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苅谷参考人 本日は、お招きいただきましてありがとうございました。
お
手元に、本日お話ししたい
内容を簡単にまとめました、大学では
レジュメと申していますが、
レジュメと、それから
参考資料、これは別刷りで
カラーコピーのものが何ページかありますが、それが用意してあると思います。適宜、
資料とこの
レジュメとを御参照していただきながら話をお聞きいただければと思います。
初めに、私がこのような場でお話しするに当たりまして、
一つ前提を申し上げておかなきゃいけないんですが、私自身は
憲法の
専門家でも
教育法の
専門家でもございません。
社会学という
立場から
教育の問題を
研究している
研究者です。ですから、
法律の
議論を詳しくここで申し述べるということはできないんですが、恐らく、今後、
憲法の問題を考えるに当たって、特に
基本的人権の中で、
教育という問題は
一つの重要な課題になってくると思いますので、そこら辺のところについて、主に、現在起きております
教育の世界での
実態の
変化ということを
中心にお話しさせていただきまして、それに対して、それが
基本的人権ということでどういうかかわりを持ち得るのかというところまで何とかお話しできればと思っております。
最初に、お
手元の
レジュメの一番目のところで、
憲法における
教育についての記述のところを挙げておきました。
これはもう御説明するまでもないんだと思いますが、二十六条におきまして、「すべて
国民は、
法律の定めるところにより、その
能力に応じて、ひとしく
教育を受ける
権利を有する。」とございます。これを受けまして、
教育基本法の第三条のところでは、「すべて
国民は、ひとしく、その
能力に応ずる
教育を受ける機会を与えられなければならないものであ
つて、人種、信条、性別、
社会的身分、
経済的地位又は門地によ
つて、
教育上差別されない。」というふうな
規定がございます。
ここで、きょう私が問題にしたいと思っておりますのは、この「
能力に応じて、ひとしく
教育を受ける
権利」という、そこの
部分をどのように
実態に即して考えていくのかということです。
そういった
意味で、いわゆる
法律論というよりは、実際の
教育制度や
教育行政の
運用面の中でこうした「
能力に応じて、ひとしく
教育を受ける
権利」というものがどれだけ
保障され得るのかどうかということに少し目を向けた
議論をできたらと思っております。
ちなみに、今ちょっと読み飛ばしたところで、もう
一つ教育に関係するところは、
憲法では、二十五条で「すべて
国民は、健康で文化的な
最低限度の生活を営む
権利を有する。」というふうになっております。ここでいえば、「文化的な
最低限度の生活を営む
権利」というものをどのように考えるかということも、恐らく
教育というものに関係してくると思います。
それから、もう一点読み飛ばしたところですが、
教育基本法の三条の第二項の中では、「国及び
地方公共団体は、
能力があるにもかかわらず、
経済的理由によ
つて修学困難な者に対して、奨学の
方法を講じなければならない。」という
規定がございます。もちろん、これはすべての
子供たちに
奨学金が与えられるということを必ずしも完全に
保障したものではないのかもしれませんが、しかし、これから申し上げますような現在の
教育の
変化ということを考えたときに、こういったことが恐らく非常に重要な問題になってくるだろうというふうに考えます。
そこで、二番目に、「
能力に応じて、ひとしく
教育を受ける
権利」という場合の、この
能力というものをどのように考えるかということについて、私の考えを述べさせていただきたいと思います。
当然ながら、ここで言う
能力というものは、持って生まれた
能力の差というものも恐らく含んでいると思います。これが、あらゆる
子供たちに全くひとしく
能力が備わっているという見方に対しては、ある程度留保をせざるを得ない
部分があると思います。これは、いわゆる障害を持った
子供たちという非常に明確にわかる場合もございますし、そういった障害という形では明確には見えない場合であっても、いわゆる
学習を進めていく上での何らかの
知的能力の差というものは、全くどの個人にもひとしく完全に平等であるというような考え方がとれるかどうかということについては、幾つか留保をしなければいけないということだと思います。それをどのように考えるかというのが
一つ目の問題です。
それともう
一つは、ここで「
能力に応じて、ひとしく
教育を受ける」という場合の、この
能力というものをどの
年齢段階の
能力として考えるかという問題です。これにつきましても、生まれた
時点で、私が今申し上げたような、多分には恐らく遺伝的な要素なども関係すると思いますが、そういうところで
