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奥谷委員 自由民主党の
奥谷通でございます。
まずは、
鴻池大臣、また副
大臣、
政務官のそれぞれの力強いご
あいさつを伺いまして、また
気持ちを新たに、
災害列島と言われる
日本に住む者にとって、そこの
議員としてこれからの
危機管理あるいは
防災体制に真正面から取り組んでまいりたいと決意を新たにしたところでございます。ありがとうございました。
先ほどご
あいさつの中にもありましたように、
平成十二年の六月に
三宅島の
火山活動が始まりまして、九月から
避難を開始されて、もう二年
余りがたっております。
避難生活というのは、我々
神戸で
震災を受けた者にとって、その
状況というのは本当に
人ごとでなく、実感として伝わってくるものでございまして、何とか一日も早く
地元へ帰れるような
対策をしていきたい、そう
思います。
ことしは
台風もありましたし、
山火事もあちこちでありました。相当大
規模なものもありました。また、
台風で流されてきた
バハマ船籍の
自動車運搬船は
伊豆大島沖で恐らくまだ燃えているんじゃないかと
思います。そんな
状況でございまして、本当につくづく、
災害というのはいつやってくるかわからないし、
日本の国において続くものだな、そして
世界規模においては、これに加えてテロというようなものがございまして、我々は一層その
危機管理の
気持ちを持っていかなくてはならないと思っております。
また、
鴻池大臣におかれましても、我々、
阪神・
淡路大震災という、本当に、体験はしたくなかったですけれども、ともにそういう
経験をいたしました。
議員としてその後の
対策に一生懸命頑張ってこられてきたわけでございまして、その意味において、今度の
防災担当に就任されたことを心強く、うれしく思うわけでございます。
与えられた二十分、本当に短い時間なので、何を焦点にというような
気持ちがありましたけれども、やはり我々
神戸の者にとりましては、あの
阪神・
淡路大震災からの
教訓というもの、もう八年たつわけでありますけれども、一体あれからどこがどう変わって、もし次に同じような
震災が起こったときに、同じ轍を踏まないような
対策ができるのかなというようなことをつくづく思うわけでございます。
規模はマグニチュード七・二という
都市直下型地震、これも
世界に類を見ないものでございまして、私は、
昭和二十年、戦後のいろいろな
自然災害というものを調べてみましたら、千人
規模で
死者が出ている
災害というのも何回かありますけれども、過去において
阪神大震災を除いて一番大きかったのは
昭和三十四年の
伊勢湾台風でございまして、このときに
死者、不明が五千九十八名ということでございます。それより少ないのは三千台でございまして、この
阪神・
淡路大震災で六千四百三十五名、今から思えば、人一人が亡くなってもそれはもう大騒ぎになるこの
日本の国でありますけれども、そこで何とわずか八年前に六千四百名
余りの人が一瞬にして、わずか十数秒の
地震で亡くなってしまったんだということは、本当にいまだに信じられない
思いでございます。
それだけに、その後の
対策、あれを
教訓にして、
犠牲者の
気持ちというものを何とか生かせるような国にしたいという気が強いわけであります。そういった
観点で質問に入りたいと
思いますが、その後、十兆円の
被害がありましたけれども、何とかインフラを初めとする公共的なものは、そのときの
日本の国力といいますか、
被災に遭った者はいろいろと
不平不満はありましたけれども、やはりこれは客観的に考えてみて、私は、
日本の国というのはすごいな、いざとなったらすごいことができるんだなということを、当時
県会議員でございましたけれども、率直に感じたわけでございます。
そして、
公共部門以外に問題になりましたのは、やはり
被災に遭った人が、まずは
救助活動があり、そして
避難所での
生活があり、それから
仮設住宅に入り、そこで少しは人間らしい
生活が取り戻せるわけでありますけれども、この
仮設住宅もいつまでもおれるものではありません。その間に
恒久住宅を
建設して、また、空き家を探して移っていただく、こういう
対策をあの
混乱の中でやっていかなくてはならない。これは数万世帯に及びますから、
統計数字でいきますと、何万分の幾らということでわずか数%とかそういうふうなことが言われるかもわかりませんが、その一軒一軒が、一戸一戸が
一つの
生活をしておる大変大事なものでございますので、それこそ一軒、一戸あるいは一人たりともその
対策に漏れがあってはならなかったわけでございます。
