ふ所であります。」「是に付ては全く自由で、何等の制限もなく、
帝国議会の協賛を要しないばかりではなく、
国務大臣の輔弼をも必要としないのであります。」
軍令権、すなわち
統帥権についての
輔弼機関は元帥府や
軍事参議院というのがあって、さらには陸軍には
参謀本部、海軍には
海軍軍令部がある。
これは
内閣の
権限外だということを
美濃部達吉も明瞭に明示しているわけであります。
その結果、後でもちょっと時間があれば触れますけれども、一九三一年の九月以降の
関東軍の暴走については
美濃部憲法学は無力でありまして、一番
リベラルな
憲法に従っても、
関東軍の行動は
内閣はチェックできないということになります。
第十二条の
編制大権というのが、これが
満州事変の一年前の
ロンドン海軍軍縮条約のときに、
海軍軍令部長加藤寛治との間で物すごい問題になる話でありますけれども、これもちょっと面倒な問題があります。
まず、要するに
国防方針の決定、
基本方針ですね、五年計画とか八八艦隊とかそういうものに関しては、軍隊が
作戦用兵の指揮をする話とは違いますから、
国防計画の基本については、これは
内閣に権限があるというのが大体の
解釈だったわけであります。これをめぐって昭和五年、一九三〇年に大問題になる理由は、以下ちょっと簡単に述べさせてもらいたい。
史料六は、
伊藤博文、
憲法制定者の意見。これもとより
責任大臣の輔弼によると書いてありますから、
陸海軍大臣の
責任であって議会の干渉は要らないのだ、議会は関係しないと書いてあります。
そのことを持ってきまして、要するに、
伊藤博文たちがかなり権威のある
憲法解釈を出して、それを修正することによって
美濃部憲法学が出てくる。
史料七が
美濃部の立場でありまして、本条の大権は
統帥権と異なって、要するに戦争の本陣ですね、本陣の大権に属する、
天皇の大権に属するものでなくて、政務上の大権に属するのだから、
内閣が
責任を持つんだというのが
美濃部解釈。そうなりますと、
浜口内閣が
ロンドン海軍軍縮条約に調印したことは、これは
美濃部解釈によれば合憲になります。そして、
伊藤博文の
解釈もそれを支持しているように見える。
ただ、ちょっと面倒くさくなりますけれども、史料八には、海軍には軍令でできました
軍令部条例というのがあって、これによると、十一条だとか十二条だと言わず全部、
海軍軍令部長が
総理大臣をパスして
天皇に直接意見を上奏して認可をもらってから
海軍大臣に移すんだと書いてありますから、これはどっちに属するのか。
明治憲法が極めて多義的というかあいまい、
解釈が分かれる。
憲法によれば、
浜口内閣の
ロンドン軍縮条約調印は合憲なんですけれども、
海軍軍令部条例によれば、やはり国防も用兵もともに
天皇の認可を
軍令部長あるいは
参謀総長が直接得てから、それから
陸海軍大臣を通じて
内閣に渡すというんですから、これは
統帥権の独立の余地がある。
余りゆっくりしゃべっていると時間がありません。もうわかっている話は簡単にします。
第十三条は
外交大権で、これは議会は関係できないということが明記してあります。
問題は、第五十五条の
国務大臣単独責任制でありまして、
憲法には、「国務各
大臣ハ天皇ヲ
輔弼シ其ノ
責ニ任ス」という「国務」の後の「各」という、これだけしか書いてない。その意味することは、
政党内閣のような
連帯責任、イギリス的な
連帯責任なのか、もう外務のことは
外務大臣、大蔵省のことは
大蔵大臣だけの個別の
単独責任なのかの、もめる大もとの文章は、この「各」だけです。
史料九—a、bはちょっと細かくなりますから飛ばしますけれども、ここから
解釈して出てきたのが、
行政学の大権威の
辻清明さんの、要するに、
日本明治憲法によって国務各
大臣が
単独責任で、
連帯責任がなかったから、あの戦争をも終わらすことができなかったという
解釈が出ている。
ただ、次の
