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参考人(
西谷敏君) 御紹介いただきました
西谷です。私は、専門が
労働法ということですので、
労働法の
観点から、
経済的自由と
社会権、
労働法の
関係についてお話し申し上げたいと思います。
言うまでもなく、
日本国憲法は、
職業選択の自由とか
所有権などの
経済的自由と並びまして、一連の
社会権を
保障しております。
労働法の
分野について重要でありますのは、まず
勤労の
権利を
保障しました
憲法二十七条の一項であります。これは、特に国の
雇用保障政策や
判例によります
解雇制限法理の
理念的な根拠となっております。
次に、
憲法二十七条の二項ですが、ここでは、「賃金、就業時間、休息その他の
勤労条件に関する
基準は、
法律でこれを定める。」と
規定しております。
労働基準法などのいわゆる
労働者保護立法は、こうした
憲法の負託を受けて制定された
法律であります。
憲法学者の
中村睦男教授は、このような
憲法との密接な関連が、諸外国の
労働基準法と比較した場合に、我が国の
労働基準法の特色となっているというふうに指摘しておられます。
そして、いわゆる
団結権、
団体交渉権、
団体行動権を
保障しました
憲法二十八条も、
経済的自由を制約する側面を持つわけであります。
労働法というのは、このような
憲法の諸
規定を
基礎に形成されております。
労働法は、いずれの国でも存在するわけですけれども、
労働法のキーワードはいわゆる
労働の
従属性であります。つまり、
労働者と
使用者の個人的な
関係においては、やはり
使用者が非常に強い力を持っていると。そこで、形式上は
労働契約で対等の
立場で
労働条件を
決定することになっているんだけれども、その
力関係の隔絶のゆえに、事実上
使用者が一方的に
労働条件を
決定しがちになる。もし
労働法がなければ、そういうことになってしまう。そういう事態になりますと、
労働条件は一方的に引き下げられるだけになる、あるいは
労働者の人間的な
生活が
保障できない。そこで、
労働法が様々な形で
使用者の一方的な
決定、
単独決定を
規制する、こういうことになっているわけであります。これは各国で共通しております。
したがいまして、
労働法というものは、端的に言えば、
使用者の一方的な
決定、つまり
経済的自由を
規制するということ、ここに最も
基本的な
性格を持っております。
日本国憲法がこのような
性格を持った
労働法を根拠付けているということは、言い換えますと、これは当然に
経済的自由の制約を
前提にしているということになります。
しかし、
他方、
経済的自由につきましても様々な種類とか局面がありますけれども、大企業の
経済的自由を含めまして一定の
憲法的保障を受けることは言うまでもありません。言い換えますと、
社会権や、それに基づく
労働法も、
経済的自由を完全には否定しない範囲で存在し得るにすぎないということであります。そこで、
立法とか解釈におきましては、
経済的自由と
社会権、
労働法の
関係を、その
両者を調和的にとらえる、つまり
両者がいずれも犠牲にされることなく実現される、そういうことを
憲法は求めているというふうに考えざるを得ないわけであります。
このような
経済的自由と
社会権、
労働法との調和という
観点から、最近の
労働分野の
規制緩和あるいは
規制改革と言われますけれども、この動きを見ますと、私はそこに非常に重大な問題を感じるわけであります。そこでは、
市場原理、すなわち
経済的自由の
価値が一面的に強調されまして、
社会権を
保障するという
観点が非常に弱いということであります。
幾つかの例を挙げさせていただきます。時間の
関係で詳しくは立ち入れませんが、
幾つかの具体例としてお聞きください。
一つは、ホワイトカラーの
労働時間問題であります。これにつきましては、現行労基法の裁量
労働制の
規定がありますが、特にその中でも、企画業務型の裁量
労働制につきまして、手続が余りにも煩雑であると、そういう理由でそれの緩和が要求されております。
さらに、ホワイトカラーにつきまして八時間
労働制の適用そのものを排除をしようとする、いわゆるホワイトカラーエグゼンプションの考え方も有力に主張されております。要するに、ホワイトカラーについては時間管理をしないで残業手当も支払わない、そういうことにしてはどうかという提案であります。
しかし、私の見ますところ、不況の中でも、ホワイトカラーの長時間
労働は、依然として過労死問題とかその他様々な
社会問題を生み出しております。ホワイトカラー
労働者の
