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高木健一君 今紹介にあずかりました
意見陳述者の
高木健一と申します。
若輩者の私に、この
調査会で
意見陳述の場を与えてくださいまして、ありがとうございます。このように幅広い階層の人々が自由に
意見を述べても罰せられることがないのは、
憲法で定められた
基本的人権の尊重のおかげだと思っております。
私は学生です。京都の仏教大学の史学科で
日本史を専攻して、今は博物館学芸員の資格の課程に行っております。日ごろから歴史の本や史料を読み、
日本という国の成り立ちであるとか、先人たちは国の危機のときにどのように対処し、判断したかということを学びました。さまざまな辛苦、例えば、さきの太平洋戦争の戦禍をこうむり、原爆を落とされ、たくさんの人たちが犠牲になって今の
日本という国があるのだと痛感しています。
しかし、
日本の現状、特に
我が国の安全が揺さぶられかねない国際情勢になり、私自身、少々
日本の将来を不安に思っています。
このような流れの中で、今回の
憲法調査会という報を聞き、応募いたしました。新聞のわずかな見開き程度でしたので、全員、何か
意見を書かなければならないと思ってしまい、初めは傍聴希望だったのですが、自分の
意見を言いたい欲求に駆られ、
意見陳述者の方に、何とか強引に八百字を書いて応募しました。多分、広範囲にわたる募集だろうと思い、たくさんの知識ある方たちが選ばれるだろうと思っていたのですが、まさか私が選ばれるとは思っていませんでした。先月の二十八日に山のような書類が送られてきました。大変な役目を引き受けてしまったと内心後悔しています。
では、今から私の
意見を述べさせていただきます。
なお、初めにもお話ししましたように、
意見陳述者に選ばれてから、急いで
憲法や
安全保障のことについて半ばつけ焼き刃的に調べまして、何とか自分の
意見をつくり上げてきょうここに来ましたので、論旨の中身があやふやなところもあるかとは思います。それに、十五分という持ち時間まで足りるかどうか心配ですし、何分文章
能力がつたないものですから、そのあたりのことは御勘弁お願いいたします。
改めて
憲法について考えますと、私たち一般庶民にはほど遠い存在であり、日ごろから余り認識することはないような感じがあります。小学校や中学校の社会科で学ぶぐらいで終わっています。しかし、
憲法は国の根幹であり、私たちが意識するしないにかかわらず、
国民の生活を支えていることも忘れてはならないものだと思っています。
日本国憲法は、公布、施行されてから半世紀以上
経過しました。この
憲法の趣旨は
国民主権と
基本的人権の尊重と戦争放棄ということはだれしもが知っていることです。その中でも第九条が最も象徴的なのですが、恒久平和と戦力不保持を唱え、そのため、
我が国の
憲法は世界じゅうから尊敬もされ、畏敬されてきました。
確かに、この九条の理念は、人類が最終的に目標とすべき指針を述べていて、崇高なる意義を持っていることは疑いのないことではありますが、果たして
我が国がこの九条の理念だけで平和を保てたのでしょうか。私は必ずしもそうは思いません。確かに、太平洋戦争が終結し、
日本国憲法施行以後、
我が国が戦場になることはなく、再び戦禍を受けることもない平和
国家ではありましたが、これは第九条を持っているからではなく、
日米安全保障条約の恩恵であるからだと思います。
日米安全保障条約は、一九五一年にサンフランシスコ平和
条約と同時に調印され、一九六〇年に岸
内閣の
もとで、改定した日米安保を調印しました。この
条約の締結で、
日本はアメリカの軍隊の駐留とそのための軍施設の提供を求められ、特に沖縄がその最たる例なのですが、多くの私有地が基地となり、現在の
在日米軍の駐留地になりました。
ただ、
条約締結当時は、旧ソ連とアメリカの両大国間の冷戦状態に突入という国際情勢の中、
日本が好むと好まざるとにかかわらず、この苦渋の選択をのまなければなりませんでした。しかし、この
条約で、
日本は建前上、非核三原則を標榜しながら、その実、アメリカの核の傘に組み込まれ、そのために、
日本は他国から戦争を仕掛けられることもなく、高度経済成長をなし遂げたのだとも言えます。
ただし、裏を返せば、
我が国の
安全保障はアメリカ頼りになってしまい、自前での国土の安全ということを真っ正面から
議論することなく、国防という概念そのものが脆弱であったことは否めません。何も
日本だけが米軍の駐留を認めているのではありませんが、
我が国はさきの大戦でさんざんにアメリカに負けたものですから、強者に逆らい切れない弱者の論理となり、アメリカに追随するかのような印象を持たれやすくなりました。
