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岡村参考人 こんにちは、
岡村です。
今、
鳥居先生の方から、
教育を受ける
権利のかなり具体的な
内容について
お話がありました。隣の先生が慶応で、僕は早稲田で、神宮球場じゃないんですけれども、きょうのこのテーマの
内容を深めるという
意味でいえば大変いい機会だろうというふうに思っています。
個人的なことになりますけれども、僕は一応
教育学をやっていることになっています、これは本人と余り
関係ないところでそういうふうに言われているのですけれども。ただ、三十年を超えましたけれども、大学の教師をやっていて、この三十年間の学生
たちの物の見方、
考え方、あるいはそれに基づいた行動、随分変わってきたというふうに思います。もちろん、いい面でも悪い面でも変わってきているわけですけれども、
一言であらわすことはできませんけれども、やはりどういう
教育を若い人
たちと実際に行うかによって、その人
たちが持っている力が伸びたり伸びなかったりするという
意味では、
教育というのは大変難しい。これは実感です。
もう
一つは、僕は、卒業生が全国あるいは
世界へ出かけて教師をやっています、その
関係で呼ばれて、あちこちの
学校で授業をすることが多いです。昨年は大体二十幾つやりました。ことしも、ことしは始まったばかりですけれども、来週また
一つ二つ出かけることになっています。
特に高等
学校で授業をする機会がとても多いのですけれども、ここでも
子供たちのある種のうめきというかあるいは叫びというか、本当は大学に行きたくないんだけれども周りが行けというような、そういうプレッシャーがかかっている。僕はそれも
教育だとは思いますけれども、それ以上に、
子供たちが本当のところで何を考え、何をしたい、どういうふうに生きようとしているのかということについて、十分に受けとめるだけの
教育ということがほとんどなされてこなかったな。これは
教育基本法が悪いからというわけじゃ決してないわけでして、むしろ実践に類するようなそういう問題であろうかというふうに思います。
僕は、先ほど言いましたように、三十年教師をやっていて、余り大した
仕事もやっていませんけれども、人に何か言うべき
事柄があるとすれば、
教育におぼれている。おぼれるにもいろいろなおぼれ方があるんだけれども、あるいはかけごとにおぼれるとかお酒におぼれるとかというのはあるんでしょうが、僕は、
自分で言うのも非常におかしな話ですけれども、
教育におぼれたな。おぼれた
人間はどうしても何かわらをつかむんだけれども、僕にとってのわらというのは、これはわらと言うと大変失礼かもしれない、あるいは評価を落とすことになるかもしれないけれども、やはり
教育基本法だったと思うんです。
教育基本法にいろいろな問題点が生じてきたということは事実だと思うんですね、もう五十五年たっていますから。だから今日風にファッションを改めよう、そういう短絡的な
考え方を僕は持たない。むしろ、
教育基本法の理念として、何が実現されなくて、何が阻害要因になっているのかということを、現場に即して、一人一人の
子供に寄り添って考えていくことが我々の責任だろうというふうに思っています。
前置きはこれぐらいにしまして、
レジュメにありませんけれども、ふだんと全く同じ、教室でやっているようなそういうことをきょう
お話しできればと思って、ふだんどおりの
レジュメにならない
レジュメを書いてきました。
僕は
教育学部ですけれども、実際にこの人権問題あるいは人権論というようなことについて言えば全くの素人です。大学で二十年近く人権
教育、これは僕流の人権
教育なので、世間で言われるような啓発とかあるいは
教育によって人権感覚を高めるというのとはちょっと
意味合いは違いますけれども、そういう人権
教育を実際に担当してやってきた。その中でいろいろな問題を教えられてきたんですね。
つい最近のケースですと、昨年の十月に、今大変大きな問題で我々も関心を持っているんですけれども、拉致に遭ったその被害者の御家族が僕が担当している授業に来てくれました。そのときに、大学の教員もあるいは学生も、何で拉致被害者を大学に呼ぶことが人権問題なんだよ、人権
教育なんだよ、こういう指摘を受けたんですね。だけれども、実際に二週にわたって授業を行い、そして生の声を伺って、学生
たちの反応を見ていると、こういうところに生の人権の問題があるんだということを本当に素直に受けとめて驚いていた。
人権については、この小
委員会でもう既にかなりな
議論の蓄積があるようです、
憲法的な問題あるいは
外国の問題を含めて。それから、前回は苅谷さんが来られて、人権ではありませんけれども、
教育を受ける
権利、基本的な