ページで、大先生の批判は私はもう既に公のところでしておりますから別に構わないのでさせていただきますと、
辻先生が引用しなかった部分、
単独責任、
連帯責任はとらないというのが二
ページの終わりから三
ページの初めに書いてありますけれども、「此我が
憲法の取る所に非ざるなり…。」とあるその「…」に何があるかというと、史料の十が間に一字もなくつながっていく。
伊藤博文は、そんなむちゃなことは言っていない。
「若夫れ国の内外の大事に至ては、政府の全局に関係し、各部の専任する所に非ず。而して
謀猷措画必各大臣の協同に依り、互相推委することを得ず。」譲り合うことはできない。「此の時に当て各
大臣を挙げて全体
責任の位置を取らざるべからざるは固より其の本分なり。」
要するに、
内閣全体が
責任があるんだと、国の内外の大事に対しては。さもなきゃ
明治国家は運営できませんから、これはある程度当たり前の話なんですが、後に行くに従って、日本は
連帯責任がないから
内閣の権限が弱くて、
陸軍大臣は
陸軍大臣、
外務大臣は
外務大臣でばらばらにやっていたからあの戦争を終結できなかったんだという話が出てくる。
これは
伊藤博文の意図にはかなり反した。それが証拠に、史料の十一に
内閣官制第五条というのがありまして、
憲法のできた年の十二月二十四日に
内閣がつくった。これによれば、大体かなり大きな、さっきから言っています陸軍、海軍の
作戦用兵以外の大部分のことは閣議を経なければならない。閣議を経るということは
内閣が全体
責任をとるということなんでありまして、そこの中の第七条で書いたことから、要するにさっき言いました
作戦用兵だけは
内閣の閣議を経ませんけれども、他のすべての条件は入るわけであります。
これに気がつきましたときに私もちょっと、
美濃部達吉はこれを根拠に
統帥権以外は全部
内閣だと言っているんですけれども、最初、ちょっとこれを読んだときには、片っ方は
内閣官制でございます、片っ方は
憲法です、国の
最高法規たる
憲法を
内閣の官制で
解釈していいのかなという気持ちが少しありました。
しかし、私の
最終結論は、要するに、
明治で言わせてもらうと二十二年の二月十一日に
明治憲法ができて、その年の十二月に
内閣官制ができたとすれば、この
内閣官制にはそのときの政府、
伊藤博文だとか
山県有朋たちの、
明治政府の公式な
憲法解釈がこの
内閣官制にあらわれている、同じ政府が違うことをやるわけありませんから。そうすると、五十五条という
単独責任制というのはかなり怪しいものですよという話になります。
明治政府の
伊藤博文たちの中心には、やはり
作戦用兵以外は全部
内閣がとるんだという感じを持っていた。先ほどからちょくちょく出てきますように、
内閣が
責任を持つ、ただ議会じゃないよという、そこが
明治憲法のほかとの違いであります。
もう時間も大分なくなってきましたから、史料十二は説明だけにしますけれども、今の
内閣官制第五条を中心に、
明治末年に
美濃部達吉が、すべては
内閣が
責任を持つ、
内閣が全体として、一体として閣議を決定しなきゃいけない、意見が一致するためには何がいいかというと、同一の政党が
内閣をとるのが一番いいじゃないか、
明治憲法が一番求めているのは
政党内閣制であるという、
制定者からいえばとんでもない
憲法解釈が出てくるのであります。
あと、肝心の方が時間がなくなってきましたけれども、なぜこんなに違う
憲法解釈が出てくるのかというのは、
憲法制定過程にあったんだというのが私の
ポイントです。
第一の点は、一八八一年七月、
明治十四年七月に、
岩倉具視が
大綱領、小綱領という
憲法構想を出します。これは
井上毅が実質的に全部やったことは史料的に明らかであります。
問題は二つありまして、一つは、これを読むと、さっきあれした
伊藤博文たち、一年半も
ヨーロッパに行って何してきたんだろう、遊んできたんじゃないかと思うぐらい、
