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参考人(
市川昭午君)
市川でございます。
私は、
専門職大学院制度の
創設及び
第三者評価制度の導入について私見を述べさせていただきます。
専門職大学院制度の
創設に関しまして、第一に申し上げたいことは、今までの
大学院教育が
社会ニーズとの間で
ミスマッチを起こしていたのではないかということでございます。
一九九一年、
平成三年の
大学審議会答申「
大学院の
量的整備について」は、十年間で
大学院の規模を二倍にするという
数値目標を明示いたしました。これは大変珍しいことでありまして、大変に急速な
拡充政策を打ち出したわけであります。その結果、近年、
大学院の
量的拡充は目覚ましいものがあります。
大学院学生は一九九〇年から本年度までの間に九万人から二十二万四千人に、実に二・五倍になりました。しかし、この
大学院の
量的整備に伴うべき
大学院の
教育内容の質的な
転換がなされてこなかったと思います。その結果、九〇年代の
長期不況の影響もありますけれども、
大学院修士課程及び
博士課程の卒業生の
就職率が一〇%ポイント以上低下いたしまして、その反面で無業者が大変に増えております。
それからまた、現在の
大学院は、
修士課程はもちろんでございますが、
博士課程もまた
研究者になる人というのは今やマイノリティーでございまして、
マジョリティーは
研究者にはなっておりません。しかも、
研究者になる割合は、
大学院創設以来低下の一途をたどっているわけでございます。つまり、
大学院修了者の
マジョリティーが
研究者じゃなくてそれ以外の
職業人になるという現実の
変化にもかかわらず、半
世紀の間、我が国の
大学院はいわゆる
研究大学院であり続けたわけでございます。
マジョリティーが
研究者にならないのにほとんどの
大学院が
研究大学院であるということは、大きな矛盾と言わなければならないと思います。
これは、
大学院の
拡充が
大学の
経営者や
大学の教職員のために行われていたのではないかと疑われても仕方がないと思います。
高等教育大衆化の状況の下におきまして、
高度職業人教育の
必要性が認められるというだけでなくて、それ以上に私は、
大学院の急激な
拡充が
高等遊民を生まないためにも、
大学院教育の
改革、特に
専門職業教育への
転換が望ましいと考えております。
そういう点では
伊藤先生と同じく賛成でございますが、ただ、
一つだけ遺憾に思うことがございます。それは、今回の
大学院制度の
改革が
司法制度改革の
一環としての、
教育界の外から突き付けられた
改革となったことでございます。
「
法科大学院の
設置基準等について」と題する
中央教育審議会答申、これは先ほど
鳥居先生がお話しございましたが、これを読んでみますと、失礼ではございますが、
司法制度改革審議会の
意見のコピーではないかと思うようなところがあるわけでございます。無論、
司法制度改革の
一環として
法曹教育の
改革がなされた場合、それに伴って
大学院教育の
改正が必要になることは当然でございます。しかしながら、
大学院における
専門職業人教育の
システムが確立しておりまするならば、それほど大きな
改革は必要とせず、部分的な対応で済んだのではないかと思います。
昭和二十四年、一九四九年に
アメリカ占領軍の指導を受けて
大学基準協会が
大学院基準というのを制定しております。それを見ますと、その附則で
専門職業人に関する
基準は別に定めるというふうに書いてあるわけでございます。にもかかわらず、その後半
世紀にわたりまして
専門職業人に関する
大学院基準というのは作られなかった。ようやく
平成十年になりまして
大学審議会答申「二十一
世紀の
大学像と今後の
改革方策について」で、
高度専門職業人養成に特化した実践的な
教育を行う
大学院の
設置促進という
方針を打ち出しました。その翌年に
専門大学院が
制度化されたわけでございます。しかし、これは
法改正によるものではございませんで、
設置基準の
改正によって行われましたし、したがいまして
大学院の
目的変更には至っておりません。
先ほど
伊藤先生からも御説明ありましたように、従来の
修士課程の枠内でなされたわけでありますし、そもそも
専門大学院という名称からしてあいまいなところがございます。