権利としてのその問題を扱われています。僕は、少し違ったスタンスで
お話をしてみたいというふうに思っています。
ざっとですけれども、人権とは何だろうか、そういう人権についての一種の定義らしきものを考えてみたのですけれども、なかなか浮かばない。簡単に言いますと、僕は、
人間は大変尊厳性を持っているとか、あるいは理性を持っているとか、あるいは生まれながらにして自由、平等であるという、その根拠をただしていくと、どうしても
一つは自然法という
考え方に到達しちゃうんですね。
自然法という
考え方、これはロックあたりから出てきているのだろうと思いますけれども、
人間は生まれながらにして自由であり平等である。そういう自然状態というのは一体どこにあったんだろう、これは素朴な疑問ですけれども。そういう自然法に基づいた人権根拠論、基礎づけ論というものを具現したのが、
フランス革命によってつくられた人権宣言だというふうに言われています。あるいは、それより少し前に出たアメリカの独立宣言というふうに言われています。確かに、その中には、生まれながらにして自由であり、そして幸福を追求する
権利を有するというふうに書かれているけれども、実際にその時代あるいはその
社会における自然状態そのものが実は人権宣言なりあるいは独立宣言の中にはっきりとあらわれているというふうに見た方がわかるんですね。
例えば、
フランスで、その当時、女性だとかあるいは
子供だとか、それがどういう状況に置かれていたかというようなことは、だれだって少し考えればわかることです。
フランス人権宣言のあの
最初の表題にしても、
人間と市民の
権利というふうに書いてあるけれども、その
人間は男であり、市民は男の市民であるということは、これも当たり前の話になっています。
それから、アメリカの独立宣言、一七七六年だったと思いますけれども、これが出されたときにアメリカは既に奴隷制というものを持っていました。黒人そのものを
人間以下のものとして、あるいは
人間以外のものとして扱っていた、そういう状況に乗っかって独立宣言が出された。
もちろん、その後の発展を見れば、そういう根本的なところでの人権というものの
規定は大変大きな力を果たしたというふうには認めることはできると思うんですね。しかし、ある
人間には人権はあるけれども、ある
人間には人権は認めない。そして、その後の百年、二百年、人権を獲得するための歴史を人類は築いてきたというふうに僕は思っているんですね。
したがって、人権の根拠というのは自然法であるという
考え方、あるいは理性的な動物だというふうに言ったカントのような基礎づけ論というのは、ある
意味でいえば、非常に時代おくれになってしまったな。だから、二十一世紀にふさわしい人権の根拠論というふうに言えればいいのだけれども、そういうものを僕は持っているわけじゃありません。非常に単純に、常識的に言えば、人権というのは、これは根本的に生まれながらにあるんじゃなくて、それに値するだけの働きなり活動をすることによって
自分のものにしていく
権利であるというふうに考えたらどうだろう、そういうことを書いておきました。
人間がそれにふさわしい価値を獲得することによって
権利は初めて生まれる。逆に言えば、
義務というものが根底に含まれなければ、
権利というのは身勝手なものだなというふうに思うわけですよね。したがって、その
義務というものをどういう形で一人一人の持ち分に深めていくことができるかということが、これは
一つは
教育の力だろう、あるいは
教育の
仕事だろうというふうに思っています。
それからもう
一つは、
権利とよく比較される
言葉で特権というのがあります、プリビリッジ。特権というのは特定の
人間にのみ、ある
意味でいえば、偏った
権利というふうにもし言えるならば、
権利というのはごくごく普通の
人間に、それにふさわしい力を示すことによって獲得されるべきそういう価値だというふうに考えております。
わけのわからない
言葉を使ったんだけれども、ノルマリスオブリージェという、ノーブレスオブリージェじゃないけれども、すぐれた
人間、あるいは大変力を持った
人間はそれにふさわしい
義務を果たすべきだという
考え方は、これは確かに一面の真理だろうと思うけれども、僕は、
権利とかあるいは人権というのはそういうものではなくて、やはりそれに値するようなそういう生き方をした
人間が
自分のものにすることができる、そういうものとして
権利というものを考えてみたい。
Iの「拡大・深化する人権の輪」という、これはもう言うことないわけで、どなたも言います。若干、僕流の勝手な書き方をしておきましたけれども、少なくとも自由権とかあるいは
生存権とか
社会権とか、そういうもろもろの
権利というものは、少なくとも我々の
社会では
権利として万人に認められる必要があるという形では認められてきているだろう、認知されているだろう。
