○
中山(正)
議員 先般の当
委員会の
審議に際しまして、
参考人に来られました
佐藤勝巳氏の
証言がありました。その
証言に関しまして、当
委員会理事の
皆様に
お願いをして、私も当
委員会の
委員長を務めたことがございますし、私も三十四年間の
国会議員、連続十一回当選させていただいております者として、私の晩節を汚すわけにもいきませんので、ここで
理事各位に
お願いをし、今
委員の
皆様方の御許可を得まして、また
委員長の御
配慮をいただいて、
発言の機会をお与えいただきましたことに心から
感謝を申し上げたいと思います。
実は、前の
委員会、十二月の十日に
平沢勝栄議員が御
質問になりました、「
北朝鮮のスポークスマン、
応援団になったのが
日本の
国内にはいっぱいいるんです、これが
日本の国益を大きく損ねてきたと私は思うんですけれども、
佐藤参考人、いかがですか」という
質問に対しまして、これは
佐藤勝巳さんの
お話でございますが、「ずっとおりました。それは現在の社民党、それから前の社会党、こういうような政党、さらに前の
日本共産党というようなものは、
理由はどうあれ、
北朝鮮の意向を体して積極的に
議会内において、さらには
議会外において擁護してきた、これが
拉致問題を阻害してきたかなり大きな
理由です。九〇年代以降は、
自民党の中に、もうはっきり
名前を申し上げますけれども、
金丸信さん、さらに
渡辺美智雄さん、さらに
加藤紘一さん、
野中さん、
中山正暉さん、こういう方
たちが、
北朝鮮の意を体して、絶えず米を出すとか
拉致問題を不問に付して
日朝交渉をやれとかいうさまざまな
動きをやってきたことが、今日、
拉致問題が長年問題にならなかった
理由の大きな一つだと理解しております。」こうおっしゃっておられるのです。
私は、ここに、「
帰国事業二十年」、一九五九年から一九七九年という本を持ってまいりましたが、これは、「
帰国事業二十年」、新潟県
在日朝鮮人帰国協力会の
記録、非売品でございます。
この中に、
佐藤勝巳氏という方は、元川崎汽船の
労働組合にいた方のようでございまして、この方が、一九六二年と六四年、六二年は十一月の十日、それから一九六四年は九月の二十三日、このときに
朝鮮民主主義人民共和国赤十字栄誉徽章受賞者、いわゆる
北朝鮮から
勲章を二回もらっておられる方でございます。二回もらった中に、
横田めぐみさんの救出の会の
会長小島晴則さんも入っております。
佐藤勝巳さんに関しては、二回も
勲章をもらっておられるわけです。
この二回
勲章をもらっておられる方、どこでどう転換されたのかわかりませんが、これまた
国会図書館で、私は
佐藤勝巳さんの
論文をいろいろ取り寄せてみました。これは
国会図書館で取り寄せたものですが、「謀略と本質」という、
質問された
平沢先生も
警察御出身でございますが、
警察に対する、
公安当局に対する大変な誹謗を、この
論文の中で
旭洋丸事件に関していろいろ書いておられます。
全部申し上げると時間がかかりますが、「
北朝鮮の
スパイを凄惨、陰惨な
北朝鮮というイメージアップに利用、
両国人民の離反に使っているような卑劣な行為と断定せざるを得ない、
治安当局は、現
体制を維持するため、つまり現
体制を批判、変革しようとする者を弾圧するために存在しているべきものである。しかし
旭洋丸事件は、それが単に
国内にとどまらず、国際的な、
朝鮮民主主義人民共和国をも諜報、挑発、攪乱するものであるという具体的な証拠を提示し、しかも、その手口が直接、間接に
日本の
植民地支配の
犠牲者である
在日朝鮮人を、恥知らずにも脅迫、利益誘導し、
スパイに仕立て、みずから祖国を売り渡させて、二重、三重の
国家犯罪を犯しているのである。」
とにかく、いろいろおっしゃっているのですが、この
帰国事業というのは何かというと、この
帰国事業は、一九七九年から二十年の間に九万三千二百十五名の
在日朝鮮人を送り込んだ。この中に、御承知のように千八百三十二名の
日本人妻が入っていたわけでございます。今これは脱
北者という形でどんどん出てこられて、むしろ
佐藤勝巳さんなんかは、今は
皆さんに
水色の
リボンをつけさせておられますが、このときは、ここにも載っておりますように、黄色い
リボンをつけさせて、いわゆる
北朝鮮に送り込むシンボルにしておられました。今
皆さんに
水色の
リボンをつけさせておられますが。混血の子供が六千人、その
方々が今脱