明治憲法の骨格はここでできております。
まず「一、
天皇ハ陸海軍ヲ
統率スルノ権ヲ有
スル事」、これが
憲法十一条でございます。「
天皇ハ宣戦講和及外国締約ノ権ヲ有
スル事」、これは第十三条でございます。「
天皇ハ大臣以下
文武重官任免ノ権ヲ有
スル事」、これが第十条であります。
問題は、その次の「
大臣ハ天皇ニ対シ重
キ責任アル事」というのが、ここが五十五条にどっちへ行くかという分かれ目であります。
その中に、
井上毅はもう一個細かい小綱領をつくっていまして、それによりますと、「
大臣」というのはこの場合
総理大臣になります。「執政」が一般の
大臣になると思います、太政
大臣です。「
大臣執政」首相及び
大臣「ノ
責任ハ根本ノ
大政ニ係ル者ヲ
除ク外、主管ノ
事務ニ付各自ノ
責ニ帰シ、
連帯責任ノ法ニ依
ラサル事」よらないという。
単独責任制だとさっき、
辻先生が言っていたとおりのことが
井上毅の原案にはあるのであります。
そして、では、「根本ノ大政」とは何かというと、括弧のところですね、政体の改革とか領土の
分割譲与とか議院を開閉、中止するとか、戦争をするか講和を結ぶか、
外国条約。
井上毅の原案によりますと、物すごい
国家緊急非常事態だけ
内閣、あとは
単独責任。ですから、ここで言いたいのは、
井上毅の案によれば、
辻先生のような
単独責任制が正しかった、原案は。
伊藤博文かだれかがそれをもうちょっと
リベラルに変えて
明治憲法になったんだという話になります。
あとはちょっと飛ばしまして、四
ページに行きますけれども、要するに、
岩倉具視と
井上毅がつくった綱領の中に、最初に
明治憲法について述べました
行政大権、
統帥大権、
外交大権、
国務大臣単独責任制、全部出ているんだ。だから
明治十四年七月に
明治憲法の骨格はできたと言っていいんだ。そこが一つの
問題点であります。そして、そのときには、非常に
リジッドな、本当に国家非常の
戒厳令でもしくとき以外は国務各
大臣が単独でやっていいはずになっていた。
第二番目がきょうの
ポイントなんですが、こう言うと
井上毅がすごい天才的な学者で、
明治憲法のすべてが
井上毅の頭脳から出てきたように思われます。確かに、それ以後の
枢密院の議論とかあるいは
伊藤博文たちの
ヨーロッパの調査なんということは、このことから見ればお飾り、飾りをつけ、
箔つけに行ったぐらいしか見えません。ただし、それにもかかわらず、私のちょっと乱暴な言葉を言わせていただくと、
井上毅の
基本案の前提として、
福沢諭吉を中心とする
交詢社の私
擬憲法があったんだということを言いたい。
史料十四だけはちょっと読ませていただきますけれども、
自分たちがつくった、第一項、第二項において
大臣の進退を専ら天子に帰して、
連帯責任を免れさせようとしたのはなぜかというと、二行目で、「
交詢社ニ於テ起草セル私
擬憲法案第九条ニ「
内閣宰相ハ協同一致シ内外ノ政務ヲ
行ヒ連帯シテ其責ニ任スヘシ」」とある。これが七月ですから、四月につくった
福沢系の
交詢社がつくった
憲法第十二条に、首相は
天皇が衆庶の望み、すなわち民意によって親しくこれを選任し、だから多数党の総裁が
総理大臣になる。その他の
大臣は首相の推薦によって行われるんですから、完全な
政党内閣。多数党の総裁が首相になって、その首相が
大臣を任命するんですから、完全な
政党内閣になる。
あと、ちょっと十七条は除きますけれども、史料十四の下から三行目、「以上各条ノ
主意ハ」意図は「
内閣執政」
大臣「
ヲシテ連帯責任セシメ、」ということで、「
而シテ議院ト合ハサルトキハ輙チ其職ヲ辞シ、議員中
衆望アルモノ之
ニ代ル所謂政党内閣新陳交替」、今の言葉で
政権交代、「ノ
説ニシテ、正
ニ英国ノ
模範ニ倣フモノナリ。」と。
要するに、
明治十四年四月に
交詢社がかなりはっきりした、この
事務局がお
つくりになった資料で、