能力をとらえる場合と、あるいは
義務教育が始まる前の
段階でとらえる場合と、あるいは
義務教育の途中の
段階で
能力なるものをとらえる場合と、最終的に
義務教育が終わって高校なりなんなりに進学する場合での
能力というものをとらえる場合で、
能力に応じたといいましても、その
内容自体は実際に変わってくると思います。
この中で、行政であるとかあるいは
社会的な
制度によって介入可能な範囲というものは、現在のところ、恐らく就学以前の
段階で生じる何らかの
家庭環境の差による
能力差というものに対してはある程度何かができるかもしれません。しかし、今の我々の
教育制度の中で、最もこういった問題に直接的に何らかの支援なりあるいは介入なりができるのは、やはり
学校という
制度を通じてです。その場合に、例えば十歳の
子供の
時点で生じている
能力差というものは、果たして、どこまでが生得的なものであり、どこまでが
家庭環境によって生じるものであり、あるいはまたさらに、どこまでが
学校教育によって生じさせているものなのか、こういう問題があるわけです。
そこの
部分をある程度区別して考えない限り、ここで
能力というものを抽象的に考えるだけでは、いわゆる
基本的人権としての「ひとしく
教育を受ける
権利」というものが十分には
保障されないのではないかと私は考えております。
そういったことを考えたときに、では、現状において、今ここで言う
能力の格差といった問題がどのようになっているのかということを、少し私が関係しております
調査を
中心にしましてこれから御説明したいと思います。ですから、ここは
法律論や
制度論というよりは、実際に今の
教育のもとで、とりわけ
教育改革が進む中で、
教育というものがどのように
変化してきていて、
子供たちのここで言う
能力差というものがあらわれているのかどうかという問題です。
ここからは少し丁寧に、お配りいたしました
資料をもとに御説明をさせていただきたいと思います。これから幾つかたくさん
数字が出てまいりますが、なるべく簡単に御説明しようと思います。
憲法調査会の場で、果たしてこういう
社会学の
統計資料を読むのがふさわしいのかどうかというのは多少疑問もあるんですが、少し
数字におつき合い願えればと思います。
と申しますのも、
教育の問題を語る場合に、今までの
教育の
議論の中では、こういった数量的にとらえることのできる
実態というものが、私から見ますとかなり軽視されてきたのではないか。そういったところが、もしかすると、
教育政策を考える場合の
問題点を生み出してきたのではないかというふうに私自身認識しているからです。そして、そのことが、
先ほど申し上げました、
学校段階の途中で生じている
能力差といったことに無関係ではないというふうに私自身考えているからであります。
最初に、まず一番目のところで、最近、朝日新聞の特集でも、
学習意欲の問題がこの何日間か
新聞紙上に出ておりますが、
子供たちの
勉強離れの
実態について
一つの
調査結果を御報告したいと思います。
これは、一九八三年から九八年までにかけまして東京都が三年置きに行っております
子供の
調査の、かなり大規模な、きちんとした
調査設計が行われている、いわゆるランダムサンプリングと言われているんですが、かなりきちんとした
実態把握ができる
データです。これによって、いわば経年の、時間を隔てた
子供たちの
勉強の様子というものをとらえることができます。
まず、この
折れ線グラフの方ですが、これは、一日当たり
平均して何分ぐらい
中学校二年生が
学校外で
勉強しているのかということを計算したものです。これは、私が過去の
調査にさかのぼって全部計算し直したものなんですが、
折れ線グラフはそういうものです。それに対して、棒
グラフの方は、家で全く
勉強しない
子供のパーセント、
割合を示しております。
中学校二年生で、家で全然
勉強しない
子供が何割いるのかという
数字です。
最初に、
平均の
勉強時間の方から見ていただきますとわかりますように、九二年ぐらいまでは、まあ八〇年代は大きな
変化がないと言っていいわけですが、九二年のところで若干高くなっておりまして、決して
勉強時間は
減少傾向にはありませんでした。そして、
勉強しない
子供たちの
割合もむしろ減っております。よく世間では、
社会が豊かになって
子供たちが学ぶ目標をなくして
勉強意欲が低くなっていると言われるわけですが、九二年というのは、御承知のとおりバブルがはじけた直後ぐらいですから、日本の経済にとっては最も豊かだった時代と言っていいと思います。それまでは、実は
勉強離れというものはそれほど深刻ではなかったわけです。
ところが、
ごらんになっていただきますとわかりますように、九二年以降九八年にかけて急速に
勉強時間が減っております。そして、それだけではなくて、全く