そのほかに、また新しい人権というものがさまざまなところで出てきていますね。僕、四つまで書いておきましたけれども、そのほかに、これは特にこの数年、目覚ましい形で進んできたことによって僕
たちが挑戦を受けている人権論あるいは人権問題だと思うのですけれども、例えば、つい昨年の暮れから、あるいはことしの初めにかけて、生殖医療技術の特段の展開によってクローン
人間というのが生まれてくる、あるいは、体外受精によって恐らく今日では二万とかあるいは三万のオーダーで新生児が誕生しています。
今、多分、厚生労働省の
委員会の中で、親を知る
権利をどういう形で認めるか、つまり、体外受精によって誕生した
子供たちが一定の年齢に達して、
自分の親はだれだというふうに聞かれたときに、どこまで親を情報公開するかというようなことが
議論されて、国会で上程されるような話も伺っています。これは大変大きな問題だと思います。
我々の
社会でも、二年ほど前だったでしょうか、クローン技術に関する規制法という
法律ができました。その
法律を読んでみますと、今までの人権論ではおよそ手に負えないような新しい人権論というものを僕
たちは身につけなければどうにもいかないような状況に来ている。
僕はここでこういう書き方をしましたけれども、1から4あるいは5というふうに、どんどん人権の輪が広がっていくということはそれなりの必然性を持っていた、
社会的な必然性あるいは政治的な、あるいは
文化的な。1の次に2が来たから1がなくなるんではなくて、そういう
意味でいえば、1の上に2が乗っかり、2の上に3が乗っかり、いつでも人権の層というのはそのままでありつつ広がっていく。
別の言い方をしますと、例えば、1の段階でいえば、
国民にのみというのかな、言い過ぎだな、
国民に関して
保障されている人権、
権利というのはそういう言われ方をしたと思いますけれども、でも、今、その
国民の枠を超えたところでさまざまな
社会的な活動というものが行われる時代になってきました。
例えば、市民というレベルでいえば、NPOだとかNGOだとか、そして、
国家を超えて、ボーダーを超えてさまざまな問題にチャレンジしているという
意味でいえば、
社会という新しいステージが、
国家の上にというのか、あるいは
国家とともにというのか、そういうふうに用意されて、それにふさわしい形で実は人権というものを考えていく必要があるんじゃないかというふうに思っています。
二番目というか二枚目ですけれども、これもよくわからないんですけれども、ふだん考えていることをまとめるとこういうふうになるのかなと。
教育を受ける
権利を
一つの例として、基本的な人権というものを考えてみたい。
一九四七年に成立を見た
教育基本法というものは大変大きな働きをしたというふうに先ほど言いました。これは恐らく、いろいろな誤解があるようですけれども、少なくとも
教育基本法に関して言えば、自前で、自力で、今後の
文化国家というものをつくるために我々の先輩
たちが大変苦労してつくったものだというふうに言えると思うんですね。
教育を受ける、そういう
権利がそれ以前には極めて限られた
人間にしか認められていなかったということからいえば、六・三制の
義務教育制というものを多くの
国民にすべて開放したという
意味では、大変大きな働きをした
法律であったというふうに思っています。
教育に関して、そこに
教育刷新
委員会、
資料の中にもあることですけれども、一九四六年の九月に設置を見た
教育刷新
委員会の
議論、これはこれで、我々がもう一度丁寧に読んでみる、そういう値打ちがある審議会というか
委員会であったと思うし、そこで
議論されていたその
内容たるや、隔世の感と言うと何か誤解を呼びそうですけれども、大変なものだったというふうに思っています。
その結果、
教育を受ける
権利という
憲法二十六条を受けて基本法が出てきたのですけれども、刷新
委員会は、その二十六条を根拠として、具体的に基本法の出自を語っています。
教育立法の
法律主義は、直接の根拠を第二十六条に置いている。それから一番下、アンダーラインですけれども、
憲法上の要請に基づいて基本法は制定されたのだ。このことは忘れちゃいけないことだと思うのですね。
つまり、我々が今持っている
憲法というもの、その
憲法の理念を具体的に実現するために基本法というのはつくられたんだ。だから、
憲法と切り離して、あるいは
憲法がなかなか
改正されそうにないから基本法だけ先にやっちゃえというのは、とても乱暴な
議論だろうというふうに思っています。
こういう要請を受けた基本法は、先ほど言いましたように、
教育の民主化であるとかあるいは
義務教育の普及徹底、そういうレベルでは
世界に誇っていいような働きをしたというふうに思っています。
これは、今の