明治憲法の
関係法規に全部載っております。
ここで言いたいのは、明文化された
イギリス流の
連帯責任・
議院内閣制の
憲法があって、それを目の前にして、
井上毅がこれではまずいというところを直すと、さっき述べた
岩倉大綱領になって、それに箔をつけて、いろいろ
尾ひれをつけると
明治憲法になるんだということであります。
要するに、大もとが
福沢諭吉らの
交詢社の
憲法にありますから、どんなに
明治憲法で
リジッドにつくろうと思っても、大もとの
リベラルな原案が透けて見えざるを得ない。そこでさっきの
美濃部達吉のような見解が出てくる。
明治憲法の
解釈改憲が可能だった根本というのは、大もとに
交詢社案があって、そこのまずいところを手直しして
井上毅案が出てきているからであって、言ってしまえば、
井上毅と
福沢諭吉の合作として
明治憲法があるから、冒頭に述べましたように、
明治憲法というのは相当
リベラルにもなるし、相当に専制的にも、どっちにもなるようになっているのは、この合作だからだということが言いたかったのでございます。
あと一つだけ
尾ひれをつけて、話は結論に持っていきたいと思うのです。
もう一つ、要するに、
交詢社案の手直しが
明治憲法だという典型が史料十五。
交詢社の第二条は、「
天皇ハ聖神ニシテ犯ス可ラサルモノトス政務ノ
責ハ宰相」
大臣「之ニ当ル」と書いてある。ところが、この後ろを落としてみますと、
明治憲法第三条の「
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」となる。同じ文章だけれども、後を落とすと意味は百八十度違う。
福沢たちがこれをつくったのは、
天皇は神聖だから棚に上げておいて、政務の責は
内閣、
大臣がそれに当たるというためにつくったんです。後ろを消せば、「
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」になって、
天皇親政になって、正反対のものになるんだということが言いたいわけであります。
それで、ちょっと時間がないから飛びます。
史料十八の下に丸がありまして、仮に
明治の末年までに
井上毅と
福沢諭吉が生きていたらどうなったかという設問をしている。
井上毅は
明治二十八年に亡くなっており、
福沢諭吉は
明治三十四年に亡くなっている。
井上毅の方からいえば、さっきも述べましたような
美濃部の
政党内閣論、もう完全に
解釈改憲しちゃった、
リベラルになった
明治憲法を、
井上毅が生きていたら、何でこうなっちゃうの、おれが死に物狂いで直したじゃないの、手直ししてちゃんとした
憲法をつくったのに、何でこんなになっちゃうのという話になり、
福沢諭吉が生きていたら、まだこんなこと言っているの、おれが
明治十四年に全部言ってあるじゃないですかという話になるはずなんであります。
だから、ここで、
井上毅案と
福沢諭吉のその論争の結果、それが一たん終わって、次にまた福沢案にまで戻るのに三十三年ぐらいかかっているんだということが一つ言いたいことであります。
最後にごく簡単に、きょうは
民権派のあれはしゃべることができなかったので、大急ぎで。
五
ページの史料二十一で何を言いたかったかといいますと、
リベラルな方の福沢とそれから保守的な
井上毅の間には一対一の関係があることは、今述べた。それと違う第三の立場というのは植木枝盛や中江兆民など自由党左派の立場であって、これは読みませんけれども、基本的にいえば、政権参画しないということです。
内閣は、政府は政府で勝手にやってくれ、我々は議会のマジョリティーをとって、そのかわり妥協はしない。治者気取りと言うのですけれども、為政者を気取ると、国家財政が苦しくなれば消費税も増徴しなきゃならなくなる。だから、為政者にならないで、だめなものはだめという立場をとるべきだというのが自由民権運動の植木枝盛たちの立場なんです。
