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2002-05-27 第154回国会 参議院 本会議 第28号
公式Web版
会議録情報
0
平成
十四年五月二十七日(月曜日) 午後零時一分
開議
━━━━━━━━━━━━━
○
議事日程
第二十九号
平成
十四年五月二十七日 正午
開議
第一
議員坂野重信
君
逝去
につき
哀悼
の件
━━━━━━━━━━━━━
○本日の
会議
に付した案件
議事日程
のとおり ─────・─────
倉田寛之
1
○
議長
(
倉田寛之
君) これより
会議
を開きます。
日程
第一
議員坂野重信
君
逝去
につき
哀悼
の件
議員坂野重信
君は、去る四月十七日
逝去
されました。誠に
痛惜哀悼
の至りに堪えません。 同君に対しましては、
議長
は、既に
弔詞
をささげました。 ここにその
弔詞
を朗読いたします。 〔
総員起立
〕
参議院
は わが国
民主政治発展
のため力を尽くされ 特に院議をもって永年の功労を表彰せられ さきに
予算委員長
金融問題及び
経済活性化
に関する
特別委員長等
の
要職
に就かれ また国務大臣としての重任にあたられました
議員
正三位
勲一等坂野重信
君の長逝に対し つつしんで
哀悼
の意を表し うやうやしく
弔詞
をささげます ─────────────
倉田寛之
2
○
議長
(
倉田寛之
君)
角田義一
君から
発言
を求められております。この際、
発言
を許します。
角田義一
君。 〔
角田義一
君登壇〕
角田義一
3
○
角田義一
君 本
院議員坂野重信先生
には、去る四月十七日、
脳梗塞
のため
東京女子医科大学病院
において忽えんとして
逝去
されました。
先生
の突然の訃報に接し、誠に
痛惜
の念に堪えません。 三月二十七日、
平成
十四年度
予算
の採決の際、本
会議
に出席された後、体調を崩しておられると伺い、案じておりましたが、御
家族
の懸命の介護もむなしく不帰の人となられました。 私は、ここに皆様の御同意をいただき、
議員一同
を代表し、正三位
勲一等
我が
院最年長議員
にして、大元老ともいうべき故
坂野重信先生
の御生前をしのび、謹んで
哀悼
の
言葉
をささげたいと存じます。
坂野先生
は、大正六年に
鳥取
県
東伯
郡北条町にお生まれになり、幼少のころは
いじめっ子
に向かっていく
義侠心
の強い子供であったと伺っております。
少年時代
から英才の誉れ高く、
旧制倉吉中学
を経て、
旧制松江高校
に入学されました。
先生
は、
倉吉中学在学
中の
昭和
九年九月、
室戸台風
の襲来により、暴れ川である天神川が増水し、洪水となり、自宅の二階にまで水が
達し死
に直面した体験から、
治水事業
の
重要性
を学んだと語っておられました。 また、
松江高校時代
、大陸での戦況が次第に緊迫しつつあるも、弊衣破帽で学内の自由な気風を十分に吸い、人格を陶冶し、
家庭教師
で家計を支えながらも、
治水事業
への志を固められ、
東京帝国大学工学部土木科
に入学されたのであります。
昭和
十六年、
大学卒業
と同時に
内務省採用試験
に合格されましたが、時局を踏まえ、陸軍に入隊され、
建設担当
の
技術将校
として朝鮮の仁川で終戦を迎えられました。帰国に際しては、
奥様共
々家畜を運ぶ屋根のない貨車で釜山まで移動された御苦労もおありになったそうであります。博多に上陸、帰還された
先生
は、途中広島の一面焼け野原と化した光景に、原爆の威力、悲惨な
犠牲者
の
人たち
に
思い
を致し、胸が締め付けられるものがあったとのこと、「国破れて山河あり」とはいえ、この廃墟をいかに復興していくか、決意を新たにされたのであります。 復員後は、茨城県、大阪府勤務を経て、
昭和
三十年から
建設省
に移られ、翌年には
工学博士
の学位を授与されました。
昭和
三十二年からは、
海外建設アタッシェ
として
イラン
に駐在され、
技術協力
のパイオニアとして活躍されました。大使館にこもることなく、