勉強しない
子供の比率が二七%から四三%へと急増しております。これは、厳密な
意味での原因と結果の関係をこの
グラフだけから推測するのは難しいんですが、
参考までに申し述べますと、九二年というのは、ことしの三月まで実施されていました
学習指導要領が開始された年であります。そしてもう
一ついいますと、二〇〇二年、ことしの四月から
学習指導要領の改訂が行われましたが、その
学習指導要領の改訂を実際に行った
審議会の答申が出ているのが九八年であります。
九六年の中教審、そして九八年の
教育課程審議会という
審議会で現行の
学習指導要領が決まるわけですが、その
時点の
問題認識は、日本の
子供たちは
勉強し過ぎて忙し過ぎるという認識でした。残念ながら、
審議会の記録を私はくまなく調べましたが、こうした
データに基づく
議論は
審議会では行われておりませんでした。
しかし、この
グラフ一つ見てもわかりますように、実は九〇年代に入って、
子供たちは
勉強し過ぎというよりも、もう
勉強離れが起きていたわけです。そこは、私は一種の
問題認識のずれというものがあったのではないかと思います。
ただし、ここで申し上げたいのは、こういった
勉強離れというものがどの
子供にも同じように起きているわけではないということです。きょうは、ちょっとその
データを持ってきていないんですが、過去と比較し得る高校生の
調査で私が調べましたところ、これは一九七九年と九七年という二
時点の比較の
データですが、これで見ますと、親の学歴であるとか職業の違いによって
勉強時間の減り方が違っております。
全体として確かに
勉強時間は短くなっているんですが、だれがより
勉強しなくなったのかということ、
勉強離れの
実態を調べていきますと、
社会学者がいわゆる
社会階層と呼んでいる、親の学歴だとか職業とか所得だとか、そういったものによって
影響を受けている
可能性があるということです。
当然ながら、これだけ
勉強離れが進めば、これは普通に考えて、いわゆる
基礎学力と呼ばれるものが低下してくるということはある程度推測ができることです。
そして、
先ほど申し上げました基本的な
能力、あるいは、ここで言う
義務教育段階における
能力の格差というものを見る上で、かなり基本的な
読み書き算の
学力と言われるものは、恐らく、ここで言う
能力というものにある程度含めて考えていいのではないかと私は思います。
つまり、余りにも抽象的な、一般的な、知的な
能力だけではなくて、
義務教育段階の中でつけられるべき基本的な
読み書き算の
能力というものは、「
能力に応じて、ひとしく
教育を受ける
権利」の中にある程度所属するものだと考えていいんじゃないかと思います。なぜなれば、そこでしっかりとした
能力がつけられなければ、その後の
教育機会において著しい不平等が発生するからです。
そういった
問題関心から、私は、一九八九年と二〇〇一年とにおいて、二つの
時点で比較できるかなり基本的な
学力の
調査を実施しました。
二番目で御紹介しますのは、
関西地区の、これは
調査対象地とのお約束で、どの地域かというお名前は申し上げられないんですけれども、かなり大規模に行いました
調査の結果です。全く同一の
学校を対象にした
調査であります。それによって、八九年と二〇〇一年とで、
算数、
数学、国語の
学力の
変化がわかるようになっております。
八九年と申しますのは、
先ほどもちょっと申し上げましたが、九二年から始まりました前回までの
学習指導要領が始まる以前の
段階になります。
学校が五日制というのはこの十年間で始まっていることですから、土曜日も休みではなくて、しかも
教育内容の
削減云々が言われていますが、それ以上に私が大事だと思っておりますのは、ある
意味では
子供たちの
学習意欲を高めようという善意であったんだとは思うんですが、そうしたことが
小学校の中で、いわゆる新しい
学力観と呼ばれる形で広く導入されました。
子供たちの体験であるとか、それから、
子供たちが
自分たちでも学ぶようなことを
中心にする
教育をやろうとする改革が九二年から始まったわけです。
しかし、その一方で、ややもすると、それまでの
教育の反省から、
子供たちがしっかりどれだけの
教育内容を身につけているのかという、定着とか、あるいは、
家庭学習の
指導といったことに対しては少し及び腰になったようです。世の中全体としても、そのころは
受験教育批判というものが確かにありましたし、いわゆる
詰め込み教育というものが批判されていましたから、教科書に書かれている
内容をどれだけきちんと理解しているのかということをチェックするのは非常に重要な事柄だったのですが、そうしたことも、ある
意味では教師による押しつけだというようなとらえ方をされる、そういう懸念があったわけです。
ここでは、そういったことで、