大学院ともなればあらゆるものがすべて専門化しているわけでございまして、
専門大学院というのは何じゃいなということになるわけでございます。そういう点で、従来の
大学院との違いが必ずしも明確ではなかったわけでございます。このように、四年前の
改革は極めて不徹底なものであったために今日、
法改正を迫られることになったと思います。
外部からの
改革要求がなければ本格的な
改革ができないというのは、これは
大学関係者の体質がその背景にあるのではないかと思いますけれども、
専門職業人の
養成に関しましては、今後ほかの省庁から様々な介入が予想されます。例えば、
金融庁が
公認会計士の大幅な増員を
目的に
公認会計士養成のための
専門職大学院を
検討しているという話も伝わってきておりますが、こうした情勢から、これまでの
大学院制度との早急な調整が不可欠となっているだけではございませんで、先ほど
鳥居先生から御紹介ありましたように、
高等教育の
グランドデザインを策定すること、それから
高等教育政策における
文部科学省の主体性を回復することが緊急の
課題だと思います。
それから、残された
政策課題といたしましては、
三つばかり挙げたいと思いますが、
一つは、
既存の
大学院の少なくない部分を
職業大学院に移行させることであります。
経営管理とか
公衆衛生などの
既存の
専門大学院は
専門職大学院に移行することとなっているそうでありますが、
既存の
大学院でも様々な
専門職を
養成しているわけでございまして、そういった
専門職を
養成している
大学院あるいは
学部というようなものをできるだけ早く
専門職大学院に移行させるということが望ましいと思います。もちろん、各
専門分野それから各
研究科によって様々な事情がありますので一律にはいかないと思いますけれども、なるべくそうした方向に向けて
改革を進めていくことが大事であろうと思います。
次は、
教員の確保であります。
適材の
教員を確保するということは非常に大事でございますが、
専門職業人を
養成する
大学院の
教員には、これまでのような研究に専念しがちだった
大学教員では不適当であることは無論でありますけれども、かといって
専門職業の実務経験者をそのまま充てればいいというものではありません。どちらからコンバートするにしましてもある程度の準備期間が必要でありましょうし、
教員であれば実務経験、実務家であれば
教育経験、あるいはその双方による共同研究などが必要になろうかと思います。
それから三番目は、就学機会の確保であります。
専門大学院には、
大学からストレートに進学する従来型の
学生のほかに、いわゆる
社会人の再
教育需要がこれまでの
研究大学院以上に大きいと思います。したがって、
社会人、特に勤労者の就学機会を確保する、そのための就学支援が必要になろうかと思います。それは、例えば修学の場が企業が集中しております都心にあるということ、それとはまた逆に全国的な適正配置、
夜間や通信制の
大学院などが必要になってくると思います。
また、奨学
制度にしましても、ストレート進学の場合とは違いまして、単に奨学金
制度ということではなく、
教育休暇や就学休業といったような
制度を併せて考える必要があろうかと存じます。
次に、二番目の
第三者評価制度の導入ということでございますが、まず、政府の主導によりまして
評価機関を設置者別に設置することについては
検討の余地があろうかと思います。各
認証機関が独自の
基準で認証することでは共通の水準を保つことは難しいわけですし、かといいまして
基準の共通化を指導したのでは複数の認証
評価機関を置く
意味が乏しくなると思います。
また、
大学評価は
大学が自己改善のための
目的で自ら行うものだとすれば、それは
関係団体が自主的に行うべきだということになります。したがって、政府によって強制されることではなく自主的に行うことになろうかと思いますが、御案内のように、我が国がモデルとしております
アメリカの
大学評価は民間団体によって自前で行われております。そこまでは我が国の現状から望めないとしましても、すべての
大学に
評価を国が義務付け、受けなければ是正措置の
対象とするというのは疑問であります。特に、市場原理で成り立っている
私立大学などでは、
評価を受けるのは各
大学の任意でよいのではないかとも思われます。ただし、職業資格と直結する