鳥居先生の
お話にもありましたけれども、
教育を受ける機会の均等というのは基本法の三条にあります。それから、二十六条は
教育を受ける
権利というふうになっています。
教育を受けた、その結果の不平等とか不均衡に関しては、これはおかしいじゃないかという、先ほど
学習権説というのがありましたけれども、これについて、もし時間があれば僕はちょっと触れてみたい。いずれにしても、基本的な
権利として
教育を受ける
権利というものが根づいてきたというふうに考えてよろしいと思うのですね。
(2)ですけれども、
基本的人権としてのひとしく
教育を受ける
権利というものをどういうふうに僕
たちは実際面において実現していくかということで、たくさんの問題があるんだろうと思うけれども、
二つばかり出しておきました。
これは多分、基本法の
改正については、この部分は十分に
議論してほしいと思うところです。
言葉じりというか、あるいは
言葉の問題だというふうに小さく問題をとらえられると非常に困ることだと思うので、あえてここに出しておきましたけれども、
教育を受ける
権利というものについて、受ける
権利、これを、受ける側じゃなくて、その反対からいえば与える
権利ということになっちゃうわけでして、それに比較の
意味で出したんですけれども、第二十五条、二十六条の前の第二十五条で、「すべて
国民は、健康で
文化的な最低限度の生活を営む
権利を有する。」と。
権利というのは、先ほど言いましたように、それを獲得するということだと思うのです。与えられるものじゃないんですね。与えられるものじゃない、
自分で獲得するものだという
意味では、実に適切に、健康で
文化的な最低限度の、最低限度というのをちょっと括弧に入れたいけれども、生活を営む
権利を持っている、この
権利は侵害されないんだと。
ところが、同じ
憲法の第二十六条で、「その
能力に応じて、ひとしく
教育を受ける
権利を有する。」と。これは、相当根本的なところで違うとらえ方だろうというふうに思っています。どういう文言がいいのか、僕に知恵があるわけじゃありませんけれども、少なくとも
教育を営むというレベルで
権利というものをとらえ直してほしいということをここでは述べておきたいというふうに思っています。
それからもう
一つ、これも先ほど
鳥居先生の話で出ましたけれども、ひとしく
教育を受ける
権利、こういう
考え方、これを等しい
教育を受ける
権利というふうに読む、あるいは、そういう
教育を実践しようとする現場の先生
たちがたくさんいますね。
下に挙げておいた英文が、これはドラフトです。
憲法のドラフトです。そこには、アン・イコール・
エデュケーションというふうになっていますね。等しい
教育を受ける、そういう
権利を
人間というか
国民というか人々は持っているんだと。それぞれの
能力にふさわしい等しい
教育を。これは難しいです、ここは。
つまり、
教育が難しいというのはこういう難しさがあるからだろうと僕は思うし、また、こうでなきゃ
教育はおもしろくないなというふうに思うのですね。できる
子供に難しいというか高い
教育をして、できない
子供に易しい
教育なんというのは、こんなのは
教育じゃないとは言わないけれども、大したものじゃない。むしろ、持っている力を伸ばせない
子供たちにその持っている力を
自分で発見させるような、そういう
教育こそが実は等しい
教育を受ける
権利として
保障されるんだろうというふうにあえて言いたいのです。
おまえ、そういうことをやっているかと言われると、いいえというふうに言わざるを得ないかもしれませんけれども、少なくともそういう理念であったと思うのですね、
教育基本法の理念としては。それは、それ以前の
学校体系あるいは実際に行われていた
教育内容を見てみれば、おのずと明らかじゃありませんでしょうか。
そして三枚目ですけれども、あえて
権利という
言葉を人権という
言葉に言いかえて、基本的な人権を一人一人が
保障される、そういう状況、環境をつくるために、我々はもっともっと人権あるいは
権利というものに関して丁寧な
議論をする必要があるだろう。それを踏まえた上で、なぜ基本的な人権というものあるいは
権利というものを擁護するのか、あるいは主張するのかということです。
これは、四つばかり挙げておきましたけれども、一番目ですね、切りのない経済的な富や効率の追求が
国家国民にとって願わしいことだとしても、人権はそういった一方向に偏った生活に再考を促すだろうと。
人間らしい生き方というふうに、人権は、豊かな経済性、あるいは物がふんだんにあるようなそういう環境に対して、
自分の生活を振り返らせるという
意味での力を持っているだろう。これは、我々の今の
社会の現況にも大変大きな
意味を持っているんじゃないかというふうに思っています。
それからもう