学習指導要領に記載されておりますかなり基本的な
内容を出題した
学力テストを実施したわけです。
ごらんになってわかりますように、少し薄い色の
グラフですが、これは八九年の
得点分布を、ちょうど
子供たちの
得点を十点
刻みに、何%ずついるのかということを示したものです。きれいな
右肩上がりになっておりまして、九十点以上の
子供が一番多いというのが八九年の結果でした。大体、四割近い
子供が九十点以上とれていまして、
平均点をとりましても八十点でした。
これは五年生ですが、
小学校五年生の
段階で、
平均点が百点満点で八十点の
テストというのは、本当にこれはすごく基本的な問題です。これは
学力と呼ぶのかどうかということさえちょっとためらうくらい、それが
ペーパーテストの
学力なのかもしれませんが、むしろ、その後の
学習を進めていく上での
読み書き算と言っていいくらい、その算の
部分のかなり基本的な
内容です。
ところが、その
得点が、二〇〇一年で見ますと、一番できる
子供の
割合がこれだけ減っております。そして、その分、六十点以下の
子供たちがこれだけふえているわけです。
次のページで、もう少し簡略化して御説明しますが、今度は
中学校二年生の
数学の
得点の
分布です。同じように十点
刻みでとってあります。
ここにおきましても、この場合には、ちょうど三十点台のところに小さな山が
一つできておりまして、
オレンジ色の
グラフの方で見ますと、かなり
得点の低い方にシフトしておりまして、なおかつ三十点のところにもう一山できる。これはよく
学校現場では、
フタコブラクダ化なんというようなことで言われているような、全体として
平均が下がっているのではなくて、実はできない
子供たちの
学力がより低下しているという
傾向を示しています。
これは
算数、
数学の結果ですが、もう
一つ、
小学校の国語についても、
小学校の
算数と同じような
傾向があるということを示すものを
参考までに出しておきました。
これは限られた地域の限られた
データなんですが、少なくとも、こういう
調査の結果から見えてきますのは、基礎的な
能力、
学校で養うべき
読み書き算の
能力の
部分について、その
保障がどれだけできているのかという問題であります。当然ながら、二極分化ということが起きているとすれば、その二極分化はだれの
学力なのかということが問題になります。
そこで、次の三ページ目を見ていただきますと、
先ほどの
中学校数学の
グラフを、
先ほどは
得点を十点
刻みにしまして
分布を見ましたが、今度は
子供たちの
得点をそれぞれの
年度ごとに一番から、この場合には下の方でも上でもいいんですが、要するに、
得点順に並べまして、ちょうど四分の一ずつぐらいの
子供の数になるように分けた
グラフです。いわゆる四分位というものですが、四分の一ずつぐらいに分けたときに、その
グループ内の
平均得点がどうなっているのかを、やはり八九年と二〇〇一年とで比べられるような形で示したものです。
全体としては、
中学生の場合には、一番右側にありますように、七点ぐらい全体の
平均点は下がっていますが、見ていただきますとわかるように、
トップグループの第四・四分
位グループや第三・四分
位グループという、比較的できる
子供の
得点というのは余り大きくは下がっておりません。
もちろんこれは、
テスト自体が比較的簡単な問題を出していますから、できる
子供たちの
得点を細かく、より詳しく調べるのには適していない
テストかもしれません。しかし、そういう基本的な問題を出したときにわかりますのは、一番左にあります第一・四分位の
グループ、つまり
学習の上で一番困難を来す
子供たちのところで非常に極端な
得点の低下が起きております。
こういったことが、ここで言う、
能力に応じた、ひとしく
教育の
権利ということにどう関係するかという問題です。
それを今度は、
家庭環境との
影響で見ようというのが次の
グラフなんですが、実はこれは、残念ながら、八九年の
調査というのは私どもがやった
調査ではなくて、大阪大学の
研究グループがやった
調査で、その
グループにお願いいたしまして、
データの再分析を許していただきました。ですから、我々が、過去においてもこういう
問題関心を持って何十年後に
調査をやるぞというふうにしてやった
研究ではありませんものですから、あくまでも便宜的に比較可能なものを集めた、そういう
調査の結果です。
そういった
意味で、いわゆる
家庭の文化的な環境であるとか、それから経済的な
階層化というものを現在と過去とを比べるような
データは、残念ながら過去にはございませんでした。そのかわりに、私がやりました
方法は、いわゆる塾に行っているか行っていないかということによって
得点の
変化を見るという
方法です。
まず、右側の
中学生の結果を見ていただきたいんですけれども、
中学生の場合を見ますと、
