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参考人(
若林誠一君) NHK解
説委員の
若林でございます。
司法制度改革がいよいよ
法案の
国会審議の段階を迎えたという節目のときに当たりまして、こうした
発言の
機会をいただきましたことを感謝をいたします。
本日、私がお話をしますのは一
司法ジャーナリストとしての
意見でございまして、NHKの公式的な見解ではないということをまずお断りしておきたいというふうに思います。
司法制度改革に関する論点、大変多いわけですけれども、本日は、
裁判員制度とそれから
法曹養成
制度につきましてその意義をもう一度確認をしつつ、現在私が感じている留意点といいましょうか、ちょっと気に掛かるような点についてお話を申し上げたいというふうに思います。
まず、
裁判員制度であります。
今回の
司法制度改革で最も重要な
改革を
一つだけ挙げたら何かというふうに問われますと、私はちゅうちょなくこの
裁判員制度だというふうに答えられるというふうに思います。先ほど両
参考人がるるこの意義についてお話しになりましたので、その大きな意味については私は触れませんけれども、もう少し具体的な点からこの
制度の意義を見てみたいと思います。
一つは
教育的な意味ということであります。
陪審裁判、
陪審員制度につきましてはよく民主主義の学校であると、こういうふうな
言い方がされます。市民が
陪審員となって
審理に参加をし評議に加わることによって、例えば議論の仕方でありますとか適正
手続でありますとか、あるいは法的なルールあるいは罪ということについて様々学んでいくという意味で民主主義の学校だというふうに言われますが、この
裁判員制度も正にそうした面を持っているというふうに思います。実感的、体験的な民主主義の学校になるに違いないというのが第一点であります。
教育的な
側面で
二つ目に私は注目したいのは、子供たちの目にこれがどういうふうに見えるんだろうかということです。
例えば、小学校の子供に、将来、君は
裁判員になるかもしれない、その
事件はひょっとすると死刑になる
事件かもしれない、しかし被告人は無実を叫んでいる、君はそれをシロかクロか
判断をしなければならないんだということを小学生から、あるいは中学生にも教えるということになります。
現在の
社会科と言うんですか、今は公民と言うんでしょうか、この
教育というのが非常に表面的で形骸化をしているということは大変危惧されているところです。
個人と
社会とのかかわりというものをもう少し本当の意味において教えられないかといったときに、こうした
裁判員制度というものが持つ意味を、そしてその重さということを子供たちに教えるということがどれほど
教育を豊かにするんだろうかということを感じます。
教育という効果としてもう
一つ、三点目としては、私は公共意識というものについての
観点が非常に重要ではないかと思います。
裁判員に指名されますと、
裁判員になることは
国民の義務というふうに
制度設計をされようとしています。義務といいますと、お上が無理やり押し付けたというふうな印象もありますけれども、私はそうは考えません。そうではなくて、
個人が共同体の一成員としてその
責任を果たすということであろうと思います。
日本人は戦後、自由あるいは権利というものを大変謳歌をいたしましたけれども、公共というものについての意識は大変低いというふうにもまた言われております。本を正せば、いつもお客様扱いにされる、お上任せといった
社会のありようがその根本にあろうかと思いますけれども、
個人が
責任ある主体として
自律的に共同体にかかわる、これは契機になるのではないかというふうに思います。
この
裁判員制度のもう
一つの効果の
側面としましては、刑事
司法の抜本的
改革の第一歩になるという面であります。
かつて平野龍一先生が、
日本の刑事
裁判は絶望的であるとおっしゃいました。
日本の刑事
司法には、非常に懇切丁寧であるとか人に優しいといった諸外国にはない特質もありますので、頭からすべて否定するというつもりは毛頭ありませんけれども、平野先生が喝破されましたように、多くの問題を抱えているということも事実だろうと思います。
裁判員制度を
実現するには、先ほど
四宮参考人もおっしゃいましたけれども、様々な
努力が必要です。そのことは、今の刑事
司法というものを抜本的に変えていくということにほかならないというふうに思います。分かりやすい言葉で述べる、あるいは争点をきちんと整理をする、調書の扱い、あるいは証拠開示の仕方、さらには長期間の勾留の