先頭
に立って
現場
に赴き、気温五十度にも達する
灼熱砂漠
の中を走り回り、アガエ・ブルドーザー、
日本語流
に言えば
ブルドーザー閣下
との愛称で親しまれ、現地の
人たち
と親密な
交流
を図られました。
建設省
に戻られてからは、
河川行政
に進まれ、
河川計画課長
、
関東地方建設局長
、
河川局長
を歴任され、その後、
建設技監
を経て、
昭和
四十七年、
建設事務次官
となられました。 この間、
重要水系
の
工事基本計画
の策定、急傾斜地の崩壊による
災害
の防止に関する法律の制定など、幾多の困難かつ重要な
仕事
に尽力されました。特に、
現場
を重視する
立場
から、
関東地方建設局長時代
には、例を見ないほどの距離の
道路
を視察し、また、
出水期
には
河川
の
出先機関
を督励して回られました。
地方建設局
は
地域開発
など総合的な
ソフト面
に配慮すべきをモットーに、
イラン駐在
時と同様、管区内を駆け巡り、常に
現場
で働く
人たち
に深い愛情と
思い
やりを持って接し、部下の厚い
信望
を得られたのであります。 こうした
坂野先生
の熱心な
仕事ぶり
は周囲から人望と
信頼
を得るところとなり、その
統率力
は不動の評価をかち得たのであります。 役人として位人臣を極められた
先生
は、
昭和
四十八年に
建設省
を退官され、その後、自己が持つエネルギーをすべて
国家国民
のために、また、
国土
の
整備
のために献身することを決意され、
政治家
への道を踏み出されました。 翌四十九年の第十回
参議院通常選挙
に
全国
区から立候補当選され、後に
鳥取選挙
区に移られ、実に五回
連続当選
を重ねられたのであります。
選挙
に初めて出馬されたときは、揮毫した色紙に自信を持てなかったとのこと、その後
一念発起
、ついには書道十段、師範の域にまで達しておられました。書風は、
先生
が好んでお書きになった「恵信」、すなわち恵む信ずるの
言葉どおり
、いたわりの心と
信頼
の心を旨とする、優しく細やかなお
人柄
そのままでありました。
鳥取選挙
区に転じられた折には、
ふるさと
の
人たち
との
交流
のため、カラオケを買い込まれ、
貝殻節
など三十五曲にも及ぶ歌をマスターされました。さらに、
演説会
でも自らの
名前
を覚えてもらうために、「
夕焼け小焼け
」の歌をもじって、「坂の向こうに明日がある。
一緒
に登ろう
坂野
さん。お手々つないで皆登ろう。
坂野
と
一緒
に登りましょう」と
自作自演
の歌を歌われたりもいたしました。 しかし、苦戦を強いられた五度目の
平成
十年の
選挙
の際、背の高い大柄な
先生
は、ややもすれば頭が高いと見られ、そのことを
大変気
にされておられました。七重の腰を八重に折り、
坂野流
で
選挙戦
に挑まれました。
開票日
の夕刻、
都市部
での劣勢が伝えられる中、もう駄目かと胸中思われたようですが、
地元
の
倉吉
市、
東伯
郡で巻き返しの報が伝えられ、激戦を制して辛くも勝利をおのが掌中に収められました。
選挙
の試練を幾度か経られた
先生
は、
ふるさと
は我を見捨てなかったと感激ひとしお、
地元
への感謝の
思い
を一層強くされるとともに、
支持者
の方々に自分の
名前
を書いていただくことの尊さ、有り難さをしみじみと
奥様
に語っておられました。
参議院
では、
大蔵委員長
、
予算委員長
などの
要職
に当たられ、また
自由民主党
内にあっては、
災害対策特別委員長
、
税制調査会顧問
などを長く務められました。
災害復旧
や
住宅ローン減税
に尽力されたほか、
国会対策委員長
、
議員会長
などを歴任され、正に
参議院
の重鎮として大きな存在でございました。 また、
竹下内閣
、
宇野内閣
においては、
自治大臣
・
国家公安委員会委員長
に就任され、
地方公共団体
の
創意工夫
に基づく
街づくり事業
、すなわち、
ふるさと創生事業
の推進に取り組まれ、その
事業
は広く
全国