一つ、これも特に我々の
社会では大事だと思うんですけれども、とかくみんなが同じであることを強制しがちな
社会集団のくびきを離れて、人権は
自分にふさわしい生活感覚、僕の
言葉で言えば生き方の流儀というものを個々人に与えてくれるだろう。
それから三番目、スティーブン・ルークスという、これは
イギリスだったでしょうか
学者ですけれども、すべて
国民なら
国民、集団の成員のすべての利害とか目的が一致することはまず考えられない以上、あらゆる個々人が、基礎的資源の分配、
社会生活に関する法や規則の施行に際して不公正や専断からも公的に保護される必要があるだろうと。その
理由は、人権という観点からだということになるだろうと思います。
それから、人権を尊重するというのは、決して、ある一人の生活そのものを、あるいは個人の尊厳ということで認めることではなくて、むしろもっともっとそういう個人が尊厳を尊厳として主張することができるような、その人の生活そのものをある
意味でいえば
保障するために我々は人権というものを尊重するんだ。
終わりになりますけれども、この
基本的人権あるいは
教育を受ける
権利ということについてのきょうのテーマで、括弧の中に
教育基本法改正を含むというふうになっていました。
先ほども一、二点、
教育基本法のことについて愚見を述べましたけれども、僕は、
憲法というものがまずできて、そしてその中で
教育条項として二十六条がうたわれて、そこから
法律によって
教育を受ける
権利というものが認められたということで基本法が出てきた。したがって、
憲法そのものが十分に、今の段階で
改正しなきゃいけないというような、そういう状況にあるのかどうかわかりませんけれども、少なくとも基本法だけを切り離して
議論するということは、ある
意味でいえば
教育基本法の性格そのものをいびつなものにしてしまう。国を愛するとか
家庭を大事にするとか、そういうことについてはもちろん僕も認めますけれども、そのことを基本法の中に入れるということが、どんなに基本法を、ある
意味でいえば偏ったというか、あるいは窮屈なものにしてしまうか。
つまり、理念だとか原理だとか、あるいは理想と言っていいのかな、そういうものをまず我々は
自分のものとしようじゃないかというところから
教育基本法が始まったとすれば、今なぜ
教育基本法を
改正するんですかと。
改正しないで、どんどん
学校教育の中身は変えられてきたじゃないですかということも忘れたくないんですね。
したがって、いろいろな事項を我々は確かに
議論して、
教育基本法にふさわしいものにしていくだけの努力をする必要があると思うけれども、水と油を一緒にして、そして
一つの器に入れてということが果たしていいことなのかどうかということ、それはやはり考えてみたいなというふうに思っています。
それからもう
一つは、
憲法の
精神というものを丁寧に丁寧に受けとめれば、
教育を受ける
権利というのは、
国家あるいは公共団
体そのものが個人に、
国民に
保障するという、
権利保障の
規定だったと思うんですね。これは
憲法の二十六条、一番代表的な例かもしれないけれども。したがって、例えば
子供が
教育を受ける、その
権利を
保障するとか、あるいは教師が
教育実践をすること、その自由の
保障ということを、実は二十六条あるいは
教育基本法全体でうたっている。
それからもう
一つは、とても大事なことだけれども、
教育、つまり戦後のあの時代に、我々の
社会のこれからの新しい理念というもの、あるいは民主的な
国家社会を形成するための
一つの生き方として、
憲法に基づいて基本法が出てきたということ、これは重ねて強調しておきたいというふうに思っています。
最後になりますけれども、
教育基本法の、これは通常、前文というか、前書きというふうに言っていますけれども、僕は、これは結論であり、ある
意味でいえば本質だろうと思うんですね。この
資料の中にもあるかというふうに思いますけれども、
教育によって我々は
国家社会をつくっていく。その中に、こういう文言がありましたね。普遍的でしかも個性豊かな
文化の創造を可能にするような
教育をつくっていこうじゃないか。普遍的でしかも個性豊かな
文化。ここであえて伝統とか、あるいは歴史とかなんだとか、そういう難しいことを持ち出す必要はないんじゃないんでしょうか。
日本には独特の
文化というものがある。これは僕も否定しない。しかし、そういう
文化が今や危機に瀕しているから基本法を変えて、徹底的に
学校教育の中で展開しようじゃないかというのであれば、これは僕の誤解かもしれないけれども、
教育基本法そのものが泣くんじゃないかなと。
大変乱暴な
意見を述べましたけれども、足りないところは後で、質問の段階で補わせていただきたいと思います。
ありがとうございました。(拍手)