数学の
得点ですが、塾に行っている
子供の場合にはほとんど
変化がありません。ところが、塾に行っていない
子供の場合には、八点ですか、これぐらいのいわば
得点の差が出てきます。
これは、二つのことを
意味していると思います。
一つは、塾に行ける
子供と行けない
子供という問題です。当然ながら、塾は、
家庭の経済的な費用の負担によって行けるかどうかが決まってきますし、親の
教育関心とか
教育意識みたいなものもそこには関係してきます。そういった点で、経済的あるいは親の
教育意識なども含めた、広い
意味で、ある程度そこには階層というものが関係あるんじゃないかと私は見ているわけですが、その
影響がこういう
得点差になってあらわれているということです。
もう
一つの見方は、実は、塾に行けない
子供たちの
得点というのは、裏返してみますと、
学校だけで
勉強している場合に、どれだけこういった基本的な
学力というものがついているのかどうかということを示しています。そういった点で、
学校だけで
勉強している
子供、もちろん家では
勉強しているかもしれませんが、そういった
子供たちの場合、塾によって
学習を補えないような場合にこういう
得点差があらわれているということです。
実は、そのことが顕著に出ているのは
小学校の場合です。
小学校の場合には、塾に行っている
子供も行っていない
子供も、両方とも
得点が落ちております。これは左側の
グラフです。
ところが、興味深いことに、薄い水色の
グラフと
オレンジ色の
グラフでこれを比べていただきますと、
オレンジ色の塾に行っていた
子供、つまり二〇〇一年の塾に行っている
子供の
得点と八九年において塾に行っていない
子供の
得点を比べますと、七十三点と七十八・九ということで、実は八九年に塾に行っていない
子供の方が二〇〇一年に塾に行っている
子供より
得点が高いんです。両方とも、塾に行っても行っていなくても落ちているんですが、このことは、要するに塾に行っていても行っていなくても、小
学校段階では、こういったか
つて八十点くらいの
平均点だった基本的な
算数の
学力において低下が見られる、塾で補っても補い切れない、こういうような低下が起きているということです。
このように、一番
勉強の不得意な層で、小
学校段階で
勉強がわからなくなってしまいますと、特に
算数のような教科は
中学校になるとますます難しくなってきます。すると、難しくなって授業がわからなくなれば、そのことが
勉強の意欲を低めるということは、ある
意味では当然のことです。最近のいろいろな
調査でも、
子供たちがどういうときに
勉強の意欲を強く感じるかというのを見ますと、一番意欲を感じるのは、授業がわかっているときだと答えるんですね。これは当たり前のことです。
その授業がわかるための条件が小
学校段階でどれだけ
保障されているのかというのは、
中学校の
段階になったときの
勉強に対するあきらめであるとか、
勉強に対する構えみたいなものを
規定してしまうわけです。ですから、
先ほど、どこまでを
能力と呼んで、それがここで
基本的人権として
保障すべき
権利なのかという問題を考えるときの、
義務教育段階の、特に小
学校段階の
学力の定着ということは極めて重要な問題だと私は思っています。
次のページですが、よくこういう話をいたしますと必ず出てくる質問が、それでも、今、一生懸命
教育改革ではいわゆる生きる力を育てる
教育をしているんだ、多少
ペーパーテストの
得点が下がっても、これから二十一世紀に重要なのはむしろ生きる力で、
子供たちが
自分たちで調べたり考えたりする授業がもっと大切であって、そういう
能力をこれからはつくっていかなきゃいけないんだというふうな、そういうねらいでもって
教育改革が進められております。
ところが、私が調べましたところ、実はこういった
学習においてこそ
家庭の
影響が強く出てしまうということがわかっております。ここは、過去との比較は残念ながらできません。過去においては、こういう
学習は八九年ではしていなかったものですから、もともと
データはないんです。これは、
小学校や
中学校の中で、いわゆる調べ
学習というのは
子供たちが
自分たちで調べたり発表したりするような授業なんですが、今
教育改革の目玉になっているような総合的な
学習の時間などで一番取り入れられている、そういう授業の形態です。
そこで、
子供が自分で調べたり考えたりする授業をやろうというふうになっているわけですが、そういうことにどれぐらい
子供が積極的にかかわっているのかということを調べてみますと、まず驚きますのは、それほど積極的ではないということです。
これは、私の
立場から見ますとかなり発展的な
学習の部類に属しまして、基本的なことができていない
子供にこういうことをやらせても、なかなか実は意欲を感じてやるようにはなりません。
