○小野
委員 実は、前段の話が随分長くなってしまったわけでありますが、私は、この
個人情報保護法案というものは、
情報社会における新しい世界を今つくってきているわけでありますから、その技術の進歩の速さに比べてなかなか社会の側の意識ないしは
法律というのが対応できないところにこの必要性が生まれているというふうな認識を持っているものでございます。
今回の
議論等を拝聴させていただきながら最も問題として認識をしてきたものは、自由、権利というものと義務、責任というもの、これはよく一体のものとして
議論されるものでございます。自由があればそこには義務があり、そして権利があるというならばそこにまた責任があるというふうなこともよく言われるわけでありますが、どうもこの
情報社会においては自由と権利の主張ばかりが非常に強い、その一方で、義務、責任を果たそうという要素が非常に弱いのではないだろうかというふうな印象を私は持ってならないところがあるわけであります。
例えば、適切な事例であるかどうかというのは
皆さんいろいろな御意見あろうかと思いますが、ここしばらく、世界の中での投資家たちの振る舞いというのを見ておりますと、国際的な投資家の
皆さん方は、もうとにかく自分たちが預託されたお金を特定の企業、特定の国等に集中的に投入する、そしてそれが危なくなってくれば、それを思い切り一気に引き抜いてしまう。その結果、企業が倒産しようが一国が混乱しようが、そこで失業者がたくさん出て、そしてそこに自殺者が出てこようが、しかし投資家たちは、もう完全に投資活動は自由なんだ、自由だから何やったっていいんだというふうなことで、その投資行動の結果、何が生まれるかという結果に対しては全く責任をとろうとしないんですね。
こういう関係というものは二十一世紀の時代に果たして許されるものなんだろうか。自由があれば、そこには当然ながらその自由を行使することに伴う責任というのはあるはずですよ。権利があるならば、その権利を行使することによって人々が豊かに、幸せにならなきゃいけない、そういうような義務というのはあるはずだ。これが私は世の中の基本ルールだと思うのでありますが、余りにもこの
情報社会というのが急速に立ち上がり、それが一気に広がったがゆえに、この自由、権利と義務、責任というものが一致しない社会を
情報世界の中でつくり上げてしまったのではないか、実はこういうふうな認識を持っているわけでございます。
そこで、この
個人情報保護法というものも、いろいろな御批判はありましたけれ
ども、やはり自由と権利というもので、もう全く何ら
規制はかけちゃいけないんだという
情報社会論を主張される学者たちも随分たくさんおりまして、そういう
議論の延長線上にこの多様な
議論がなされている
部分があるような気持ちがしてならないところがあって、私は、自由というものだけが単独に存在し得るものではない。
かつて、インド独立の父といったらよろしいんでしょうか、ガンジーは、
議論が混乱したときに、自分たちの自由や権利を主張するよりも、まず自分たちが何をなさねばならないか、その義務と責任の方をみんなの中で一致させて、そしてその上で自由と権利の
議論をしたらあっという間に問題は解決しますよ、こういうことを言われた言葉があって、私はこれは非常に大事な言葉だなと思っているところがあるわけでありますが、私自身の問題認識としてはそういうものがございます。
ここの
情報社会の義務、責任ということにつきましては、もういろいろな
委員の
皆さん方、特に
民主党の
委員の
皆さん方も御主張されてこられましたが、この
情報というのは世界の中で自由に行き来するものである以上、義務、責任ということについては基本的に国際的な共通のルールというものを確立する努力というのが今後求められざるを得ないのではないかという思いを持っているわけでございます。その種の取り組みないしは御協議というものをやっておられるのかどうか、お尋ねをしたいと思います。