これを読みましたときには、やはりこれじゃいつまでたっても事態が解決しないな、植木のはだめなんじゃないかなと思ったのですけれども、最近になってみますと、割と五五年体制というのも懐かしいなという感じもありまして、政府は政府のやりたいとおり、議会はそれに対して徹底的に拒否権を行使するというのは、政治の
あり方としては、システムとしては好きじゃないけれども、結果としてはなかなかいいものが出てきたという面もあるんじゃないかな。いずれにしろ、
井上毅と福沢だけではアンフェアだから、植木枝盛の立場もここに入れておきました。
植木の立場からいえば、
政党内閣にならない、行政権に
責任を持たない、そのかわり、議会は国民、民意を代表して、だめなものは徹底的に拒否するというのが自由党の立場であります。
今言いましたのは、だめなものはだめの自由党がそのまま続くんじゃないんですけれども、急回転して仲よくなります。そうすると何が起こるかというと、
衆議院の多数派の板垣退助は絶対、行政をとろうとはしない。そのかわり、
伊藤博文に官僚を抑えてもらって、自分は
衆議院をとって、だから、さっきの植木などのは、だめなものはだめで永遠に対立しますけれども、ところが、もう一つ別のあれでは、
伊藤博文に行政権を握ってもらって、自分は
衆議院をとって、官と民が調和するという機構に行くのです。
だから、一見、植木枝盛の立場から——
御存じ立憲政友会がそうです、
伊藤博文を総裁にして自由党が
衆議院を握る。これに行くのは正反対、百八十度の転換のように見えますけれども、実は考え方は似ていて、何がないかというと、政権を担当する、多数党が行政権を握るという発想がないのが自由党の考え。このために、結局、
議院内閣制的な話が出てくるのが、三十三年おくれの一九一二年段階になって初めて出てくるんだ。そのおくれ、
議院内閣制をつくる、
憲法解釈で実現するためにこんな三十三年もかけちゃったために、実は一番大事だった、例外条項であった
統帥権の独立というものについて
リベラル派がこれを手直しする時間が、余裕がなかった。
最後になりますけれども、史料二十七を読んでいただきますと、昭和二年、一九二七年に
美濃部達吉が「逐条
憲法精義」を出しているのですが、要するに、ずっと
議院内閣制のためにこの人たちは勉強してきたもので、何を言っているかというと、
統帥権は独立しているということを書いたのです。そこに何て書いてあるかというと、「
天皇の下に兵権の一部を委任せられて居る者は、
国務大臣の監督の下に属せずして
天皇に直隷する」、
統帥権は独立していると。それを具体的に、「
参謀総長・
海軍軍令部長等の
輔弼機関は勿論、師団長、朝鮮軍・台湾軍」、殊に、よりによって「
関東軍の各司令官」は皆
天皇に直属していて、
内閣に直属していないという本を出した、当時の一番
リベラルな人が。
これから四年後に
満州事変で
関東軍が行動を起こす。そうすると、
美濃部さんも言っているじゃないかということで、
美濃部憲法学からは
関東軍の暴走、現地軍の暴走というのを阻止することができない。
最後に、このことに気がついていたのは、今はもう読みませんけれども、六
ページの史料二十五を後でお読みいただければ、大正十一年、一九二二年二月に、
美濃部憲法学のこれだと
関東軍的な現地軍の独走は抑えられませんよ、
統帥権の独立も抑えなきゃいけないんですよと言ったのは吉野作造さんであって、だから、僕は政治学の方で
憲法学じゃないから、よくこれを引用するんですけれども。吉野さんは、
憲法学でやっていると
美濃部さんみたいに
統帥権の独立を認めなきゃならなくなる、政治学でやれば抑えられるんだと。だから、
憲法学がだめで、政治学がいいんだと言うときに必ずこれを引用するんです。立場として吉野はそうだったということで、何はともあれ、おわかりいただけたかどうかわかりませんけれども、時間が来たので、終わらせていただきます。(拍手)