北者となってどんどん五月雨のような気の毒な形で出てきておられる。むしろ、その問題をこの方は救援の活動の中心にすべきではないかと思っております。
この
拉致の
家族を支援する会といいますのは、今五人の
方々をとめ置いている。私なんかは、
外務大臣にも
お願いしておきたいと思うんですが、本当は三十八度線の
離散家族の
接見場所を拝借して
家族の
方々と会わせるとか、それから
北朝鮮の
大使館があります北京で
日本の
大使館との間で
交渉の場をつくるとか、そんなことをすべきじゃないかと思うのでございますが、時間も十分しかありませんから意を尽くせませんが。
私は、ここに
社会新報を持ってきております。この
社会新報では、
社会新報の中に私のことを書いてくださっています。「
会談が一転険悪な雰囲気に変わったのは、
森自民党団長がいわゆる
日本人拉致疑惑問題に言及し、
金養健朝鮮労働党国際部長が、この問題を我々と結ぶのは侮辱であると
発言したにもかかわらず、
自民党中山正暉衆院議員がさらに追及したことによる。」
私は、
自民党の
治安対策特別委員長というのをやっておりまして、その
治安対策特別委員長として
横田めぐみさんの問題を、安明進という
北朝鮮の
工作員、ちょっと年が若過ぎるので、
横田めぐみさんを見られたという年に、年齢が適合しないようにも思えて、私は、あなた、
横田めぐみさんを見たということになると、七歳か八歳か九歳じゃなかったんですかと御本人に言ったことがあります。非常に不思議な背景を持っておられる方でございますが、この方が
横田めぐみさんの話をされたときに、
マスコミが大騒ぎになりまして、桜井新
先生、今参議院に移られましたが、この方が私のところへ飛んでこられて、
中山さん、あんた
治安対策をやっているんだから、
治安の問題として
拉致の問題をやってくれ。私の母の
中山マサと申しますのが、
昭和二十五年にこの衆議院にありました
海外同胞引き揚げの促進に関する
調査特別委員会の
委員長をしておりました。そのときに、
キリスト教の
斉藤理事長と、それから
外務省の
アメリカ・倭島公使と、それから私の母が、ちょうど
委員長という
立場で
国連の
人道委員会に
提訴をしたものですから、その
提訴をした故事に倣って、私は
自分が
拉致の
会長になったときに
国連の
人道委員会に
提訴をして、
北朝鮮は
国連に窓口を持っているから、そこで
交渉をしようと思ったわけでございます。
ところが、突然私に、三
党訪朝団、
自社さきがけでございますが、その副
団長として入ってくれとのことで
訪朝会談に出ました。
森団長があいさつをされて、それから
小野清子さんが、いわゆる
北朝鮮に行った千八百三十二名の御婦人の
代表が第一団で帰ってこられた、そのお礼を言われて、
野中さんが
事務局のこれからの運営の方式を言われて、私が一時間半にわたって
拉致疑惑問題、七件十人を私が初めて
北朝鮮代表団に
説明をしたわけでございます。
説明をして、そして一時間半の休憩後、
向こうから、南という
北朝鮮の
教育大学、
女性の学長でございましたが、この方が立ち上がって、何だと。
大脇雅子それから
堂本暁子、
小野清子という三名の
女性議員がいながら
従軍慰安婦問題に触れないというのは
何事かと、大喝一声始まりました。
皆さん、あっけにとられておられましたので、私が手を挙げて、実は一九一七年に
ロシア革命が起こりました、そのときに、どんどん
シベリアに
赤軍が出てきて、それに対して五カ国が
シベリア出兵をやってその
赤軍の拡張を防ごうではないか、
日本に一万五千人の兵隊を近いから派遣してくれと
要求されて、イルクーツクに
本部を置いて、二年八カ月という
間シベリア出兵をやりました。ところが、一万五千人のうちの七千五百人が
梅毒にかかって帰ってきました。その
梅毒を家庭の
奥さん方、また恋人にうつさないためにも、それから
ロシアのお嬢さんを強姦しないために、
昭和三十年まではそういう組織がありましたので、それに依頼をして実は
慰安所を設けてもらった。これは世界的な軍隊の常識でございました。
私は
昭和七年生まれでございますが、私の
意識の中には、
従軍慰安婦というのは、全く
意識はありません。
慰安婦は知っています。
従軍看護婦、
従軍記者というのは知っていますが、
慰安婦に
従軍のついたものは聞いたこともありませんと言いましたら、一回で終わりました。
そのほかにもいろいろありました。第二回目に私が
団長で行ったときには、