に展開されました。 隆々たる偉丈夫、天性寛容にして愛情豊かな
先生
は、この上なく
人間関係
を大切にされ、また、限りなく誠実で真摯なそのお
人柄
は、
与野党
の
立場
を超えて厚い
信望
を集めておられました。古武士然とした風格をお持ちの
先生
が本
会議場
に着かれたとき、そこに凜とした雰囲気が漂うのを感じたのは私ばかりではないと存じます。 それ
ゆえ
、
与野党
の対立が先鋭となる
選挙制度特別委員長
や
政治改革特別委員長
、あるいは
住専国会
の
金融問題等特別委員長
など、難しい局面における
議会運営
の
かじ取り役
を期待されることがしばしばでございました。 こうして、
坂野先生
は、数々の院の役員、
閣僚経験
を積まれ、
政治家
として大成されたのであります。 特に、私
ども参議院
に身を置く者として記憶にとどめておかなければならないのは、
平成
九年の第百四十回
国会
、
自由民主党議員会長時代
に行われた
代表質問
であります。
先生
はその中で、
参議院
の在り方がいろいろと問われている折から、謙虚にそれらの声に耳を傾け、
国民
の負託にこたえるべく良識の府としての
参議院改革
を実行する
必要性
を諭されました。今振り返ると、正に先見の明ありであります。
政治
と金をめぐる問題が深刻化し、
国民
の
政治
に対する不信の念が頂点に達している今日、この先百年を展望して
政治家
のあるべき姿、哲学を確立していくためにどうしても必要な方でございました。無私の心境に達しておられた
先生
には、今日の
国会
の状況をどのように見ておられたのか、是非ともその御存念を伺いたいものでありました。しかし、
幽明境
を異にされた今、それもかなわず、誠に残念でございます。
先生
が終生変わらず愛されたのは、御自身「
東郷
湖
花火
の消ゆる
しじま
かな」、「
東郷
湖
花火
の消ゆる
しじま
かな」と詠まれた、
東郷
の湖や緑豊かな田園が広がる
ふるさと
でありました。ともすれば冬の厳しい気候に象徴される山陰のイメージを変えるべく、魅力あふれる豊かな
ふるさと鳥取づくり
に、
先生
は
先頭
に立って邁進されました。自ら国と
地方
のパイプ役を務められ、
道路
から
河川改修
に至るまで
県内社会基盤
の
整備
、さらに、
環日本海圏構想
を実現すべく、
隣国韓国
との
友好親善
に汗をかかれたのであります。
先生
は、若いときから自然との共生が必要であるとの鋭い
洞察力
を示され、
都市
の持つ高い
生産性
や高度の
情報機能
と
農山漁村
の豊かな自然がはぐくむ潤いのある
人間関係
との調和を図らなければならないと常日ごろ語っておられました。 心触れ合う
地域社会
を作り上げ、
国土全般
に特色のある個性的な
生活文化圏
を形成していくこと、それを自らの
政治信念
とされておられました。 一方、私生活では、私欲のない恬淡とした御性格で、御
家族
に対しては慈悲深く、特に
奥様
に対しては、何一つ怒ることもなく、寛容で全く手の掛からなかった夫であったと伺っております。それ
ゆえ
、
先生
を失われた御
家族
からすれば、より一層寂しさが募ることでございましょう。 今、豊富な
経験
と高い見識を持った
坂野先生
を失ったことは、我が
参議院
にとっても、また御
家族
にとってもこの上ない大きな損失であり、返す返すも痛恨の極みであります。 古来、中国の
言葉
に「先師遷化す、肉なお
煖かなり
」とあります。
教え
を受けた
先生
はお亡くなりになられましたけれども、その
教え
は厳然として残っておる。ちょうど血の通った肉体が今なお存在しているかのようにという意味であります。 ここに、謹んで、
資性謹直
にして温厚、功を誇ることなく、真摯にして事にうまず、大先輩、大先達、故
坂野重信先生
のお
人柄
と御業績をしのび、衷心より
哀悼
の
言葉
といたします。
平成
十四年五月二十七日
参議院議員
角田
義一
倉田寛之
4
○
議長
(
倉田寛之
君) 本日はこれにて散会いたします。 午後零時二十分散会