いわゆる公共的なものはそういった形で、恐らく五兆円から六兆円ぐらいの国費がかけられたと
思いますが、港の
復興であるとか
高速道路、
道路、
鉄道、こういったものは本当に驚異的に早く復旧
復興いたしました。
そこで問題になりましたのは、個々の人々の
生活でございまして、いろいろ話題になりましたのが、
個人補償というものでございます。といいますのは、今までそういった
自然災害がありますと、
義援金がどんどんと集まりまして、そういった
義援金の
配分で
生活が補償される、あるいはそれが
住宅にまで手当てがいくというようなことで、奥尻島あるいは島原にしても、かなり
義援金で助かってきた
経緯がございます。
ところが、
阪神・
淡路大震災の場合は、
義援金の額はそれの何百倍、恐らく二千億近くいただいたんじゃないかと
思いますけれども、それに比べて
被災者の数というのも圧倒的に多かったわけでして、そういった
配分でとても当面の
生活とか
住宅まで及ばなかったわけでございます。
しかしながら、当時の
国会で、私はこれは
日本の
法律で初めてだと
思いますけれども、
個人補償であります
生活再建支援というところに踏み出していただきまして、当面の必要な
生活費というものを
被災者に対して支給するという画期的な
法律をつくっていただいたわけなんですが、それと同時に、
住宅の方でございます。この
住宅の
再建支援というのが、問題にはなりましたけれども、なかなかできなかった。その後、
国会の方も超党派で、
自然災害から
国民を守る
国会議員の会というのが、私もメンバーでございますが、今もこれは
活動を続けておりまして、いろいろな
政策を考えております。
そしてまた、兵庫県も
住宅地震災害共済制度というのをつくりまして、何とかこの
共済制度でそういったときに
住宅がすぐに建てられるようにというようなことをやったわけですけれども、これもなかなか、
共済金の収集問題とか
滞納者が出たらどうするんだとか、
関東大震災級の大きな
地震にたえられるのかというふうな話が出まして、これも物にならなかったというふうな
経緯があります。
人間は自分の家がなくなってみたときに、本当に住むところがないということがいかに惨めなことであるか、誇りというものが踏みにじられるかということはもう言うまでもないことでございます。そして、これを何とか解決しないと、今もお話にありました
東南海・
南海地震対策というものも、やはりどこか大事なところが抜けた
対策になっていくんじゃないかな、そのように思う次第でございます。
それで、私もその当時から、何とか
住宅面において
対策を早くまとめ上げたい、このような
思いがあったのと、それから、その当時
仮設住宅を大体四万八千軒ほど建てていただきました。これも本当にわずか数カ月の間にその土地を探し、そういった
住宅を探し、そして
被災者の
入居の
優先順位を決める。今から思ったら、引っ越しとかその他もろもろのことが、あの
状況の中でよくやれたんだなというふうなことを思うわけなんです。
この
仮設住宅の
基礎になるのは
災害救助法という
法律でありまして、
仮設住宅は、せっかく建てても二年しか
入居ができません。そして、たった二年でその後の
対策もなかなかできないわけですから、それを何とか延長するために、
震災後の
平成八年に
特定非常災害の
被害者の
権利利益の
保全等を図るための
特別措置に関する
法律ということで、いわゆる
応急仮設住宅の
残存期間の特例というものをつくりまして、これによって何年か延長する中で
仮設住宅から
恒久住宅へという
対策を行ってきたわけでございます。
ただ、そこでこの
仮設住宅というのが、口で言う
仮設住宅、何か仮にたたき大工がぱっぱっと建てたようなものじゃなくて、なかなか立派なものなんです。これは後にトルコの
地震がありましたし、またコソボへなんかもその
仮設住宅を再
利用するために行っておりますが、恐らくまだしっかりと残っておると私は
思います。
事ほどさように、今の
建築水準、
プレハブメーカーのそういった
技術というのは、格段にこの
法律のつくられた当時からは進んでおるわけであります。こういった
仮設住宅がわずか二年、あるいは延長しても三年、四年の間に、片や
何とか家を再建したいという人がいらっしゃるその目の前で、ばたばたとまだ使えそうなものが壊されていく。
利用されるものはあるにしても、ほとんどのものは、言葉は悪いですけれども、
廃棄物として処理されたんだと私は
思います。そこでそういうものを目の当たりにした者は、何とこれはもったいないなというような気がいたしました。
そこでまず、
災害救助法における
応急仮設住宅の
設置、
入居あるいは撤去に関する基本的な考え方を
厚生労働省にお伺いしたいと
思います。