子供たちをいろいろなところに連れていって、見学させたり、いろいろお店の人にインタビューさせたりなんという授業をやっているわけですが、そのときは楽しくても、戻ってきてそれをまとめる
段階になって、図鑑を調べたり、あるいは何かに書いたりする
段階になると、どうしても基本的な
能力、
学力のところが基礎になってきますから、それが十分身についていない場合には、外に行って活動している時間は楽しくても、それをまとめる
段階になると楽しくなくなっちゃうんですね。そういったところで
家庭の環境の差が出てきてしまいます。
ここで
家庭の文化的階層と言っていますのは、私たちの
調査で、
子供に聞いているわけなので、余り職業とか所得といったものを詳しく聞けないものですから、親がテレビでニュースをよく見るかとか、自分の
子供を博物館とか美術館とかに連れていくかどうかとか、あるいはお母さんが手づくりのケーキをつくってくれるかとか、こういうのも実は階層なんかと関係するわけですが、あと、パソコンが家にあるかとか、こういういろいろな総合的な指標を使いまして
子供たちを三つの
グループに分けて、文化的階層の上中下と呼んだものです。
これで見ていただきますと、
小学校、
中学校でも、ともにこういう
家庭の階層の
影響が出てきてしまいます。実は、こういうことは、こういう
学校の取り組みをしております先進国、アメリカやイギリスなどでは昔から言われていたことです。ところが、残念ながら、日本では、こういうような
実態を把握しないまま、私から言わせれば、
教育の理想論でもって改革が進められてきましたから、それがうまくいかない場合に
子供たちにどういうしわ寄せがいくのかということがなかなか
実態に即して
議論されなかったということです。
こうやって、基礎的な
学力、
算数とか国語のところでも格差が広がり、調べ
学習とかいわゆる生きる力的な
教育をやる上でも格差が広がってきてしまいますと、これは、
義務教育段階の中で、私がここでお話ししようと思っている
能力の格差ということに、いわば
教育のやり方自体が格差を拡大してしまうということに寄与しているということです。
潜在的に、
子供たちの
能力の違いはあると思いますし、
家庭の環境の差はあります。ただ、
学校教育がよりそれを縮めようとする方向で考えるのか、それをいわば目に見えないまま放置して拡大してしまうのかということでは大きく違いがあります。
今までの
教育政策というものは、残念ながら、こういう問題にほとんど目をつぶってきました。こういうことは実際にはあり得ないんだという前提で進められてきましたから、結果としてこういうことが起きたときには、これは政策的には、いわゆる不作為としてこういう結果をもたらしているわけです。ですから、そこはやはり何とか政治を含めて行政が考えていかなければいけない問題です。
もう
一つ、最後に幾つかつけ加えたい問題ですけれども、こういった公立
学校の抱えている問題というものは、一方におきまして、特に都市部においては、
子供たちの公立離れという問題を引き起こしています。
御承知のとおり、
中学校の
段階から、いわゆる中高一貫の私立や国立を目指す
子供たちがふえています。
子供の数が減っているにもかかわらず、この
学習指導要領が発表されて以降、東京などでは私立の受験者がふえております。そういった
意味で、家の経済的な状態が許して、そして親の意識が高い場合には、公立に
子供をやらずに私立にやるという現象が起きているわけです。
実は、こういったことは、既に、東京の場合ですと、いわゆる
学校群が導入されて以降顕著になってきた問題なんですが、そうしたことが、今後の日本
社会を考える上で、幾つか重要な問題を引き起こしていると私は思っています。
ここでお示ししました東京大学が果たしてこういうものを問題にする上でどこまですぐれた指標なのかわかりませんが、少なくとも官庁を初め、あるいは法曹界もそうですが、いわゆる東大の法学部というものは、今までの日本の
社会の中では、その出身者が、好むと好まざるとにかかわらず重要な意思決定をするポジションにつく確率が高い、そういう卒業生をたくさん輩出してきた大学あるいは学部です。
その大学に入る人たちがどういう人たちによって占められているのかということを調べた結果なんですが、一九八〇年の
時点では四四%が公立の高校出身者でした。それが、九九年の
時点では二八・五%まで減っています。つまり、残りの七割強は、もう
中学校の
時点からいわゆる
義務教育段階の公立の
中学校に行っていないんです。その子たちとは違う生活を十二歳、十三歳のところから送って、中高一貫の
学校に通ってかなり均質な、
家庭的な環境でも均質なところで
教育を受けた
子供たちが今東大法学部に七割入っています。
恐らく、この
傾向は十年たったらもっと進むと思います。この数年の中