労働時間をめぐる最近の
議論は、企業経営上の効率だけを重視して、
社会権保障の
観点が欠落しているのではないかというふうに私は見ております。
次に、有期契約の期間延長の問題でありますけれども、これは、現行労基法の十四条が原則一年と定めております有期契約の期間を三年ないしは五年に延長しようというものでありますけれども、これによりましてどういう事態が生じるかといいますと、
労働者の
雇用は安定するのではなくてかえって不安定化する、あるいは若年
労働者、若年女性については事実上の結婚退職制が復活するのではないかといった問題が指摘されております。
私は、この有期契約につきましては、ヨーロッパ諸国でそうされておりますように、そもそも合理性のない有期契約は認めないというところから出発をしてこの問題を考えていくべきだろうというふうに考えております。
労働者派遣の問題でありますけれども、
労働者派遣という形態、特に登録型の派遣につきましては、派遣法が制定されました八五年当初から非常に大きな問題があると指摘されておりました。ところが、
労働者派遣法の制定後十七年の間に、派遣が許容される範囲がどんどん拡大されまして、派遣
労働者の勤務条件が非常に問題がある、あるいは派遣契約が中途で解約されて簡単に事実上解雇される、あるいは派遣先による事前面接という
法律上許されていない行為が横行しているなどの様々な問題が指摘されております。ところが、現在、製造業への派遣の問題とか派遣期間の問題などについて一層の
規制緩和が要求されているところであります。
次に、解雇
制限でありますけれども、現在、
法律の上では
基本的に解雇理由、解雇の事由を
制限する
規定はございません。そこで、
判例によりまして解雇権濫用法理が確立され、それが解雇を
制限する
役割を果たしているわけであります。
現在、この問題につきまして
法律でどのように
規定するのかということが論じられておりますけれども、一つの有力な考え方によれば、
法律の
規定を設けることによって解雇をもっと自由にできるようにするということが言われております。しかし、私の
意見では、現在の
判例法理は
社会的に見て許容できない
権利濫用的な解雇を排除しているだけでありまして、例えば
経済的困難に陥った企業がやむを得ずなすような解雇は決して否定されておりません。したがいまして、結論的には、私は、これ以上解雇を簡単にするような
法律の
規定は必要ないし、さらに、これは
労働者の
雇用不安をあおるものであって、極めて有害ではなかろうかというふうに考えているところであります。
このように、現在の
規制緩和論には様々な問題が存在すると考えております。
しかし、
他方、先ほども申し上げましたように、
経済的自由は制約はされても否定することはできません。これは現在の
経済制度の
基礎であり、その一定の
保障は
憲法的要請だからであります。また、
労働者の
福祉のためにも
経済の安定的発展は不可欠でありまして、
経済の安定的発展のためには一定の条件下での
経済的自由あるいは競争は必要であります。
そこで、問題は、
経済的自由と
社会権、
労働法との調和をいかに図るのかということになってきます。その問題を考えるに当たりまして、比較法的な視点が大変重要ではないかというのが私の
意見であります。
労働法的な
規制の程度という
観点から見ますと、
アメリカ、一方における
アメリカ、それから
他方におけるフランス、
ドイツなどのヨーロッパ大陸の諸国は極めて対照的であります。
アメリカは
基本的に
労働法的
規制の極めて弱い国でありまして、これに対しましてヨーロッパ諸国は伝統的に
労働法的
規制を重視してきた国であります。現在はEU段階での
規制の再編に取り組んでいるところであります。
日本の
労働法はどうかといいますと、大ざっぱに言えば、言わば
アメリカ型とヨーロッパ型の中間に位置するのではなかろうかというふうに考えます。現在、
日本における
労働法の
規制緩和がどんどん進められようとしておりますけれども、このような
規制緩和が進められてきますと、
日本は言わば
アメリカ型に接近していくということになるわけであります。
そこで、
日本の
労働法を
アメリカ型に持っていくのか、あるいはヨーロッパ型に持っていくのか。これは下手をしますと水掛け論になりそうでありますけれども、私は、この問題を考えるに当たって、それぞれの国の
憲法の
基本構造を忘れてはならないというふうに考えております。
ヨーロッパ大陸の諸国は、第二次大戦後、例えば
ドイツの
社会的市場
経済論に典型的に見られますように、
社会的公正とか
労働者保護の
観点からする
国家介入を
前提とした市場