金容淳さんが、座るといきなり、三十六年間
日本が
朝鮮半島を併合した
理由は何かと。それに対して私は、それは、清国、
ロシアというのは、いろいろ
極東木材会社、
鴨緑江木材会社という架空の
会社をつくって、軍服を脱いだ軍人を送り込んできた。いろいろな悲劇があったが、
最大の
理由は、その当時、
西郷隆盛以来、
朝鮮半島は
日本の領土にすべきだというのに対して、一人反対していた人は
伊藤博文であった。
伊藤博文公は、
ハルピン、今の瀋陽、奉天ですね、この三つに
名前変わりましたが、そこで安
重根という人が撃ち殺したでしょう。
日本人には、
マッカーサーという
米軍司令官、ちょうど
伊藤博文のような方が
日本におられましたが、
日本人には
マッカーサーを撃ち殺すようなばかはいませんでした。こういうことを言いましたら、
金容淳さんが、安
重根に対しては我々と
韓国の評価が違います、これで
会談はスムーズに
動き出しました。
何で三十八度線で分けたか、その次にはその
質問が来ました。三十八度線で分けたのは我々ではありません。
ヤルタというところで一九四五年の二月の四日から十一日まで
ヤルタの
秘密協定が行われている。
日本が知ったのはそれから十年後、
米ソ冷戦構造ができ上がってから、
アメリカが
ロシアとの
秘密協定を
日本にばらした。その
交渉のときに、ルーズベルトにスターリンが、
中立条約があったから
日本をごまかすために、そのとき参加するとは言いませんでしたが、満州をよこせ、
北朝鮮をよこせ、それから樺太をよこせ、
千島列島をよこせという
要求は具体的には
占領行政命令一号という形で、八月十六日にそれが
日本に提示された、
マッカーサー元帥からです。それを受けたのは
東郷外務大臣でした。
東郷外務大臣というのは、五歳まで朴さんという
名前で、あの方は
朝鮮人でありました。四百年前に
日本に来た
朝鮮人でありました。その朴さん、後の
東郷茂徳外務大臣、この方が、三十八度線から上、いわゆる三十四
方面軍関東軍、
関東軍は
ソ連軍に
武装解除をしろ、それから南側は第十七
方面軍、これは、
米軍に
武装解除をしろという
命令を受けたのは、あなた
方朝鮮人の血を引く
外務大臣が受けたんだ。これは、瀬戸物をつくる陶工を
東郷に置きかえたんですね。そんな話をしました。
もう時間が来ましたという電報が参りましたから、これ以上申し上げることはできませんが、私は、この
拉致を支援する会の
人たちは一体何を考えているのかと。
北朝鮮は孤立しているように見えますが、百五十四カ国と国交があります。EUは去年だけで二十五億ドルの
食料支援をWFPを通じてやっています。ことしになってもう十二億ドル。
アメリカはまた
食料支援をしようとしているんですね。
しかし、この
朝鮮人民軍参謀本部指令というのには、五〇二七
作戦という
米軍の
北朝鮮侵攻作戦が実は
北朝鮮に漏えいしました。これが一九九八年の十二月の二日に
朝鮮軍参謀本部から、その五〇二七
作戦に
協力をする
日本を攻撃の対象にすると世界じゅうに公表しているんです。
私は
金容淳氏に、
拉致の
日本の
マスコミが発表したもの、それから、
よど号犯九名が九名の
奥さんをもらって、三十二名の
家族になっている、今七人
日本に帰ってきていますが。その話と、それから、
柴田泰弘という人は、
よど号が
昭和四十五年の三月三十一日に乗っ取られたときには、一番若い十六歳でございました。十三年前に
日本に帰ってきて神戸で逮捕されて、五年の刑を受けて、もう今民間でコンピューターの
会社をやっております。その彼の
裁判記録、これは、
よど号犯を帰してくるつもりで、私は
北朝鮮と
交渉したときに、のどに刺さった二本のとげを抜きに来ました、一本は
拉致問題七件十人、そのときは七件十人、今は十件十五人になっていますが。そして、もう一本は
よど号犯の引き渡しですと言いました。
私は、今
よど号の問題が全く出てこないのは不思議でなりません。そのころは、
拉致の問題は疑惑ということで、犯人は特定されていませんでした、
平成九年の
警察白書です。ところが、
よど号犯ははっきり、三十二名の
家族がいるということがわかったものですから、これを連れて帰ってくれば、私は、
拉致の情報を持っているだろうと思ったのです。
小泉さんが行ったときには
向こうが謝ったんですが、私のときには対立していたわけです。徹底的にこっちの言うことに対抗したときに我々が闘ったということが、世の中には余り知られていません。どういうわけか、