在り方といったところにもメスを入れていく必要がある、そうした契機になるのがこの
裁判員制度だろうというふうに思っております。
そこで、こうした重大な意義を有する
裁判員制度ですけれども、
制度設計をする上で重要なポイントは何かといいますと、私は、第一点は無作為抽出ということだと思っています。そして、第二点は
裁判員の数の問題だろうと思います。だれもが
裁判員になる可能性があるということが実感できるような
制度として、そして自分がその
裁判員に当たったらそれを引き受けなければならない
制度だというふうに
制度設計をしなければならないということです。
検討会の議論を私も
傍聴して聞いておりますけれども、この議論の中では、できるだけこの
制度を小さくしようという
意見がどうも優勢のようであります。これは、そうした考え方を持つ人が多く検討会のメンバーに選ばれたということなのかもしれませんけれども、その理由として幾つか気になる点がありますので、その点について述べたいと思います。
第一は、
国民の負担を軽くするために、今、できるだけ
裁判員の数を少なくした方がいいんだという議論がございます。
ちょっと私が試算をしてみました。最も少ないケース。
裁判員を二人とし、また対象となる
事件の数も一番絞り込みますと、年間で
裁判員になる数は約五千人ということになります。有権者からしますと、二万人に一人が
裁判員になるチャンスがあるということです。一方、いろんな
意見の中で、一番
裁判員の数を多くし、
事件の範囲も広げますと、これが約十倍近くになります。そうしますと、二千人とか三千人に一人が
裁判員になるということです。二千分の一と二万分の一にどれほどの差があるのかということです。いずれにしても、ほとんど当たらないということでいえば宝くじ並みということだろうと思います。問題は、負担というのは、
審理の進め方ですとかそのスピードでありますとかあるいは
内容の問題であって、結局、数の問題ではないというふうに私は思います。
第二点目は、
日本人は議論が下手だ、だから数を少なくするという議論がございます。
確かに、
日本人にそうした面があるのかもしれませんけれども、しかし被告人を有罪にするのか無罪にするのか、事は人の一生を左右するようなことです。そうした重要な問題の決定に関与するとき、本当に
日本人は何も言わないのでしょうか。例えば、検察
審査会の議論の様子あるいは過去の
陪審裁判の
経験などをいろいろ聞いてみますと、
日本人は十分に
意見を言ってきているというふうに私は思います。あるアメリカの
裁判官は、アメリカ人にできることが
日本人にできないはずはない、
日本人の知的レベルを考えれば絶対にできると、こういうふうに言っておりました。
第三の点は、
憲法論であります。
憲法は職業
裁判官による
裁判を前提にしているから
国民参加には違憲の疑いがあるという考え方があります。机上の
憲法解釈論としてはあり得る議論かもしれませんけれども、私は、要はこれは
国民の選択の問題であるというふうに考えています。
さて、最も重要な点は、
国民の合意をいかにして形成するかという問題であります。
国民は
裁判員になることを今、全く実感をしていないと思います。これを実感するようになればすさまじい議論が私は起きてくるんだろうと思います。検討会の議論はなかなか
国民に伝わってまいりません。私たちにもその原因の一端があるのかもしれませんけれども、情報をどんどん提供して、問題提起が重要だというふうに考えております。
昨年、私は沖縄に参りまして、復帰前に沖縄で行われました
陪審裁判について取材したことがあります。数少ない
経験者の一人にインタビューをいたしました。この方は、アメリカ軍に勤務をしていた。もちろん
日本人の方なんですけれども、自分が
陪審員に選ばれて参加をした。その
裁判自体はそれほど難しい
裁判ではなくて、全員一致で有罪の評決をしたそうですけれども、
陪審員は皆活発に
意見を述べたそうであります。そして、真剣に討議をしたということです。そして、その方は、自分が
陪審員を
経験して本当に良かったというふうに言っておられました。何が一番良かったかといいますと、私が先ほど述べましたが、公共ということだというふうにこの方は言うんですね。自分はやはりこの
社会の一員なんだ、その
社会の一員としてやはり共同体の一成員としての
責任を果たす義務があるんだと、そのことをこの
陪審員となって実感をしたというふうに言っておられました。
さて、
二つ目のポイントは、
法曹養成、
法科大学院についてであります。