学校段階でまた公立離れが進んでいますから、それが何年か後には大学まで波及してきますから、大学に入学
時点で見ますと、恐らくこの
傾向はますます顕著になる。そうすると、恐らく東大の法学部の出身者の八割、もしかすると九割ぐらいは、十二歳ぐらいまでは公立の
小学校に通っているかもしれませんが、それ以降は全く違う生活環境で育っている人たちが、そういう大学を出ていろいろな
社会的な地位につくようになるわけです。
これは、私は日本のエリートというものを考えるときの
一つの
問題点だと思っています。こういった問題を引き起こしているのは、実は公立
学校の改革なんです。だから、これはちょっとねじれた関係ではあります。直接それがもたらしているわけではないんですが、間接的な結果としてこういうものをもたらしているということです。
これが、上下という言葉は問題なのかもしれませんが、エリートの
部分、比較的
学力の高い
部分、あるいは階層の高い
部分で起きている階層分化の
一つの局面だとしますと、もう
一つ起きておりますのは下の方で起きている問題です。
これも、皆様御承知のとおり、この数年、日本の経済の悪化も反映しまして、いわゆる若年失業ということが深刻な問題になっています。高卒者のおよそ一割は、今、全く進学もしなければ就職にもついておりません。それから大卒者でも、二割ぐらいが就職も進学もしない。大体二十数万人が、毎年、
学校を出て職業にもつかなければ進学もしないという、いわゆるフリーターであるとか無業の状態を続けております。か
つてフリーターというのは、何か自分の夢を求めて、自分のやりたい夢を実現するための
一つの期間なのだと言われていましたが、今は違います。明らかにこれは経済的な損失につながる、若年期のいわば職業訓練の機会を奪っている、そういう二十代を過ごす、そういう問題だと思います。
ところが、フリーターや高卒無業者にだれがなっているのかということを見ますと、ここにも明らかに
家庭的な背景というものが
影響しているというのが次の
データです。これはある県で、これも県の名前を申し上げられないんですが、高校の中でも比較的進学高校ではない高校、
中学校の成績でいうと大体半分から下ぐらいの生徒を受け入れている、そういう高校を対象にした
調査です。
そして、卒業直前の時期に、卒業後にどんな進路をたどっていますかということを聞いているんですが、ここで「無業者」という欄に御注目いただきたいんですが、ちょっと太字で書きましたが、流動的雇用層という、保護者の職業自体が小さなお店の雇われであるとか小さなサービス業や小売業の雇われであるような、その親自身が非常に職業が不安定な、そういう親を持っている
家庭の
子供が無業者になる率というのは、全体の九・四%のほぼ倍になっています。つまり、だれもが同じように無業者になるわけではなくて、ここにはやはり親の階層の
影響が出てくるということです。
最後に、そういったことがどういう問題を、
学力の問題あるいは基礎的な
能力の問題と結びついてどう起きているのかということを、同じように比較的進路が多様な進
学校以外の高校で調べた
調査の結果から御紹介したいと思います。これが八番目のものです。
ちょっとこれはわかりにくいかもしれませんが、
中学校の成績で半分から下ぐらいの
子供を受け入れている高校でやった
調査なんですが、そこでまず、左側にありますように、自分の今の読み書き
能力があれば将来困らないかどうかということについて質問をしました。困るか困らないかということを聞いているわけです。「ぜんぜんそう思わない」という答えは、困ると思わないに対してそう思わないわけですから、困ると思うということです。ちょっと否定の否定なのでわかりにくいんですけれども。上の方にある「ぜんぜんそう思わない」「あまりそう思わない」というのは、今の読み書き
能力が実は心配だ、少し不安であるというような回答のパターンです。
もう
一つは、それに対して、三十歳になったときの自分は人並みの生活ができているかどうかという質問をしました。これも、「ぜんぜんそう思わない」というのは、できていないということですから、不安だということです。高校卒業直前の
段階で、自分の読み書き
能力に自信がない
子供ほど、これが一番上の
グラフなんですが、三十歳時において人並みの生活をしているとは思っていないわけです。こういう
子供が四十何%になるわけです。
つまり、ここはもちろん
子供自身の意識の点で見ていますから、これが
実態になるかどうかというのはこれからの問題なんですけれども、もし
義務教育段階でしっかりとした読み書き
能力がつけられずに、そのまま
勉強のやる気をなくしてしまって、
中学校では
勉強をやらなくなる、それでも今は高校にはだれでも入れますから、高校に入る、そして何とか卒業にこぎつけたとしても、その
段階で、ここで言う基礎的な
能力を身につけていない場合には、将来やはり不安であるということを若者たち自身が感じているわけです。