しかし、ここで
我が国は自己矛盾を抱えたことになります。それは、
日本国憲法第九条と
在日米軍との
整合性がつかないことです。
第九条の二項では、陸海空軍その他の戦力は保持しないとされており、厳密に
憲法と照らし合わせれば、
在日米軍は
憲法違反であると言えます。しかし、
憲法の解釈を変えれば、安保
条約自体は、国と国との
外交交渉で定められたものであり、
憲法には抵触しないし、外国の軍隊である
在日米軍に国内法である
憲法を当てはめること自体がおかしいのではないかという
考え方もできます。
憲法九条の条文には、
在日米軍の否定ということは一行たりとも書かれていないという解釈も成立するのではないかとも言えます。極めてあいまいなまま
在日米軍の存在を認知してきたのが現状ではないかと考えます。
しかし、
我が国の体制と考えますと、日米安保は軍事同盟であると同時に経済同盟でもあったために、
我が国は資本主義社会の一員となることができました。そして、戦後の高度経済成長をなし遂げた
現実を考えてみますと、
日本における
在日米軍の存在、つまりは日米安保そのものを肯定しなければ国の
根本が揺らぎかねなかったのが、
日本の本音、いや
日本国民の真実だろうと思います。
それに、アジア各国からの要望もあります。戦前、
我が国による植民地支配を受けたアジア各国では、
日本が再び軍事大国化し、また侵略行為をするのではないかという危機感があり、そのためにも、
在日米軍の駐留とともに、アメリカの強い監視の
もと、まさしく瓶のふたのように
日本を押さえつける役割をこの日米安保に求めていることも、
現実的には存在しています。私たち
日本人から考えてみますと、軍事大国化することなど到底あり得ない非
現実化した想像だと思うのですが、被害者感情が強いアジア各国の本音はそこにあるのではないかと思います。
さて、これから日米安保の問題点ということを挙げますと、さきにも述べましたが、沖縄の
在日米軍の基地負担軽減ではないでしょうか。
日本にある
在日米軍の基地のおよそ七割強を占めている沖縄は、日米安保の犠牲になっているのが現状です。しかし、
現実問題として沖縄は、基地で働いて生活を送っている人たちが多数存在しており、基地を全廃することは不可能なことは明白です。
ただ、
在日米軍兵士の沖縄における犯罪は後を絶たないのも不幸なことです。八年前に起こった少女に対する暴行事件はまだ記憶に新しいものですし、この反響を受けて日米地位協定までも見直されることになりました。しかし、その事件以降も米兵の犯罪はおさまりませんでした。事件が起こるたびに、
在日米軍の基地
関係者は、再発防止を含め、兵士に倫理徹底を実行することを約束するという言葉を何回も繰り返しますが、一向に兵士の素行が改まりそうにありません。こういった現状が続くと、沖縄の人たちは、安保体制そのものに不信感を持っても何ら不思議ではありません。
この不満と不信をぬぐい去る努力を私たち
国民はしなければなりません。具体的に言えば、沖縄に集中する基地をできるだけ本土に移転させて、痛みを分かち合いながら、沖縄の負担を少しでも減らすことこそが我々がすべきことではないでしょうか。さきの大戦で唯一地上戦が行われ、多大な犠牲をこうむった沖縄に、いつまでも日米安保のしわ寄せを押しつけるべきではないと思います。
少しわき道にそれてしまった感はありますが、私の言いたいことは、
日米安全保障条約は、
憲法の
整合性云々という問題ではなく、
我が国の国防上、経済上、
政治上、なくてはならないものになりつつある日米両国の現状を考えれば、
憲法そのものを変えるべきではないかということです。
次に、これも
我が国の
安全保障にかかわる問題として、
憲法九条と自衛隊の存在について述べたいと思います。
このことは、自衛隊創設当初から、合憲、違憲の論議が行われ、いまだに決着がついていません。そもそも自衛隊は、
日本を反共のとりでとすべく、アメリカの強い後押しの
もと創設されたのが始まりで、
我が国の防衛と他国による侵略を防ぐのを主目的とする軍事
組織です。しかし、
憲法九条では戦力不保持を明記しており、事実、司法においても自衛隊を違憲とする判決が出されるなど、自衛隊の存在が危ぶまれることもあったほどです。
日本国
政府は、確固たる自衛隊の存在意義を認めたい
政府見解として、一九五四年、これは余りに古い
政府見解ですが、この見解は自衛隊設置の年に出されたもので、そのときの
政府方針がうかがえますので、ここに述べます。
一、自衛権は国が
独立国である以上、当然に保有する権利で、