具体的な
制度設計の段階になりますと、ややもすると本来の目的、
趣旨というものが忘れられがちになることが往々にしてございます。この
法科大学院の
制度設計についてもそうした危惧をどうしても感じないわけにはまいりません。
第一の点は、今回の
制度といいますのは、点としての選別ではなくてプロセスとしての
教育ということにしよう、そして
法科大学院というものを本当に意味のある
法律家教育の場にしようということでありました。本当にそういう意味での
法科大学院になるためには、やはり質をどのようにして担保をするかというところが私は生命線だろうと思いますけれども、その質の担保措置が大幅に後退をしているのではないかというふうに危惧せざるを得ません。当初、厳格な第三者評価によって適格認定をするということになっておりましたけれども、それを、その必要はないんだということになりました。本当にどうして質を担保できるのか、私はよく分かりません。それが第一の危惧の点であります。
二つ目の危惧される点は、バイパス論ということであります。
政党、与党レベルの議論を聞いておりました。私も、自民党の
調査会で
意見を述べる
機会を与えられまして、そこで
意見を申し上げましたけれども、本来は、資力などの点において、あるいは
社会でいろんな仕事をしているということからなかなか
法科大学院に行くことができないというやむを得ない事情の人のために予備試験というバイパスを設けるというのが
審議会の
趣旨だったろうと思います。本当であればバイパスは必要ないというふうに言い切ればその方が良かったのですけれども、どうしてもそうした人のためにチャンスを残すということでこのバイパスが設けられました。このバイパスをもっともっと太くして、バイパスを通るのか
大学院に行くのか自由に選択できるようにしてはどうかという議論が行われたように思います。しかし、これは、何のために
法科大学院を作るのかという、プロセスとしての養成という根本
理念に反するものではないかというふうな気がいたします。
受験エリートというのは、少々難しい問題を出してもすべてこなしてしまうという者です。頭が良いということなのかもしれませんけれども、人の悲しみや苦しみ、あるいは
社会の複雑な紛争といったものを相手にする
法曹にとって、この頭の良い者だけがすいすいと試験に受かってしまうということがあってよいのだろうかということを本当に危惧しております。
この
法科大学院の質が担保されない、そしてこうしたバイパスを設けるということになりますと、勢い
司法試験というもので選別をしていく、
司法試験を大きな
制度として設計しなければならなくなります。そうしない限り質が担保できないということになりますと、結局は今の
制度のもくあみになってしまうのではないか。
司法試験には七割から八割の学生が受かるような、そうした充実した
教育をするというのが今回の
改革の目的であったわけですけれども、そうした目的が本当に果たせるのだろうかということを大変危惧をしております。
制度上、ではそうした
制度設計をすれば十分機能するのかというと、実はそうではないというふうに思っています。今の
大学の現状を見ておりますと、本当に実のある
教育ができる
教育者を確保できるのか、これは大変重大な問題でありますし、実務家の教員の確保の問題もあろうかと思います。ここは
行政としてそれに介入するということがなかなか難しい部分でありますし、それはしてはならない部分なのかもしれませんけれども、大いに考えていくべき非常に重要な問題点だろうと思います。
最後に、
改革の
推進の体制について一言申し上げたいと思います。
司法制度審議会の議論もずっと
傍聴してまいりました。また、現在の検討会の議論も
傍聴しておりますけれども、今、検討会の議論を聞いておりまして、かつてのような熱気というものがなかなか伝わってこないということがございます。十一の分野に分かれてそれぞれ部分設計をやっているわけですけれども、それを組み合わせると本当に当初予定されたようなものに完成をしていくのかなという感じがいたします。
顧問会議というのが設けられておりまして、
佐藤座長を前にして誠に言いにくいわけですけれども、この
顧問会議の開催の頻度あるいは議論の深まりなどを見ていますと、全体をきちっと、その十一の検討会の議論を集約をするというところまでやはり至っていないというふうに思います。
審議の、検討過程の公開という大変重要な問題もありますけれども、もう少し全体をコントロールできるような
推進体制が取れないものかな、こんな印象を持っています。
以上です。