こうやって職業機会においても格差を生み出しているというのがこの問題です。その背景には、
先ほど七番で言いました、親の階層、そしてまた別の
中学校の
データでお示ししましたような、
小学校や中
学校段階で生じているような階層の問題があるということです。
このように、
実態から見ますと、またちょっと
レジュメに戻っていただきますが、ちょっとたくさん
数字が並んじゃって申しわけございませんでした。こういった現状を見ますと、果たして今の
教育制度のもとでどこまで機会というものが
保障されているのか。確かに、
学校の数はふえました、進学率は高まりました。ですから、量的な面だけで見れば、
子供たちの
学校へ行けるチャンスというものは広がっているわけですが、そこで実際にどういう
能力が身についているのかというところまで考えたときには、こういったような
問題点が今生じている。しかも、それは過去に比べて悪化しているということなんです。
最後に、四番目の
レジュメのところで、こういったことを
議論する際に、私が考えております結果の平等と機会の均等ということについて、どうも日本人の間には誤解があるのではないかということをちょっと申し述べたいと思います。
そこにもございますが、小渕元首相がつくりました「二十一世紀日本の構想」懇談会がございました。この懇談会の報告書の中に、次のような一説がございます。ここに日本人の理解する結果の平等と機会の平等についての典型があるのではないかと思って引用しました。ちょっと読み上げます。
「残念ながら、日本の
社会には個人が先駆性を発揮するのをよしとしないきらいがある。日本人のもつ絶対的とも言える平等感と深く関わるが、「結果の平等」ばかりを問い、縦割り組織、横並び意識の中で、“出る杭”は打たれ続けてきた。「結果の平等」を求めすぎた挙句、「機会の不平等」を生んできた。」というわけです。
多分、こういうような形で我々は結果の平等ということを
議論していると思います。よく例にとられるのは、
教育の世界だと、運動会でゴールにたどり着くときに、みんなで手をつないで、競争状態じゃないということを指して結果の平等だというわけですね。これは確かに、日本の組織の問題、日本の文化の中で問題だと思います。しかし、こういう
意味で結果の平等を使うのと、それとは違う
意味で結果の平等を使うというような言い方があるということです。
もともと、アメリカの中で結果の平等という概念、考え方が登場したときには、実はこういう日本的な文脈、日本的な
意味とは全く違う
意味で使われていました。むしろ、機会の均等を
保障するということが結果の平等だという考え方がとられていたのです。それが有名なジョンソン大統領の貧困への闘いという演説の中の一説です。これも読み上げます。
長年にわたり、鎖につながれてきた人を解放し、競争のスタートラインに立たせ、「さあ、あなたは自由に他の人たちと競争ができる」と言い、それだけで自分は完全にフェアであると正しく信じようなどとすることはできない。機会の門戸を開くだけでは不十分である。われわれすべての市民は、この門戸を通り抜けるにたる
能力を持たなければならない。これこそが、公民権のための闘いの、次なる、そしてより深遠な
段階である。われわれは自由だけではなく機会を求める——たんなる法的な公正ではなく、人間的な
能力を——たんなる
権利としての、理論としての平等ではなく、事実としての、結果としての平等を求めるのである。
この場合の結果としての平等を求めるというのは、機会を
保障するための
能力をきちんと公共的な政策の中でつけてあげるというところまでを含んだ考え方だということです。
もちろんこれは、
最初の「鎖につながれた」という表現からわかりますように、人種差別ということを念頭に置いた問題提起だったわけです。しかし、その後、アメリカの公民権運動は、こういう問題に限らず、
教育の中で途中で生じてしまう
基礎学力の格差までをいわばこういう公民権運動の対象にしてきました。そうしたところでヘッドスタートなりなんなりという形で、なるべく
義務教育の
段階では格差を広げないような、個人の
能力差を認めながらも、それを広げないような形で、結果の平等というものを考えてきたわけです。全員が全員同じゴールにたどり着くことではなくて、フェアな競争を
学校を出た
時点でするためには、
教育段階の早期から格差を生じさせないということが大事だという認識だったわけです。
ちょうど時間になりましたので、ここでおしまいにしますが、こういった
実態を踏まえたところで、私たちが、
教育における
基本的人権、
能力に応じた
教育を受ける
権利というものをどう考えていくのかということに対して、この
委員会を通じても
議論を深めていただければ、私としてはありがたい限りです。
どうもありがとうございました。(拍手)