憲法はこれを否定していない。二、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段としては」ということである。他国からの武力攻撃を阻止することは、自己防衛そのものであり、国際紛争を解決することとは本質が違う。国土を防衛する手段として武力を行使することは、
憲法に違反しない。三、自衛隊のような自衛のための任務を有し、そのため必要とする範囲の実力部隊を設けることは、
憲法に違反しない。四、自衛隊は外国からの侵略に対処する任務を有するが、これを軍隊というならば、自衛隊も軍隊ということができる。しかし、実力部隊を持つことは
憲法に違反するものではない。五、
憲法九条についてはいろいろ誤解もある。そういう
意味で、これらの空気をはっきりさせるため、機会を見て
憲法改正を考える。
少々長い見解ですが、自衛隊の存在意義を、
憲法九条と照らし合わせながら、何としてでも
国民に理解させ、合憲としようとする意気込みが伝わってきます。素直に見解を読めば、なるほどもっと
もと思うのですが、見方を変えれば、
憲法に書いていないことを巧みに利用して、言葉の解釈そのものを変えている印象もぬぐい切れません。第一、
憲法九条第二項で陸海空軍の戦力は保持しないと明示しており、この文脈をどう読めば自衛隊の存在を是認しているのか、私にはわかりません。大多数の
国民も理解に苦しむのは当然だと思います。
このような疑問は、この
政府見解以後、
憲法学者や有識者の間からもさまざまに指摘されましたが、その中でも戦後の
憲法学に影響を持った清宮四郎氏は、自身の著書「
憲法I(第三版)」で氏独自の
憲法第九条解釈を述べていて、九条での戦争放棄は自衛戦争を含むと解するのが正しい、その理由は、国際紛争解決の手段でない戦争は実際にはほとんどあり得ず、自衛戦争も国際紛争を
前提として行われており、従来の実例に照らしても、侵略戦争と自衛戦争との区別は明確にしがたいとし、さきの
政府見解に沿った形で、この
部分では
評価しています。
しかし、清宮氏は、
政府見解の自衛権に関する解釈は
憲法九条の拡大解釈とし、九条は、自衛権に基づくものであっても、戦争や武力の行使は放棄すると明言し、戦力は保持しないとも言っている、したがって、自衛権と結びつけて、直ちに自衛戦力及び自衛隊を
憲法の容認するものとみなすのは、
憲法の真意を曲げる論理の飛躍というべきであるとし、自衛隊の存在を違憲と言明し、
政府見解とは真っ向から対立する
意見を述べています。先ほどの
政府見解よりも、清宮氏の
憲法九条解釈の方がはるかにわかりやすいという印象を感じます。
確かに、
憲法九条では、国が本来持つべきである防衛の権利そのものを否定するという条文はどこにも書かれておらず、自衛権は保持しているとも言えますが、それだからこそ自衛隊を持つべきだとする
政府見解はかなり無理があるのではないかと考えるのは私ばかりではなくて、
国民みんなが持つだろうと思います。
しかし、歴代の
政府は、
憲法九条の拡大解釈だけで自衛隊の存在を認め続け、極めてあいまいなまま、
憲法との
整合性という
根本的な問題を避けてきたのが今現在の
状況です。ただし、幾ら
憲法の解釈範囲を広げたとしても、第九条そのものを改正しない限り、自衛隊は違憲状態であり続けるのではと思います。
だからといって、即時に自衛隊の解体という乱暴な論は、
現実的には、
日本各地に自衛隊の駐屯地もあり、そこで駐留している隊員たちや生活をしている人たちのことを考え合わせれば無理な話であり、余計な大混乱を発生させるばかりになることも考えなければなりません。
私の
意見としましては、速やかに第九条の改正をし、正式に軍隊の創設を明示すべきではないかと思っております。
国民の間からも、自衛隊の存在は欠かせないという世論もあり、軍隊として正式に承認すれば、今までのような
憲法の拡大解釈をし続けることをせずに済むばかりではなく、自衛隊創設当初から行われてきた
憲法九条と自衛隊の
整合性についての
議論も決着することにもなります。それに、先述したように、一九五四年の
政府見解でも機会を見て
憲法改正を考えたいとしており、今がその機会ではないかと考えます。
最後に、
憲法改正についてですが、最近になって、
憲法改正を真っ正面から
議論できる環境にはなりました。今回の
憲法調査会がその最たるものだと思います。改憲、護憲などの論を持つ人々が
議論を重ねることによって、
憲法改正をより進めることができるのではないでしょうか。
先月の二十九日には自民党の
憲法調査会が
憲法改正要綱案を作成されましたので、これから本格的な改正
議論を深めていくことができるものと希望します。
以上で私の
意見陳述を終わります。御清聴ありがとうございました。