専門職学位を授与する場合には義務付けが必要かと存じます。
評価機関は、多様であると同時に政府から独立していることが望ましいわけであります。したがって、多様な複数の民間機関によって実施すべきであろうと思いますけれども、実際には
評価には膨大なスタッフと巨額な費用を必要とするわけでありまして、そうなりますとどうしても
評価機関は国の支援を望むようになろうかと思います。しかし、
評価機関が国の財政援助を受けることになりますと、その
対象は国が認証した
評価機関に限られざるを得ません。それに、財政支援を受けることは
大学評価が行政の下請の仕事だという印象を与えがちになります。そこでその
評価機関の自律性が疑われるというようなことで、必ずしも好ましいと言えません。ここにジレンマがあろうかと思います。
次に、
評価の
目的は何であるのか、その結果をどう利用しようとするのかによって
評価の性格及び内容が大きく変わってきます。
教育研究の内容、方法の改善など
大学における
教育研究を活性化しようとするための手段であるとするならば、
審査は
教育研究の内容、方法の適否を判定することで足りるわけでありますが、資金配分の
基準とするのが
目的であります場合には相対
評価とかランク付けが不可欠となってまいります。
現在、
大学評価・
学位授与機構が行っておりますのは
教育研究活性化のための
評価でありますが、国立学校法人化後に求められているのは、運営交付金の算定などに反映させることが可能な
評価であります。となりますと、機構が行っております
評価内容、方法の革新が求められることになりますけれども、研究
評価に関してはともかく、
教育評価につきましては、これが極めて困難であります。
と申しますのも、改めて申し上げるまでもなく、研究とは違い、
教育の効果は学習する側との共同作業であります。したがって、
教育する側の意欲と能力がどれだけあっても、それだけでは決まるものではございません。それに、研究
評価と違いまして、
教育評価は各
大学独自の
教育目標についてその達成度を測るものでありますから、原理的に言って相対
評価が不可能であります。となりますと、よほど傑出した
教育成果を示した
大学だとか、あるいは余りにもひどい
教育をやっている
大学だとか、そういった極端な例外的なケースを除きますと、基本的に
教育に対する交付金の算定は、
教育費に関する限りやはり
学生数を基本とするほかはないんじゃないかと、こういうふうに考えます。
いずれにしましても、
大学評価は
大学の地位や威信を大きく左右する可能性があるだけに、
信頼性、公平性、透明性、
客観性などをどう確保するかが大事だと思います。
しかし、これらを徹底的にやろうとすればいよいよ作業が繁雑となり、
評価する側も
評価される側も時間とエネルギーを消耗して、いわゆるエバリュエーションファティーグという言葉がありますけれども、
評価疲れになるというジレンマがございます。
大学は昔から様々な形で
評価されてきたわけでありますが、
制度的な
大学評価は
平成三年の
大学設置基準大綱化による規制緩和との引換えとして生まれ、以後、規制緩和が進むのに並行して次第に
評価も強化されてきたわけでございますが、事前の規制が緩和される以上、事後
評価はやむを得ないことであります。事前規制から事後チェックへの移行という総合規制
改革会議の主張にも一理はあります。しかし、事後
評価はしばしば事前規制以上に時間とコストを要するものであります。また、総合規制
改革会議は
大学の改廃の
弾力化とおっしゃいますけれども、
学生の
教育などは事後
評価では救われないという問題もございます。
このように、
大学評価は莫大な時間と費用、エネルギーを必要とするわけでありますが、それに値するだけの効果を生んでいるかどうか常にチェックすることが肝心であります。
大学評価はあくまでも
大学改革のための手段であって
目的ではございません。
評価に要する作業のために研究
教育活動への取組がおろそかになるというのは本末転倒でございます。したがいまして、根本的には一定の期間を経た後に事前
評価と事後
評価の
関係を改めて見直していく必要があります。当面は、
評価の
客観性を保ちながら、
評価内容の重点化、
評価作業の簡素化を図っていくことが必要かと存じます。
以上で終わらせていただきます。(
拍手)