経済の制度を確立し、その下で
労働法を発展させてきました。そうした
経済構造と
労働法の在り方は、実はそれぞれの国の
憲法にその
基礎を持っていたのではなかろうかと思うわけであります。すなわち、一九四六年のフランス第四共和国
憲法は
社会的共和国、フランスは
社会的共和国であると
規定しております。一九四七年のイタリア
憲法は
労働に
基礎を置く
民主的共和国だと
規定しております。そして、一九四九年の西
ドイツ基本法は
社会的法治
国家と
規定しております。
このように、ヨーロッパ大陸の諸国は、いずれも自らを
社会的
政策を展開する
国家と
規定して、そういった
憲法的
基礎の上に具体的な
政策を展開してきたわけであります。先ほどの
戸波先生のお話にありましたように、
社会権という形では
規定されていないとしても、
社会国家、
国家目的の形においてこういった
基本的な
政策を宣言しているというふうに見ることができるわけであります。
フランスや
ドイツなどにおきましては、現在、グローバル化の中で新
自由主義的な
規制緩和論の攻勢をやはり受けておりますけれども、そしてその中で様々な
政策的な動揺が見られますけれども、なお
市場原理一辺倒に陥ることなく、
社会的公正のための
国家的介入の
政策を維持してきたわけであります。こうした在り方は、
憲法の
基本的な
構造抜きにして理解できないのではなかろうか。
ドイツのある論者はこのように言っております。
労働者保護の
観点からする修正を伴わない完全な市場
経済は
憲法と矛盾すると。このような考え方が他のヨーロッパ大陸諸国にも共通するのではなかろうかということであります。
他方、
アメリカ憲法は個人的自由のみに立脚しておりまして、
憲法自体におきましては
社会的公正の
観点からする
国家介入を根拠付ける
規定はありません。もとより、
アメリカにおきましても、
経済、
社会の各
分野で様々な
国家介入がなされておりますけれども、これらは
憲法的
基礎を持っておりませんがために、単なる
政策としての色彩が強く、政権の交代とともに大きな転換がなされるということであります。また、
労働法の
分野におきまして一貫して法的
規制が弱いという
アメリカの特徴も、
憲法のこのような在り方と決して無
関係とは言えないのではなかろうかと考えております。
このようなヨーロッパ諸国
憲法と
アメリカ憲法との対比の中で見た場合、
日本国憲法は一連の
社会権規定を持っている点で明らかにヨーロッパ型に属すると言えるのではないでしょうか。特に
憲法二十七条二項は
労働立法の根拠となるものでありまして、重要な
労働条件について
法律で明確に最低
基準を設定するという
国家の任務は、
憲法を尊重する限り決して放棄することのできないものであります。したがいまして、
憲法を
前提として
日本の
労働法の在り方を考える限り、
アメリカに接近していくということは非常に問題がある。むしろ、ヨーロッパ型の
労働法を参考にしつつ、今後の
日本の
労働法の在り方を考える必要があるのではなかろうかということであります。
しかし、
市場原理を
社会的
観点によって修正しようとするヨーロッパの試みも、グローバル化の中でいつまでも保持されるという
保障はありません。
経済のグローバル化の進行によりまして、
アメリカの考え方が国境を越えたスタンダードとして浸透していくならば、ヨーロッパ諸国もその影響を受けて、言わばヨーロッパの
アメリカ化が進んでいく可能性もあります。それは、
労働運動や
関係者の長年の努力で形成されてきた
労働条件や
労働者権の
水準を大幅に低下させ、時代を百年以上逆戻りさせることになりかねないと思います。
しかし、逆に、市場と
社会的
観点を結び付けようとするヨーロッパの努力が、ヨーロッパ共同体の範囲を超えた国際的
基準の確立を通じて
アメリカをも拘束する力を持っていくという可能性も否定はできません。現在、そうした
アメリカ型の考え方が
世界を支配するのか、あるいはヨーロッパ型の考え方が
アメリカをも拘束していくのかという点で鋭い緊張
関係が見られると思います。そうした緊張
関係の中で
日本の
労働法はどのような道を歩んでいくべきなのかが問われているのだろうと思います。
私は、
日本の現行
憲法がヨーロッパ型であるという単にそれだけの理由ではなくて、より積極的に
労働運動の長年にわたる血のにじむような努力を無にしないで、
労働者の人間らしい
生活の
保障を
前提とした安定した
日本社会あるいは国際
社会の形成に貢献するという
観点から、むしろヨーロッパに学ぶ
労働法の確立を期待しているところであります。
御清聴ありがとうございました。(拍手)