マスコミには私のような実際に
交渉した者が全く呼ばれずに、
平沢勝栄先生も
警察におられましたが、一回も
向こうに行かれたことはないようでございますが、その方が毎日テレビに出てしゃべっておられるという異様な現象が起こっております。
そういう中で、この
参考人として呼ばれた
佐藤勝巳さんの本当の姿を、特にもうきょうは時間がありませんから、
小田実の「私と
朝鮮を論ずる」、この中で、彼が大転換をした、今の
立場に変わったことを書いております。これはいずれ、もし御
興味がおありの方がありましたら、御
要求いただきましたらコピーして差し上げたいと思いますが。
金容淳さんに私が申しました。あなたが
ボタンに手をかけたら、
日本に
ミサイルは八分で飛んでくる、四分で見つけて四分で撃ち落とすのは不可能、そのことを言いながら、私は、
昼飯のときに隣に座ったので、
背中に隠していた
資料、
森団長にも
野中さんにも相談せず、相談したらやめておけと言うだろうと思いましたから、私は彼をあおりました。
平成九年、
日本の
国会が
周辺事態対処法を
審議していたときに、今
日本でやっているのはあなたが怖いからだよと言ったら、何で怖いんだと。ノドンというのは潮岬までが
射程に入る。千キロ飛ぶ。だから、その千キロの範囲内には東京が入っていないから、大阪の私はあんたにねらわれておるという話をしたら、そんなことせぬと言いますから、そんなことせぬと言うけれども、あんたの持っている
テポドンは、そのころ千五百キロ飛ぶと言われている。沖縄が
射程に入る。
アジアでの
米軍の
最大の基地が
射程に入る。
それは、TMDなんてつくったって、近いから、撃ち上げてくる
ミサイルと迎撃の
ミサイルがうまく会わない。二兆円もかかるものが
日本に役に立たぬと、そんなことせぬよとおっしゃるから、そうおっしゃったのが、あなたが
ボタンに手をかけたら八分で来ますよ。そんなことせぬとおっしゃるから、私が
背中からどっと
資料を出して、これを見てくださいと言いました。
説明したときには受け取ってもらえなかった
資料を、
昼飯の席で
金容淳の鼻の先に突きつけたわけでございます。そうしましたら、
中山さん、私がそれを直接受けるわけにいかぬから、そこにいる
黄哲審議官に渡してくれと。まあ、一瞬、冷凍庫に入ったようになりました。
その
資料を
黄哲という人に渡して、その人が明くる日、タラップに乗って帰ってこようとしたら、
中山さん、初めて
拉致の
資料をいただきましたと礼を言われました。
横田めぐみの話をしたのは、私が五年前にしたんです。それをなぜ、去年の三月になって、
八尾恵が
有本恵子さんを誘拐したという話が
自民党の
役員会で出てきましたから、
官房副
長官、ちょっと待ってくれ、何で今、私が言ったときには追加せずに、八件十一人にせずに、今何で追加するんだと言ったら、きょうの昼からの
裁判で
八尾恵が
証言をしますからとおっしゃいました。
証言をした後に発表するならいいけれども、
証言をする前に発表するというのは
何事かと、私は
自民党の
役員会で
官房副
長官に申しました。
とにかく、ほかに百人とか二百人とか、
韓国に至っては四百六十八名の
拉致者がいる。その
人たちをどうするのか。五名を、ただ
佐藤勝巳さんらの指揮によって
マスコミを支配し、
週刊誌も全部支配してこの
人たちを置いていることは、百九十カ国とお
つき合いがある
日本が、ODAを振りまいておいて、金をまきまくったって、一発の
ミサイルが飛んでくれば
日本は終わりです。それなのに、一カ国だけお
つき合いのない国を、せっかく
小泉総理大臣が意を決して
北朝鮮との
交渉の幕を開いたのに、それを阻止して、何とか
北朝鮮を
日本と引き離しておこうというその背後の勢力に、
皆さん方ひとつ、これは一体何のことなのかと考えてみてください。
中国は、二十四発の原爆を持ち五十四回の実験をしています。そのNPTという、この
国会で
核拡散防止条約が批准されるときに、私は
賛成討論をしました。その
賛成討論をする前に
松野頼三
政調会長のところに行って、いいんですか。五カ国だけが核を持つ、あとは持っちゃいかぬ、おまえらの懐は見せろ、おれの中身は見せないという、そんな世界一の
不平等条約、
核拡散防止条約を批准していいんですかと、私は
政調会長のところへ行きました。
中山君、いざというときは、そんなものは超法規、そんな、法律も
条約も切ればいいんだと申されました。